2023/09/03

この日のはなし ー あまりにも、いつも通り



習慣というのは拭えないもので、
使っていないと忘れてしまうだろう言語も、
ちょっとした身振りや挨拶の方法も、
その場に自分の身を置くと、身体が覚えていたりする。
何よりも、もはや覚えている、という感覚そのものに
新鮮さを感じていないことさえ、しばらく気づかなかったりする。

馴染みの人々に会った時、でも、長いフライトの後で
自分の表情が硬い。
女性同士の挨拶で、当然のように両頬を交互に触れさせながら
長らく会わなかったけど、元気だった?と口にした時、
自然とこわばった頬の力が、溶けるように柔らかくなるのを感じる。

挨拶の種類も幾通りかあって、相手との関係性によって、
胸に手を置くのか、握手をするのか、頬をつけるのか、異なる。
久々のフィールドで、相手の出方を一瞬見極めようとする、その
本能的な作業もまた、反射的にする習慣がついていた。

そして、両頬をつけて挨拶の言葉を口にする時に、
本当に近しく思ってくれているのか、調子がいいのか、打算があるのか、
うっすらと思惑が頭を巡るのもまた、
一連の動作の延長で染みついている。

プロジェクトなどを回していると、
とかく立場的に利用されがちなこともあって、用心深くはある。
けれども、私が特段疑い深いのか、と問われたら、そうではないと思う。
私の感覚では、アラブ人の多くがこの作業を無意識でしている、と思われる。


一方で、道端で会う知り合いの人たちとのあいさつには、
多くは仕事にまつわる場面で無意識に行われるような作業は、ない。
ただひたすら、近所の人たちだから
無条件で私が戻ってきたのを喜んでくれる。
すぐに荷物を持つ手を貸してくれて、
必要な買い物は選ばなくても棚からレジに持ってきてくれる。
日本はどう?天気は?
家族や友達は元気?
美味しいものを食べてきた?
と矢継ぎ早ににこにこしながら質問をしてくれる。

こっちはまだまだ暑いよ、今週末はまた暑いね。
日本はどうなの?

ー湿気がひどいの、あと、湿気のせいで、
生乾きの服の匂いがたまらなく不快なのー

へぇ、と要領を得ない顔をされる。
干せば2時間も経たないうちに、カラカラに乾くほど
乾燥している土地では、あの不快さは伝わらない。

混んだ山手線、人との距離が近いまま無数に行き交うホーム、
冷たさで無理やり匂いを消そうとしている電車の空気、
終電近くの、汗とアルコールの匂いを、思い出す。




アザーンで目覚めることもなく、
丘の下から立ち上がるパーティーの喧騒もさして気にならず、
夜は冷えるから窓を閉めることを忘れず、
すぐ砂塵が溜まるから床の掃除は水を撒かずしては始まらず、
薬を塗っても、乾燥で引きつる肌は痒みが治らない。


いつも通り、到着の翌日は、ひどく澄んだ朝やけを見る。
それなりに苛まれる時差ぼけも、翌日にはなくなる。







仕事にまつわるさまざまな報告をうけ、
フィールドへ行けば交渉ごとが待っている。

もはや、一種の才能なのか国を挙げて育成している能力なのか、
巷には、悪徳か否かは置いておいて、政治家みたいな人たちが一定数いる。

彼らは、相手が敵か味方かを見極め、
敵である可能性が高ければすぐに牽制を始める。
それは、息継ぎもせずに捲し立てることだったり、
相手に一通り気が済むまで話をさせてから、
身も蓋もない一言を一撃することだったり、
何も聞きたくないことを全身でアピールすることだったり、
バリエーションも豊富だ。

大体の牽制は経験しているので、こちらはこちらで
牽制のタイプを見定め、流していいのであれば忍耐強く我慢し、
どうしても修正や反論が必要な時には
タイプ別で効果の高い返答カードを選び、使用する。

根回しに使える人材を探しあて、取り込むのにも長けている。
動物的な嗅覚で、適任に適切な情報を吹き込み、
地固に余念がない。

適任とされる人々の中には、適任であることに自覚的な人もいるけれど
多くは、利用されていることに気づかず、善意で根回しに協力している。
根回しの際、インプットされる情報が虚偽や誇張や抜粋ではないかぎり、
その見事さを感嘆して眺める。
ただ、あからさまな意図をもって(多くは個人的な恨みや
嫉妬やお金や顕示欲や権威誇示のため)
私たちに悪影響のある虚偽や誇張されている場合、もしくは
影響を及ぼそうとする人が根回しを始めていそうな時には、
先回りをして、善意の協力者たちに誠心誠意、説明をする。
根回しに適任であることに自覚的な人には、
もう少し、打算的にネガティブな影響をちらつかせながら
必要な説明方法を記したカードを提示する。


ただひたすら、経験値がものを言う世界。

大量の失敗をして、幾度となく傷つき、
腹が立ちすぎて眠れない夜を幾晩もやり過ごし、
やるすべなく、悔し涙にくれながら
姿美しい、丘の上のアンマン城を呆然と眺め、
手に入れ、貯め込んだカードたちだ。

こんなカードなど、薄汚い金のようなものだから捨ててしまいたいのだけれど、
それでは仕事にならない。


そして、そこまで政治家然とはしていないけれど、
二言目には金銭の話をしてくる人たちもいる。
ほとんどの場合、要求されている金を払う必要はこちら側にはないので、
要求をされている間、いかに静かな顔で話を聞き切るか、に
執心している。
けれど、ロジカルには払う必要のないはずのものなのに
時に話を聞いていると、払わない自分がひどく悪い人間のように
思えてくることもある。
たぶん、私の瞳のうちには、戸惑いと不安がちらついているのだろう。
相手の話がいよいよ、興に乗って表現豊かになっていくのを見ながら、
頭の中の思いが、自分の瞳に滲んでしまったことを、悟る。


もちろん、そんなカードなど出さなくても
不安や戸惑いを隠さなくても、
建設的で共感に満ちた話をできる人たちもいる。
できる限り、そんな人たちばかりと過ごしていたい。

けれども、建設的で共感に満ちた人々もまた、
私の知らない場所で、場面で、時に政治家然となり
時に金の話に執心している、かもしれない。

それでも彼らは、私が仕事や生活のストレスの吐口に
「アラブ人」もしくは「日本人」という総称という偏見で
このように、何かしらを説明しようとするのよりは
でもまだ、ずっとマシなことのように思える。

裏表のなさを美徳とするならば、両者ともだめだけれど、
公平性を美徳とするならば、私の方が、たちが悪いのだろう。


そうやって、いつも通り、
冷えた空気の帯が窓から流れてくるのを感じながら
暗く静かで長いアンマンの夜、自らの思考と行動を省みる。
あまり意味のない、無駄に孤独な作業だ。

なぜ意味がないかといえば、
私自身がその反省を活かせない、ということもある。
そして、さまざまな思いを抱き、後悔し、反省の材料となる
こちらの人々のほとんどにとって、
彼ら自身の言動は必然的であり
訂正、撤回、修正しなくてはならないもの、ではなく、
無意識で決定されていて、
どうして言ったのか、どうして振る舞ったのか、
疑問を抱く必要がないものだからだ。



今日久々に、新しく会う学校の先生たちの間を動き回る。

どのように立ち振る舞えばいいのか、もうこれも
習慣として身についてしまった。

家に戻ってきて、自分の姿がひらひらと
教室の中を、それっぽく机の間を動き回っていたのだろうと、
苦々しく思い返している。
もはやこのあてどもない反省もまた、ひどくいつも通りだ。


おそらく私はずっと、意味のない一人相撲をし続けている。