2019/02/16

彼らの暮らしと、話の断片 2月3周目



仕事ではない訪問は、久しぶりだった。
訪問相手も、4年ぶりに会うシリア人で、
本人はおそらく、私のことを誰だか、しっかり覚えていなかったと、思う。

本人を知る人から、彼の暮らしに動きがあったので、
様子を見に行ってきてほしい、
というお願いがあっての、訪問だった。

電話で連絡を取って所在地を尋ねると、ホテルにいる、という。
ホテルなんてお金のかかるところに、どうしているのだろうか。

彼には過去に、2度ほど会っている。
正確には、その頃住んでいたリハビリ施設に訪問していた。
そこには、負傷して治療が必要な人たちが肩を寄せて暮らしていた。

施設である貸家の庭には、立派なぶどう棚があって、
そのぶどう棚の木陰に椅子を出し、
話し相手を見つけては、椅子をずらし、
男たちは何をするでもない時間を、過ごしていた。

陽の光に輝く浅葱色のぶどうの葉と、
その葉の揺れて描く、ちらちらと淡くやさしい色の影が
どうしようもなく、笑っていても、なお暗い、男たちの顔と
対照的だった。

この人たちはいつまで、ここに居なくてはならないのだろう、と
庭の片隅から、男たちを眺めていた記憶がある。

あれから、すでに4年以上が経っている。






ホテルという看板は出ているのに、
通りに面した入り口には鍵がかかっている。
別の入り口は、同じ建物の別の場所に通じる廊下にあった。

通訳をお願いしていた日本人の友人と私は、明らかに部外者で、
いくらか不審顔で、レセプションの男は私たちを見ていた。

居るはずの階に登ると、そこは、病院の待合室の様相を呈している。

スチール製の繋がったベンチが、フロアの隅に並べられている。
窓に面した一角は食堂のようなスペースで、白い長机がいくつも並べられていた。
男たちが数人居て、人を探してキョロキョロしているこちらの様子を
それとなくもしっかりと、見ていた。

本人はもう一つ上のフロアに居た。
金属製の松葉杖を動かしながらこちらにやってくる。
久しぶりに会う彼の顔は、少しヒゲが短くなって
どこか一回り、こじんまりしたように、見えた。

以前行った施設訪問の時の、彼に関する記憶は
彼の顔と、出身地、そして彼のたった一人の家族が、
ザータリに住んでいるという話しか、なかったから、
英語を話す人だという情報は、抜けていた。

英語を話すんでしたっけ、とアラビア語で云うと、
以前はもっと話せたんだけど、もう今はダメだね、と
英語で答えてきた。

ほとんどの会話に、彼は英語で答えていた。
こちらはアラビア語、向こうは英語。


この施設のようなホテルにやってくる前には、
ホテルと提携している病院で、13回目の手術を受けている。
それでも、彼の左足は棒みたいに、膝も足首も、動かない。


娘さんは今、奥さんのお母さんの家族と、登録されている。

ヨルダンに来た時、娘さんと彼は、別々の病院で手術を受けていた。
その病院のあった場所で登録しなくてはならなかったのは、
彼自身も手術を受けていて、娘さんの面倒を見られる人が
義母さんしか、いなかったから,
父娘の登録は、ばらばらになってしまった。

家族手帳があれば、家族だということを証明できるが、
もう家族手帳は手元になかった。

爆撃を受けた時、家族はみんな、家の中に居た。
何もかもがその瞬間になくなっていたはずで、
たとえ何かが残っていたとしても、それを取って家を出る余裕が、
あったとはとても、想像できない。

本人は足を負傷し、右手の指を3本、失った。

奥さんと息子さんが爆撃で亡くなり、
二人の娘さんを連れてヨルダンに入国するが、
国境脇の町の病院で、入国1日後、娘さんを一人、喪っている。

娘のお墓がどこにあるのかどうかも、分からないと、言う。
そもそも、きちんとしたお墓が作られているのかどうかも、
本当のところは、定かでない、と私は、頭の片隅で思う。

娘さんを自分の家族とする登録に書き換えたくて、
何度もUNHCRに連絡したけれど、できる気配が、ない。
家族手帳が手元にないから、家族だった証明がなく、
娘がキャンプに居ることもおそらく、ことを複雑にしている原因だ。
登録の書き換えのために、自ら最寄りの機関にアクセスするにも
足に自由がきかない。

何とか一人だけ残った娘さんを手元に置くために、
近々、登録などの手続きを専門に請け負うNGOに
再度、依頼をする予定だという。



私たちの周りでは、スチールベンチが埋まっていって、
座っている人々と話をする、また別の男たちも、増えていく。
周囲の声は、次第に大きくなる。

足を怪我している人、頭に包帯のようなものをつけている人、
見た目には分からないけれど、歩き方が不自然な人、
ぼんやりと、どこを見ているのか分からないまま、直進する人。
誰もかれもが、治療を待っている。

エレベーター周辺のひらけた空間に、
気がつけば10人以上の人々が、集まってきていた。

これだけ似たような境遇の人たちが居れば、寂しくはないだろう
そんなことを頭の中で勝手に、思い巡らせていたら、
声がうるさいのはダメなんだ、場所を変えよう、と彼は立ち上がる。

何を話しているのか、会話を聞かれるのが嫌なのか、とも、邪推する。


近くのマクハ(水タバコ専門のカフェ)に、入る。
金曜日の午前中、お祈り前の人の動かない時間帯でも、
2、3人の客が、居た。

水タバコを頼まないと、どうもお店の雰囲気からして、気まずかった。
タバコは吸わないはずの彼も、水タバコは、注文した。
トルキッシュコーヒーと、水タバコ。
典型的な、マクハスタイルだ。






時々、泣けてくるんだ。
会っていた1時間半ほどの間に、
そう何度も、口にしていた。

そんなことを口にするときでさえ、大方微笑んでいるのに、
水タバコを吸っている時の顔には、
別人のように、平らで、何の表情もなかった。

水タバコを、しきりに、半ばおかしなぐらいの懸命さで、吸っていた。
普段吸わないのであれば、そんなに吸ったらよくないだろう、と
見ているこちらは、次第に心配になる。

でも、泣いたら少し、心は軽くなるんだと、微笑みながら、云う。
その作業は、彼にとっておそらく、大事なことだろう。



部屋にいる時には、ニュースか、ドキュメンタリーの番組を見ている。
もしくは、本を読んでいる。
どんな本を読んでいるのか、訊いてみると、
ダーウィンとか、という答えが返ってくる。
これはなかなか、アウトロウだと、察する。

ホテルを抜け出したので、館内では訊けなかったことを尋ねてみる。

ホテルの暮らしは、彼にとっては快適では、ない。
そもそも、誰かと一緒にいることが苦痛だ、とはっきり云った。
だから、この施設に入る前にしていた共同生活も、苦痛だった。

一人でないと、心おきなく泣くこともできないのであれば、
確かに、誰かと居ることは、辛いだろう。


同じ部屋の住人は二人とも、イラク人だという。
話し相手とか、いないんですか?と訊くと、
ファイターと話したくない、と云う。
いや、みんながみんなそうではないでしょ?と、私も焦って、反論する。

負傷して障害を持ったままシリアに戻ると、
どこかしらに属していた戦闘員と見なされ、
捕まってしまうと、云う。
そんな話は初めて耳にするものだったし、
こちらで真偽のほどを確かめようが、ない。

いずれにしろ、彼に戻る意思はないようだった。
そして、誰かと仲良くなれるような気分でも、ないようだった。

誰かと話す代わりに、彼は日記のようなものを、書いている。
どこまでも、内省的な暮らしを、自ら選んでいた。



何か、気分を変えようとしなくちゃダメじゃない、と思わず云う。
まったく余計なお世話だろうと、思いながら。
こちらも冗談みたいにしか云えなかったから、笑いながら口にすると、
くしゃっと顔を緩ませる。
今日みたいに、人が来たら、気分は晴れるし、変わるんだ。


今回の訪問を依頼してきた人を通じて、私だけではなく
幾人かの日本人が、過去に彼の元を訪れている。
それぞれの訪問者とともに撮った写真は、
おそらくすべて、きちんと携帯の中に保存されている。

親指と人差し指しか残っていない右手で、
携帯の写真を拡大し、一人一人の日本人の顔を、
見せてくれる。

第三国定住を申請しているけれど、
日本に行きたい、
日本の人たちはみんな、いい人たちだから。
そう、何度も口にしていた。

彼のところにやってくる人たちは、シリア人に関心のある人たちだけ。
日本人のみんながみんな、いい人たちばかりではないし、
そもそも今の日本の難民をめぐる、あらゆる状況が、
第三国定住先の欧米に比べて、いいとはとても、思えない。

と、そんなことを、目の前の人に云ったところで、
理解をしてもらうことは、できないだろう。
それは、日本の人の大多数が、難民というくくりの人たちを
どんな人たちなのか理解できることと同じぐらい、
困難を極めることのように、思えた。



マクハを出る頃には、金曜礼拝は始まっていて、
煽動するような、早口で気にかかる口調の説法が、
スピーカーから流れていた。

ホテルのすぐ先の、幹線道路の対岸では、
菜の花が咲き乱れ、黄色く染まっていた。
ピクニックに往く時期だね、と、バカみたいに云ってみる。




ホテルのエレベーターで別れる時、
エレベーターの中に入った彼が、胸に手を当てる。
日本人のお辞儀のような、意味を持つ、仕草だ。

失ってしまった3本の指の他にも、
失ってしまったたくさんのものが、ここに、しまわれているのだ、と
残った2本の指が矢印のように、胸の上を指し示しているように見えて、
ずっと、頭から離れない。