2018/08/30

からっぽが、見える


ひとりキャンプの中で、車を待っていた。
校門の前で待っていたけれど、さっぱり来る気配もない。
向かいのドッキャンでジュースを買って、
一気飲みする。

日焼け止めの効果むなしく、
顔が焼けるように暑いような、酷暑なのに、
結構歩いている人が居る。
ニカーブは理にかなっているな、などと
子ども2人の手を引いて歩いていく
全身真っ黒なお母さんを眺めていた。




夏の間に学校で育てていた植物は、
アクティビティが終わった後、お水をもらっていなかったようで、
いくつかは枯れ、いくつかはひょろひょろになっていた。

大きな透明なボトルを、水いっぱいにして、運ぶ。
水はいろんな形になって、
きらきらと、ボトルの中で揺れる。

こんなに水は、きれいなものだったんだ、と
見とれる。
子どもたちが楽しそうに水を運んでいた理由が、わかる。
抱えたボトルの中を覗きつつ、歩く。



撒いた水は一瞬で、浅茶色の土の中に、沁みていく。
数回水を運んで、ふと水を撒いた花壇を見ると、
さっきまでしなしなになっていた葉っぱが
しゃんと、背筋よく、立っていた。
何だか、分かりやすすぎて、
こちらの子どもたちみたいだな、と、思う。



校門の前に、しばらく立っていなくてはならなかった。

遠くから自転車に乗った、知り合いの男の子がやってきた。
今日アクティビティあるの?などと
的外れなことを、とぼけた顔で云っているので、
来週の日曜日から学校です、と答える。

わかった、と云って、
また自転車にまたがり、男の子は去っていく。
ゆるやかな坂をのぼりながら、
繰り返し振り向くので、
振り向くたびに、こちらは手を振る。
向こうは片手で漕ぐには大きすぎる
背丈に合わない自転車に乗っているので、
ただ、何度も何度も振り向いていた。

いろいろ面倒もかけてくる子なので、
授業中は無下な態度を取ったりしているけれど、
思わず、顔がほころぶ。

別の場所でも、歩いていたら
お父さんらしき人の漕ぐ自転車の
後ろに座った男の子が、
振り向いて外国人だと分かると、
何度もウィンクをしてきた。
上手にできないようで、
右目をぎゅっと閉じると、
一緒に口が歪んでしまう。
でも、何度も何度も、こちらに向かって
ウィンクしていた。

やはり、こらえきれずひとり
にっと、笑ってしまう。

当たり前だけれど、
ひとりで笑うことはない。
日射しが強いので、目を細めている。
おそらくは、相当の仏頂面だろう。
みんな、外国人は愛想がいい、なんて思っていたら
大間違いだ、と
言い訳のようにいつも心の中で呟いている。




けれど、こんな子たちに会うと、つい
何だか微笑ましくて、ふわっと、
なにかが、緩まる。

緩まると同時に、
冷たくて気持ちのいい水のようなものが、
からっぽの空間に
とぷとぷと音を立てて、注がれる。
からからで、からっぽだったのだ、と、やっと
その時、気づく。

けれど、注がれた水は、どんどん、どこかからこぼれ落ちる。
からっぽな空間が、可視化される。

どうにも、足りない。

一体これを埋めるためには、
どんな視点を、どれだけ鋭敏な心を、どれだけの優しさを
手にしていなくてはならないのだろう。

キャンプの端っこの、何もない空き地と、
どこまでも広がる薄青い空を眺める。

かさかさとした、砂塵のような不安で、
ただただ、途方に暮れる。


帰りの道すがら、
まったく違う文脈なのだけれど、ふと
随分昔に読んだ
コカコーラ・レッスン、を思い出す。
谷川俊太郎の散文。

海を眺め、コカコーラの缶を手にした少年が、
物質の名前と、ことばの総体、その観念が結びつける瞬間、を
描いた話だったはず、だ。

その少年は、たぶんとても、聡明でそして、
からっとした少年で、
ことばに襲われそうになった恐怖との戦いの末に、
コカコーラの缶を
足で、踏みつぶす。

もし、この少年のように、
からっぽを把握できるだけの
賢さを持っていたら、
そして、このからっぽを
そういうものなのだ、と、受け止め、
でも、ぽいっと放る明るさがあったのなら。

頭が悪い、ということは、
こういう時に本当に、困るのだ、と
海と同じぐらい、たくさんの要素を孕みつつ、からっぽな、
空き地と空をぼんやり、思い出していた。


2018/08/15

彼らの暮らしと、話の断片 8月3週目


もし、今日休日だったならば、
どこかをずっと歩いていただろう。

考えるのには、歩くのが一番いい。

朝からBBCのラジオは、日本の終戦について、触れていた。

でも、今日はいつもと変わらない一日だから、
フィールドへ、往く。



それなりに暑いけれど、今日も風が強かった。
そして、今集中的に訪れている地域には、
実は、緑が多いことに、気づく。

小さな、本当に狭い場所でも、
土があれば、植物を植え、育てる。

オリーブの木が多いように、思う。
まだ固そうな、でも、つややかな緑の実が
どこの家庭に往っても、見ることができた。

この地域への訪問も回を重ね、
週末に訪れたセンターや、何度も通ったスーパーの前を
繰り返し、行き来する。



結婚や、タウジーヒ合格や、おめでたいことがあると、
色とりどりのビニールテープで、道を飾り立てる。
これを見ると、どうしても、パレスティナキャンプを思い出してしまうのは、
こぎれいな地域では絶対、見ないからかも、しれない。

個人的には、とても好きだ。
自分の家のお祝い事なのに、近所中を巻き込んでしまう感じが。

そして、このぴらぴらは、青いヨルダンの空によく、映える。



1件目:ハシミ・シャマーリー

賑やかな、色とりどりの看板が並ぶ商店街を
一本曲がると、
急に、作りかけの、コンクリートやブロックが
むき出しになった建物が、増える。

強い斜視のお父さんが、迎えにくる。
なぜだか最近、目の充血した人にたくさん、会う。
キャンプの子どもたちにも、多い。
お父さんも、右目が充血していた。
もの静かなお父さんだった。

黒いビニール袋には、おそらく私たちのための、
ジュースが入っていて、
その袋を、握りしめていた。

建物の中には入らず、小さな2メートルも幅のない、
細長い庭に置かれた椅子を、薦められる。

お母さんが中から出てくると、
お父さんではなく、お母さんが私たちに対応してくれる。
ほとんどの家庭では、
お父さんがいる限り、お父さんが話をしてくれて、
お母さんは、横で話を聞いているケースが多いので、
少し、気になる。

長男はイラクに居る時に、襲撃に遭って負ったけがで
足にボルトを入れている。
本来ならば8年生になるけれど、
随分学校に往けていないから、
今は、NGOが運営するキャッチアップクラスに登録して、
夏期講習を受けている、とのことだった。

誕生日の子がいれば、誕生日会を開き、
どこかへの移住が決まると、お別れ会をする。
センターの校長先生は、子どもをクラスにきちんと通わせてほしい、と
親御さんを励ます。

でも、14歳になる息子は、ひとりでキャッチアップクラスへ往く
30分の道のりが、怖い。
ご両親に一緒についてきてほしい、とお願いをしてくる。
近所はヨルダン人ばかりなので、
クラスメートも居ないから、他の誰かと一緒に学校へ往くこともできない。
ご両親のうちのどちらかが、ついていく。

聞けば、トルコで既に、2年間避難生活をした後の、ヨルダンだった。

どこの家庭でもそうだが、
UNHCRからのキャッシュアシスタントがなくなり、
UNICEFの交通費支給もなくなり、
生活も、学校に子どもを通わせるのも、大変になってきた、
という話を、聞く。

教育支援をしている、というと、
誰もが、交通費や学費の支給があるのかと、
口には出さないけれど、期待している。
ただ調査のためだけに、訪問している私たちにとって、
ただただ、申しわけない気持ちになる瞬間だ。


それでも、多くの家族は、あからさまに
私たちへの関心を失ったようには、見せないようにしてくれている。
本当に、礼儀正しく、丁寧な人たち。
ここの家族も、そんな優しい家族の一つだった。

一番下の息子は、日射しの強い中を歩いたり、
車に乗ったりすると、すぐに具合が悪くなってしまう。
病院に往っても、原因は分からない。

近所の人たちはみんなヨルダン人だけれど、
仲良く暮らしている。
時折、狭い路地に面した門のところに座って
世間話なども、する。

それでも、公園や遊べるところへ往くことはできないので、
学校の他は、ずっと家の中で過ごしている。

一番下の娘は、数学が苦手だ。
算数、ということばを聞くだけで、もういやで仕方がないのよ、と
お母さんは微笑みながら、云う。

お母さんは、メイサーンで学校の先生をしていた、と聞き、
急に、親近感がわく。
イラクでの教員生活の話をし始めたときから、
少し表情が柔らかくなったような、気がした。

イラクでは、男子校に女性の先生が勤務するケースもあるようで、
お母さんは6年生の男の子たちに、数学と理科を教えていた。
私自身、こちらの学校に慣れているせいか、
6年生の男子を相手に、女性の先生がひとりで授業をするのは
なかなか大変だろう、と想像する。
ものすごい苦労したでしょう、と訊くと、
もう、全然先生のことを尊敬しないし、
石はなげてくるわでやりたい放題、
大変だった、と笑って、答えていた。

お母さんは、13年勤めて、イラクを離れなくてはならなくなった。
イラクでは、おそらく公務員への規定で、
15年以上勤務すると、辞める時に退職金がもらえるようだ。
土地を離れなくてはならなくなったのは、
やはり、他宗派や思想のグループから
脅迫を受けていたのが、原因だった。

13年目で離れなくてはならなくなってけれど、
その前から既に始まっている、一連の戦争のせいで、
彼女が勤め始めた時には、
学校の組織体制も、崩れ始めていた、と話していた。

既に訪れた他の家庭でも、メイサーンという名は耳にしていたので、
どんなところなのか、気になっていた。
あまり、webには情報が載っていなかったので、訊いてみる。

サトウキビの生産と、養魚業、そして、石油があるという。
内陸部なのに、養魚業があるのか、とスタッフは不思議そうだった。
地図に見たメイサーンには、大きな川が流れているから、
川魚を育てられるのだ、と説明すると、
スタッフは納得したようだった。

メイサーンのことを尋ねた時、本当にうれしそうな顔をしていた。
その土地で、どんな目に遭っていたとしても、
故郷の名産の話をするのは、きっと、誇らしいことなのだろう。


2件目

住宅地の一つ、よく見る4、5階建てのアパートメント玄関で
お母さんが小さな女の子の手を握って、待っていてくれた。

部屋の居間からは、オリーブとレモンの木が、見える。
窓の脇には、鉢植えの唐辛子が置かれていた。
座ったソファの向かいの壁には、
イラクの国旗の柄の首掛けと、誰か男性の写真、
それから、ヨルダンの国王の写真と、子どもの描いた、絵。
座った方の壁には、キリストの絵が、貼ってある。

お母さんは、とても早口だった。
とにかく早口で、サラーハ(正直に、という意味だけれど、
おそらく、本当に、というニュアンスなのだろう)を
繰り返していた。

家賃が安いからこの地域に住んでいるけれど、
既に家を2回引っ越している。
一度はセクハラを受けそうになって怖くなり、
一度は同じアパートの別の部屋に、泥棒が入ったからだった。
それから、アパートの住人同士の仲も、とても悪かった。

眉毛の細いお母さんは、一つの質問に、
たっぷりと、たくさん話をした。
先生たちはとてもいい人たちだし、
校長先生も献身的だ。
ただ、子どもたちの間でケジラミが出た時に、
あまりしっかり対処してくれなかったのには、困った。

午後シフトの子どもたちは、授業の終わりに掃除をするけれど
午後シフトが始まる時には、教室は汚い。

掃除を子どもにさせるのがいやな訳では、ない。
ただ、次のシフトにきれいな状態で戻しているのだから、
午前中の子たちだって、それをしてもいいでしょ?

全くその通りなので、本当にそうですね、と
スタッフも私も、答える。
子どもに清掃をさせること自体を嫌がる親御さんが多いので、
このお母さんの意見は、よけいに、至極全うだ。

ただ、時間的なことを考えると、
よほどそこに注力できる先生でないと、
午前シフトの時間中に掃除を終わらせることは、難しいだろう、と
頭の中で、時間割を思い出す。

子どもがクラスメートとけんかをしたり、
学校に訊きたいことがあると、お母さんは学校へ往く。
週に2、3度往っているらしい。
でも、学校で他のお母さんたちに会う機会はあるのか、という質問には、
ないわ、ときっぱり、返事をした。

お母さんはコーヒーを出してくれたり、
お水を出してくれたり、
いろいろとしてくれたけれど、
聞き取りをしている間、一度も、笑顔を見せなかった。
私が聞き取れずに、スタッフに英語で訳を尋ねる度に、
窓の外を、空虚な目で、見つめていた。

何度も、疲れたの、生活が疲れるの、と繰り返し、
最後まで早口で、最後まで何かに追いつめられているような、
険しい表情をして、
時々果てしなく深くて重い、ため息をついた。



3件目

同じアパートメントの上階に住んでいる家族を、紹介してもらう。
学校に往っている子がいたら、とお願いしてみたところ、
紹介された家だった。

お母さんはエプロンをかけていて、
居間のソファでは、12歳ほどの息子が横になっていた。
腕にギブスをつけていて、
なにもすることが、もしくはできることが、ない、といった様子で、
だらんとしている。
遊園地でローラーブレードで遊んでいて、転んでしまったそうだ。

お母さんは、表情の豊かな人だった。

お母さんの背後には、居間の壁が広がっていて、
コバルトブルーに塗られた壁の前に座るお母さんの姿は、
金髪で色白だったせいか、
どこか他の国のお料理番組の1シーンを
切り取ったようだ。

確かにここの子どもたちは、学校に往っているけれど、
公立校ではなく、私立だった。
調査の主旨とは違うけれど、
私立校の話を聞く機会は少ないので、いろいろと話を聞きたいことが出てくる。

モスルから2016年にやってきた、家族だった。
キリスト教徒なので、クリスチャン系の学校に通わせている。

遠足もあるし、月に一度は、朝食会や工作の会を、親御さんも交えて開催する。
音楽の授業はないけれど、体育は週2時間、ある。
どれも、公立校では足りていないものばかり。

公立校の話ばかり見聞きしている私には、何だか、
きらきらした話だった。

途中でお父さんがやってくる。
お父さんは、典型的なアラブ人顔で、
お母さんがいろいろと話す様子を、しばらくは、
静かに聞いていた。

一通りアンケートが終わったところで、お父さんが口を開く。

UNHCRに知り合いは、いないんですか?
シリア人ばかりに支援が往って、
イラク人への支援は、手薄なんですよ。
仕事も、クーポンも、キャッシュアシスタントも、
シリア人ばかりだし。
第3国定住の申請をしてから2年4ヶ月経っているけれど、
全く音沙汰がないんです。
お宅のNGOはUNHCRとつながりはないんですか?
ヨルダンの物価は高すぎますよ。
アメリカの方がよほど、安く暮らせる。
でも、往けるチャンスが、どうにも、ないんです。

私も、スタッフも、うつむきながら話を、聞く。

もし仮に、国連関係に知り合いが居たとしても、
コネなど使える話ではないはずだ、と
お父さんに説明したところで、分かってくれないだろう。
お父さんはどこまでも真剣に、
この国から出る方法を、きっとずっと家の中で、
鬱々と考えている。

お父さんが話しはじめると、
話の内容のせいなのか、お父さんの口調のせいなのか、
お母さんの表情も暗くなって、
子どもたちは押し黙った。


5件目

もう何度も通った、複雑に道の入り組む交差路で、
迎えに来てくれるはずの、子どもたちを待っていた。

あの人かな、と、よく注意して、人を観察する。
人を探している気配がない、と分かると
他の道から降りてくる人たちに、目を移す。

どうも、他の地域に比べて、
道を歩く人の数が多いように、思える。
それは、目抜き通りでも路地裏でも、云えることで、
単純に子どもの数が多いだけではなく、
大人たち、本来ならば働いているだろう、大人たちの姿も
多く見かける。


私たちを迎えにきてくれたのは、長男と次男だった。
すらっと背の高い、にきびが若々しい長男と、色白の次男。

道をまっすぐ進む、というアラビア語方言に、
聞き慣れない単語を使っていた。
そして、長男は、また違うことばで、云い直す。
スタッフは、首をかしげる。
イラク方言ではなくて、サウジアラビアの方言に云い直したことが、
説明をしてもらって、やっと分かる。

それら3つの方言は、どれも全く違う、音の響きで
語根でさえ、共通するものがなかった。


斜めに入る、いびつな形の路地と路地の間に、
アパートメントは、ある。
各世帯のブレーカーはむき出しになっていて、
どこもかしこも、どうにも、古びていた。

建物の敷地に入る手前で、
同じアパートメントに住む、おばあさんと会う。
リームちゃんは居るかい?とおばあさんは、尋ねる。
そんな子、うちには居ないよ、と、子どもたちは答える。


最上階の部屋に通される。
本来、居間になるはずの部屋には、
小さなベッドが二つ置いてあって、
私たちはその一つに、4人の息子たちは、もう一つのベッドに、
お母さんはプラスティックの椅子に、座る。

短い廊下の先のトイレには、
きれいな青い花柄の、タイルが貼ってあった。

西に向いた窓からは、教会が、見える。

4階分を上るのに疲れきっていたスタッフの様子に、
すぐ、水を出してくれる。
そして、聞き取りの途中に、いつの間にやら、
長男が、コーヒーを作ってくれていた。

お母さんは、二の腕から上が、びっくりするほど太くて、
何だか別の人の腕を、途中から入れ替えたみたいだった。

朗らかな話し方をする、お母さんは、
道で歩いているとナイフを持った子に遭ったりする、
という話まで、穏やかな顔で、話していた。


この家族も、モスルから来ていた。
ただ、バグダッドにも以前は住んでいて、
戦争が始まってから、モスルへ往き、
エルビルのキャンプにも入り、その後、
ヨルダンにやってきた。

2017年に、来ている。
危機的状況はもっと以前から続いていたはずなので、
遅れて国を出た理由を、尋ねてみる。


お父さんの作った借金の返済が終わるまで、
国を出ることができなかった、という。
とにかく、イラクから出なくては、将来が見えないと思ってはいたが、
それが許されるのは、返済が完了してからだった。

モスルでは、スポーツセンターに往って、
プールで泳いだりできていた。
こちらでは、公園周辺には、ヨルダン人の若者がいるし、
買い物に往っても、からまれたり、する。
親族のおばさんの家に往くことぐらいが、今のところ、
目的のある、外出先のようだった。

子どもたちは、前年度の一年間、学校に往けていない。
9月から学校に往くために、登録をするところだった。
3番目の子が、何をするにも遅いので、
勉強も時間がかかるだろう、と、
お母さんは困ったような、少しおかしいような、
でも結局のところは、愛おしいような、表情をする。

本人は、ベッドに横になり、まだ4歳ほどの弟に、
ちょっかいを出していた。
小さな粒のようなボールを投げ、きゃっきゃとはしゃいでいる。

ヨルダンには親戚が住んでいたから、その伝手を辿って、やってきた。
ヨルダンに来たら、他の周辺国より
ヨーロッパに往くチャンスがあるかと思ったのだけれど、
そう、お母さんは、云う。

迎えに来てくれた上の息子たちは、
最後までじっと、お母さんの話す様子を、横で見守っていた。

お母さんを守る、家を守る、という
強い意志のようなものを、彼らの佇まいから、感じる。
子どもたちが、家族の醸し出す雰囲気に、
存在感を出していた。

それは、お母さんの朗らかさのおかげなのか、
息子たちに守られて、安心できているから
お母さんが、そんな表情を絶やすことがなくて、
それが、子どもたちを強くしているのか、
どちらなのだろう、と
どちらにしても、いいことには違いないこと、を
帰り道の車の中で、ぼんやりと、考えていた。




イラク難民の話を続けて、聞いている。
いろいろな話を聞きながら、ずっと
バランスよく、いろいろな立場の人の話を聞かなくては、と
どこかで、焦っている。
彼らの会話の中に出てくる、個人ではなく、人種で括られる
シリア人、ヨルダン人、の話も、そろそろ、
聞いていかなくてはならない。

ただ、多くの家庭で会う、
限りなく膨大に、語るものを抱えた人々にも、
失礼な表現だが、単純な興味が、湧いてくる。

やっと、イラクのいろいろな地域の方言に、
ほんの少し、だけれど、慣れてきた気が、している。

2018/08/09

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目-2


一見、何もかもが単一なヨルダンでは、
考え方も、国籍も、宗教も、文化も、
メジャーなものの他に、そもそもマジョリティの人々が、
興味を抱かないように、見える。
もしくは、あえて交流しようとはしない、と
決めているきらいが、私の周りのヨルダン人からは、伺える。

それは、陸続きの国であり、侵略と制圧ばかりが繰り返された
歴史の成せる結果なのかもしれない。

過度に排除する傾向にあるように見えるのは、
でも、日本も程度の差はあれ、あまり変わりが、ない。
だから、よく日本に戻る度に
そこはかとなく、ヨルダンと日本は似ているな、と
感じることがある。
もっとも、難民に関して云えば、
よほどヨルダンの方が、寛容だ。

360度、どこから見てもアジア人の女性である私は、
完全なるマイノリティとして、
ある社会の中でマイノリティとして生きることが、どういうものなのか、を
まざまざと体感する日々を送っている。

生活基盤も、庇護に溢れた、いわゆる駐在の人々よりは、
出稼ぎに来ているフィリピン人やインドネシア人の人々に、より、近い。
結果的にそうなっただけだし、
最終的には、日本人であることに、救われた機会は、何度となく、ある。
また、私の側に立って、助けてくれる人がいる時もある。
その時は、本当に、ありがたくて、
文字通り、涙が出てくる。

でも、見た目で判断するのは、全世界津々浦々変わらず、
あえて交流しない人々の間では、偏見がはびこり、
多くの場合、言語的にも、立場的にも、私に発言権は、ない。

圧倒的な理不尽を経験することが、
でも、本当に得難い経験だと思えるのは、
結局、そうならないと本当の意味で、
ある社会の中の、ある分類において、
マイノリティになるとは、どういうことなのかを理解することが、
少なくとも私には、難しかったからだ。
分かったつもり、では、想像の及ばないものものが、
あまりにもたくさん、ある。


ただ、マイノリティの生きづらさの種類もまた、
マイノリティになる所以によって、異なる。

時折、ヨルダン人との会話の中で、
他宗教について触れる時に見せる、頑なまでの否定が、
私に、恐怖心を抱かせる。
特に、同じイスラム教の中の、他の宗派には、厳しい。

普段、信仰が何なのか、こちらから訊くことは、ない。
八百万の神を何となく感じている、程度の私には、
触れることのできない、主題だと、
避けて通ってきた。

その日の訪問では、2件目の訪問先で
彼らが、自ら自分の宗教について、語ることになる。




1件目:ハシミ・シャマーリー

午後から出かけたフィールドで、
一番道が混んでいる時間にあたってしまう。
それなのに、電話口で場所を確認するスタッフは、
相手のことばがうまく聞き取れなくて、いらついていた。
建物の番号を聞き間違え、目印になる建物の名前が違い、
結局1時間ほど、道に迷う。

往き着いた建物の前には、あまり手入れのされていない
ヒノキが数本、立っていた。
でも、家の前に木があることが珍しいので、
何だか、気に入る。

ブロックがむき出しになった建物の中1階に、
訪問先はあった。
たった10段ほどの階段が、感覚が狂いそうになるほど、歪んでいる。




玄関の脇の居間に通されて、正直、困る。
置いてあるソファのどれも、張り布が破れて
どれを選んでいいのか、分からなかった。
西に向いた窓からは、ヒノキの幹が見える。
こちらでは珍しい、鉄枠で観音開きの窓に、ヒノキという組み合わせが
そこだけヨルダンらしくなくて、
しばらく窓とその先を、眺めていた。

お父さんには、大柄だけれど温和な人柄が、
表情ににじみ出ていた。
お母さんはヒジャーブを被っていなくて
少し染まった茶色い髪に、小さな水玉のシャツを着ている。

1年生と2年生の息子たちが、
わらわらとやってきて、空いているソファに座る。
物珍しいのか、私の顔と兄弟のお互いの顔を、
代わる代わる、見ていた。

男子校に通う子どもたちには、苦難が多い。
私でも分かる、発音や単語、アクセントの違いが、
同じアラビア語を話しているのに、
子どもたちを窮地に追い込んでいるようだった。

イラク人だから、できなくてもしょうがない、と云われる。
学校に往っているのに、アラビア語のアルファベットも
きちんと学習できていない。
外で遊んでいたら、近所の子どもから嫌がらせを受けた。
お父さんがその子どもの親に会いに往くと、
自分の子どもがしたけど、それが何なんだ、と開き直られる。
結局、外に子どもは出さないことにして、
時々、モールに一緒に、遊びに往くだけが
外でできる遊びになってしまった。

おそらく、少し自閉の傾向がある下の子が、
お父さんとお母さんの間を往き交い、
私たちに出されたお水を何度も飲んで、
座っては、また、立つ。
うまく、合わせようとしても視線が合わないのに、
時々じっと、こちらを見ていたりする。

この子、学校ではぎゅっとなっているのよ、と
お母さんは、身体全身、きゅっと屈める。

うまく、この子に適切な支援ができていないけれど、
どうしたらいいのか、おそらく、ご両親は分からない。

シリア人家庭では、よくカリキュラムの違いが問題になっていた。
イラクのカリキュラムを知らないので、
尋ねてみる。

英語は3年生から、そして、農業の授業が
5年生から、あるという。
家族がやってきたのは、ティグリス川の流れる、
イラク南部のメイサーン。
文化の発祥の地を支えた、豊かな土地を、思い描く。

イラクでは宿題がたくさん出ていたから、
宿題をやってこないと、叩かれたりしたな。
2012年にやってきているから、
この二人の子どもたちは、イラクで教育を受けていない。
お父さんの時代の、話のようだ。

ソファの背もたれの上に置かれた絵が、
ずっと気になっていた。
授業の内容の話になった時に、
この絵はこの子が描いたのよ、と
お母さんが絵を取り出す。
上の子は、絵を描くのが好きなのよ、と
子どもたちに描いた絵を、部屋の奥から取りに往かせる。




厚い板に描かれた絵は、自然の色合いだけが、
何ともいえず、美しかった。
板に描いたのが、偶然だったのかもしれないけれど、
ふわりと滲む、絵の具の色合いが、やさしい。

どうしたら絵が上手になりますか?と尋ねられる。
同じ質問を、ガザの子どもからも訊かれたことを、思い出す。

おそらく、ご両親の醸し出す空気だったのだろう、
かちゃかちゃと動き回る下の子が居るのに、
どこか落ち着いた、安心できる雰囲気があった。

訪問の後、歪んだ階段を降りて、振り向くと、
ちょこんと階段の上に立った下の子が、
はにかみながら、何度もこちらに、手を振っていた。



2件目

随分歩いて迎えにきてくれたことが、
お父さんの後をついていって、分かる。
道の片脇には、色鮮やかな壁画のある
子ども向けのセンターがあって、
その壁画の上には、小さく十字架が飾られていた。

お父さんは小柄で、ずんぐりしていて、
こちらのアラブ人とは、どこかが違っている。
ヨーロッパの田舎の牧師か神父みたいだな、と、思ったのは、
往き道に見た、その建物のせいなのかも、しれない。
歩く姿は、どこか、かたくなだった。

建物の階段を上がっていくと、
吹き抜けの階段から、小さな子どもの
執拗な泣き声が響いていた。
ドアを開けると、当の本人が、
もしゃもしゃの黒髪を顔の両側に垂らしながら、
ぐゎんぐゎん泣いていた。

上の二人の女の子は、学校に通っている。
この子たちが通っている学校は、
他の家庭でも耳にしたが、評判がいい。
校長先生が随分献身的に、学校を回しているらしい様子がうかがえた。

Asylum Seekerの紙には、上に大きな息子も二人、登録されている。
でも、息子の姿はなくて、仕事もしていないという息子たちが、
どこに居るのか、訊けずじまいだった。

上の子どもたちの名前を訊いたところで、
スタッフが、首をかしげる。
確かに、今まで一度も耳にしたことのない、名前だった。

その場に居た、一番上の娘の名前は、
天国にある、木の名前だという。
その天国が、誰にとっての天国なのか、分からない。
私も、おそらくスタッフも、聞いたことのない話だった。
でも、お父さんは、少し高めの、早口ではないのに
切羽詰まったような口調で、
一生懸命、説明をしていた。

サービア教を信仰している、ということが、分かる。

もじゃもじゃの一番下の子だけが、
私にも聞き覚えのある、名前だった。
この名前だったら、馴染みがあります、と
スタッフが、無理に明るい声を出して、場を取り繕う。

お父さんとお母さんは、大学を出ている。
僕たちだって、仕事もしたいし、勉強もしたい、
けれど、この国では無理だから、
第三国定住を申請している。

親戚には、アメリカやイスラエルに移住していたり、
まだ、イラクに残っている家族もいるようだった。

お父さんは、変わらず、どこかに切実さを感じる口調で、話し続ける。
コーランだって読むし、好きだけれど、
子どもたちは学校で、宗教のことを訊かれたりして、困っている。

メイサーンから出てくる時には、
出て往かなければ子どもたちをレイプする、殺す、
脅迫され続けた。
お父さんは、この背後にはイランが居て、
直接イランという国が手を下さずとも、
影響を及ぼせる状況にしている、と云う。
他宗派を排除しろ、と説法をしている、
見慣れたシーア派の冠物を身につけた男性の動画を、
私たちに、見せた。

私もスタッフどう反応したらいいのか、困る。
私がよくわからない、というふりをして、動画を終わらせてもらう。


ヨルダンでも、外に遊び往かせるのはとにかく怖くて、できない。
ほら、下の子はストレスで、よくかんしゃくを起こすんだ。

上の息子たちにも、問題は起こさないでくれ、と
いつも云って聞かせている。
ヨルダンでは宗教的な活動はできないし、
何か起こして大使館にでも往かなくてはならなくなったら、
いろいろと、問題だ。
静かに、目立たずに暮らして、
早く違う国へ、往きたい。


お父さんがこんな話をしている間、
一番下の子は、コーヒーを準備してくれているお母さんの後を
カルガモのあかちゃんみたいについて回り、
髪の毛を束ねてもらったり、抱っこをしてもらったりして、
いくらか満足しだす。

学校での授業以外のアクティビティ内容について、
一番上の女の子に訊いていたら、
放送委員会を選んでいる、という。
人前で話をするのは、きらいじゃないの、と
思慮深そうな、おとなしい印象だったけれども、
その話をしている時には、
子どもらしく、笑っていた。

お父さんの、息を殺すような暮らしへの危惧は、
まだ、この子にまでは、現実の何ものかとなっていなくて、
それは、たぶんこの家庭の、救いになっている。



家を出る時に、近所で学校に通っている家庭を紹介してもらうと、
同じ建物に、もう一家族、住んでいた。
時間がなかったので、次回訪問するために
電話番号をもらう。

スタッフが上の階で電話番号をもらっている間、
ついていった私の後を追って、
子どもたちが階段を上がってついてきた。
もじゃもじゃの頭をまとめようと、持っていたゴムには
すっかり塗装のはげた、
小さなプラスティックのハートの、飾り物がついていた。
どんなゴムか見せて、というと、
ためらいながら、でも、ゴムをこちらの手に、乗せてくれる。

そんなことをしている間に、
上の家族の子どもたちも廊下に出てきて、
4人の子どもたちが、手すりにしがみつきながら
こちらをじっと、見つめていた。
金属の、縦格子の手すりのせいなのか、
牢屋に入れられているように見えて、一瞬、ぞっとする。

手すりから離れて、下の階に往くことはできても、
この建物の外に出ることは、学校の他に、ないだろう。
そう考えると、でも、その図の印象は、
必ずしも間違っていないのかも、しれなかった。





おそらく、スタッフにとっても、他のこの宗派の話を聞くのは、
初めての体験だったのだと思う。
中立的で信頼の置けるスタッフだけれども、
たぶん、心の中ではひどく、動揺していたに違いなかった。

私も初めてムスリムの家庭に往った時には、
いろいろな話が初めてで、分からなくて困った、と
帰り道で、スタッフに話してみる。

いや、本当に、よく分からなくて、と云う彼女の声は、
いつもよりも早口になっていた。
坂を登っていたから、息が切れていたのか、
まだ何かに動揺しているのか、
私には見極められなかった。



2018/08/08

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


数年前、一度だけ訪問したイラク人家庭は、
ジャバル・フセインの古いアパートの最上階、
屋上にしがみつく、小屋のような家だった。
話しながらお母さんが泣き出して、
涙が溢れるのには十分すぎる、あまりに理不尽な話ばかりだったから、
しばらく鮮明に、お母さんの泣き顔と話し方を覚えていた。

訪問の後、階段を降りようとして、ふと足を止め、
ヨルダンで事故に遭い、足が不自由になったお父さんが毎日、
仕事に出て帰ってくるのに、
この階段を登らなくてはならないのか、と
5階分の、石のすり減ったつるつるの階段を、
呆然と見下ろした記憶が、ある。

シリア難民が増えたことで、イラク難民への保護が手薄になった、
そう、数年前の訪問でのイラク難民は、云っていた。
彼らは逃げてきてから既に、10年近い年月が経っていて、
その家庭は、40JDの授業料を公立学校に支払わなくてはならなかった。
就学年齢の子どもがたくさん居て、
そんなことは不可能だ、とお母さんは訴えていた。

教育省にその事実関係を確認したところ、
だって、イラク人は金持ちもいるからね、と
何が疑問なのか分からない、という口ぶりの、返答をされた。


その日の訪問先は、5件すべて、イラク難民だった。
ここ4年以内にヨルダンに逃げてきている。
先の家庭とは状況も違い、
5月までは、交通費支給があり、教科書も無料でもらえていた。
公立学校に登録して、学校に往けている子どもの割合は
他の地域に比べて、相当低い。
だから、その日の訪問で会った子どもたちは、まだ
学校に往けているだけ、いい。

ただ、国際機関も予算縮小のあおりを受けて、
前学期まであった交通費の保護が、9月からなくなる。
今まで学校に往けていた子どもたちの中には、
9月から登校できなくなる子も、出てくるだろう。

常に紛争状態のため、大きなニュースにもならないけれど、
イラク国内の混乱も、ある人々にとっては、
国外に避難するより他に手段がないような、
混迷を極めた状況にある。
あまり深い知識がない状態で訪問した結果、
私の全く知らなかった話が、
唐突に、明確な輪郭を持って、浮かび上がってくる。


今回の訪問は、新しいプログラムのための事前調査のためだ。
既に手に入れた候補の対象校について、
学校周辺のコミュニティの状況を把握するのが、
訪問の目的となっている。




今回訪問する地区は、いつも目にはしていた場所だった。
キャンプへの出勤途中のバスターミナルから必ず、眺める山。
下から見上げる山の側面には、
どちらかというと古さが目立つ、作りかけのような建物が多くて
なぜだかよく、凧が揚がっている。
ぱっと見た感じ、パレスティナキャンプに似ている、というのが
何となく親しみを感じる、理由なのかもしれない。


正直、私が想像していたよりも、よほどこの地域はきれいだった。
見上げていた崖の景色から、もっと荒んだものを勝手に、妄想していたようだ。
大通りの幅は広いし、ぱらぱらと見える子どもたちの服装も
あまり他の地域と大差がなかった。

1件目の訪問のために出迎えてくれたお父さんのあとについて、
小さな路地に入る。
表通りよりも幾分くたびれた建物を見送った先に、
目的の建物はある。

建物に入ると、でも
手すりの朽ちた、ぼろぼろの階段と
冬場でも閉まることのない、割れた窓ガラスが嵌められた
見慣れた風景が待っていた。



1件目:ハシミ・シャマーリー

扉のコンパネは、一層目がはがれ落ちていた。

小柄ですべてが四角い感じのお父さんは、でも、
終始柔和な表情で、話をしてくれた。
連絡先をもらうために訪れたセンターで、既に面識のあった
その家庭の女の子も、同席する。
お母さんも妹も、居間で話をしてくれた。

お父さんの話し方には、サ行が多くて、私には聞き取りづらい。
聞けばバスラの出身で、
そう云われてみると、お母さんの服の彩りは、
あまりこちらにはない、赤と紫の、鮮やかなもので、
濃い目の肌の色に、よく合っていた。

お客が来たから、と、ペットボトルのお水を出してくれる。
ついでにペプシの缶とコップまでいただく。

当たり前だけれど、
突然訪問しにきた人間に、そこまで
心を開いて話すことができる人は、多くない。
こちらも、それは覚悟で話を訊く。

バックグラウンドの話は、正直こちらも、訊きづらい。
でも、子どもの話となると、どの親御さんも
たくさん話をしてくれる。

学校までの道のりでの、子どもたちの体験がひどいこと、
それなのに、UNICEF関連の交通費の支給が、
おそらく9月から打ち切りになること、
2部制の午後シフトに登録しているけれど、
クラスメートのシリア人も、イラク人であることに
差別的なことばを口にすること。

その日の5件のすべてで、聞くこととになる、話だ。

それでも、そういうものだ、という態で
笑いも交えながら話をするお父さんは
子どもたちがいかに、学校が好きか、話している。
学校に行く時は大変だけど、
まぁ、まだ眠たいから、いいってことだね。

難民というバックグラウンドについて、
学校ではあまり、指導はないものなんでしょうね。
こちらとしては、配慮してもらいたいんだけど、と
お父さんは、子どもたちの顔を見る。

ただおそらく、同じクラスメートのほとんども
国籍は違えど難民のはずで、
でも、子どもたちの背景は微妙に、もしくは大きく、違っている。
教員もまた、どう扱うか、非常に困るところだろう。

それでも、学校は協力的だと、繰り返しお父さんは云う。
どこまで本当か分からないけれど、少なくとも
子どもたちの前でそう言ってくれる親御さんには、
感謝と信頼の念を、抱かなくてはならない。

開けていないペプシを置いて席を立とうとしたら、
無理矢理バックの中に入れてくれる。

玄関先まで見送ってくれた女の子の様子が、
どこか、シリア難民の家庭の子どもたちとも、
微妙に、違った。
人懐っこい、というのか、人恋しい、というのか、
控えめだけれど、心は閉じていない、感触がある。


2件目

同じアパートメントに、イラク人ばかり住んでいることが
1件目のお父さんの話で、判明する。
いろいろな家庭から話を訊きたいこちらとしては、
移動せずに話を訊けるなんて、有り難い話だ。

すぐ隣の家のドアを叩く。
若そうな見た目のお父さんが出てくる。
この国で若そうな見た目、というのは、珍しい。
お母さんのお腹は大きい。
ヒジャーブを被っているのに、ノースリーブという姿が、
何だか新鮮だった。
挨拶の仕方が、違っていた。
頬をつける回数が違うので、顔が当たりそうになる。
ほっぺただけがすっと冷たい。

Asylum Seekerの紙で、お父さんは31歳だった。

その紙と一緒に、医療証明書の束が渡される。
滑膜肉腫の診断と、今までの通院履歴、
必要な医療処置に関する、詳細が書かれていた。

2年生と1年生の女の子、就学前の男の子と、お腹の中に、もう1人。
お母さんの脇で、ちびの男の子がずっと、
携帯電話を口に咥えていた。
何でも口に入れたがるには、既に歳が大きくなっているはずだけれど、
携帯電話も、リモコンも、彼にとってはちょうどいいサイズのようだ。

成績がいい上の子の成績表を、持ってきてくれる。
算数はあんまりだけれど、その他の教科はすべて、90点前後だ。
弟の他はみな、随分と静かな子たち、
お母さんも、ほとんど何も話さなくて、
始終おとなしく、お父さんの話を聞いていた。

学校に求めるものは、どの家庭もおしなべて、勉強、だった。
英語の教育をしてほしい、そういう家族が多い。
第3国定住の申請を出しているから、
どこへ往っても使うであろう、英語に、関心が寄る。
娘は英語が得意なんだ、と
お父さんは嬉しそうに、云っていた。

ここの子も、見送ってくれた玄関先で、
手を振りながら、屈託なく、笑いかけてくれた。


3件目

またすぐ、隣のドアを叩く。
大きくて垂れ目の、大柄なお父さんが出てくる。
そして、やはり大きな目のお母さんと、
みんな大きくて垂れ目の兄弟3人と姉妹二人が、居た。
全員が、私たちの前に座ってくれて、
全員が、勢揃いする。

14、15年まではキャッシュサポートがあったけれど、
16年以降は、ない。
男子校は女子校よりも、物理的に諍いが多いことが、
話の端々から伺えた。
それでも、眼鏡をかけた、真面目そうな長男が、
学校は大好きだ、と答えているのを、
うん、とうなずくしか、ない。

まぁ、それでも、アラブ世界なんだから、そんなに大変じゃ、ないよ。
お父さんはそう云いながら、
お父さんは途中で、雨漏りの修理に屋上へ出て往った。

キティちゃんのTシャツを来た一番下の子が
見たことがないほど真っ黒な大きな目で、
何がうれしいのかわからないけれど、
随分とかわいらしい笑顔で、
ずっと私の顔を見つめていた。

あまりに家族の様子がさやに収まっている感じがして、
どうしても写真を撮っておきたくなった。
普段はしないのだけれど、1枚だけ、
こどもたちの写真を、撮らせてもらう。
兄弟がみんな、身体を寄せ合って、写真に収まっていた。





5件目

同じアパートメントでの4件目を終えて、
場所を移動し、違う地域へ往く。

お母さんはヒジャーブを被っていなくて、
私のよく見知っているイラク人の雰囲気がある。
細くて、眉頭がはっきりした、きれいな顔立ちをした、お母さん。

まん中の女の子と、お母さんが
聞き取りにつきあってくれた。
お父さんは居ないが、理由は訊けなかった。

宗教的にマイノリティであることで、
ここから立ち退かないと、子どもをレイプする、と脅迫され、
ヨルダンに逃げてきた。
それでも、ヨルダンでまた、通学途中で石を投げられ、
イラク人だと揶揄される。
学校へ往っても、シリア人、ヨルダン人、イラク人と
名前の代わりに国籍を云われる。
夫がいないのに、
キャッシュサポートの優先順位外だと云われ、
収入がない。

バグダットから来ているというこのお母さんの話し方は、
あまり聞き慣れないものだった。
قがア、كがチェの発音になることが分かるのに、
随分時間が必要だった。

お母さんは、前のめりな感じで、
途切れることなく、今の状況を話し続けていた。
お母さんは話の途中で、とてつもなく悲しい笑顔をする。
もう、しょうがないのよ、ということばを
表情で表したら、こういう顔にしか、ならない、という風な。

子どもに、学校の話を訊いてみる。
どの先生が好き?と尋ねると
数学の先生が好き、と答える。
先生の名前も、笑顔で口にしていた。
その子が、初めて見せてくれた表情に、
少しだけ、こころのどこかで、安堵する。

部屋の奥でハーモニカの音がした。

学校で、子どもに勉強の他に学んでほしいことは何ですか?
人間性を育むこと、と
お母さんは答えながらまた、悲しい笑顔を浮かべた。




シリア人でもたくさん、第三国定住を希望している家庭はいる。
でも、イラク人のヨルダンに居る背景は、
場合に寄っては、シリア人よりも複雑で、
難民として他国へ往く条件に、より適合するものもある。

宗教的な理由で、自国に住むことができなくなった、
そう答える家族に、イラクに戻る意志はない。
通過地点でしかないはずのヨルダンで、
彼らが過ごす日々には、
今まで私が見聞きしていたものとは、
どこかが根本的に違う、
仮住まいの姿があった。
もっと仔細なところまで、見なくては、ならない。


2018/08/03

苦海浄土—半ば憑依し、見続け、書き続ける




まだ高校の時、かいつまんで紹介されたこの本の記憶は
水俣病に苦しむ人々の姿を、
その苦しみに反して、
たおやかで、でもぎりぎりの
美しさと情緒を保ったことばで描いている、
いくつかの、情景だった。
それから不知火の、煌めく海。


授業で扱われたこの本には、
熊本出身の教師の思い入れがあった。
本の中の住人の独白は、徹底的に方言で記されていたから、
音読する教師の声には、はなし慣れた、何ものかがあった。
感情移入を排除してもなお残る、親密さのようなものを
淡々とした教師の音読から、なぜか敏感に感じ取ったのもまた、
よく記憶している。

方言での記述は、文字として起こされた時
理解がより困難になる。

ある者には限りなく親しく、
ある者には難解で、疎外感さえ感じさせる。


どうしたら、これほど文学的に、
目の前に居る苦しみ喘ぐ人たちを描けるのだろう、と
心の中でずっと、わだかまりながら、
この本を読んでいた。
だから、読みながら、頭の中で必死に理由を探していた。

石牟礼道子がその土地の出身だからなのか、
ひたすら家を訪れ続け、耳をかし続けたからなのか、
彼女の限りなく強い、人を見透す力なのか、
昇華にかけた時間なのか、、、、、。


実は、本を半分ほど読んだところで、
この本がフィクションである、という事実を
20数年ぶりに、知る。

正直、どこか興ざめした、とは云えなくもない。
よくよく考えれば、フィクションなのは当然のことなのかもしれないけれど、
石牟礼道子なら、そうではないのかもしれない、と思わせる
虚像があったのかもしれない。

そして、ノンフィクションではないという事実が
この本の読み方を、変える。

ある意味衝撃の、この事実は、
本の内容というよりも、
石牟礼道子という人に、より深く共感できる契機となる。

解説に書かれていた一説に、思い当たる節があった。
一度か二度しか、書かれている家庭には訪れていない。
「そんなに行けるもんじゃありません」
そう、云っていたいう。

既に亡くなってしまった人となりもよく存じ上げず、
全くおこがましく、失礼な話ではあるけれども、
フィクションであることが、どこか安堵感を抱かせてくれた。



病を背負ってしまった人と、その周囲の人たちの
終わりのない苦悩や、ささやかな喜び、
日常の些細なつまづきや、途方もない困難を
ひとり、語り続けるその描写は、
その人に成りきらなければ、書くことはできない。
もしくは、その人でなければ、書くことはできない。

実際に苦しむ人に成りきって書く、という作業には、
葛藤がつきまとうだろう。
どれだけその人の本当の語りを耳にしたとしても、
心の中まで耳を傾けるということは、もはや想像でしか、ない。

「だって、あの人の心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」
そう云いきれることに、果てしない、想像を越えた共感がある。

その、共感と云う限界に、敢えて挑戦したのか、
もしくは、それらを拾わなければ
書き表したかったことが、書ききれなかったのか。
いずれにしろ、かなり危険な作業だ。

それでも、その手法を選択し、書ききっていることに、
ありきたりなことばだけれど、深く、感じ入った。



無謀ともいえる挑戦に、
土地の文化的背景や風土、歴史への深い造詣が相まって、
大きく、小さくうねるような、
壮大な叙事詩の様相を呈す。
そして、文学的に、読み物としての、美しさや面白さが、生まれてくる。
確実に、そこには深い愛情があって、
とことんまで対象に入り込む、覚悟がある。

そのようにして書かれたものには、
美しさがそこにあるからこそ、よけいにむごいたらしい現実が
はっきりとした明暗で浮き上がってくる。
だから、ひどく鮮明に、映像として、画像として
記憶に残ることになる。


主題には、社会との隔離や、それに伴うやり場のない無力感、
それでも、生き続け、暮らし続ける人々の姿がある。

もし、その画像や映像とともに、
会った人々のあらゆる思いを
読み手にくっきりとした輪郭を持って
思い描かせることが、書き手の狙いだったのならば、
成功している、と云えるだろう。




今の仕事ではよく、見たもの、聞いたものを書かなくてはならない。

語学の問題、私の体力や気力の問題がほとんどなのだけれど、
それを度外視しても、やはり難しいのは、
私がヨルダン人でもシリア人でもなくて、
そして、何かしらの問題の渦中にいるわけではない、からだ。

代弁する権利も資格もない。

彼らの云うことを伝えることはできる。
でも、多くのことばは、それだけを切り取っては意味が通じにくい。
それを都合良く、ヤフーニュースの見出しみたいに
いい感じに切り取ったり、書き換えたりする作業は、
絶対にしたくないし、できない。

そして、だいたい暗礁に乗り上げる。

意味が完璧に分かったり、状況がよく把握できたとしても、
また別の問題が出てくる。

細かいものが気になるので、そういう詳細を書こうとすると、
あっさり削られたり、無視されたりする。
でも、その中にしか、描けない
微細な人やものの様子と、それらが物語るなにものか、を
本当は、出来る限り事実に則って、書いていきたい、と
いつも思いつつ、叶わない。

そしてまた、暗唱に乗り上げる。

当たり前だけれど、描きたいと思うものが
私には不可能である、ということを思い知らされて、
どこか、すっきりとした、晴れやかな気持ちになる。