2018/08/15

彼らの暮らしと、話の断片 8月3週目


もし、今日休日だったならば、
どこかをずっと歩いていただろう。

考えるのには、歩くのが一番いい。

朝からBBCのラジオは、日本の終戦について、触れていた。

でも、今日はいつもと変わらない一日だから、
フィールドへ、往く。



それなりに暑いけれど、今日も風が強かった。
そして、今集中的に訪れている地域には、
実は、緑が多いことに、気づく。

小さな、本当に狭い場所でも、
土があれば、植物を植え、育てる。

オリーブの木が多いように、思う。
まだ固そうな、でも、つややかな緑の実が
どこの家庭に往っても、見ることができた。

この地域への訪問も回を重ね、
週末に訪れたセンターや、何度も通ったスーパーの前を
繰り返し、行き来する。



結婚や、タウジーヒ合格や、おめでたいことがあると、
色とりどりのビニールテープで、道を飾り立てる。
これを見ると、どうしても、パレスティナキャンプを思い出してしまうのは、
こぎれいな地域では絶対、見ないからかも、しれない。

個人的には、とても好きだ。
自分の家のお祝い事なのに、近所中を巻き込んでしまう感じが。

そして、このぴらぴらは、青いヨルダンの空によく、映える。



1件目:ハシミ・シャマーリー

賑やかな、色とりどりの看板が並ぶ商店街を
一本曲がると、
急に、作りかけの、コンクリートやブロックが
むき出しになった建物が、増える。

強い斜視のお父さんが、迎えにくる。
なぜだか最近、目の充血した人にたくさん、会う。
キャンプの子どもたちにも、多い。
お父さんも、右目が充血していた。
もの静かなお父さんだった。

黒いビニール袋には、おそらく私たちのための、
ジュースが入っていて、
その袋を、握りしめていた。

建物の中には入らず、小さな2メートルも幅のない、
細長い庭に置かれた椅子を、薦められる。

お母さんが中から出てくると、
お父さんではなく、お母さんが私たちに対応してくれる。
ほとんどの家庭では、
お父さんがいる限り、お父さんが話をしてくれて、
お母さんは、横で話を聞いているケースが多いので、
少し、気になる。

長男はイラクに居る時に、襲撃に遭って負ったけがで
足にボルトを入れている。
本来ならば8年生になるけれど、
随分学校に往けていないから、
今は、NGOが運営するキャッチアップクラスに登録して、
夏期講習を受けている、とのことだった。

誕生日の子がいれば、誕生日会を開き、
どこかへの移住が決まると、お別れ会をする。
センターの校長先生は、子どもをクラスにきちんと通わせてほしい、と
親御さんを励ます。

でも、14歳になる息子は、ひとりでキャッチアップクラスへ往く
30分の道のりが、怖い。
ご両親に一緒についてきてほしい、とお願いをしてくる。
近所はヨルダン人ばかりなので、
クラスメートも居ないから、他の誰かと一緒に学校へ往くこともできない。
ご両親のうちのどちらかが、ついていく。

聞けば、トルコで既に、2年間避難生活をした後の、ヨルダンだった。

どこの家庭でもそうだが、
UNHCRからのキャッシュアシスタントがなくなり、
UNICEFの交通費支給もなくなり、
生活も、学校に子どもを通わせるのも、大変になってきた、
という話を、聞く。

教育支援をしている、というと、
誰もが、交通費や学費の支給があるのかと、
口には出さないけれど、期待している。
ただ調査のためだけに、訪問している私たちにとって、
ただただ、申しわけない気持ちになる瞬間だ。


それでも、多くの家族は、あからさまに
私たちへの関心を失ったようには、見せないようにしてくれている。
本当に、礼儀正しく、丁寧な人たち。
ここの家族も、そんな優しい家族の一つだった。

一番下の息子は、日射しの強い中を歩いたり、
車に乗ったりすると、すぐに具合が悪くなってしまう。
病院に往っても、原因は分からない。

近所の人たちはみんなヨルダン人だけれど、
仲良く暮らしている。
時折、狭い路地に面した門のところに座って
世間話なども、する。

それでも、公園や遊べるところへ往くことはできないので、
学校の他は、ずっと家の中で過ごしている。

一番下の娘は、数学が苦手だ。
算数、ということばを聞くだけで、もういやで仕方がないのよ、と
お母さんは微笑みながら、云う。

お母さんは、メイサーンで学校の先生をしていた、と聞き、
急に、親近感がわく。
イラクでの教員生活の話をし始めたときから、
少し表情が柔らかくなったような、気がした。

イラクでは、男子校に女性の先生が勤務するケースもあるようで、
お母さんは6年生の男の子たちに、数学と理科を教えていた。
私自身、こちらの学校に慣れているせいか、
6年生の男子を相手に、女性の先生がひとりで授業をするのは
なかなか大変だろう、と想像する。
ものすごい苦労したでしょう、と訊くと、
もう、全然先生のことを尊敬しないし、
石はなげてくるわでやりたい放題、
大変だった、と笑って、答えていた。

お母さんは、13年勤めて、イラクを離れなくてはならなくなった。
イラクでは、おそらく公務員への規定で、
15年以上勤務すると、辞める時に退職金がもらえるようだ。
土地を離れなくてはならなくなったのは、
やはり、他宗派や思想のグループから
脅迫を受けていたのが、原因だった。

13年目で離れなくてはならなくなってけれど、
その前から既に始まっている、一連の戦争のせいで、
彼女が勤め始めた時には、
学校の組織体制も、崩れ始めていた、と話していた。

既に訪れた他の家庭でも、メイサーンという名は耳にしていたので、
どんなところなのか、気になっていた。
あまり、webには情報が載っていなかったので、訊いてみる。

サトウキビの生産と、養魚業、そして、石油があるという。
内陸部なのに、養魚業があるのか、とスタッフは不思議そうだった。
地図に見たメイサーンには、大きな川が流れているから、
川魚を育てられるのだ、と説明すると、
スタッフは納得したようだった。

メイサーンのことを尋ねた時、本当にうれしそうな顔をしていた。
その土地で、どんな目に遭っていたとしても、
故郷の名産の話をするのは、きっと、誇らしいことなのだろう。


2件目

住宅地の一つ、よく見る4、5階建てのアパートメント玄関で
お母さんが小さな女の子の手を握って、待っていてくれた。

部屋の居間からは、オリーブとレモンの木が、見える。
窓の脇には、鉢植えの唐辛子が置かれていた。
座ったソファの向かいの壁には、
イラクの国旗の柄の首掛けと、誰か男性の写真、
それから、ヨルダンの国王の写真と、子どもの描いた、絵。
座った方の壁には、キリストの絵が、貼ってある。

お母さんは、とても早口だった。
とにかく早口で、サラーハ(正直に、という意味だけれど、
おそらく、本当に、というニュアンスなのだろう)を
繰り返していた。

家賃が安いからこの地域に住んでいるけれど、
既に家を2回引っ越している。
一度はセクハラを受けそうになって怖くなり、
一度は同じアパートの別の部屋に、泥棒が入ったからだった。
それから、アパートの住人同士の仲も、とても悪かった。

眉毛の細いお母さんは、一つの質問に、
たっぷりと、たくさん話をした。
先生たちはとてもいい人たちだし、
校長先生も献身的だ。
ただ、子どもたちの間でケジラミが出た時に、
あまりしっかり対処してくれなかったのには、困った。

午後シフトの子どもたちは、授業の終わりに掃除をするけれど
午後シフトが始まる時には、教室は汚い。

掃除を子どもにさせるのがいやな訳では、ない。
ただ、次のシフトにきれいな状態で戻しているのだから、
午前中の子たちだって、それをしてもいいでしょ?

全くその通りなので、本当にそうですね、と
スタッフも私も、答える。
子どもに清掃をさせること自体を嫌がる親御さんが多いので、
このお母さんの意見は、よけいに、至極全うだ。

ただ、時間的なことを考えると、
よほどそこに注力できる先生でないと、
午前シフトの時間中に掃除を終わらせることは、難しいだろう、と
頭の中で、時間割を思い出す。

子どもがクラスメートとけんかをしたり、
学校に訊きたいことがあると、お母さんは学校へ往く。
週に2、3度往っているらしい。
でも、学校で他のお母さんたちに会う機会はあるのか、という質問には、
ないわ、ときっぱり、返事をした。

お母さんはコーヒーを出してくれたり、
お水を出してくれたり、
いろいろとしてくれたけれど、
聞き取りをしている間、一度も、笑顔を見せなかった。
私が聞き取れずに、スタッフに英語で訳を尋ねる度に、
窓の外を、空虚な目で、見つめていた。

何度も、疲れたの、生活が疲れるの、と繰り返し、
最後まで早口で、最後まで何かに追いつめられているような、
険しい表情をして、
時々果てしなく深くて重い、ため息をついた。



3件目

同じアパートメントの上階に住んでいる家族を、紹介してもらう。
学校に往っている子がいたら、とお願いしてみたところ、
紹介された家だった。

お母さんはエプロンをかけていて、
居間のソファでは、12歳ほどの息子が横になっていた。
腕にギブスをつけていて、
なにもすることが、もしくはできることが、ない、といった様子で、
だらんとしている。
遊園地でローラーブレードで遊んでいて、転んでしまったそうだ。

お母さんは、表情の豊かな人だった。

お母さんの背後には、居間の壁が広がっていて、
コバルトブルーに塗られた壁の前に座るお母さんの姿は、
金髪で色白だったせいか、
どこか他の国のお料理番組の1シーンを
切り取ったようだ。

確かにここの子どもたちは、学校に往っているけれど、
公立校ではなく、私立だった。
調査の主旨とは違うけれど、
私立校の話を聞く機会は少ないので、いろいろと話を聞きたいことが出てくる。

モスルから2016年にやってきた、家族だった。
キリスト教徒なので、クリスチャン系の学校に通わせている。

遠足もあるし、月に一度は、朝食会や工作の会を、親御さんも交えて開催する。
音楽の授業はないけれど、体育は週2時間、ある。
どれも、公立校では足りていないものばかり。

公立校の話ばかり見聞きしている私には、何だか、
きらきらした話だった。

途中でお父さんがやってくる。
お父さんは、典型的なアラブ人顔で、
お母さんがいろいろと話す様子を、しばらくは、
静かに聞いていた。

一通りアンケートが終わったところで、お父さんが口を開く。

UNHCRに知り合いは、いないんですか?
シリア人ばかりに支援が往って、
イラク人への支援は、手薄なんですよ。
仕事も、クーポンも、キャッシュアシスタントも、
シリア人ばかりだし。
第3国定住の申請をしてから2年4ヶ月経っているけれど、
全く音沙汰がないんです。
お宅のNGOはUNHCRとつながりはないんですか?
ヨルダンの物価は高すぎますよ。
アメリカの方がよほど、安く暮らせる。
でも、往けるチャンスが、どうにも、ないんです。

私も、スタッフも、うつむきながら話を、聞く。

もし仮に、国連関係に知り合いが居たとしても、
コネなど使える話ではないはずだ、と
お父さんに説明したところで、分かってくれないだろう。
お父さんはどこまでも真剣に、
この国から出る方法を、きっとずっと家の中で、
鬱々と考えている。

お父さんが話しはじめると、
話の内容のせいなのか、お父さんの口調のせいなのか、
お母さんの表情も暗くなって、
子どもたちは押し黙った。


5件目

もう何度も通った、複雑に道の入り組む交差路で、
迎えに来てくれるはずの、子どもたちを待っていた。

あの人かな、と、よく注意して、人を観察する。
人を探している気配がない、と分かると
他の道から降りてくる人たちに、目を移す。

どうも、他の地域に比べて、
道を歩く人の数が多いように、思える。
それは、目抜き通りでも路地裏でも、云えることで、
単純に子どもの数が多いだけではなく、
大人たち、本来ならば働いているだろう、大人たちの姿も
多く見かける。


私たちを迎えにきてくれたのは、長男と次男だった。
すらっと背の高い、にきびが若々しい長男と、色白の次男。

道をまっすぐ進む、というアラビア語方言に、
聞き慣れない単語を使っていた。
そして、長男は、また違うことばで、云い直す。
スタッフは、首をかしげる。
イラク方言ではなくて、サウジアラビアの方言に云い直したことが、
説明をしてもらって、やっと分かる。

それら3つの方言は、どれも全く違う、音の響きで
語根でさえ、共通するものがなかった。


斜めに入る、いびつな形の路地と路地の間に、
アパートメントは、ある。
各世帯のブレーカーはむき出しになっていて、
どこもかしこも、どうにも、古びていた。

建物の敷地に入る手前で、
同じアパートメントに住む、おばあさんと会う。
リームちゃんは居るかい?とおばあさんは、尋ねる。
そんな子、うちには居ないよ、と、子どもたちは答える。


最上階の部屋に通される。
本来、居間になるはずの部屋には、
小さなベッドが二つ置いてあって、
私たちはその一つに、4人の息子たちは、もう一つのベッドに、
お母さんはプラスティックの椅子に、座る。

短い廊下の先のトイレには、
きれいな青い花柄の、タイルが貼ってあった。

西に向いた窓からは、教会が、見える。

4階分を上るのに疲れきっていたスタッフの様子に、
すぐ、水を出してくれる。
そして、聞き取りの途中に、いつの間にやら、
長男が、コーヒーを作ってくれていた。

お母さんは、二の腕から上が、びっくりするほど太くて、
何だか別の人の腕を、途中から入れ替えたみたいだった。

朗らかな話し方をする、お母さんは、
道で歩いているとナイフを持った子に遭ったりする、
という話まで、穏やかな顔で、話していた。


この家族も、モスルから来ていた。
ただ、バグダッドにも以前は住んでいて、
戦争が始まってから、モスルへ往き、
エルビルのキャンプにも入り、その後、
ヨルダンにやってきた。

2017年に、来ている。
危機的状況はもっと以前から続いていたはずなので、
遅れて国を出た理由を、尋ねてみる。


お父さんの作った借金の返済が終わるまで、
国を出ることができなかった、という。
とにかく、イラクから出なくては、将来が見えないと思ってはいたが、
それが許されるのは、返済が完了してからだった。

モスルでは、スポーツセンターに往って、
プールで泳いだりできていた。
こちらでは、公園周辺には、ヨルダン人の若者がいるし、
買い物に往っても、からまれたり、する。
親族のおばさんの家に往くことぐらいが、今のところ、
目的のある、外出先のようだった。

子どもたちは、前年度の一年間、学校に往けていない。
9月から学校に往くために、登録をするところだった。
3番目の子が、何をするにも遅いので、
勉強も時間がかかるだろう、と、
お母さんは困ったような、少しおかしいような、
でも結局のところは、愛おしいような、表情をする。

本人は、ベッドに横になり、まだ4歳ほどの弟に、
ちょっかいを出していた。
小さな粒のようなボールを投げ、きゃっきゃとはしゃいでいる。

ヨルダンには親戚が住んでいたから、その伝手を辿って、やってきた。
ヨルダンに来たら、他の周辺国より
ヨーロッパに往くチャンスがあるかと思ったのだけれど、
そう、お母さんは、云う。

迎えに来てくれた上の息子たちは、
最後までじっと、お母さんの話す様子を、横で見守っていた。

お母さんを守る、家を守る、という
強い意志のようなものを、彼らの佇まいから、感じる。
子どもたちが、家族の醸し出す雰囲気に、
存在感を出していた。

それは、お母さんの朗らかさのおかげなのか、
息子たちに守られて、安心できているから
お母さんが、そんな表情を絶やすことがなくて、
それが、子どもたちを強くしているのか、
どちらなのだろう、と
どちらにしても、いいことには違いないこと、を
帰り道の車の中で、ぼんやりと、考えていた。




イラク難民の話を続けて、聞いている。
いろいろな話を聞きながら、ずっと
バランスよく、いろいろな立場の人の話を聞かなくては、と
どこかで、焦っている。
彼らの会話の中に出てくる、個人ではなく、人種で括られる
シリア人、ヨルダン人、の話も、そろそろ、
聞いていかなくてはならない。

ただ、多くの家庭で会う、
限りなく膨大に、語るものを抱えた人々にも、
失礼な表現だが、単純な興味が、湧いてくる。

やっと、イラクのいろいろな地域の方言に、
ほんの少し、だけれど、慣れてきた気が、している。

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