2015/12/15

慣れ親しんだ音や声など


人の声には、それぞれ特徴がある。
残念ながら例えば、自分の好みの声に、自分の声自体を変えることはできない。

人の声が、気になる。
もう自分の声は変えられないから、では、好きな声音を聞いていたい。

時々、こちらの人、特に女性で
素敵な、本当に好みの声の人が居る。
少しくぐもっていて
身体のどこかで共鳴している。
低いけれど、雑音がない。
ちょうど、アラブで親しまれた
往年の女性歌手たちのようだ。

体型なのかな、と思ったりする。
だいたいが、それほど大きくないけれど
細くもなくて、
でも首が細い人だったりする。


先日、いただくはずのない人の声が電話口からして
はっとする。

結局は単純に、とても声だけがよく似ている、別人だった。
何が似ているのだろう、と考えてみる。
たぶん、音の高さと声の中にある細かな振動ぐあいが、
近かったのだろう。

歌声にも好みがある。
久しぶりに、新譜のアップデートをいただいたのがきっかけで
Youtubeをはしごしていた。

随分と聴いて慣れ親しんでいた、
Elliott Smithの曲作りに似ていた。
でも、彼はいろいろと思いがありすぎて死んでしまった。






Sufjan Stevensには、
もっともっと穏やかな景色が、たぶん、目には見えている。
Elliottのように暗い地下室やどろどろのお酒やあぶら汗はない。

不思議な名前だと思ったら
ペルシャ語から来ている。
あらゆる宗教を包括する思想Subudに傾倒していた両親から影響を受けた名前だそうだ。
それがどんなおしえなのかはともかく、
穏やかなことは、いいこと。





冬なので
音にぬくもりがあるといい。
きっと夏に聴いたら鬱陶しいと思うような
粒子のある、手のひらやほほで触れるような音が
このアーティストの声にも、きちんとある。

手触りで思い出し、また古いアルバムを聴いてみたりもした。



一度ギターで練習しようとして、見事に挫折をした曲。
ギターの和音さえも、質感がある。



そしてYoutubeのはしごの途中で
恐ろしいほどにまっすぐな声を、久しぶりに聴く。



こういう声のアーティストは、生きている人の中では他に、知らない。
歌声そのものに、はっきりとした意思や思いがある。

でも同時に、何度聴いても、とにかく、声に
小さな胸騒ぎを覚える。
まだ若いころのだから、そういう時季だったのだろう、などと
他人のことなのに、私が云い訳をしたくなるほど
はらはらする。




あまりにざわついてしまったので
いつも聴いているピアノ曲でどうにか落ち着いてみようとする。
でも、何かが違う。

どこかにしっかり湿度のある音があって
例えばピアノみたいに、音が本来ある程度均一なものであったとしても
曲の持つ文脈の中で
それこそ、電話口で聞くような近さのある音があるものを聴けないか
探し始める。

残念ながら、うまいぐあいに見つからず
変に神経だけが研ぎすまされて
夜に放り出される。

ざわざわがまだ、治まらない。






彼らの話と暮らしの、断片 12月3週目


何度もフィールドに往くと
よくも悪くも、耳にする、目にするいろいろなものに、慣れてくる。

この日足を運んだ地域は、以前にも往ったことがあるところだった。
ヨルダンも、日本と同じように
そこまできつい冷え込みもない。

ちょうどフィールドに往った日の2年前、
アンマンでは大雪が降った。
家からただただ、大げさなセットのように降り続ける雪を
シューベルトを聴きながら呆然と眺めていたことを思うと、
この日の天気さえも、ルーティーンの一つのように
こなすことを奨励しているように、思えてきた朝だった。


1件目:Tabrboor

入り口の葡萄棚の葉が、赤や黄色に色づいていた。
よく晴れた青い空に映えている。
端正な作りのアパートメントの中、
部屋に入るとやはり、色合いの美しいキリムの絨毯が敷いてある。
青と赤が暗い廊下でもどこか、輝きを孕んでいる。
シャツに革のジャンバーを着たお父さんは
髭も髪もきれいに整えられていて、
アパートに抱いたのと同じぐらい端正な顔立ちだった。

この家族はシリア人だけれども
1980年代に、家族みんなでヨルダンに移住している。
難民ではなかった。

お父さんの家族はイドリブから、お母さんの家族はダラーから。
PC関連のエンジニアだというし、このアパートメントそのものが
この家族の持ち物だという。

一通り学校の様子を訊く。
たぶん、多くの反応は、ヨルダン人の家庭が抱くものと変わらないのだろう。
お母さんも子どもの話を始めたら、笑顔を見せて
遊ぶことばっかりが好きでね、、、と困ったような顔をする。
丘の上に公園があるから、よくそこで遊んでいるのよ。

シリア難民の家庭の子どもは、外で遊んでいないことが多い。
近くの遊び場の話をすると
どこの家庭もくぐもった顔で、家からでないと、云う。

シリアでこの家庭に会ったとしても、
同じようにきれいな家の明るい部屋で
同じようにどっしりと椅子に腰掛けたお父さんが
よどみなくいろいろと、答えてくれていただろう。
それから、きっと、この土地で会うシリア難民の家庭も
シリアで会っていたら、こんなかんじだったのかもしれない。


つまり、至極普通の家庭の訪問をした、ということになる。

だけれど、どこかでそわそわとした違和感を感じる。

最後に質問をしてみた。

親類の方などが、こちらにあなたを頼って移って来たりしていませんか。
もう一家はみんな来ているから、いませんよ。
このアパートも親戚がみんなで住んでいるからね。

そうですか、と、顔だけ笑顔を作る。
質問の答えに満足しているような顔を、きっと私は作っていたに違いない。

本当は、シリア難民についてどう思っているか、訊いてみたかった。
けれども、そんなことなど訊かせない、という
隙のない完結した家族の形を見せられた気がした。


2件目:Tabrboor

お父さんが迎えに来てくれて
坂をもう一度上がってゆく。
そこからさらに、建物を最上階まで上がる。
どこもここも、のぼらなくてはならないところだらけだ。

部屋は窓のない居間で、
汚れて薄くなったマットが四隅に敷かれていた。
学校に往っている子どもの他
お父さん、学校へ通っていない長男と、それからまだ小さな息子と、お母さんが
質問に答えてくれる。
居間には3つの扉があって、
それぞれがきっと、トイレやキッチンや寝室につながっている。
随分と荒い、茶色の塗装が施された、というのか乱暴に塗られた扉。

どことなく、この家の方が、さっきの家よりも落ち着く。

部屋の端には小さなテレビが置かれていて
緑色の星が3つついた旗が消えないニュース番組が
ロシアの空爆を受けたアレッポの様子を映し出していた。

今の家が1軒目、親戚が居るのでここに住み着くことにした。
とりあえず息子の1人は学校に往けているから、
できれば移動はしたくないけれど、
とお父さんは子どもたちの顔を見る。

クーポンだけで生活をしているから
先は全くみえないけれど
とりあえずはみんな、安全なところで暮らせているから
それで十分だ、と云う。

2014年にヨルダンに来ている。
他の家庭の多くが2012年か13年に来ていることを思い出し
それまでシリアに居た理由を聞いてみる。
シリア国内を逃げまどっていたけれど、
ついに往くところがなくなって、ヨルダンに来た、というのだった。

淡々と、静かに話すお父さんと
じっとその言葉に耳をかす子どもたちとお母さんがいて、
暮らしは大変だろうけれど、
全く違う次元で、どこか収まりがいい空気があった。


3件目: Tabruboor


日本の新興住宅地にある新築のアパートメントを思わせる、
きれいで無機質な建物が向かい合わせに2棟対になっていた。
迎えに来てくれた青年について建物に入ると
エレベーターで上に上がる。
エレベーターがきちんと、嫌な音一つたてずに動いているということに、
静かに感動する。

通された居間も随分ときれいで
水色と赤、黄色の花柄が別珍の生地に織り込まれた
装飾の多いソファーセットが部屋の3方を囲んでいた。

さっきの息子は次男、一番したの子はまだ2歳で
学校に通っているのは次女、
長女はタウジーヒまで受かったけれど
結局結婚した、という。
どうもお金が問題で大学に往けなかった、という感じでもない。
単純にタウジーヒ学年のときに婚約したので、
そのまま結婚したと、お母さんはうれしそうに云っていた。

時々、こういう家庭がある。
ヨルダン人の中流より、もっと上の家庭しか住めないようなところに居る、シリア人。

HCRの登録証をみせてもらうと、長男の名前がなかった。
今はドイツでドイツ語を勉強中だという。
ダマスで医学部の2年生まで通えていたけれど
ヨルダンに逃げて来て、仕事も勉強もできないから
ドイツに往った、という。

シリアで不動産をしていたという話と
立派な家の様子から
てっきり飛行機で移動したのかと思ったら
アルジェリアからリビアに入り、10日間砂漠で船を待った、という。
航海でイタリアに入り、今はドイツに居る。

むずがる下の息子はコアラのようにお母さんから離れない。
連絡は取れていますか?と尋ねると
うれしそうに大きくうなずいた。

娘が午後シフトに出かけるところで
迎えに来た女の子と一緒にドアからでてゆく。
同じフロアにお父さんの弟が住んでいるから
そこの娘と一緒に出かけるのだという。

浅ましく、家賃をざっと計算する。
まだ、この家は裕福だ。
ドイツで長男が定住する頃に
ちゃんと飛行機で一家が移動できると、いい。



5件目:Tabrboor

ホムスの人は冗談が好き、という話は
シリアに住んでいた日本人からも
ヨルダン人からも耳にしたことがある。
確かに、ホムス出身の家庭にお邪魔すると
話が止まらなくなったりする。
とにかく、話し好きのように、見える。


アパートの一室に入ると
お母さんと娘が2人、それから小さな男の子が居た。
マットに座ると、奥にはおばあさんの姿も見えた。

こちらが質問をしている間に
おばあさんがヒジャーブをかぶり直して
こちらにやってくる。
慌ててスタッフが、重ね積みしているプラスティックの椅子を取ろうとすると
この椅子がいいのよね、と
座布団のついている椅子を見た。


お母さんは少し受け口で
切れ目なく話を続ける。
子どもたちは例によって、
きちんとお母さんの横に並ぶように座りながら
ただただおとなしく話を聞いているのか、聞いていないのか
じっとしていた。

早口で話が断片的にしか分からない。
ただ、とにかく長女が勉強もなにもかもが嫌いで困っている、というのはわかった。
シリアではこんなんじゃなかったのに。

学校の教員の文句も一通りでてくる。
金の指輪を先生に進呈した子だけが
良い子だっていって、目をかけてもらっているのよ。

一番したの息子は、だんだん話に飽き始めて
2つ重なった子供用のプラスティック椅子を持ち出し
自分だけ一人、椅子に座る。
それから、着ているジャケットのファスナーを上げたり下げたりして
時々こちらを見てくる。

おばあさんもよく話す。
皺の少ないきれいな口元とまっすぐな目で
私は当然理解している、と信じきった様子で話をする。
こちらも、必死で聞こうとするけれど、
お母さんもおばあさんも一緒に話すので
ますますわからない。

話題がお父さんのことになると
2人ともますます、話が止まらない。
口調は娘の学校嫌いの時のものと変わらないのに、
銃がどうの、鉄砲の弾がどうの、焼かれてしまって、、、、という単語が飛び交う。
スタッフに話を整理してもらった。
おばあさんの息子4人はみな、ある日どこかに連れていかれた。
3人は暴力の末に焼かれてしまったけれど
肩を撃ち抜かれた一人、この家族のお父さんだけが
死んだふりをして、助かった。


お父さんはどこ?と訊くと
仕事に往っているわよ、という。
シリアでは家具職人だったので
今も木工に関わる仕事をしているらしい。
肩は、治ったのだろうか。


またいつの間にか、子どもの話にもどっている。
座っていた娘のうち、大きな方の子を
おばあさんはしきりに誉めている。
何でも質問には答えられるし、
本当に賢い良い子なのよ、と。
おかあさんも誉め始めるけれど
云われている本人は、それほどうれしそうでもなくて
相変わらず静かに、座っていた。

こんなにあからさまに誉められていたら
今学校に往っている、もう1人の娘は、かわいそうだろう、
と、出来の悪かった私は心の中で同情したけれど、
そういう感覚は、アラブの国にはないということを、
学校での経験から、また思い出していた。
子どももお父さんも、大変だ。


居間の端には、黒くていい土の入った発泡スチロールが置いてある。
何を育てているのですか、と訊くと
なーなーとふぁらうら、ミントとイチゴだという。

その組み合わせが、なんだかおかしい。
ミントも、イチゴもそれほどおなかの足しにはならない。
けれども、立派に葉を伸ばし始めているイチゴの苗を
誇らしそうに指さす。
その様子は、どこかとてつもなく安心感がある。

ふぁらうら、という単語のかわいらしい響きを口元で繰り返しながら
家を後にした。





2015/12/05

生きものの居る暮らし





 12月に入ったところで
 急に冷え込みが厳しくなってきた。

 ダウンタウンでたったの2JD、という
 幾度の洗濯には耐えられない
 安物のもんぺを買ってくる。
 これが、随分と温かくて、去年の冬から重宝している。
 膝に猫を乗せ、もんぺをはけば
 とりあえず大丈夫でそうだ。
 
 冬によく合うというピアノ曲が
 いつ、何度聴いても、重い雲がたれ込める
 ヨーロッパのどこかの石畳の街並を思い起こさせる。
 同じように、雲の多い空を見ようと顔を上げたら
 うっすらと虹が出ていた。

 慌てて写真を撮ろうと立ち上がったら
 膝に乗っていた猫を床に落としてしまった。
 猫は変な声をあげながら、啼いたことをごまかすように
 不機嫌そうに毛繕いをする。

 休みの日もじっと家にいることになり
 必然的にピアノでも聴きながらじっと家にいることになり、
 ぽつぽつと読みかけの本に手をつけていた。


 たまたま同じ作家が手がけた本を読むことになる。

 梨木香歩の「村田エフェンディ滞土録」。
 19世紀末にトルコで考古学を学んでいた主人公が
 宗教や戦争、歴史や文化について
 イスタンブールで同じ宿に住む人たちとの会話や
 そこに住む日本人との交流を通じて
 ふれ、考え、体感していく
 まさに物語、という感の作品だった。

 実在した人物ではないのだけど
 きっと100年近く前も
 アラブに住む日本人はきっと
 あまり私の今感じていることと変わらないのだろうな
 と思う会話が繰り広げられていて
 妙な親近感を抱くことになる。

 徹頭徹尾物語なので、
 日本の留学生が後生大事に持ってきたお稲荷さんのキツネが
 遺跡から出てきた遺物とけんかをしたりする。
 その下りを読みながら
 私の家のクローゼットに入っている
 ハディースに載っているという99の美名の書かれた
 美しいアラビア語の古紙と
 知り合いの方からいただいた梵字と
 フィリピン土産のマリア像と
 伊勢神宮のお守りが
 一緒に入れられているのを思い出し
 やはりよくないのかしらん、と思ったりした。
 

 この話の中心的な存在に
 様々な言葉を覚え、タイミングよく口にするオウムが出てくる。
「いよいよ革命だ」「繁殖期に入ったんだな」「もう十分だ」「われらに平和を与えよ」
 オウムの発する言葉が
 物語の要所要所で、本人の意思とは無関係に
 時に滑稽な、時に代弁的な、時に悲痛な意味を持つことになる
 フレーズを発していた。


 もう1冊読みかけの本があった。
 
「ある小さなスズメの記録」という作品。
 クレア・キップスというイギリスのピアニストが
 12年間連れ添ったスズメについて書いている。
 先の作者が翻訳を手がけていて、
 原書を読んだことはないけれど
 その訳の言葉の使い方に、
 原書の作者の言葉に馴染んでいる感触があった。

 クラレンスと名付けられたそのスズメについて
 本当に、仔細に書かれている。
 その書き口には、どの文を切り取っても
 クラレンスに対する愛情が込められていて
 たとえ悪癖やわがままを書き連ねていても
 どうしたってそれを受け入れてしまう
 作者の心持ちがにじみ出ていた。

 作者はピアニストなので
 生後わずかで人の手に渡ってきたクラレンスの歌に関する本能は
 ピアノの音色に刺激を受けて開花する。
 普通のスズメにはない音域や歌い方を
 若い頃のクラレンスは習得していく。
 その上達と衰えの様子も丁寧に描写されていた。

 12年目の、最後の最後まで
 しっかりと生き抜いたスズメの様子を
 同じようにしっかりと見据えて書ききっている。
 観察した身近な生きものを丁寧に書いていくという作業の
 ずしりと重く深い仕事を見た。



 第二次世界大戦の最中
 クラレンスは防空監視所や避難所、防空壕で
 自分の歌声や小さく機微のある芸を見せることで
 一躍、ロンドンの人気者になる。
 
 そういえば、こちらの家ではよくジュウシマツやインコなど
 小さな鳥を好んで飼っている。
 窓がどこにもない、地下に住むシリア人のお宅でも
 3羽、4羽とつがいで飼っていたのを何度となく見た。

 小さな子どもが、卵を温めている親鳥が卵を潰してしまわないか
 必死な形相で見つめていたのを思い出す。
 客人が来たから、と
 鳥かごを隅からよく見えるところに持ってきてくれて
 でも私に見せてくれるというより先に
 自分たちがつい、見てしまって
 鳥かごの周りが子どもだらけになってしまう、
 などという情景もあった。

 確実に、彼らのなぐさめになっている。
 
 今パソコンに向かっているけれど
 パソコンを置いた机の、モニターの向こう側では
 だらしなく横になって、黒猫が寝ている。
 もっとも、黒猫は借りものだし
 何も気の利いたことは云わない。
 けれども、それなりにお互い、気に入っていると
 私は勝手に、思っている。

 なぜ好きかと訊かれても
 大して立派な答えはないけれど、猫が好きだ。
 特に、個人的には静かで構われることに執着しない
 だらだらした猫なら、もっといい。

 小鳥も悪くないけれど
 小さすぎて、不安になる。
 オウムならよさそうだけれど
 オウムを飼うなら30年、というし
 輸出入に厳しい日本への輸入を考えると
 今は借りもの猫で我慢するよりほか、ないようだ。