2018/03/23

木の芽どき



梨木香歩のエッセーの中に
木の芽時、という言葉にまつわる話がある。

植物の様子だけで見ればすっかり、芽吹き時など過ぎさり
その言葉の持つ、目に見えない秘めた力はすっかり放出されて、
ただただ、きらきらと華やかな時季。
春真っ盛りの日和を謳歌するべく、
ベランダで読書でもしようと思い
久々に思い出してその章を読んでいた。


春には灰汁の強い植物が多いけれど、
植物の灰汁抜きと同じように
この時季は心身の灰汁を抜くタイミングだと思うと、
それも悪くないと思える、というところから始まる話。

木の芽時、もしくは芽吹き時は
心身のバランスを欠きやすい、ということを、
その話を読むまで知らなかった。
私にとってこの言葉は未だに、単純にその文字通り、
春先を指し、その根本的に明るい。

細い枝先にほころぶ柔らかな緑を想像してしまう私は
でも、ふとあることに、合点が往った。

ずっと、自分の喉の状態を
膨らんでいく木の芽のようだな、春だからかな、
などと無駄に風流に、思っていたからだった。



喉が腫れて、声が出なくなった。
話せないことはないが、
話せば話すほど声は枯れていく。

大事な会議で、何を話しているのか聞き取れないといわれ
タクシーに乗っても行き先が通じず

子どもたちには「ぼくのおじいちゃんみたいだね」と真顔でいわれ
電話をしていたら見知らぬ若者に、真似される。

物理的に話すと喉が痛いので
できるだけ声を出さないでじっとしている。
タクシーの運転手に行き先の文句を云われても
おじいちゃんでは性別さえも違うじゃないか、と思っても
言い返すには声が通らなすぎるので、
真顔で見返すのみ。

なるほど、こういう対処法もあったのか、と
あらたな処世術を身につけつつある。

話さないと、言葉が身体に溜まっていく。

それは、時に不健全だけれども
溜まった言葉を反芻して
大概は口にしなくてもいいことだったりして
随分無駄なことばかり話しているものだ、と
自分に呆れる。

余計なことばかり話しているから
いい加減、もう少し慎めと、
戒められているのかもしれない。
これならば、いくらかは思慮深くなれるかもしれない。


おしゃべり好きのアラブ人は
私があまり話さないと
どこか不安な表情を浮かべる。
怒っているのではないかと、不安になるのだ。
喉が痛いからだと、仕事場のみな分かっているのに
どことなく、不穏な空気が流れる。

どちらかと云ったら、相手の機嫌を取っていることの方が多いので
時にご機嫌伺いされるのも、悪くない。


この原因はなんだろうか、と
薬も効かないので途方に暮れていたのだが、
先日、会話の中でふと、
予想される原因に、往き着いた。


春も盛りになってくると、
オリーブやらアーモンドやらの花粉が飛ぶ。

日本では花粉症なので、
こちらでもいつかはやってくるだろう、と
実は、毎年ひやひやしていた。
今年も大丈夫みたいだ、と思った頃
ついに、思わぬ形で花粉症の症状が出た、のかもしれない。

身体が物理的に芽吹き時、ということになる。

幸い、おかしくなってしまったのは喉だけで、
気の方はまだ、確かなはずだと、信じたい。