2020/09/14

祈れ呪うな、では、どうにもならないこと


祈ったって、何が変わるわけでもないことを、
身に染みて体感している。
呪いたいことが山ほどある世界であることも
痛いほど聞いてきた。

それでも、ある物事の渦中を見つめながら、
呪わずに祈ること以外のスタンスを持てないことがある。
その時の無力感は底無しだったり、する。

特に、こちらへ来てから、
何周も逡巡して、事象や人に対して、
祈れ呪うな、と願うしかない、
という経験を何度となくしてきた。



だから、この曲を批判するつもりは毛頭ない。
まさに、私自身が、あらゆる困難について、
どちらかというと日常的に、祈れ呪うな、のスタンスだ。
時には、自虐に身をやつしながら。


それでいいのか、というのは
結構長い間、自問自答のテーマだったりしたので、
久々にキリンジのアルバムリストを見ていて、
急にこのタイトルが気になってくる。
ビートのしっかり重い、でもグルーブ感のあるこの曲を
何度も繰り返し聴き、歌詞の意味をこねくり回し
唸ったまま、考え込んでしまった。

キリンジ兄弟がこの、原発についての曲をリリースしたのは2012年。

何かしらを作り表現することを仕事としていた人たちにとって
おそらく、震災が及ぼした影響を
一体どうやって表現したらいいのか、苦しんでいた頃だっただろう。

情報も言論も混乱した状況の中で作った曲のタイトルが、
おそらく、究極の皮肉も込めて
祈れ呪うな、だったのだろうと想像している。

考えてみれば、何か訴えたいことがある人たちよりも
実は相当難しい。
よくこんな微妙なところを描いたな、と
心底、感心している。



キリンジはずっと好きで聴いているアーティストだ。
弟が抜けてしまってからのアルバムは聴いていないけれど、
20年ぐらい前のアルバムも、本当におしゃれで、
ものすごい変則的な拍子やコード、普通は持ってこない転調とか、
結構な力業を、さらりとやってのける曲作りなのに、
結構ギリギリポップス、という際どいところを
攻めている感じが、ずっと聴いていても飽きない。


この曲をひたすら何度も聴きながら、
何かが今さらひどく、引っかかるものがある。

開いてしまった地獄の窯と、それに起因する苦しみや不安を
見聞きした時、当事者ではない人の中には少なからず、
祈れ呪うな、という、ある意味突き放した、
諦めを含む願いを抱くしかできなかった人もいたはずだ。

原発が避けようもなく持っていた危険性について
ことが起こった後、多様な意見が出てきた。
原発にまつわるあらゆる発言を見聞きしつつ
様々な異なる立場の人々の意見や論争を
見守っていた大多数。
私もまさに、その一人だった。





ずっと、大多数、が気になっている。

こちらの学校でクラスの様子を観察していると、
とても利発で、先生に名前を覚えられている子が、クラスに2、3人
どうにも問題が多くて、先生に名前を覚えられている子が、2、3人
そして、その他の子どもたちが、30人ぐらい。

その構造と割合が結構、社会にも適用されていたりする。

問題が多くて名前を覚えられる方だったけれど、
ある年齢ぐらいから、30人に入る方法を覚えた身としては、
30人だって、それなりにいろいろ思うところ、
考えるところがあることは、知っている。

ただ、直接の当事者ではないから声を上げられなかったり、
考えがあっても見守るにしても、実のところ
多様な背景と多様な立場と多様な言い訳が、あったりする。

ある問題に対して、おかしいと感じながらも、
当事者と同じ地平には立ちきれなくて、
もしくは、自分の考えの正当性に自信がなくて、
どうにも身動きの仕方が分からない。



祈るのも、呪うのも、その対象は神でも自然でもなく、
本来、人か、社会の構造である。
そして、社会の構造はそのまま、自分たちの一つ一つの
選択と行動から出来上がっている。
だから、呪うのは己自身、ということになる。

でも、神か自然か運命という、どうにも手の下しようのない存在に対して、
呪ったり祈ったりする行為を通して、
責任の所在をうやむやにしてしまう傾向が
なかったわけではない。
少なくとも私は、身に覚えがある。


あの時、祈れ、呪うな、というスタンス以上の
強い語気が使えず、立場も明確にできなかった時期から、
ある程度時間が経った。

ただ、ひとつ分かったことは、
祈れ呪うな、で時には、
自分の気持ちを慰めることはできても、
問題は何も解決しない、ということだ。


その根本的な解決にならない行為に対する皮肉と批判、
あの無力感を思い出し、
いい加減、やめた方がいい、と自戒の念が巡る。