2018/08/08

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


数年前、一度だけ訪問したイラク人家庭は、
ジャバル・フセインの古いアパートの最上階、
屋上にしがみつく、小屋のような家だった。
話しながらお母さんが泣き出して、
涙が溢れるのには十分すぎる、あまりに理不尽な話ばかりだったから、
しばらく鮮明に、お母さんの泣き顔と話し方を覚えていた。

訪問の後、階段を降りようとして、ふと足を止め、
ヨルダンで事故に遭い、足が不自由になったお父さんが毎日、
仕事に出て帰ってくるのに、
この階段を登らなくてはならないのか、と
5階分の、石のすり減ったつるつるの階段を、
呆然と見下ろした記憶が、ある。

シリア難民が増えたことで、イラク難民への保護が手薄になった、
そう、数年前の訪問でのイラク難民は、云っていた。
彼らは逃げてきてから既に、10年近い年月が経っていて、
その家庭は、40JDの授業料を公立学校に支払わなくてはならなかった。
就学年齢の子どもがたくさん居て、
そんなことは不可能だ、とお母さんは訴えていた。

教育省にその事実関係を確認したところ、
だって、イラク人は金持ちもいるからね、と
何が疑問なのか分からない、という口ぶりの、返答をされた。


その日の訪問先は、5件すべて、イラク難民だった。
ここ4年以内にヨルダンに逃げてきている。
先の家庭とは状況も違い、
5月までは、交通費支給があり、教科書も無料でもらえていた。
公立学校に登録して、学校に往けている子どもの割合は
他の地域に比べて、相当低い。
だから、その日の訪問で会った子どもたちは、まだ
学校に往けているだけ、いい。

ただ、国際機関も予算縮小のあおりを受けて、
前学期まであった交通費の保護が、9月からなくなる。
今まで学校に往けていた子どもたちの中には、
9月から登校できなくなる子も、出てくるだろう。

常に紛争状態のため、大きなニュースにもならないけれど、
イラク国内の混乱も、ある人々にとっては、
国外に避難するより他に手段がないような、
混迷を極めた状況にある。
あまり深い知識がない状態で訪問した結果、
私の全く知らなかった話が、
唐突に、明確な輪郭を持って、浮かび上がってくる。


今回の訪問は、新しいプログラムのための事前調査のためだ。
既に手に入れた候補の対象校について、
学校周辺のコミュニティの状況を把握するのが、
訪問の目的となっている。




今回訪問する地区は、いつも目にはしていた場所だった。
キャンプへの出勤途中のバスターミナルから必ず、眺める山。
下から見上げる山の側面には、
どちらかというと古さが目立つ、作りかけのような建物が多くて
なぜだかよく、凧が揚がっている。
ぱっと見た感じ、パレスティナキャンプに似ている、というのが
何となく親しみを感じる、理由なのかもしれない。


正直、私が想像していたよりも、よほどこの地域はきれいだった。
見上げていた崖の景色から、もっと荒んだものを勝手に、妄想していたようだ。
大通りの幅は広いし、ぱらぱらと見える子どもたちの服装も
あまり他の地域と大差がなかった。

1件目の訪問のために出迎えてくれたお父さんのあとについて、
小さな路地に入る。
表通りよりも幾分くたびれた建物を見送った先に、
目的の建物はある。

建物に入ると、でも
手すりの朽ちた、ぼろぼろの階段と
冬場でも閉まることのない、割れた窓ガラスが嵌められた
見慣れた風景が待っていた。



1件目:ハシミ・シャマーリー

扉のコンパネは、一層目がはがれ落ちていた。

小柄ですべてが四角い感じのお父さんは、でも、
終始柔和な表情で、話をしてくれた。
連絡先をもらうために訪れたセンターで、既に面識のあった
その家庭の女の子も、同席する。
お母さんも妹も、居間で話をしてくれた。

お父さんの話し方には、サ行が多くて、私には聞き取りづらい。
聞けばバスラの出身で、
そう云われてみると、お母さんの服の彩りは、
あまりこちらにはない、赤と紫の、鮮やかなもので、
濃い目の肌の色に、よく合っていた。

お客が来たから、と、ペットボトルのお水を出してくれる。
ついでにペプシの缶とコップまでいただく。

当たり前だけれど、
突然訪問しにきた人間に、そこまで
心を開いて話すことができる人は、多くない。
こちらも、それは覚悟で話を訊く。

バックグラウンドの話は、正直こちらも、訊きづらい。
でも、子どもの話となると、どの親御さんも
たくさん話をしてくれる。

学校までの道のりでの、子どもたちの体験がひどいこと、
それなのに、UNICEF関連の交通費の支給が、
おそらく9月から打ち切りになること、
2部制の午後シフトに登録しているけれど、
クラスメートのシリア人も、イラク人であることに
差別的なことばを口にすること。

その日の5件のすべてで、聞くこととになる、話だ。

それでも、そういうものだ、という態で
笑いも交えながら話をするお父さんは
子どもたちがいかに、学校が好きか、話している。
学校に行く時は大変だけど、
まぁ、まだ眠たいから、いいってことだね。

難民というバックグラウンドについて、
学校ではあまり、指導はないものなんでしょうね。
こちらとしては、配慮してもらいたいんだけど、と
お父さんは、子どもたちの顔を見る。

ただおそらく、同じクラスメートのほとんども
国籍は違えど難民のはずで、
でも、子どもたちの背景は微妙に、もしくは大きく、違っている。
教員もまた、どう扱うか、非常に困るところだろう。

それでも、学校は協力的だと、繰り返しお父さんは云う。
どこまで本当か分からないけれど、少なくとも
子どもたちの前でそう言ってくれる親御さんには、
感謝と信頼の念を、抱かなくてはならない。

開けていないペプシを置いて席を立とうとしたら、
無理矢理バックの中に入れてくれる。

玄関先まで見送ってくれた女の子の様子が、
どこか、シリア難民の家庭の子どもたちとも、
微妙に、違った。
人懐っこい、というのか、人恋しい、というのか、
控えめだけれど、心は閉じていない、感触がある。


2件目

同じアパートメントに、イラク人ばかり住んでいることが
1件目のお父さんの話で、判明する。
いろいろな家庭から話を訊きたいこちらとしては、
移動せずに話を訊けるなんて、有り難い話だ。

すぐ隣の家のドアを叩く。
若そうな見た目のお父さんが出てくる。
この国で若そうな見た目、というのは、珍しい。
お母さんのお腹は大きい。
ヒジャーブを被っているのに、ノースリーブという姿が、
何だか新鮮だった。
挨拶の仕方が、違っていた。
頬をつける回数が違うので、顔が当たりそうになる。
ほっぺただけがすっと冷たい。

Asylum Seekerの紙で、お父さんは31歳だった。

その紙と一緒に、医療証明書の束が渡される。
滑膜肉腫の診断と、今までの通院履歴、
必要な医療処置に関する、詳細が書かれていた。

2年生と1年生の女の子、就学前の男の子と、お腹の中に、もう1人。
お母さんの脇で、ちびの男の子がずっと、
携帯電話を口に咥えていた。
何でも口に入れたがるには、既に歳が大きくなっているはずだけれど、
携帯電話も、リモコンも、彼にとってはちょうどいいサイズのようだ。

成績がいい上の子の成績表を、持ってきてくれる。
算数はあんまりだけれど、その他の教科はすべて、90点前後だ。
弟の他はみな、随分と静かな子たち、
お母さんも、ほとんど何も話さなくて、
始終おとなしく、お父さんの話を聞いていた。

学校に求めるものは、どの家庭もおしなべて、勉強、だった。
英語の教育をしてほしい、そういう家族が多い。
第3国定住の申請を出しているから、
どこへ往っても使うであろう、英語に、関心が寄る。
娘は英語が得意なんだ、と
お父さんは嬉しそうに、云っていた。

ここの子も、見送ってくれた玄関先で、
手を振りながら、屈託なく、笑いかけてくれた。


3件目

またすぐ、隣のドアを叩く。
大きくて垂れ目の、大柄なお父さんが出てくる。
そして、やはり大きな目のお母さんと、
みんな大きくて垂れ目の兄弟3人と姉妹二人が、居た。
全員が、私たちの前に座ってくれて、
全員が、勢揃いする。

14、15年まではキャッシュサポートがあったけれど、
16年以降は、ない。
男子校は女子校よりも、物理的に諍いが多いことが、
話の端々から伺えた。
それでも、眼鏡をかけた、真面目そうな長男が、
学校は大好きだ、と答えているのを、
うん、とうなずくしか、ない。

まぁ、それでも、アラブ世界なんだから、そんなに大変じゃ、ないよ。
お父さんはそう云いながら、
お父さんは途中で、雨漏りの修理に屋上へ出て往った。

キティちゃんのTシャツを来た一番下の子が
見たことがないほど真っ黒な大きな目で、
何がうれしいのかわからないけれど、
随分とかわいらしい笑顔で、
ずっと私の顔を見つめていた。

あまりに家族の様子がさやに収まっている感じがして、
どうしても写真を撮っておきたくなった。
普段はしないのだけれど、1枚だけ、
こどもたちの写真を、撮らせてもらう。
兄弟がみんな、身体を寄せ合って、写真に収まっていた。





5件目

同じアパートメントでの4件目を終えて、
場所を移動し、違う地域へ往く。

お母さんはヒジャーブを被っていなくて、
私のよく見知っているイラク人の雰囲気がある。
細くて、眉頭がはっきりした、きれいな顔立ちをした、お母さん。

まん中の女の子と、お母さんが
聞き取りにつきあってくれた。
お父さんは居ないが、理由は訊けなかった。

宗教的にマイノリティであることで、
ここから立ち退かないと、子どもをレイプする、と脅迫され、
ヨルダンに逃げてきた。
それでも、ヨルダンでまた、通学途中で石を投げられ、
イラク人だと揶揄される。
学校へ往っても、シリア人、ヨルダン人、イラク人と
名前の代わりに国籍を云われる。
夫がいないのに、
キャッシュサポートの優先順位外だと云われ、
収入がない。

バグダットから来ているというこのお母さんの話し方は、
あまり聞き慣れないものだった。
قがア、كがチェの発音になることが分かるのに、
随分時間が必要だった。

お母さんは、前のめりな感じで、
途切れることなく、今の状況を話し続けていた。
お母さんは話の途中で、とてつもなく悲しい笑顔をする。
もう、しょうがないのよ、ということばを
表情で表したら、こういう顔にしか、ならない、という風な。

子どもに、学校の話を訊いてみる。
どの先生が好き?と尋ねると
数学の先生が好き、と答える。
先生の名前も、笑顔で口にしていた。
その子が、初めて見せてくれた表情に、
少しだけ、こころのどこかで、安堵する。

部屋の奥でハーモニカの音がした。

学校で、子どもに勉強の他に学んでほしいことは何ですか?
人間性を育むこと、と
お母さんは答えながらまた、悲しい笑顔を浮かべた。




シリア人でもたくさん、第三国定住を希望している家庭はいる。
でも、イラク人のヨルダンに居る背景は、
場合に寄っては、シリア人よりも複雑で、
難民として他国へ往く条件に、より適合するものもある。

宗教的な理由で、自国に住むことができなくなった、
そう答える家族に、イラクに戻る意志はない。
通過地点でしかないはずのヨルダンで、
彼らが過ごす日々には、
今まで私が見聞きしていたものとは、
どこかが根本的に違う、
仮住まいの姿があった。
もっと仔細なところまで、見なくては、ならない。


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