2020/10/25

友人の記憶


友人は、自分のことをこんな風に、
ネット上に載せられるのなんて、
絶対嫌だと思う。
でも書かずにはいられないので、記録して、残すことにする。

私は愛おしくて、悲しい。

私は、私の記憶を書く。
過去にしか存在しない記憶であり、
この先更新されることはない。




大学に入ったばかりの1学期のデッサンの授業。
講評で明らかに、一つだけ際立つデッサンがあった。
光と影を包み込むような、正確で、
でも柔らかでたおやかなデッサンだった。

その前から友人を知っていたかどうか、記憶ははっきりしない。
でも、あの石膏デッサンは今でも鮮明に思い出せる。

長い髪にスパイラルパーマをかけてきたことがあった。
アフリカのお面みたいでいいでしょう、と。
細い身体に髪のボリュームが不釣り合いで、
でも、とても格好よかった。

私のことをちょうさん、と呼んだ。
いつも髪をひっつめていたので、
中国からの留学生によく間違えられる話をしたら、
友人達と一緒に、そう、あだ名をつけてくれた。

日当たりの良い、2階建てのアパートメントに住んでいた。
自分で白いカーテンに付け替えていて、
少し色あせた畳がよく似合う、柔らかな色で統一された
落ち着く小さな部屋だった。
炊飯器のお釜の底に水がついたままスイッチを入れたら、叱られた。
私はがさつで、友人はどんなものでも
丁寧に扱う人だった。

知り合いの彫刻家のお宅へ、一緒に遊びに行ったこともあった。
とても尊敬する人を目の前にすると、
きちんとその敬意を、眼差しと態度で示した。
その家であったことの感動を、
言葉にする作業もまた、丁寧だった。

言葉を大事にする人だった。
小さくて、少し心許ないけれど、
フォントにしたいぐらい、滋味の滲むような
形のいい文字を書いた。
文字の形も書かれる言葉も、とても友人らしくて、
その人となりを、よく表していた。

犬みたいなマークが、名前の隣に描かれた葉書を
いつかもらったことがある。
犬みたいな、と書いたことに、きっと彼女は
わかってないなと、思うだろう。


猪熊弦一郎が好きだった。
大竹伸朗について、興奮して語っていた。
プリミティブな形態に、大学の頃は傾倒していた。
シンプルであること、その強さと生命力のようなものへの
憧れのようなものがあった。

陶芸に専攻を変えてからは、
彫刻の隣が窯芸の部屋だったから、
友人がロクロを引く姿を
よく眺めていた。

なんでもよく壊す私は、分厚くて安定感のいいコップが好きだった。
薄くて繊細な陶器の良さを教えてくれたのも、友人だった。

窯芸の部屋の裏には金木犀の木があって、
ちょうど今の季節、網戸ごしに金木犀の香りが
うっすらと部屋の中へ流れてきた。

時々、どことなく話したかったり、人寂しかったりすると、
窯芸の部屋の畳の上で、
友人が仕事を終えるまで、じっと本を読んだりして、
私は待っていた。

窯芸のおじいちゃん教授のことを
愛おしいおじいちゃんとして、よく楽しそうに話していた。
実家に遊びにきた時、なぜかうちの父親を気に入っていた。
枯れた学者のようでいい感じだ、と。

本人も学生の時は、少しいつも、猫背だった。
だから、真剣に猫背矯正ベルトの話をいつか、していたことがある。

家族の話も、たくさん聞いた。
お母さまが、いかに美しく優しい人か、
たくさんの逸話を話した。
お父さまが勤めていた日本の重機会社の車両を見るたびに
どこの国にいても、友人のお父さまの会社だ、と思い出す。
ユニックは会社名であることも、友人から教えてもらった。


興味のあるものを、深く探求する人だった。
感覚が鋭敏で、明らかに、圧倒的に、センスがいいのに、
それを論理的に裏打ちできるよう
自分なりに言葉にしようとすることを怠らない人だった。

それは、友人らしいけれど、私にはどこか、もったいなく思えた。
自信を持って、そのセンスがもっと自由に溢れていて
どこもおかしくなかったのに、
いつも慎重で、論理性を重じていた。

だから、本人は佇まいに雰囲気のある人だけれど、
雰囲気でごまかしてはいけない、というようなことを
いつか言っていた。


私は思慮が足りなくて、衝動的で、技術がなくて、
臆病で、そのくせコンセプトばかり壮大な作品を作りたがった。
友人は、深く考え、試行錯誤を繰り返し、
その思考と、自分の感覚の折り合えるギリギリを、
見極めようとしていた。

だから、作品も一見、素朴だったり、シンプルだったりした。
でも、その中には、果てしない計算があったり、
そんなものを一度放棄しようとする、格闘があった。

いしいしんじの本は好きだけれど、
「みずうみ」の書評は厳しかった。
いしいしんじらしくない、と。
おそらく、小説家だろうが、芸術家だろうが
音楽家だろうが、誰にでも好きな作家には、
友人なりの、あるべきスタンスがあった。



人生に明確な脈絡のない私は
専門のフィールドが変わってしまうと、
以前にいた世界の人々と、連絡を取らなくなる。
何を話したらいいのか、分からないからだ。
私は大してもう、美術の話ができない。
相手も、教育や支援の話など、興味がない。

でも、友人とは、会うことができた。
その人となりを形成する時期を幾らかだけでも、一緒に過ごしたから、
話がいくらでも、尽きず出てきた。

学生の時からそうだったけれど、
柔らかくて、いい素材の、淡い色の服をよく身に付けていた。
触れて、なでたくなるような服だった。
そういうものも、趣味がよかった。
服も靴も鞄も、肌も髪も指先も、丁寧に扱っていた。
私には真似できないけれど、だからこそ、
とても大切で、素敵なことだと、思った。

社会人になる頃には、
学生の頃に時折垣間見た厳しさは影をひそめ、
結婚した後は、ますます印象が柔らかくなって、
幸せであることが、ありきたりな言葉ではなく
佇まいから分かるのだということを、知った。


友人の住んでいた地方都市の、
とても美味しいコーヒーを出す喫茶店で、
私の紹介したRufus Wainwrightのコンサートへ行って、
Rufusがどれだけキュートだったかを、
目を輝かせて話していた。
私がその時付き合っていた、未来を描けない相手の話を、
呆れながら、でもおくびにも、どうしょうもない、
などという表情は見せずに、聞いてくれた。

ほっと落ち着く定食屋さんへも連れて行ってくれた。
日本食が恋しいという私への
彼女らしい、店選びだった。

ヨルダンへ行く時には、黒い薄手の綿の
レースの入った7分袖のカットソーをプレゼントしてくれた。
あっちのイメージはこんな感じだ、と。

たぶん、彼女は半ばおかしみを持って、
私の破綻した人生の文脈を、受け入れていた。



学生の頃、一緒に山中湖へ行ったことがあった。
湖畔に住む陶芸家の人の家へ向かう新宿駅の構内で
人をすり抜けてさっさと歩く私のバックパックに
友人は持っていた傘の柄をひっかけた。
「ちょうさんは歩くのが早すぎる」と言いながら。

その時、私が人をかき分けて進みながら、
「私は歩きながら死ぬんだ」と宣言した、らしい。
最後に会った2年前の冬、東京ミッドタウンのカフェで、
友人は十数年も前のことを、
おかしそうに笑いながら言う。
いつも通り、笑うとはにかんだようで、
眉毛がハの字になっていた。




今でも手元に、友人が作ってくれたアルバムがある。
Edward Sharpe & the Magnetic ZerosのUp from Below、
アルバム全曲の後に、Enrico CarusoのSei Morta Nella Vita MIA
シューベルトの弦楽四重奏D 956番第2楽章、
そして、最後に、アン・サリーの「椰子の実」。

この選曲も、センスがよくて、絶妙なバランスで、
最後に、すとんと、収まる。



亡くなることは、会えなくなることとも、
自分の世界から見えなくなることとも、違う。


人と関わってしか生きられないこの世の中で
私の目の前に存在する、亡くなった人についての果てしない真空が
どれほど、どこまでも、何もない未来なのか
私はよく、分かっていなかった。



まだ知らない、美しい音楽を聴くことを、
佇まいの落ち着いた皿の手触りを楽しむことを、
誰かの温かい手を握ることを、
しんと締った朝の空気から冬の気配に気づくことを、
心の中の何かをほどく映画を観ることを、
脳味噌を溶かすほどおいしいものを口にすることを、
曇りのない朝焼けを見ることを、
いくらでも、何度でも、
たった一度でも、
友人とまた、分かち合いたかった。