2022/02/27

この日のはなし ー 晴れ渡る平日

 

今週も先週も先々週も、週末は雨だ。
そして毎週、日曜日はすっきりと晴れる。

朝からフィールドへ出る道すがら、
丘を降りる坂の途中には、昨日までの雨が
うっすらと水蒸気になって、もやがかかっていた。

どこへ行っても天気の良さが、日曜日の、やもすると
重い空気を一掃している。
もはや、憎たらしい。

アンマン市内にも、アーモンドの花が咲き乱れ
庭先の花々を見るたびに、止めて鑑賞させて欲しいと
口にしようとして、ぐっと堪えることになる。

学校を数件回り、協力的なところもあれば、
そうでもないところもあり、その違いも含めたすべてが、
どこまでも、いつも通りだった。
慇懃な顔、誠実な顔、不信な表情、労りの表情、
なんだか本当に、たくさんの表情を
こちらの人は見せてくれる。

その後、そのまま事務所も2カ所訪問する。
どちらの事務所も、アンマン市内で一番栄えている場所にある。
私の住んでいるところからしてみたら、
田舎から都会に登ってきたぐらいの違いはある。

街の中心地にあるビルの屋上へ案内してもらう。
そこから見渡すアンマンの街は、
緩やかな盆地になっていた。
10年以上住んでいて、初めて知る事実だ。
確かに、考えてみたら高度の上がる地域が周辺にあるけれど
中心地からはこんな風に見えるとは知らなかった。

浅くもやのかかった街並みには、普段私がみている景色よりも
一段も二段も高くて、ひどく新鮮だった。

事務所訪問をしては、人に何かを納得させるべく、言葉を口にする。
なんだか今日も、馬鹿みたいに話し続けている、と
最後の訪問を終えて、呆然とする。


そこへ、午前中フィールド回りの間に、
ポケットに入れていた携帯から勝手にかかってしまった
いくつかの電話の一つから、折り返し電話がかかってくる。

夕方の帰宅ラッシュで騒がしい幹線道路の脇で
小さく遠い声に、私の方がなぜか、怒鳴りながら話している。
相手の声が遠いのに、私の声が遠いとは限らない。
けれども、大声を出し続けている自分が、ふと
とても滑稽に見えてきた。

なんだか、いつもこういうことなんだよな、と思う。
一人で、声高に何かを話し続けているのだ。
空を見上げる。


ひどく晴れた空は、ひどく物事を明確にする。
それが休日であったならば、もう少し
明確になることに、楽しみを孕んでいたのかもしれない。
今日が週の初めであることが
ひどく理不尽に思えてくる。





この日のはなし ー 比喩でも隠喩でもない、春

 
春には、春にしかできないことを享受することに決めている。
ヨルダンの春は短いから、どこか毎年、必死だ。

だけれども、週末に雨が続いている。
先週も、今週も、来週も雨の予報。
雨を避けていては、チャンスを逃してしまう。

濃霧と雨の続く日であると分かっていたけれど、
車を借りることに決める。
決めたら、雨だろうが霧だろうが、
とにかく、目的地を目指す。

実のところ、春のスケジュールは今まで、決まっていた。
2月末から3月末までの週末には、
週刻みの花スポットがあるからだ。
2月末と3月1週目は、緑が一番柔らかいから、
野の花と緑のきれいな草原。
3月2週目から3週目は、ブラックアイリス。
4週目は、ホワイトアイリス。

これは、私の中で何事とも譲れない、最優先事項だ。

2月末週の、野の花スポットをどこにするかで、迷う。
あそこも、ここも、と候補は上がるけれど、
こんな雨の日でも、楽しめるような場所は限られている。

結局、アジュルンとイルビッドの間にある、
ワディ(渓谷)へ行く。
毎年必ず行くスポットの一つだ。

行き道の景色も美しい。
特に、アジュルンの山間部をヨルダンバレーへ抜ける道には、
オリーブや樫の林が切れて、草原の広がるスポットが何箇所もある。

毎年来ているけれど、いつでもそのワディは
入り口に着いた瞬間から、心踊らせてくれる。
川の流れる音が、ワディに響いているからだ。
こんなに水や川に焦がれていたのか、と気づく。

ただ、舗装された道を川に沿って登っていくだけのルート。
アラブ人は川の周辺でバーベキューをしたりするけれど、
そんな車両も入れる下流は通り越して、
もっと奥へと進んでいく。

奥に行けば行くほど、道は悪くなる。
けれども、進むにつれて、車両が少なくなって、
静かになっていく。

鳥の鳴き声と、谷底から立ち上がる川の水音と
緑と色とりどりの花が広がる、美しい世界が待っている。

目的地に着く頃には、雨も止んで、
日が差し込んでくる。




特に目を引くのは、真っ赤なアネモネだ。
緑の中で一際目を引くこの花々も、
形がそれぞれ、微妙に違う。





そして、色にもバリエーションがある。








ただ、静かに春の日を味わう。

そこだけを切り取ったら、多くの人は
これが、ヨルダンの景色だとは、思わないだろう。
ヨルダンの春は早い。

ヨーロッパなら、あと2ヶ月は先の景色。

その小説だったか、思い出せないけれど、
ある話の1シーンがふと、蘇ってくる。

第2次世界大戦、戦場で戦う主人公が、
草原で姿を潜めている。
いつ敵がやってくるのか分からない緊張の中、ふと
周囲の緑の美しさに気を取られ、
幼少期の思い出に一瞬、心を埋め尽くされ、
そして、正気に戻る。

行き道でずっと、ニュースを見ていた。
今まさに、地上戦を強いられている人々がいることが
ずっと、信じられない。
そう口にすると、別に、今の出来事だけが
今まで起きている戦いではなかった、
ナイジェリアでもソマリアでも、シリアでもイラクでも
今、戦いが起きている瞬間を、ただ知らなかった人々が、
想像しなかっただけだ、と友人は皮肉な口調で言う。


それでも、誰もが等しく美しいと思う景色が
人の心を我に返さらせる力があるのだとしたら、
比喩でも隠喩でもなく、ただそこに存在する
静寂と美しさをもたらす春が、今すぐにでも
やってこないだろうか。


2022/02/26

この日のはなし ー 日常のドラマシリーズ

 
親族の人々の話を聞くのは、面白い。
アラブ人、特にアラブ人女性の口から聞く、
家族の話はどれも、個性と性格の面白さが際立つ。

でも、あまりにもおばさんやおじさんや
いとこやらまたいとこやら、登場人物が多すぎて、
多くの場合、混乱する。

今日もまた、私はそのお宅へ伺う道のりの途中まで、
違うおばさんのお宅へ行くのかと、勘違いしていた。

古い街並みの残る、サルトの中心へ向かう丘の連なりの中腹に位置する
そのお宅は、玄関の周囲に小さな鉢植えが並んでいて、
家の建物の脇には、アーモンドの花が見えた。

お宅の訪問に関する流れのすべてが、楽しかったのだけれど、
詳細を書こうにも、書き残しておきたいことが多すぎる。


実のところ、伺うお宅の人物についてどんな印象を持っているか、
ぜひ聞かせて欲しい、と伺う道すがら、お願いされていた。
外向きには評判のいいその人物が、実のところ、
少なくとも親族の中では、気をつけるべき人物、として
認識されていることと、客人である私が抱く印象とを
照合してみたい、と思っているようだった。


気をつけるべき、という言葉の中には、
さまざまな意味がある。
粗相をせず、気を回さなくてはならない人物だと、
私は理解していた。

例えば、気の利かないお土産は持っていかないように、
お菓子選びには注意しなくてはならない、という
使命があったりした。

さて何を持っていこうか、と昨日は思案していた。
家の近くのお菓子屋さんでは、随分とファンシーな
チョコレートしかなくて、お店の人に散々商品の説明をさせた挙句、
でも、お年の方だから、こんな可愛らしいものでは
気に入ってもらえないかもしれないから、と断ったりした。

結局、Paulの焼き菓子を買いに出かける。


赤白ハッタをかぶり、伝統的な長いワンピースを着た、
小柄の可愛らしいおばあさんが、私たちを待っていた。
居間にはすでに、たくさんのお菓子が用意してあって、
到着して早々、一つ一つのお菓子を説明してくれたりする。

娘さんが言われる前からもう、ウェルカムコーヒーを準備してくれていて
そのコーヒーを淹れるカップの柄について触れたら、
さっそく、家にあった残りのカップを包んでくれたりする。

視界に入るさまざまなことを、説明してくれつつも、
あら、結婚しているの?などと訊いてきて、その後には
知り合いの結婚と離婚の噂について、アラビア語で
親族間のホウレンソウが始まったりする。

マロウの青いお茶など、珍しいものも出してもらい、
しっかり写真映りも気にしてくれる。

そんなことをしていると、いつの間にか遅い朝食の時間になり
昼食の部屋に行ってみると、なんとも見事な
アラブ式朝食のセットが並んでいた。






食べている間も、色々とテーブルの上に載っているものを勧められる。
ホンモスやファラーフェルに加え、
さまざまな味付けの羊のチーズ、クシュタ、ゲーマ、ハロウミチーズ、
羊肉のミンチの入ったパン、ザアタルパン、ほうれん草の惣菜パン、
タイムの練り込んだチーズパン、ガライエ(トマトの炒めもの)、ピクルス、
アボガドのペースト、サムネ(ヤギのミルクのバター)で焼いた目玉焼き、
などなど、ありとあらゆるものが、私のお皿に乗せられていく。
どれも安定の美味しさだったけれど、何よりも
たくさん食べた後にいただく、甘い紅茶が一番
心とお腹をほっとさせてくれた。


こういう場面で困るのは、すでに10年以上住んでいるせいで、
一通りのものはいただいていて、一通りの場所は行っている私は、
外国人を呼んで自分の国の文化を紹介をするのが大好きなヨルダン人にとって
さっぱりもてなしがいのない客人であることだ。

紹介しようとする食べ物の材料が、英単語で出てこなくて、
思い出そうとしていたりすると、
私がアラビア語で名前を言い当てたりしてしまったり、
どこかへ行く道について説明しようとしてくれて、
その場所を知っている、と言いそびれたまま説明を聞いたりすると
目印となる角の建物を言い当ててしまったり、
そんなことが起きがちになる。

こういう状況を想定して、今日こそおとなしくしていよう、と思っていた。

けれども、おとなしくて話さないと、どんどんと食べ物を勧められて、
もう無理だ、と心から言っても、聞く耳を持ってくれない。
結果、話していた方が得策である、ということに途中から気がつき、
アラビア語と英語の混じった会話に、参戦する。

お腹の満腹度との戦いを終えたと思ったら、次は
キナーフェを作る、と言われる。
まだお腹はいっぱいなのに、一体どうしたらいいのだろうか、と
途方くれている私など、眼中にないようだった。

キナーフェ自体は、自宅で作っている様子を見るのが初めてなので、
調理の工程や、焼き加減の見方など、
新しいことがたくさんあって、楽しくかった。
けれども、お皿にキナーフェが乗った頃には、見ているだけでさらに、
お腹が膨れてくるような気持ちになる。

たくさん食べられないのは申し訳ない、と思いつつも
焼きたての香りたつキナーフェを、ただ眺める。


だから、思い返してみても、とにかくお腹がいっぱいである、という
事実がとにかく、1番の記憶となる。

けれども、2番目の記憶は、気遣いのできる女性たちだった。

招いてくれた家主であるおばさんの
子どもさんやその従姉妹が、とにかくよく働く。
おばさんのしたいこと、思っていることを先回りして、
即座に立ち上がって、やるべきことをする様子が
なんとも甲斐甲斐しくて、ただただ感心ばかりしていた。
それは同時に、自分の怠慢さが際立つということでもあるのだけれど。

その様子を見ながら、昔のお盆とお正月を思い出していた。

父の実家に行くと、母はとにかく手伝いをしていた。
実家は旅館、父の兄弟も多く、必然的にお嫁さんもやってくるから、
膳の上げ下げやら、調理場の手伝いやら、やることはある。

そこで働きが悪いことはつまり、いい嫁ではない、という
暗黙の、そして不名誉なレッテルの原因になるから、
誰もが顔には笑顔をぶら下げながら、たぶん必死で
やるべきことを探し、ぼうっとしていると思われないようにしていた。
だから、母はお正月家に帰った後は、とても疲れているように見えた。

たぶん、今日もまた、私たちが帰った後、
おばさんは、私や他の客人が
彼女の望んでいたタスクをきちんとこなせていたのか、
レビューしているだろう。

私の粗相は、連れて行ってくれた人のマイナス点になってしまう。
その事態を避けられていたのか、不安になって
帰りの車の中で、大丈夫だったか尋ねる。

あなたの仕事は、きちんともてなされる、ということだったし、
おばさんは終始嬉しそうにしていたし、
お土産のお菓子の一切れを食べ切っていたから、
ここから1ヶ月はいい親族として認知してもらえてありがたい、と
反対にお礼を言われる。

ずっと忙しそうにしていた彼らは、なんだか大変だ。
てっきり休日はのんべんだらりとしているのかと思いきや、
こんな肉体的にも精神的にも忙しい時間を過ごしているなんて、
想像していなかった。

そんなことをそのまま言葉にして、正直な感想を伝える。

まぁ、確かに点数は付けられるだろうし、
陰で何か言われているかもしれないけれど、
こっちも点数はつけるし、感想は言い合うの。
ホームドラマの渦中に毎日いると思ってたら、
飽きなくて楽しいのよ、と、
朗らかに笑いながら、言ってのけていた。

ジメジメして陰湿な、
おしんや渡る世間的な世界とは一線を画す、
もっとある意味アグレッシブで、でも、あっけらかんとした
これぞ、私の知る、ザ・アラブ、だ。

ザ・アラブシリーズがあったら、
私は間違いなく見るだろう。


2022/02/25

この日のはなし ー 遠いできごと 携帯電話

 

朝一に寝ぼけたままオンライン会議を済ませ、
そのままフィールドへ出る。
感触のいまいち分からない学校から訪問が始まり、
2件目の学校で、大事な用件をこなす。

久しぶりに会った校長先生は、相変わらずものすごい早口で、
ついでにものすごく頭の回転がいい。
冗談とも本気ともつかない言葉を、英語やらアラビア語やらで
繰り出しつつも、その奥で、
ぶれない聡明さが見え隠れする会話は、
なんとも見事としか言いようがなかった。

学校の中を回っていると、白い可愛らしい猫がいた。
伸び伸びと、毛繕いをしていた。
校長は猫、嫌いなのよね、と
副校長は呟きながら、猫を愛でていた。




子どもたちが優しいいい学校には、猫が住み着いている。
猫の行動で、いい学校か否か、判断できる、と思っている。


フィールド訪問を途中で抜け出し、大事な会議に出席する。
また、無駄に話しすぎたけれど、会議の最後に、仕事とは直接関係ない
でもとても大事な用件を、尋ねることはできた。
けれど、そこにいる人々は尋ねた用件を誰も、知らなかった。


終わった頃には迎えにくるから、と言われていたのだけれど、
会議が終わった連絡をしても、車はしばらくやってこない。

やっと時間ができる。
木曜日で車の量が多くなっているから、しばらく車は来ないだろう。
携帯電話を開いて、普段は朝、仕事前に確認している
BBCを開いて愕然とする。

ライブニュースを聞きながら、車を待つ。
どの車も、天候の崩れる週末を控えて忙しい。
たっぷり気温が上がった後に、冷たい風とともに雨がやってくる。

日差しの柔らかさと裏腹に、身体を芯から冷やす風をまともに受けながら、
市内を移動中の記者のライブを聞き続ける。
道端で老婆がおもちゃを売り、
化粧の濃い女性が腰を振りながら、レストランへ入って行く。

こんな侵攻の状況をライブで、
シリアが攻撃を受けていた時にも、見続けている人々がいただろう。

大国の隣国へのアクションはあからさまだけれど、
別に、大国の侵略と闘争の歴史は、今に始まった話ではない。
ロシアという国を極端に恐れている難民となったシリアの人々は
このニュースを、どう思っているのだろうか。

やっと迎えにきた車に乗り込むと、朗らかなスタッフたちが
ピクニックへでも行かん勢いで、短距離のドライブを楽しんでいた。

次の学校へ行く間も、携帯電話を握りながらライブを見続ける。
電波が悪いせいでライブ通信が止まってやっと、
顔を上げると、スタッフたちはファラーフェルサンドを
どこで買おうか、相談していた。

目的の学校の近くで車を止めて、学校帰りの子どもたちに紛れて
ファラーフェルを買う。
シャッダという辛い具材を入れたファラーフェルを頼むと
その場で揚げはじめてくれた。

待っている間、学校がかたまって建っているので、
周辺は子どもたちだらけだった。
向かいのパン屋からホブズを買い、ファラーフェルサンドを作ってもらうのを
自分の背丈より高いカウンター越しに、真剣な面持ちで
背伸びをしながら待っている、1年生ぐらいの小さな子たちで
足の周りが埋まっていく。

道の反対側では、中学生ぐらいの女の子たちが
私の姿を指差しながら、何かを噂していた。
髪の青いアジア人が、スーツを着て小学生に紛れて、
ファラーフェルを待っている姿、となれば、
あからさまに指を指されても、仕方がない。

総じて、私の視界に入る景色は、
週末前の学校帰り、歳の違う子どもたちで賑わう
限りなく平和で穏やかな、冬の終わりの情景だった。



夜、お知り合いの家に夕食をいただきに伺うと、
立派なデーツの入った箱を見せてくれた。
農場主と思われる男性の顔が印刷されたパッケージの裏には
ヨルダン渓谷の町、カラーマが紹介されていた。

カラーマは、1968年イスラエルが西岸を占領すべく
ヨルダンに攻撃を仕掛けた時、戦場となった土地だ。
まだ、地上戦が主流だったその時代には、
戦車が町で砦となっただろう。

シリアからの流れ弾が、ヨルダン国境に着弾したのは、
おそらく2013年末から2014年初旬ごろが最後だったと記憶している。


自分の家のある土地で、日常生活を続けるのに必死な人たちにとって、
自分たちの預かり知らぬところで勝手に
下される決断の数々など、想像もできないし、
怯えることはあっても、それが現実になるまで、
避けるための行動を取ることは、とても、難しい。

それは、現実になるまで、分からない。
でも、現実となった時には、もう遅い。
そんな話をもう、嫌というほど耳にしたはずだった。


BBCとアルジャジーラの速報が表示される度に、
携帯のヘッドラインを確認する。
そんなことをしている人々が、世界中にはたくさんいて、
そんな誰もが、とても無力だ。

そして、この事象を通知し続ける携帯電話は、
大国が隣国を攻め入る時には、どんな組織も国も
その行為を止めるためのいかなる関与できないという、事実もまた、
世界中にリアルタイムで、通知し続けている。
一体、その事実をどのように受け止めたらいいのか、
何を軸に、思考を展開していけばいいのか、分からない。





2022/02/23

鳩と砂塵の舞う土地 ー 色とりどりの落書き

 

久々に授業の様子をモニタリングする。
12月の前半には授業が終わってしまっていたから、
2ヶ月以上、授業の場に居合わせることはできなかった。

午前中は会議やら研修やらで時間を取られてしまって
男子シフトのみ、モニタリングに入る。

春のように天気のいい日だったからか、
単純にまだ、2ヶ月の休みから抜け出せていないからか、
子どもたちはどことなくまだ、自由気ままな空気を身にまとい、
話を聞いたり聞かなかったり、
ちょっかいを出したり、戯れたりしていた。

ある教室で授業をモニタリングしていた。

こちらの教員の多くは、モニタリングをするときも
授業をしている先生の邪魔をしないようにする、という
気遣いの感覚がほとんどない。

なんだったら、やってきたモニタリングの人々が
授業を気分で横取りしたりする。
なんとも、アラブ人らしいといえばそうだけれど、
そのせいなのか、多くのモニタリングで
子どもたちの普段の様子を見ることは、難しい。

私はと言えば、日本の学校でそうしていたように、
できるだけ空気と同化しようと、静かにしている。
どうしても外国人の私が前にいると
生徒が集中して先生の話を聞けなくなる。
だから、いつも通り、教室の後ろの机に座って、
子どもたちの様子を観察していた。


男の子が一人、教室の後ろにある、使われない鍵のかかった扉の
すぐ近くに座っていた。
たまたま、だけれど、空いている机を狙って
教室の後ろの、その男の子の席のすぐ脇で、授業を見ていた。
けれども、どうにもその子の行動が気になってくる。

扉の鍵を設置していたところは、鍵の取り付け部分そのまま
丸く穴が開いている。
その穴の中に、小さな手紙を筒状にして入れ込んでいるのだ。


私が何かをじっと見ていると、授業をしているうちの先生たちは
私の視線の先を確認する癖がついている。
無言で、密告するシステムだ。
隠れてお菓子を食べたり、宿題をしようとしている子たちを
私が後ろから発見して、それを目配せで伝えている。


でも、つい、ことの次第がどうなるのか気になってくる。
今回ばかりは、できるだけ注目しないように視線を気をつけながら、
他の子どもたちや授業の様子を見つつ、
時々、その男の子の行動を観察していた。

ノートやら、教科書の裏表紙やらを、小さな長方形に切っている。
そして何度も、緑色のボールペンで何かを書いては、
丸めたり、破ったりしていた。




覗き込んで読んでみると、短い文字の初めは、
LOVE、だった。

恋文ならば、人の恋路を邪魔してはならない。

けれども、なかなか色々と破綻した文章のようで、
もはや、英単語なのか何なのかも、分からない。
これでは、恋文であろうと相手には伝わらないし、
第一、誰に向けて書いているのかも分からないし、
鍵の丸い穴に差し込んだとして、誰の手に渡るのかも、
運次第、ということになる。

もしかしたら、午前中の女子シフトの同じ席に
その文章を待っている子がいるのかな、などと
ロマンス満載なことも思ったりしたけれど、
目的の相手に渡る前に、確実に男の子たちが見つけてしまうだろう。


結局、3枚ぐらい紙を無駄にして、どれも必ず
LOVEから始まる何かを書いては、破っていた。



子どもたちが積極的に参加して、自由に発言することの多い授業なので、
俯いている子は、目立つ。
あの子のように、手紙を書いている例は稀で、
多くの子たちは、机の上に落書きをしている。

なんと、色とりどりの落書きなのか。
久々に教室に入って、久々に机と壁を見て、
何だか美しくさえ、見えてくる。




今までも、教室の落書きが面白くて、
随分たくさん写真を撮ってきたけれど、
今や、春とともに教室の中にも、
文字通り、花が咲いているようだ。


自分の名前、好きなアイドルの名前、女の子の顔、
丁寧に、アイアイ傘のようなものもあるし、
意地悪そうな先生の顔も漏れなく、描かれている。
LOVEという文字も多くて、アラビア語の愛という単語も多い。
何だか、そこらじゅうに愛に溢れている。

アラビア語の愛という単語は、
日本語の愛、よりもよほど、広い意味を持っていて、
文章や詩では、比較的よく目にする。

男女の仲には厳格な文化だから、
文脈によってはまったく、奨励できないけれど
個人的には、興味深い。

どれだけ広義な意味を持っていたとしても、
こんなに愛という単語を使えるなんて、
たとえ、それが愛に飢えていることを意味していてもなお、
正直に書けるなんて、素敵なことだ。

もっとも、こんな机で勉強など気が散ってできない。
私でさえ、モニタリングなどそっちのけで、何が書いてあるのか
真剣に読もうとして、授業の後で先生に釘を刺されたりする。

一度落書きが始まれば、その机の行く末は皆同じ、
あっという間に、花畑になってしまう。

私だったらきっと、机を伝言板にして、
知らない誰かに対して、メッセージでも書くだろう。
クイズだったり、なぞなぞだったり、哲学的問いであったり。
返事が返ってきたら、嬉しいだろう。

そんなことをぼうっと考えていたら、いつの間にか
授業は終わっていた。

授業をしていた先生と職員室に戻る道すがら、
先生は、非難の視線を私に向けてくる。
落ち着かない子どもたちばかりの授業だったのに、
さっぱり私が、子どもたちを静かにするのを手伝わなかったからだ。

今日はいい天気だね、などとしらばっくれて
伸びをしながら言ってみる。

春になると子どもたちは一斉に、落ち着かなくなる。
でも、ヨルダンの春は短い。
すぐに暑い季節がやってくる。

春なら春らしく、人に迷惑をかけない程度に
ソワソワしても仕方があるまい、と思う私は
すっかり、子どもたちと一緒の趣向になりつつ、ある。








2022/02/22

この日のはなし ー 道案内 素敵な出版社

 
こちらの人の道案内など、久しく頼りにしていなかった。
今や、Google Mapで店の場所が確認できれば、
地図を見ながら行けばいい。

けれども、今日はすっかりそんなことも忘れて、
久々に、周囲の人に店の場所を聞き、言われた名前をあてに、
店探しをしてしまった。


夜、夕食に呼ばれていたので、お土産を探していた。
通常お菓子でことは済むのだけれど、
こちらでは比較的珍しく、本の好きな家族だったから、
昨日のことを引きずって、ムーミンシリーズの1冊をあげたくなる。

でも、どこの本屋へ行っても、見つからなかった。
1軒目も2軒目も、あの本屋に行ったらあるのではないか、
この本屋なら翻訳が揃っている、などと
本の写真を見せると、それぞれが色々なことを言う。
言われるがままに店を梯子し、どこにもなかった。

でも、最後の本屋で、出版社の場所を、説明される。

セルビスで近くまで行けるはずだ、と言われたので、
目印となる建物を教えて欲しい、と頼むと、
地域の名前が入った学校の名前を言われる。

同じ名前の女子校なら、以前仕事で対象としていた学校だった。
けれども、男子校はないはずだった。
そう言ってみるものの、外国人の話など耳にしてくれず、
男子校の一点張りだったので、その通り、
セルビスの運転手に伝えてみた。


セルビスは基本的に、どの車も同じルートを行くはずだった。
けれども、乗ったセルビスは私の知っている
その地域のセルビスルートを外れている。
乗り慣れないセルビスだと、ここを曲がるはずなのだけど、と
心の中では思いつつも、言い出せるほどの自信はない。

結局、ものすごく中途半端なところで降ろされた。
降りる時に、この運転手は自分の用事のために、
客を適当なところで降ろしたことに気がつく。

あぁ、そうだった、と、降りてから気がつく。

こちらの人は、知らない場所や、自信のない場所でも
知らないとか、確証はないとか、
そういう情報の不確定さの度合いについて
決して口にしない。
誰もが自信満々に、知っている風で教えてくれる。
悪気があるわけではなくて、おそらく、
知らなくても、知らない、と言うのは失礼だ、と
考えている節があるのだと、思う。


おかげで、随分と目印もあてもない場所で、路頭に迷うことになった。


そこでやっと、アラビア語の検索を始める。
初めから調べなかった私が、悪かった。

セルビスルートでは、随分初めの方で降りると、すぐ近くだった。
結局、20分ぐらい歩いて、車で来た道を戻ることになる。


その地域は、対象校が2校、訪問した学校が2校あるところだ。
よく、対象校を梯子する時には、自分で歩いていた。

あの家に訪問したことがある、
この道を曲がったらあの兄弟の家がある、
運転できないこの国で、私はいつも窓の外を眺めているから
通ったことのある道や歩いたことのある道は
かなり正確に記憶する能力だけは、身についた。

家の作りや家族の様子を思い出しながら、
ぶらぶら歩いていたら、結局
以前の対象校のすぐ横に、目的の出版社はあった。


倉庫みたいに段ボールが積み上げられている部屋だった。
お店の女性は、段ボールだらけで見づらいことを
何度も私に詫びていた。

石造のテラスや白い窓枠、可愛らしい出窓、
この地域の家庭訪問で何度も見てきた。
古い家が多い地域だから、家の作りも独特なのだ。


ムーミンシリーズは9冊翻訳されていた。
けれども、2冊は売り切れ、今は7冊しか在庫がなかった。

ソファの上に並べられた本を、うっとりして眺める。




アラビア語のタイトルと中身を頭の中で照らし合わせながら、
どれにしようか、迷う。
記憶していた値段よりもよほど高くて、
とてもすべてを手に入れることはできなかった。

今日の訪問の手土産のためだけに、1冊選ぶのは、難しい。
ただただ、美しい装丁の、素敵な表紙を真剣に見つめる。

ムーミン谷の彗星を選ぶと、泣く泣く他の本は諦めた。

他にどんな本があるのか、俄然興味が湧いてくる。
段ボールの山の中を散策していると、
棚にいくつか、見慣れた絵本が並んでいた。

思わず声をあげて、棚に張り付く。
絵本は、表紙の絵を見るだけで、
小さな頃に読んだ感触を、蘇らせてくれる。




アラビア語ではさっぱり読めないけれど、
こんな本たちを、キャンプの子たちが読めたら素敵だろうな、と
口惜しい思いをする。
予算があったら、読ませてあげたい本ばかりだった。

結局、1冊だけを手に取り、店の女性によくよくお礼を言って、
店を出る。
こんなに迷うはずではなかったから、すっかり日は暮れかけていた。


タクシーに乗っても、大回りしなくては事務所に戻れない。
詰まるところ、自分の足で歩いて帰るのが一番だった。

谷を降り、また、丘を登る。

なんとも坂ばかりの街で、足が棒になるほど疲れるけれど、
だからこそ、街の景観は美しい。

最後の階段を昇ったところから見える景色が好きだ。
額縁で切り取ったような街の断片。





この日のはなし ー ダウンタウンの本屋

 

午前中に出席した会議は、なんとも言えず後味が悪かった。
会議の相手の無駄のない、でも、とても日本的に手の内の見えない
そこはかとなく不安にさせる話し合い。
要領を得ない、やたらと情報だけが多い私の話を
先方は呆れて聞いていたことだろう。
稚拙で駆け引きなどできない、自分の馬鹿さ加減が際立つ。

そういえば、日本はそういう国だった。

なんでも開けっ広げで考えていることが手にとるように分かる
こちらの人たちとは、正反対だったのを
忘れていた自分の愚かさに、うんざりした。

すっかり何を考えているのかすぐ顔に出てしまう
分かりやすい人間になってしまったから、
きっと体のいい鴨みたいなものだな、と自覚する。

大手の開発系会社の中には、NGOを下に見ている節があると、
昔耳にした話を、思い出す。

私みたいなのがいるから、こういうことになるのだ、と
現場で頑張っている他のNGOさんたちに対して、申し訳ない気持ちになる。

現場の先生方が混乱して迷惑がかかったら完全に私の調整ミスだ、とか
でも、最終的には同じような目的で活動しているはずなのに、とか
後悔したり、どこか納得できなかったりして、
会議の後、ずっと仕事が手につかなかった。



ぼんやりと窓を眺めていて、ふと気がついたら、
スタッフが私の仕事場の扉の先で、にやっとこちらを覗いている。
昨日からずっとお願いされていたことをすっかり忘れていた私への
警告の覗き見だ。

アクティビティのコンテストで素敵な作品を作った子どもたちへの
ささやかなプレゼントを準備する、と言ったまま、
すっかり他のことにかまけて、忘れていた。


気分を変えた方がいい。
買い出しに行こうと思ったものの、
気の利いた、でも安価なプレゼントなど思いつかないから
行き先も決まらない。

スタッフの仕事を邪魔しながら、何がいいのかぶつぶつと尋ねていたら、
お店を教えてくれる、という。
仕事終わりについてきてもらえないか頼んだら、
快く、付き合ってくれた。


帰りの車に同乗して、ダウンタウンへ行く。

呆れるぐらい街の中央地にある三叉路に、堂々と車を駐車する。
いつも繊細で、こちらの機微をよく察してくれるスタッフだけれど、
駐車となると、こちらの人たちと同じ感じになるのか、
もはやあっぱれ、と感心しながら、車を降りる。


目的地は、私のよく知っている本屋さん通りの向かいにある
これもまた、本屋さんだった。
本なんて、確かにとても素敵なプレゼントだ。

ヨルダンの本屋さんは、大体2階にあって、
場所を知っていないと、奥行き深い、素敵な本ばかりの空間へは
辿り着けない。

久々の本屋さんは古い建物の2階で、フロア全てが、
本と文房具で埋め尽くされていた。




子ども用の絵本には、色々なランクがある。
安価で紙も薄く、絵の印刷もズレているような質のものは
38冊セットで、日本円にして約1500円ぐらい。
エジプトから来ているから、アラビア語も少しだけ、
エジプト訛りだったりする。

もう少しいいものだと、湾岸かヨルダン製が多くなる。
その中にもランクがあって、紙の厚みや光沢で、
少しずつ値段も変わってくる。
高いものは、1200円ぐらいのものもあるけれど、
平均の相場は、200円から600円ぐらいだ。

でも、今回の予算はほんの200円にも満たない。
それに、普通の文房具屋さんでは見たこともないような
可愛らしい付箋や栞、日記帳やノートとペンのセットなどもあって、
すっかり、目が泳いでしまう。

スタッフたちが、片っ端から値段を店員さんに尋ねている間、
ふと、大事なことを思い出した。

ムーミンのアラビア語訳の本を、探している。
それは何とも素敵な装丁で、
一度だけ、本の見本市で見たその本を
その場で2冊だけ買った。
1冊は日本の友人に、そしてもう一冊は、
シリアに戻るキャンプの先生に、持っていってもらった。

ムーミン谷のシリーズには、あらゆる人間の
癖と皮肉と辛辣さと、
夢と冒険と友情とユーモアが詰まっているからだ。

さっぱりアラビア語を勉強してこなかったので、
今更買ったところで、読めるわけではないのだけれど、
本好きとしては、なんとしても手に入れたい。

一通り買い物が終わると、
本の写真を店員さんに見せる。




店員さんは写真を目にすると、一言、
これは高い本だぞ、と言う。
確かに1600円ぐらいしたけれど、
そこまで高い本でもないだろう、と思いつつ
この店にありませんか?と尋ねると、
うちでは作ってない、と言う。

この店は出版社なのだろうかと勘ぐりながらも、
それ以上質問して目的を終えて帰りたがっているスタッフを留めておくわけにもいかず、
買い物袋を抱えて、店を出た。

作ってないとはどういう意味なのかと尋ねると
あそこの本はすべて、オリジナルを印刷した違法な本だ、と
驚きの返事がやってきた。

DVDやCDの海賊版が売られていることは知っていたけれど、
本にも海賊版があるなんて、知らなかった。
コピーでは収入にもならないし、作家は大変だろう。

著作権もへったくれもない国は、ヨルダンに関わらず
まだ、きっと多くあるだろう。
ただ文字を読んでいくだけの作業を読書というならば、
ページが抜けずにすべて印刷されているだけで、確かに
十分なのかもしれない。

でも、本は紙も文字のサイズも書体も表紙の質感も
すべて含めて、本だ。
たとえ見劣りしないほど、よく作られたコピーであっても、
海賊版としてこの世に生まれた本も、どこか可哀想な気がしてくる。


読みたい本があったら、あっちの店に行った方が安く手に入るから、
向かいのちゃんとした本屋には行かないの、と
スタッフはあっけらかんとした口調で、説明してくれた。

今や、本などKindleで読むのが賢い時代なのだから、
文字のサイズやらフォントやら紙の種類やらに拘っている私の発想は
愚鈍で旧式なのかもしれない。



ムーミン谷の一家、の話の中には、
魔法の帽子が出てくる。
帽子をくずかごだと思って、ティッシュを入れたら、
雲に変身してしまったりする。

帽子に蓋をしようとして辞書を乗せたら、
文字が虫になって、這い出てくるシーンがある。

ある日、その少し不幸な身の上を呪って、
あの本たちが逆襲をする時がやってきたら、
ダウンタウンに入る坂の上流にある本屋通りから、
ダウンタウンの中心地に向けて、本の虫に覆われるだろう。

そんなどうでもいいことを想像して、少しニヤつく。
そして、ちょっと気持ちが晴れる。

海賊版でも正規品でも、本は本。
やはり、本屋は気分を変えてくれる素敵な場所だ、という
安直でバカ丸出しの、結論に落ち着く。