2018/07/23

ごく、限定的な邦楽祭ーことばの周辺を往く


十年ぶりぐらいに、秘蔵の飲み物を準備する。



インスタントコーヒーにコーラを入れると、こうなる。
カフェインを最大限に摂取するための飲み物。
ルーマニアの石工たちは、仕事中に飲むらしい。
昔教えられたこの味は、
身体に悪いけれど、一度飲むと忘れられないものだ。

事務仕事がなかなか進まない。
もともときらいではないけれど、得意ではないので、
常に結構な分量が、残っている。

やる気が出ないのは、おそらく
何だか最近、わけもなくモヤモヤしていて、
でもそれに、明確な理由がないから、困っている。
中学生みたいだ。


正規の勤務時間を過ぎた瞬間に、
ヘッドホンを手に取る。
ぱっと気分を変えよう、
とにかく仕事をしておまんまをいただいているから、
文句を云わず、粛々と終わらせなくてはならない。

と思い、いい感じのバランスの、毒も害もない、
でも浅くもなくて、声はいい、というところを攻めようとして
秦基博を流していた。
いいじゃないか、Rainとか映画と相まって甘酸っぱいじゃない、
ドラえもんだってある。
ドラえもんで浄化したい、などとバカなことを思いながら
時々特に好きな楽曲があると、誰もいない事務所で唄ったりする。





そして、本家も好きだがこのバージョンも大好きだ。





それから、これもいい。



カバーもいいんだよな、などと
眉間に皺を寄せながら書類を読みつつ、
とぎれとぎれ耳にしていたのだけれど、
ふと、手と思考が止まる。




うんと、切ない。
旋律とことばがとても、よく合っている。
合いすぎて、聴き流せず、思考に反して
そこでは困る、というところに心が塡まってしまう。
奥村チヨではないのね、などと独り言をいいながら
次の曲に移るがままにしていたのだけれど、
結局、もう一度再生してしまう。

歌詞が、ある事象とそれに付随する感情をそのままことばにしていて、
それが、あからさまにそのままだから、
余韻に生々しさを遺す。
曲としては素敵だけれど、今はそういうのを聴きたいわけではない、と
コーヒーを淹れ直す。

気分を刷新しようと、暑い日本を思いながら
昔さんざんラジオから聴いた曲に移る。



何度見ても、やっぱり千原ジュニアに似てるのが、気になる。
実は、スガシカオはもやもやしている、といつも思っている。
腕のいいギターと、キャッチーで印象的なメロディーライン、
切れのいいスピード感の割に、
結構、すっきりしなくて、そこが好きだ。

大方の事象も感情も、そんなものだ。




どのPVも結構本人が全面に出ている。
サングラスでいろいろと隠しているのだろう。




懐かしすぎるな、と感慨にふける。
リアルタイムで聴いた時と今に、あまり曲の印象が変わらないのは、
自分が成長していないからなのか、歌詞がうまいところを云い当てているからなのか
判断には困るところだ。



これもラジオでよく聴いた曲だ。
シングルカットの売れ筋の曲だったから、
あの頃は、ふん、ぐらいの思入れしかなかった。
でも、今聴くと、何だかよく分かる、
そのゆびにとまりたい、と思えてくる。


普段は仕事中、
ロウロウとクラシックを聴くことはあっても、
ほとんど邦楽を聴かないのは、
歌詞が気になるからである。

日本語の歌については、
ただただセンスしか見てない曲か、
多少野暮ったくても、唄いたくなるような、
いいことばを使っているものしか、
両者にバランスのあるものしか、
基本的には聴かない。

もっともこれも、完全に個人の好みによる。
個人的に、歌になる感情や、歌になる情景や
もしくは、云い当てられてぐっとくる場面は、限定的だ。

前向きな歌詞の中には、
そこに至るまでの葛藤が描き出されていなければ、不足を感じる。
何かしら暗い感情ならば、なおさらよく見知ったものだから
ぺろっと描かれたら腹が立つ。
面倒くさい人間だ。

オザケンぐらいさらっと生きられたらどんなに人生素敵だろう、
西野かなぐらい自分のことばかり都合良く考えられたらどんなに楽だろう、
などと、イヤミを云ってはいけない。

スガシカオのもやもやは、歌詞の周辺に
逡巡する思いが、しっかりと残されている。
云い切ることのできない、たくさんのものものを
一つ一つ汲み取ろうとしている。

そう云う作業を、たぶん自分自身がきちんとしたい、と思っているから
変な引っかかりなく、でもしっかり心にはひっかかりながら
曲を聴けるのだろう。

かくして、仕事は進まず。