2019/04/27

彼らの暮らしと、話の断片 4月4週目


4月に入って、今季最後の寒気が、過ぎて往った。
今年一番の寒さと、同じぐらいの気温だった。

そして、また暑くなる。

ラマダンの前に、済ませておかなくてはいけない
諸々の中には、
仕事とは関係のない、シリア人の知り合いに会いに往く、
という要件も、入っていた。

二件のうちの一人に、アポを取ろうと、連絡をする。

Whatsappはしばらく既読にならない。
そして、来た返信には、シリアに戻った、と、
書かれていた。

14回目の手術を受けてから、まだ3週間ほどしか経っていないのに、
どうしていきなり、帰ってしまったのか、
どうやってあの状態で、生活をするのか、
そもそも、働けないのに、どうやって生計を立てていくのだろうか、
様々な心配が、頭をよぎる。

でも、何よりも、後悔の渦が心を覆う。
キャンプの帰りにいつも、彼の居た病院の近くは通っていたのに、
今日は疲れているし、まだ仕事があるから、と
繰り返し保留し続けた結果、会えなくなってしまった。

誰がいつ帰るか、分からない。

もう一件に、慌てて連絡をする。
1年前には、生活が苦しいから、もう帰りたい、と
いっていたことを、記憶していた。








一件目:ジャバル・ナセル

いつも、お菓子を買って伺っていたけれど、
今回は、羊肉を買っていくことに、決める。
実は、羊肉を調理することは、ほとんどない。
だから、どこの部位が、どの料理に合うのか、
よく分からなかった。

スーパーには、金曜日の朝なのに、
たくさんの肉が並んでいる。
忙しなく注文を受ける店員に、どこの部位がいいか、相談する。
立派な、脚の付け根を、指さされる。


一気に暑くなって、身体が焼けるようだからか、
手持ちの袋の中に入った、肉の塊の冷たさが、
袋と服をすり抜けて、伝わってくる。

タクシーに乗る間、肉が痛まないか、心配になる。
高台を一気に登るタクシーの黒いシートは、
真夏のように暑くなっていた。


アパートの玄関は開いていた。
床中に、灰色の布が、広がる。
挨拶をすると、細長い布の両側から、
夫婦が挨拶を、返してくる。

何をしているのかと思ったら、
屋上に取り付ける、日よけの布に、
鉄線を通しているところだった。


ここの屋上の思い出は、明るい。

一昨年来た時には、子どもたちがビニールプールで、
水遊びをしていた。
水鉄砲をかけられ、一緒に泳ごう、と誘われる。
まだ小さい、3人の息子たちは、
呆れるぐらい、いつまでも、遊んでいた。


屋上のここに、布を吊るすんだよ、と
お父さんは、屋上に連れて往ってくれる。
でも、屋上には、プールが、ない。

生活に困っている話ばかりを聞いてきたから、
あの立派なプールも、売ってしまったのだろうか、と
不安になる。

前は、プールがありましたよね、と言うと、
あぁ、あれはまた、ラマダンが明けたら、出すよ、と
お父さんは答える。

プールがあると、遊んじゃって勉強しないし、
ラマダン中は、厳かに暮らさなくてはいけないから、
今は仕舞ってあるんだ。

そうですね、期末テストも近いし、と相槌を打つ
こちらの顔もつい、ほころぶ。


部屋に戻ると、お母さんが、
何か変わったところはない?と尋ねてくる。

よくよく見てみると、家のソファの貼り布が
新しくなっていた。

夫婦の寝室の中には、いつの間にやら買ったのだろう、
立派な工業用のミシンがあった。
お母さんは、せっせとソファの布を縫い、
屋上の日よけを縫い、
余った布で、カーテンを縫う。

夫婦そろって休みの日に、
子どもたちのために、日よけの布を、仕立てている。
袋状になった、鉄線を通す部分の最後が狭くて、
うまく、通らない。
二人で、ああだこうだ、と鉄線を戻してみたり、
布の出口を広げてみたり、する。
なんだかとても、楽しそうだ。



鉄線を入れおえる頃には、お祈りの時間が終わって、
子どもたちがはしゃぎながら、
階段を登ってくる、声と足音が、聞こえる。

3ヶ月ぶりに会う子どもたちは、相変わらずだったけれど、
長男はまた一回り、大きくなっているようだった。
相変わらず、色白で華奢な真ん中の子、
そして、黒目がきらきらしている、お調子者の、末っ子。

お客が来たから、と、ソファに座らせる子どもたちも、
一通り学校の話や、勉強の話を訊きおえる頃には、
部屋のあちらこちらで、遊びを始めていた。

壊れた飛行機のおもちゃの、プロペラパーツだけを
解体してクルクル回し続けてみたり、
人形を出してきて、遊んでみたり。

お正月にこちらの家を伺った時、
ご一緒したマリオネット作家さんに、即興で作っていただいた
クマのぬいぐるみのマリオネットも、健在だった。

その時は一つだけ、ぬいぐるみをマリオネットにしていただいたのだけれど、
その後お父さんは、自分でもう二つのクマのぬいぐるみも、
糸をつけ、コントローラーを棒で組み立て、
マリオネットにしていた。

子どもたちが、マリオネットで遊んでいる。
クマのマリオネットのお名前を尋ねたのに、
自分の名前を答えてしまう、末っ子と、
シロクマにきちんと、ホッキョクグマです、
と答える、賢い次男。

あなたたちの名前は?と、
マリオネットを操る子どもの名前を、質問してみる。
ぼくは、ちっさいクマ。
ぼくは、中くらいのクマ。
ぼくは、大きなクマ。

兄弟が喧嘩にならないように、
一人一人遊べるように、
お父さんは自分で、二つのマリオネットも作ったのだ、
ということを初めて、知る。

前回伺った時に、持っていき忘れていた人形も、あげる。
女の子の人形なんて、合わないわよね、と、
言いつつ袋から取り出すと、
部屋の奥から、別のバービー人形が出てくる。

立派なお祈り用の、
手作りのヒジャーブと簡易のスカートが
バービー人形用に作られていて、
お母さんは、せっせと、服を着せていた。



屋上の日よけ用の布貼りを、する。

思ったよりも長かった布は、
どれだけ引っ張っても、うまく張れない。
屋上の小さな物置と、鉄でできた立派な屋根付きソファに、
鉄線の両側を結びつける算段だったようだ。

ちょうど一番、日の高く昇った屋上は、暑くて、
お母さんとお父さんは、うっすら汗を顔に浮かべながら、
一生懸命、鉄線を引っ張る。

その脇で、子どもたちは早速、
できた日陰の中に入って、ゴロゴロしていた。
落ちていた黒いビニールテープを見つけて、
ヒゲに見立ててみたり、
小さなおもちゃのウードを、かき乱してみたり、
水の入っていない水鉄砲で、
水の出る構造を教えてくれようとしたり、
おもいおもいに、日陰を楽しんでいた。




これは、別に鉄線を結ぶ場所が必要だ、という結論に至ると、
みんな揃って、部屋に戻る。


ずっと家の台所からは、フール(そら豆)を煮る匂いが、していた。

大きな鍋いっぱいに茹だったフール、
レモン、塩、カルダモンの乗ったお皿、
そして、フール用のお皿と、コップが出される。

フールそのものだけではなく、
フールを煮たお汁も飲むのだ、ということも、
初めて、知った。
スープにはすでに、塩とカルダモンが入っていて、
たっぷりレモンをかけていただくと、
酸味と、豆の味が、よく似合う。

アラバーイ、とこちらの人たちが云う、
移動式の露店で売られている、フールの映像を
お父さんは見せてくれる。
ダマスカスの、その映像の中では、
ビニール袋でも、紙コップでもなく、
きちんとお皿に守られたフールが、売られていた。


黙々と、大きな銀色のお盆を囲み、
フールを食べ、スープを飲む。
次男は、茹でが甘くて硬い豆を見つける度に、
横に座っているお母さんのお皿に、入れる。

仕方ないわね、と、お母さんは、
入れられた豆も、美味しくいただいていた。

朝食を取っているから、全部は食べられないの、と云うと、
あら、私たちも朝はきちんと食べたわよ、と
お母さんは笑う。

食べ終えた子どもたちは、また遊びに戻る。

お暇を伝える前に、以前した約束は覚えていることを、
話しておきたかった。
前回、伺った時、もともと、
家具や家の内装をする仕事をしていたお父さんは、
様々な道具の話をしていた。

私がもう、使う予定もない、
彫刻の鑿を、今度日本に戻ったら持ってくるから、と伝える。

もらえるだけもらって、使ってくれない家庭もある。

けれど、この夫婦は
生活を少しでも彩よく、楽しくするための知恵を、
必ず、持っている。

もちろん、お父さんの仕事に使えたのならば、
それは素晴らしいけれど、
そうではなくても、
子どもたちのために、そして自分たちの暮らしのために
身の回りのものを、きれいにして、
幾らかでも気持ちを、豊かにできるのであれば、
こちらとしても、本望だ。


いつも通り、建物の入り口まで見送りに来てくれた
お父さんと子どもたちは、
スリッパでパタパタと降る足取りも軽やかで、
明るさが、響いていた。



木彫で、鑿は命のようなものだと、教えられていた。
一体、あんなに大切に使っていたものを、
実家のどこに、仕舞ってあるのだろう、と
タクシーの中で、頭を抱える。

絶対どこかにあるはずなのだけれど、
それがどこなのか、さっぱり、分からない。






2019/04/09

結局のところ、桜が、恋しい

新元号に沸き立つ日本を尻目に、
なんで日本は4月始まりなんだろう、なんて、 天邪鬼なことを思うのは、実は、 日本の4月の清々しさが、苦手だったりするからだ。

4月始まりは、日本とパナマ、 インドネシアやペルーぐらいだ、と ネットで確認してみたり、する。

みんな一斉に、 何かを新しくしなきゃいけない、 心を入れ替えなきゃいけない、という 暗黙の空気が、怖かったりした。

大学生の頃、毎年キャンパス一面に広がる桜並木こそ、 心いっぱい愛でたけれど、 あとはいそいそと、連れてこられる捨て子猫や
捨て子犬を育てるのに、明け暮れていた。
桜を愛でるだけで、精一杯だったし、 春は、お別れをしなくてはならない人たちもいるのに、 知らない人が一緒の教室に来たり、 新しい目標を考えたりしなくてはならないのも、 とろいので、うまくこなせなかった。

4月1日の朝、出かけに、 シリアに帰った元同僚からボイスメッセージが来る。

大好きだ、いつも気にかけている、という 彼女の声は沈んでいて、 その日の、冬のようなどんよりした雲、 冷たい風がコートの隙間を縫って入ってくる感覚と、 彼女の声は、じわりと、身体に染み込んでくる。

4月が始まりだなんて、関係ない場所に居る。 置いてきぼりを食らうのは、いつものことだし、 嫌いならば、いいではないか、と思いつつも、 彼女の声に、いつかの記憶が、共鳴する。

とても、寂しいのだろうと、思う。 きっとあちらの国と同じ色の、小雨降る空を見上げる。 あんずの花も、散った花びらは、踏みしだかれて 空と同じような、灰色になる。



頭の週は、4月だなんて信じられないぐらい寒かったのに、 ある日、一気に暖かくなる。
そして、4月に入ってから一気に、仕事も忙しくなる。
朝、バスの窓から見る景色も、 次第に、色が薄くなっていく。
水気を含んで青々としていた、草はだんだんと 枯れる準備をし始める。 菜の花も盛りを過ぎて、 開き過ぎた花には、虫がたかり、 茎は見るからに、丈夫になっていく。 夏には文字通り、刺してくるアザミが、 じわじわと、その鋭利な葉先を、伸ばしていく。



ヨルダンでは、暖かくなることは、すなわち、 水分を失っていく、ということ。

柔らかさ、とか、しなやかさ、が 周りの草花から、感じ取れなくなってくる。

仕事の合間に、何気なく、キャンプの空き地の先を見る。
見事に茶色い、草一つ生えないような土地は、 どこにも春を愛でるような、景色などない、と思っていたのに、 そこでピクニックをする家族を、見つける。

ただ、暖かくなって、天気がいいから、というだけで、 空き地に出かけていく。 天気が良かったならば、外へいそいそ出かけて行って、 暖かな空気を、目一杯楽しむ。

ふと、彼らを羨ましいと思う、自分がいる。



近しい人たちがいなくなって、さみしい、とか、 新しい環境なんて、期待よりも不安でいっぱいだ、とか、 そんな後ろ向きな気持ちと、じっくり向き合いながら 馬鹿みたいに毎日、桜を愛でて、そして散っていくのを、 呆然と眺めるのが、春だった。

桜が散りきって、 色相からも相容れない、緑とピンクの、 どうにも気にかかる色合いの、葉桜になる頃、 やっと、仕方がない、と 新しくて、嬉々とした何ものか、に 向き合わなくてはならない現実を、見る。

春が、終わっていく。 それは、何とも、口惜しいことのように、思えてくる。

どれだけ、後ろ向きであっても、苦手だと思っても、 漫然とした、心の移ろいを、 次第に暖かくなる空気、桜の花とともに、見つめる。 その、年に一度の儀式を経て、 4月という新しさを、受け入れていく。
その、過程そのものを、結局のところ、 謳歌していたということに、気づかされる。

桜も草も、ないけれど、 陽の光を存分に浴びた彼らは、 まさに、私が今、したいことを、しているのではないか。

その様子に恨めしさでいっぱいになりながら、 キャンプの空き地の親子を、 フェンス越しに見やる。
すでに、日差しが強くて、南に向いた空き地を凝視などしていると、
顔がじりじりと焼けていくのを、感じる。
はっとして、仕事へ戻る。

一体いつになったら、
桜のつぼみから、散りゆくまでを
飽きるまで、見つめ続けることができるのだろう。