2017/11/17

染み込む秋の冷えと、音楽


春も短いけれど、秋も短いヨルダンでは、
暑い日が10月も続く。
いい加減にしたらいい、
などと愚痴を云っているうちに、いつの間にか
朝、部屋から一歩外へ出てすぐに、
マフラーを取りに戻らなくてはならなくなる。

また、今年もオリーブの圧搾所に往けなかった。
季節は目一杯楽しむべきだという、
信条に反することを、余儀なくされたりする。


ここ数週間、ひたすらボレロを聴いていた。
17、8分の楽曲を、ただ集中して、何回も聴く。



家に帰ってくると、とにかく、流していた。
一度思い出して聴きはじめると、癖になるのは
別にボレロに限った話ではない。
ただ、ボレロに関しては、
何度も聴けば、そもそもトランスの極みみたいな曲だから、
それなりに仕事から、気持ちが他のところに向くようだ。

小学校の時の学芸会で演奏したのを思い出して、
あの奇妙でトリッキーな、旋律に絡むハモりは、
小学生には難しすぎたのか、
編曲に含まれていなかったことに今更、気がついたりした。


そこから始まる、久しぶりのクラシック祭には
ピアノの音は繊細すぎた。
盛大にあらゆる楽器を使いまくるオーケストラを流し続け
何ならyoutubeで演奏の様子を凝視したりした。



新世界を聴くたびに、何故だかシリア人のことを思った。
新世界という楽曲には、
故郷を思う瞬間や
向かい合わなくてはならない未知の世界に対する
畏怖や震えが、あるような気がする。
それは、たぶん、彼らの心境のなにかしらに、共鳴するものだろう。

もっとも、新世界を聴く趣向を持つシリア人に
私は会ったことがないけれど。

ショスタコ、ブラームスを経由して、マーラーを聴く頃にふと、
今求めるものとは違うような気がしてきて、
いい加減寝ようか、なんてことになる。



今月はあまり休みが取れない。
休みともなれば、心ゆくまで寝るぐらいしかできる楽しみがなくて、
眺めばかりはいい部屋から、
日の傾斜が色を変えて、
真っ白な箱に埋め尽くされた街並を染めるのを
ぼんやりと見るともなしに見る頃には、
もう、夕方になってしまう。

鳩の舞いが、夕闇に群れが影になりかけた頃、
アザーンを聞きながら、声が聴きたい、と思う。
どこまでも親密な声を、聴きたい。
無理矢理クラシックで頭の中をすっからかんにしなくも、
まだ今日と云う休日には、時間がある。

そう思う時には、必ずまずは、これを聴く。




聴くたびに、同じ妄想をする曲もある。
寒いのに湿度のある、冷淡な都会の中の角で聴いたなら
救われるのか、絶望するのか、どちらなんだろうか、と。


Fuji rockの映像が見つかったのだけれど、
何だか、全然彼は、日本の緑あふれるピースフルなフェスに
しっくりきていなかった。







この人のアルバムは、日本に居る時に視聴した。




いじりすぎていて、元の音楽性がいいのか悪いのかもわからない、
というのが正直な感想だった。
でも、この映像だと、
どうやってその音を出しているのかも分かるし
本人の声の良さも、きちんと生きている。
こういう楽曲のアルバムだったら、買ったのに、と
気持ち良さそうに歌う顔を見つめた。


いろいろと検索をかけているうちに、
Nick Drakeにそっくりの不思議な深みのある和音を演奏するライブに当たる。




アルバムよりライブの方がいい、というのが結論だった。
アルゼンチンからの移民で、スウェーデン生まれ。

アルバムは、深みよりもまとまり感が先行している。
見た目のアルゼンチン感を一蹴する、
見事に北欧系の楽曲の特徴を系譜した曲作りだった。


寒くなってきて、今年初の、エアコンを入れる。

しっくりくるものがなかったわけではないけれど、
これではまだ、冬の寒さに耐えられるだけの
取り憑かれるような魅力には、欠ける、ような気がする。

秋も冬も、その音で身体いっぱいになった時、
どんな温度も湿度も、その冷たさと湿り気を
鋭敏に、愛でるように、感じられるような
音楽が欲しい。

どうしようもなく寒くなるには、
まだもう少しだけ、時間が必要だ。