2022/02/17

この日のはなし ー 満月ナイト

満月だからといって、吠え出したりはしないのだけれど、
美しいものはきちんと愛でなくてはならない、という
使命感に似た思いは確かに、ある。

それがいつの間にか、3、4年もずっと欠かさず、
月を見る結果となった。

コロナで出られなかったり、お店が休業を強いられたりしたけれど
家の窓からでも、東京の狭い空からでも、いつものお店からでも、
とにかくただ、愛で続けた。


特に、満月の力、のようなものを感じたことはない。
ただ、見に行かなくては気が済まなくなった結果、
満月の日は月の出に合わせて、仕事も切り上げることとなり、
一日中どこか、そわそわするのだった。

習慣というのは恐ろしいもので、
満月の夜に月を見逃すというのは、どこか
とても罪深いことのように思えてくる。


月齢の暦が健在なアラブ圏では、
ラマダンや祭日は、月の満ち欠けで決まってくる。
こちらの月は、なんとも見事で、
満月ではなくても、その姿をいつも、確認することができる。
月の好きな人にとっては、この上なく幸福な場所だ。


こんなに月の模様がきれいに見えるものなのか、とか
こんなに月の光は明るいものなのか、とか
こちらへ来てから初めて知ることも多かった。


いつかは、この月をどこか遠い場所で同じように
見上げている人たちのことを思ったりしたこともある。
月が綺麗ですね、という夏目漱石の言葉の意味を
でも、一緒に見上げる人はいなくて、
遠方からただ一人、考えたりもした。

ただ、そんな時はきっと、日本の月を思い出していた。
秋の、よく空気の澄んだ夜の情景。
雨や曇りが多いからこそ、雲間からの月でも
あまねく光り輝く月でも、情緒が深まる。




こちらの月は、なんだかいつも、あっけらかんとしていて、
神秘的、というよりも、どこか絶対的だ。
その存在感を圧倒的で絶対なものとして、
受け入れるしかないような、在り方をしている。
それもまた、どうも、非常に曖昧な表現だけれど
アラブ的だな、と思う。


満月の日、行ける状況である限りは、
同じお店に通っている。
ダウンタウンの脇の、ジャバルアンマンの丘の東側の
端っこに立っているお店だ。
月の出をはじめから見られるから、月の出がずれていく間隔も、はっきりとわかる。
空に昇りきった月では分かりづらいけれど、
昇りかけの月は、随分大きくて、動きも早い。

一番この店を気に入っている理由は、でも
全面窓張りのお店から見る、向かいの丘の光だった。
急な坂道に張り付くように建っている家々と街灯の光が
これほど鑑賞できる場所は、他にない。
月に背を向けて並んでいる家々の窓、
一つ一つの窓の中から、光が漏れる。
その光の数だけ暮らしがあることの愛おしさを
感じさせてくれる景色もまた、このお店の他にないと、思っている。





まったく違う存在感の光が、空と地上に、無関係に揺れる。
どちらにも光があり、影がある。
その事象を、どのように消化したらいいのか、
ずっと考えている。

今月の満月の日は、珍しくすっかり曇っていた。
月の出からずっと待っていたのに、さっぱり姿が見えない。

うっすら灰色の東の空を、ただ眺め続ける。
姿の見えない月を、雲の先に想像する作業は、
あてどもない探しものでもするようで、どこか
意地悪をされているような心持ちになってくる。

すっかり夜も更けてきた頃、風が出てきて、やっと
天高く昇った月が、姿を現した。
墨を滲ませたような雲が月の周囲を流れていく。
それは、今までになく美しい、月の光と影の世界だった。






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