2020/11/14

天国のはなし


考えてみたら、4日間の完全ロックダウンは3月以来だった。

久々のロックダウンで、
仕事とプライベートを分ける方法を忘れてしまって、
中途半端にずっと仕事をしてしまった。
ここ数週間週末もずっと
なんだかんだ、だらだらと仕事をしていた。


気分転換に映画でも見ようと思って、
日本にいなくて見られなかったけど、ずっと気になっていた
「ヘブンズストーリー」を観る。
2010年の映画。

なんで見始めちゃったんだろう、と初めの数十分は後悔する。
分かってはいたけれど、まったく気分転換にならない映画だった。
9話で編成されている映画の最初の1話目、
柄本明が孫を探すシーンで、胸を梳かれる。
そして結局、集中して最後まで観てしまった。
4時間半。


妻子を殺された男と、その男を愛する女と、
愛する家族を殺され、その男をヒーローと崇める少女と、
その妻子を殺した青年と、その青年を引き取る女と、
殺人を副職とする男と、そんな父親を持つ少年と、
その男に好意を抱く女と、その男から金をもらう女が
すれ違い、絡んで話が展開していく。

倫理が意味を為さなくなるほどの事象が起きうること、
人の心の冷ややかな場所と
熱く血の通う場所を、
きれいに整然と分けることなどできないこと、
遺恨を消し去る方法を探し当てるのは、
時として恐ろしく困難なこと、
復讐が生きる目的になりうること、
でもその先には、空白が待っていること、を
4時間半分の、精緻で丁寧な工程を持って、
描いている映画だった。

岩手の炭鉱廃墟の、冬と夏の景色と、
浦賀の団地のカモメと空と、
桜の並木が、美しかった。




戦争という恨みを生み出すシステムの渦中から逃れ、
それでもなお、強弱はあれど
難民として何かを恨み続けて仕方がない暮らしを
強いられる人々と接する機会が多いから、
一体、それを次世代に継がれないようにするには、
どうしたらいいのか、などと
壮大なことを、漠然と考えることがある。


恨み、について私個人に当てはめてみると、
恨む対象はシステムになることがあっても、
個人であってはいけない、と考えている。
あくまで、私個人の対処法だけれど。

ただ、周囲にいる人々にとっても、私にとっても、
恨むべきシステムの果ての戦争や独裁を
変革させるのにかかる労力は果てしないし、
システム変革へ、同じ方向に誰もを向かわせるのは
個々人では不可能に限りなく近い。
人のあらゆる欲は限りないからだ。


一方で、個人への恨みについては、対処の方法がないわけではない。

個人にもまた、恨む対象になる行為へ行き着くまでに
さまざまな事情がある。
もっとも、そんな事情など持ち合わせない、
徹頭徹尾、血も涙もない人もいるけれど、
そんな人はごくごく、わずかだ。

だから、その事情を丁寧に見て、理解していくしかないと、
考えている。
平たく、穏やかで和やかな心の状態が平和なら、
その作業にしか、心の中の平和はない。
恨むのに費やす労力は、途方もないから。


対象の事情をいくらか知ってもなお、
恨みが消せない時には、破滅が待っていることを
映画の最後の展開は示している。
最後の方の展開には、幾分解せないところがあったけれど。
そして、それでも、混沌としたまま
生死の混じり合う世界は続く。

個人の背景を丹念に見ようとしなければ、
もしくは、垣間見た背景を受け入れられなければ、
その先には物理的に、もしくは精神的に、
暴力的な行為が待っている。
映画の中の、その暴力性を消化も昇華もできず、
行き場もなくなってしまった人たち。


映画の中では、究極的な状況におかれた個人の話が絡み合っている。
その個人、に私がなる瞬間が、もしかしたらあるかもしれない。

少なくとも、日常の中にいくつも転がる事象として、
私が加害者になる瞬間、
そして逆になる瞬間もまた、いくらでもある。


誰しも、その人の心のうちを見つめ、把握し切るのは、
本人にとってでさえ難しい。
それでも、自分自身についても、相手についても、
その全貌を見ようと努力しなくてはならない。
相手のため、ではなく、自分自身のために。
自分が誰かを傷つけず、もしくは傷つけられてもなお
心の中に平和を抱きたいのであれば。



その丹念で骨の折れる作業を放棄した瞬間、
そんな暴力性を自分は持っていない、
とは言い切れなくなる時代に生きている。


かくして、さっぱり気分転換にならない。




あと、頭を真っ白にしたくて、
ずっとこのバージョンの新世界のアルバムを
無駄に高性能なイヤホンで聴いていた。

アラン・ギルバートの指揮を見ていると、
どうしてだか、とてもとても、心が温まる。
なんでだろう。