2018/12/18

願いは、自分のためではなく


人の温かみが、身に沁みいる、一時帰国だった。

なんて、みんな優しいんだろう、と
バカみたいに、ありがとうございます、ばかり
繰り返していた。

それしか、云えることが、なかったからだ。

そして、同時に、
全く何も返せるものがない、という事実に、
毎日、呆然としていた。

世の中には、感謝の数と同じぐらい、もしくは、それ以上に
いろいろなものを、ちゃんと与えられたり、返せる人たちがいる。
どうしたら、そんな人になれるのか、
私は、さっぱり分からない。


思い返してみると、自分のことばかり考えていた。
何かしら、表現の仕事をしていた昔は、特に、
常に自分の中にある、くだらなくて卑小な思いを、
どうやって、普遍的ななにものかに昇華できるのか、ばかりを
考え続けていた。


奇しくも、今、
私は、私ではなくて、他の人のための何かしらになる、
かもしれない仕事を、させていただいている。

それでもなお、この仕事を通じて、どんな人間でありたいのか、を
どこかで考えていたけれど、
最近、そんなことを考える余裕がなくなってきて、
やっと、欲が少しだけ、なくなってきた。

それは、とても、いいことのように、思える。






去年の冬、ワディ・ラムで、大量の毛布に包まって、
たくさんの流れ星を見ながら、
ありとあらゆる欲しいものを
思い浮かべて、願っていた。

すざまじい欲だな、と、
冷え切った頭が、冷静になって
ものすごい自己嫌悪に陥る。

今自分のために願ったものが、
流れ星と一緒に流れていって
私の知らない、どこかの誰かに、届いたら。

それは、何とも素敵な考えだった。

その夜、とことん自分の欲しいものを見つめた。
どれもこれも、叶わなくて、なかなか切なかった。

それから、それらが、
知らない誰かに届くことを妄想した。

勝手に、少し幸せな気持ちになった。



何にもなくてからっぽだし、
物理的に生み出せるものはないから、
私は、とにかく、
たくさんの、私の知っている、私の知らない、お世話になった方たちへ
漠然とだけれど、何か素敵なことがあるように、
願いたいと、思っている。

自分が細くて白い糸みたいになって、
しまいに、なくなってしまうぐらい、
本気で、ただただ、願いたい。


そんな靄のような願いについて、思いを馳せるぐらいなら、
真面目に仕事をしろ、という話だけれど。

願うことで、ふわっと幸せな気持ちになったならば、
つまるところ、それは自分のため、ということになる。

結局まだまだ、私は、欲深い。


2018/12/01

とてつもない愛おしさは、さりげなく小さなおはなしの中に




だって、ロバのおはなしだから。
実に10年ぶりに往った古本屋で、
即決する。





子ロバはアラビア語で、コル、という。
この言葉の響きが、とても好きだ。
跳ねるように歩む、子ロバ特有のしぐさと動きを
よく表しているように、思える。


この作者もきっと、ロバのことがすこぶる、好きなんだろう。
初めて会ったロバとロバは、鼻をすりあわせることとか、
子ロバどうしが一緒に、走りまわるとか、
誰かのために、とてもがんばるところとか、
ロバのロバらしさを、よく知っているから描ける、描写がある。

でもなによりも、この絵本を
とてつもなく、愛おしく感じたのは
安心する絵本のお話の作り方を、きちんと踏襲しているところだった。
話の展開が明確で、単純であること。

そして、話のきっかけとなる人物が、
ちゃんとお話のはじめと最後に出てきたり、
ちいさな、一見どうでもいいと思えるような描写が
丁寧に描かれていたり、
ことばの繰り返しが、大事なところにはきちんと使われていたり、
視点がつねに、子ロバから離れなかったり。


そして、石井桃子によって、大切に選ばれた、言葉がある。

歳ばかり取ってしまったわたしでも、
しみじみといいなぁと思うのは、
限りない、この安心感ゆえだ、と、気づく。

親御さんが子どものために、と
何か選んであげるのであれば、
発想力を沸き立てるものも素敵だけれど、
こういう、限りなく安心する、
ささやかなものへの愛情に満ちた本の良さもまた、
子どもは敏感に感じられるだろう。



奇しくも、似たような2頭のロバの話を
昔絵本で作ったことがあった。
「黒いロバ」、というタイトル。

孤独な黒いロバが、ふと1頭の白いロバと出会う。
飼い主に連れられた白いロバは、
結局は、往ってしまう、という話。

ロバが好きすぎて、大量に描いたロバの絵を
部屋に吊るしていた。
友人が来て、勝手に絵の順番を入れ替えて、
話を作り始めた。

その話が気に喰わなかったので、
では、自分で作ろう、と、作った絵本だった。

実にセンチメンタルで、全くストーリーは好きではないのだけれど
手持ちの絵を使って作れる話が他に、思いつかなかった。

他人の好みは分からない。
アラビア語と日本語両方で話を書いてあるので、
プレゼントにあげていたら、
どうも、気に入っていただける。





その話のロバたちも、
鼻をすり合わせていた。
わたしもまた、そのロバのしぐさがとても、好きだ。

もしロバがあんなに大きな声で哭かなかったら
絶対ロバを飼っているのに。



2018/10/27

自然の情景を、聴く


ヨルダンの寒さは、日本と質が、違う。
足元が、しんしんと、冷たい。

どことなく夏を引きずったような、
中途半端な日々が、9月から2ヶ月近く続いた後の、
雨だった。

空気が、澄む。
そして、音楽が耳に馴染む季節がまた、やってくる。
そして、毎年のように、
寒さが、音を連れてくる。もしくは、
寒さに、音の温かさが、沁み入る。

夜に、無音の音がするのが、
寒くなってきた証拠のような、気がする。
しん、とした空気は、
秋と冬にしか、存在しない。




ずっと欲しかったデータを、ダウンロードする。

何だか、本当に、
音が好きなんだ、と思わせてくれる。
ありとあらゆる、周囲の自然の音は
セッション相手、というように。


#1から#51まで。
Bandcampという音楽サイトから購入できる。

自宅で録音された音には、ピアノの他に
雷や虫の鳴き声、雨だれの音が、入っている。

自然の音を聴きながら、
鍵盤に手を乗せて、演奏した記録のようなものだ。


もっと早くダウンロードしていればよかった。
虫の音には、少し寒くなりすぎた。

リリースのタイミングが、演奏した時季。
だから、春も、夏も、秋も、冬も
それぞれの時季の音が、入っている。

ピアノを弾きながら、ふわっと漏れる声や
アイヌ音階のかけらや、
ささやかな合奏も、入っている。

不思議なのは、
このデータを聴いていると、とりあえず
何かを集中してする、態に入る、ということだ。


ライブなども久しぶりに見たり、する。



なんだか、とにかく幸せそうだし、気持ち良さそうで、
あぁ、なんでこんな風に、ずっと
ピアノが弾き続けられたらどんなに、素敵だろう、と
思う。








最近、ぎすぎすした音楽しか聴いていなくて、
それはわたしがぎすぎすしていたからだ、と
分かっていても、どうしようもなかった。

実に3ヶ月は続いた、
致命的な「いい音楽不足」に
終止符を打てる、はずだ。





2018/10/26

彼らの暮らしと、話の断片 10月4週目


この日、アンマンは朝から強い風が吹いていた。
8年前、初めてみた、雨の降る予兆を忘れられない。
突風が、黄色い雲を運んでくる。
砂塵と湿気を含んだ雲が、空気を変える。

もう限界だ、と、
大気が水を絞り出しているように、思える。

どこも谷と丘のアンマンは、
空を見上げるたびに、建物が視界に入る。
いつもは青いばかりの背景に、
グレースケールと、黄と、青の
見慣れない色合いが広がる。

タイヤを前日に履き替えた、というスタッフと
アンマンの治水事情の話をしながら、
滑り落ちるように、急な坂を下る。

この日、海抜が0mを下回る死海のほとりでは
鉄砲水で子どもが亡くなっている。

訪問の途中から降り出した雨は、
一瞬で街中の道路を川に変えてしまった。


1件目:ジャバル ズフール

ヨルダンの街路樹にはよく、オリーブが植えられている。
丁寧に剪定されている木もあれば、
育つがまま、の木もある。
訪問したアパートメントの入り口には
もさもさと葉が茂り、
今が季節のオリーブの実が、道路にちらばる。

お父さんは、訪問の理由を知りたがった。
訪問理由は、訪問のアポを取る時に話してあるのだけれど、
浅黒く、瞳も黒いお父さんは、
じっとこちらの目を見ながら、わたしたちの心のうちも
探っているように思える。

出迎えてくれたのは、お父さんとお母さんだった。
子どもの影が二つ、奥の部屋にちらちら見える。

お母さんは着古したキティちゃんのプリントされた
長いワンピースを着ていて
ピンクの口紅が若い、かわいらしい人だった。
お父さんの佇まいと、対照的だった。

この家の子どもは、今住んでいる地域から離れた学校に通っている。
今の家の近くにある学校から、
以前住んでいた場所で通わせていた学校に子どもを戻している。

片道、公共交通機関でも、1時間かかる。
それでも、その学校に通わせていた。

校長先生は自分の子どものことを、よく見ていてくれる。
息子のことを、「この子はいいこだから」と、
誉めてくれる。
一学年一クラスしかない、その学校は、
先生たちも協力的で、面倒見がいい、と。

お父さんは始終重い表情で、にこりとも笑わない。
その横で、お母さんの方に時々、視線を上げると、
その度に、ふわっと、笑いかけてくれる。

家には3人子どもが居て、長男の他に、長女と次男が居る。
長女は絵を描くのがすき、と話す。

絵を描くのが好きだ、という話を聞くたびに、
反対にそれぐらいしか、家でできる楽しみがないのかもしれない、と
憶測することになる。

シリアでは、美術も体育も音楽も、
みんな先生がきちんと教えてくれたのに、
こちらでは、そうではないんですよね、と
残念そうに、お母さんは、云う。
校舎を出て、外の景色を描く授業だって、あったのに。

まだ2部制の午後に登録している長女は、学校に往っていなかった。
お母さんに促されて、描いた絵を持ってくる。

日本のアニメの存在感を、また知らしめられる。
個人的には、もっと描写に重きを置いた、
見ること、を真剣に体得できる美術教育のあり方を
もう少し重視してもいいのではないか、とも思うのだけれど、
その子が、単純に描くことを楽しんでいるのであれば、
それはそれで、本当は、いい。


以前訪問した、ホムスからの家庭には、
水と緑がいっぱいの、風景画を描く、女の子が居た。
この家族もホムスから、やってきている。

学校でもっと、美術の時間をしっかりやってくれるように
云ってもらえないか、とお願いされる。

今回のプログラムでは、美術教員の技術強化は入っていない。
どう、お願いされたことを少しでも、還元できるか、
次の訪問の道のり、考える。

その間にも、どんどんと雲は低くなって、
アンマンの端にあるその丘の頂上からは、
うねる街が雲に覆われていく様子が見える。



2件目:ジャバル・ジョーファ

ダウンタウンのすぐ裏手にあるこの丘は
個人的にとても、気になる場所だ。
どちらかというと、貧しい人たちが多く住むこの地域は、
急な坂道ばかりの丘に、ひしめき合うように
3、4階建ての建物が並んでいる。
でも、並んでいる、という表現はあまり適切ではなくて、
丘の中腹でも、凹凸のある地形に合わせて
道がうねっているから、
その道に建物がくっついている、という方が
何となく、合っている。


訪問先の近くのモスクで待っていると、
お母さんが迎えにきてくれた。
顔も、身体もまんまるのお母さんだった。

ゆるくカーブするモスクの脇を歩いていくと、
目的のアパートメントに面した道に、
垂れ幕と色とりどりの旗が、飾られている。
結婚式をするから、誰でも来てください、と書かれた
その垂れ幕は、何ともおめでたい感じで、
思わず、写真を撮る。





部屋の中は、よく見慣れた、古いアパートメントの一室だった。
古くてぺらぺらのアラビーマットしかなくて、
部屋のドアの木材は、摩耗して端が削れている。

ベランダに通じる扉からは、さっきのめでたい、旗がはためく。

9年生になる息子は、学校に往った後で、仕事をする。
この丘を下れば、ダウンタウンだから、
ものを運ぶ仕事をしている、という。
学校の先生は、ダウンタウンで仕事をしている息子に
きちんと挨拶をしてくる。

もう1人居る長男は、カレッジを出ているけれど、
その卒業証書がヨルダンでは認められなくて、
学歴に合った仕事が見つからない。

ヨルダンに来たのは2012年、その年の初めには、
子どもに働いてもらわなくてはならなくて、
しばらく学校にも登録していなかった。

次男は、足の指を手術している。
その、空を切り取っているベランダに通じる鉄の扉に、
足を挟んでしまった、という。
手術代に150JDを捻出しなくてはならなくて、
とっさにお金を準備できなかったから、
借家をさらに、担保にして、お金を借りたという。

セルビスを使わずに坂を登ると、
1時間はかかる。
その道のりを、息子たちは仕事帰りに、歩いて帰ってくる。
学校に往って、仕事に往ったら、もう家で
遊んだり勉強をする体力も残ってないから、
後は、寝るだけよ、とお母さんは笑う。
授業中に居眠りとか、しちゃったりしてるらしいわ。

シリアでは、体育の授業を受けられないのは、
罰、だったらしい。
身体を動かすことが楽しみだから、
わたしも体育が大好きだったのよ、と
お母さんは話す。

どこかしら、親近感が湧くのは、
ヨルダンに住み始めた頃に居た家に似ているからなのか、など
お母さんの顔を見ながら思っていたのだけれど、
ダラアから、と聞いて、合点が往く。
話し方が、やっと聞き慣れ始めたものだったからだ。

国境が開いたけれど、帰るつもりはありますか、という質問に
変わらない朗らかな表情に残しながらも
お母さんは、首を横に振る。
17歳から兵役だから、今国境を越えようとしたら
国境のシリア側ですぐ、兵役に取られてしまうわ。

大学に往くか、国外で兵役免除のためのお金を支払わなければ、
自動的に兵役が課せられる、という。

それが本当なのかどうか、分からない。
そして、兵役に取られることが、
彼らにとって、何を意味しているのかも、
はっきりと、窺い知ることができなかった。



3件目:ジャバル・アハダル

ホブズ、というこちらのパンを焼いているお店が
ここの近くにあるんだよね、と
訪問先の丘にさしかかったところで、口にしたのは、
以前この地域で事業をしていて、
その時に訪問した家のことを、よく覚えていたからだ。

5角形という、納まりの悪い客間に通された。
脚の悪い大柄の息子さんが居る、
お父さんが亡くなっている家庭だった。
娘さんが勉強のできる子だったから、
タウジーヒ用の奨学金を取れた、という話と、
お母さんが、何のきっかけか忘れてしまったのだけれど、
涙を浮かべていた、という記憶。
とても、きちんとしたお母さんだった。

偶然にも、同じアパートメントが、訪問先だった。
わたしの記憶では、同じ部屋のはずだった。
でも、通された客間は四角だった。

シリア人はよく引っ越しをするので、
違う家庭が住んでいる可能性は、大いにあった。

階段には、パン屋さんのおいしいパンの香りが漂う、
あれは、わたしの記憶違いだったのだろうか。

家には、まだ午後シフトに出る前の息子たち二人と、
就学年齢前の男の子、そして、1歳半ぐらいの女の子がいた。

みんな、お父さんに顔が似ていた。

お父さんは着ぐるみみたいな、濃いピンク色の服の
娘をずっと膝に乗せたまま、話をしてくれる。
娘だけが、お母さんに似ていた。

学校への文句は絶え間なく続いた。
どこでも聞く、話。
その間に、二人の息子たちは、じっともしていられなくて、
塗装の剝げかけた壁に、鍵で傷をつけてみたり、
こちらをむすっとした表情で見たりしていた。

お父さんの目は寄っていて、視力に問題があるようだった。
そのために仕事もできなくて、国連機関の支援を受けている。

お父さんの、息子たちに対する叱り方が気になったのだけれど、
どうも、息子たちは学校でも問題だらけのようだった。
2年生の上の子は、勉強がなかなかできない、
1年生の下の子の方が、既に学力があるから、
困った話だ、と、お父さんはきつい表情で、話す。

学校の対応も問題だけれど、そもそも
息子たちが問題だらけだから、しょうがない、と
話すお父さんの脇で、息子たちは
自分たちのことを話されているなどと、
つゆにも思っていないようだった。
二人とも指をしゃぶりながら、じゃれ合っていた。


帰りにもう一度、聞いてみる。
この家には5角形の部屋はありませんか?と。
そんなのはないわよ、とお母さんは云う。

釈然としないままアパートメントを後にして、
待っていた車に乗り込んだら、
子どもたちがさっきまで居た客間の窓から
こちらを見ていた。

こちらの子はよくやるのだけれど、
鉄格子のはまった窓に両足をかけて、
窓の桟に、座る。

そう云えば、前回この家に来たときも、
誰かがその窓から、ああやってわたしたちを見ていた。





4件目:ハイ・ナッザール

目印の学校の脇で待ち合わせていたので、
しばらく車の中で、家の人が迎えにくるのを待っていた。
急な坂ばかりの街には、階段でしか往けない家も多い。
この階段からくる、と見当をつけて階段を見ていたら、
視界に突然、転がるソファが入ってくる。
その後を、10歳ぐらいの男の子たちが3、4人、
わらわらと追いかけて、そのままソファを道の反対側まで持っていく。
どうも、捨てたかったようだ。

迎えにきたのは、まだ5、6歳ぐらいの小さな男の子だった。
狭くてよく見えなかった階段は、思いのほか長かった。
軽やかに駆け上がっていく男の子を目で追いながら、
おとなのわたしたちは、すっかり距離を取られる。

やっと階段を登りきったかと思ったら、
もっと細い階段があって、
そこをのぼってやっと、階段の途中に家の入り口があった。

部屋に入った瞬間、湿気のにおいがする。
風通しが悪い、家の密集した地域の、一階の家の、におい。
家賃が安いので、似たような条件に住むシリア人が、多い。

でも、この家庭は15年前にエジプトからやってきた、
母子家庭だった。
お母さんはヘルスセンターで清掃の仕事をしている。
だから、家に居る娘たちが、わたしたちの相手をしてくれた。

子ども向けのアニメ番組がずっと、テレビから流れていた。

病弱なのかとも思われるような、アラブ人にはめずらしい
小柄で色白のお姉さんと、顔つきの全くちがう、妹。
お姉さんは、ゆっくりとゆっくりと、
ことばを確かめるように、話をする。

学校では頭がいい子しか、先生たちは目をかけないから、
そうじゃないと、どんどん落ちこぼれてしまうんですよね。
一番下の子の心配をしているようだった。

一通り聞き取りを終えて、少し、この娘たちが、気になる。
タウジーヒをもう一度受け直す、というお姉さんは
心理カウンセラーになりたい、という。

姉妹でも、また近所の、同じ学校に往っていた子たちとも、
どこかへ遊びにでかけたりは、するようだった。

一番下の子は、何をして遊んでいるのだろうか。
こんな坂ばかりで、平地のないところでは、
サッカーもできないだろう。
そう思っていたら、どうも近所の女の子と
家の前の階段で、おままごとごっこをしたり、
ビー玉遊びをしている、という。

キャンプでは少し前まで、空前のビー玉ブームだったけれど、
キャンプ外でビー玉の話を聞くのは、初めてだった。
転がり落ちたら、どこまでもどこまでも、
落ちていってしまうだろう。


訪問を終えて、部屋の扉を開けると、
狭い階段に、水滴が落ちる。
雨が、降り始める。

なんだか嬉しくなって、ビデオを撮る。

車の場所まで、階段を降りていく途中で
呆れるほど興奮した男の子たちが居る。
ソファを投げていた子たち。

雨が降ってきた、というフレーズの歌を
声をそろえて歌いながら、
はしゃいでいた。





5件目:ジャバル・ウェブデ

ダウンタウンを通過して、次の訪問先に往く。
既に、道路や階段は、水であふれていた。
木曜日なのも重なって、どこも大渋滞だった。

ウェブデは、外国人の多い丘だ。
アンマンで一番おしゃれなところだと、思っている。
以前、この地域に住みたくて家を探したことがあるから、
家賃が安くないことも、知っていた。
こんなところにも、シリア人が住んでいるのを、知らなかった。

アパートメントの前で待っていたお母さんは、
緩くヒジャーブを巻いて、眼鏡をかけた
端正な顔立ちの、きれいな人だった。

ここも、母子家庭だった。

もともとは違う地域に住んでいたようだ。
でも、息子が学校へ往ったり、近所に買い物に往ったりするとき
汚いことばを使う人たちが周りにたくさんいて、
子どもの教育によくない、と思ったお母さんは
1年半前に、この丘に移ってきた。

実はその、よくないとお母さんが云った地域に、
同行していたナショナルスタッフは住んでいる。
少し、ひやひやしながら、彼女の表情を伺う。

子どもたちの教育には、とても熱心な人のようだった。
お母さん自身も、ボランティアで
近くのローカルNGOに通っている。
読み聞かせや音楽鑑賞のアクティビティをしているらしい。

シリアでは、公立学校のアクティビティの中で
かなり専門的なFirst Aidの授業もあったという。

近所のシリア人の子どもが、ヨルダンに来て、けがをした。
近くにきちんと処置の仕方を知っている人が居たらよかったのに、
居なかったから、後遺症が残っている。

そういうことも、シリアではきちんと勉強できたのに、と
お母さんは話す。

教育の質は国内でも、相当の格差がある。
ヨルダンでも、いい学校の提供するサービスは
日本の公立校よりいい、と思われるものも、ある。
シリアでもそうなのだろう、と憶測してしまうのは、
違う家庭で、全く違う話も、耳にするからだ。
もっとも、日本の学校にも当てはまる話だけれど。

夏休みのアクティビティがないを、どうにかできないのか、と
お母さんは尋ねてくる。
シリアでは、学校が夏季アクティビティを実施していたそうだ。
以前の事業ではやっていたのですが、と返答に詰まる。

ただ、この家庭の通っている学校は、
とても建設的で、理解のある校長先生が居るので、
校長先生と相談してみたらいいのかもしれない、と
頭の中で、できることを、思いめぐらせる。



お母さんの働いているそのセンターに興味が湧いてきたので
連絡先を教えてもらう。
その場ですぐに、センター長に連絡をしてくれた。

この家庭訪問でも、お母さんは始め、
なぜこの家庭に来たのか、を訊き続けていた。
学校からもらった連絡先を尋ねている、という回答に、
納得できないようだった。
何で校長先生は、うちを勧めてきたのだろう、と。

でも、聞き取りを終えて、納得がいく。
子どもの教育に熱心で、自身もアクティビティを積極的にしようと、
しているからだった。

このお母さんは、きゅっきゅっと、音を締めるような
話し方をしていた。
不思議なリズム感がある。
おそらく、ダマスカスの人だろう。



帰りの道は、絶望的に渋滞していた。

東京が雪にうまく対応できないのと、
ヨルダンが雨にうまく対応できないのは、
よく似ている。
考えてみたら、ヨルダンも、
まとまった雨が降る頻度は、雨期の冬でも、そこまで頻繁ではない。

埃に執心していた人たちは、
この雨を使って、車を洗う。

オリーブの実も、一雨降れば、きれいになる。

そして、雨が降ると一気に、
冬がやってくる。
一雨降る毎に、気温が下がる。

秋は、短い。


2018/10/06

ひさびさの宮沢賢治


仕事用のバッグの中には、
宮沢賢治全集5、短編集が入っている。
「マグノリアの花」という好きな短編が入っているので
いつでも読めるように。
いつでも読める、という安心感が、結果的に
読まない原因となっていた。

最近通勤中も仕事をしていることが多くて、
本を開く気持ちになれなかった。

昨日、休日の金曜日も、仕事をする。

最近まともに音楽も聴いていなかった。
聴いていたものといえば、AsgeirとJames Blake、それから
運良く聴けた、日本のラジオ番組で紹介されていた
Tigran Hamasyanだけだった。

今日の朝、ひさびさに朝、グールドのバッハを聴く。

薄い雲が漂うアンマンの空には
秋らしい、黄みがかった光が漂い、
どこでいつ聴いても、グールドのバッハは
見るものと考えることを、整理し、落ち着かせる。

なぜ、ひさびさにバッハを聴いたかと云えば、
理由にもならないけれど、
朝、万葉集の秋にまつわる句を
読んでいたからだった。

秋の七草など、鑑賞することもできないけれど、
はて、なんだったか、と気になって
万葉集の句のいくつかから、記憶をたぐっていた。

どの句にも、秋の光と、しめやかな湿度と
色のやわらかな花々が見える。

悪くない、ひさびさに悪くない朝だった。

だから、机の上に置きっぱなしにしてあった
宮沢賢治全集2、「春と修羅 第3集」「詩ノート」「疾中」を手に取る。

自然の気難しさと美しさが、
対峙し続けるからこそ、拭いきれない
苦みを含みながら、描写されている。

それらどれも、ここでは鑑賞することも、
体感することもできない。
ただ、懸命に、季節の移ろいを感じようとした過去の記憶が、
今、見ることのできないものものを
補完しようとする。

それには十分すぎるような、丁寧で美しいことばたちだった。

日中でかけて家に戻ってくる。

この季節、やっと雲が出てきたアンマンでは、
夕方の空を、赤にはやわらかい雲が
彩りを添える。

朝読んだ詩を、思い出す。


美しき夕陽の色なして
一つの呼気は一年を
わが上方に展くなり


西側には家があるから、夕陽を我が家からは見ることができない。
雲の色に、夕陽を見る。

この夕陽を宮沢賢治が見上げたのはいつの季節だったのか、
記されてはいない。
でも、わたしにとってはおそらく、
美しき夕陽を、視覚的に感じる季節は、
今から、始まる。


2018/08/30

からっぽが、見える


ひとりキャンプの中で、車を待っていた。
校門の前で待っていたけれど、さっぱり来る気配もない。
向かいのドッキャンでジュースを買って、
一気飲みする。

日焼け止めの効果むなしく、
顔が焼けるように暑いような、酷暑なのに、
結構歩いている人が居る。
ニカーブは理にかなっているな、などと
子ども2人の手を引いて歩いていく
全身真っ黒なお母さんを眺めていた。




夏の間に学校で育てていた植物は、
アクティビティが終わった後、お水をもらっていなかったようで、
いくつかは枯れ、いくつかはひょろひょろになっていた。

大きな透明なボトルを、水いっぱいにして、運ぶ。
水はいろんな形になって、
きらきらと、ボトルの中で揺れる。

こんなに水は、きれいなものだったんだ、と
見とれる。
子どもたちが楽しそうに水を運んでいた理由が、わかる。
抱えたボトルの中を覗きつつ、歩く。



撒いた水は一瞬で、浅茶色の土の中に、沁みていく。
数回水を運んで、ふと水を撒いた花壇を見ると、
さっきまでしなしなになっていた葉っぱが
しゃんと、背筋よく、立っていた。
何だか、分かりやすすぎて、
こちらの子どもたちみたいだな、と、思う。



校門の前に、しばらく立っていなくてはならなかった。

遠くから自転車に乗った、知り合いの男の子がやってきた。
今日アクティビティあるの?などと
的外れなことを、とぼけた顔で云っているので、
来週の日曜日から学校です、と答える。

わかった、と云って、
また自転車にまたがり、男の子は去っていく。
ゆるやかな坂をのぼりながら、
繰り返し振り向くので、
振り向くたびに、こちらは手を振る。
向こうは片手で漕ぐには大きすぎる
背丈に合わない自転車に乗っているので、
ただ、何度も何度も振り向いていた。

いろいろ面倒もかけてくる子なので、
授業中は無下な態度を取ったりしているけれど、
思わず、顔がほころぶ。

別の場所でも、歩いていたら
お父さんらしき人の漕ぐ自転車の
後ろに座った男の子が、
振り向いて外国人だと分かると、
何度もウィンクをしてきた。
上手にできないようで、
右目をぎゅっと閉じると、
一緒に口が歪んでしまう。
でも、何度も何度も、こちらに向かって
ウィンクしていた。

やはり、こらえきれずひとり
にっと、笑ってしまう。

当たり前だけれど、
ひとりで笑うことはない。
日射しが強いので、目を細めている。
おそらくは、相当の仏頂面だろう。
みんな、外国人は愛想がいい、なんて思っていたら
大間違いだ、と
言い訳のようにいつも心の中で呟いている。




けれど、こんな子たちに会うと、つい
何だか微笑ましくて、ふわっと、
なにかが、緩まる。

緩まると同時に、
冷たくて気持ちのいい水のようなものが、
からっぽの空間に
とぷとぷと音を立てて、注がれる。
からからで、からっぽだったのだ、と、やっと
その時、気づく。

けれど、注がれた水は、どんどん、どこかからこぼれ落ちる。
からっぽな空間が、可視化される。

どうにも、足りない。

一体これを埋めるためには、
どんな視点を、どれだけ鋭敏な心を、どれだけの優しさを
手にしていなくてはならないのだろう。

キャンプの端っこの、何もない空き地と、
どこまでも広がる薄青い空を眺める。

かさかさとした、砂塵のような不安で、
ただただ、途方に暮れる。


帰りの道すがら、
まったく違う文脈なのだけれど、ふと
随分昔に読んだ
コカコーラ・レッスン、を思い出す。
谷川俊太郎の散文。

海を眺め、コカコーラの缶を手にした少年が、
物質の名前と、ことばの総体、その観念が結びつける瞬間、を
描いた話だったはず、だ。

その少年は、たぶんとても、聡明でそして、
からっとした少年で、
ことばに襲われそうになった恐怖との戦いの末に、
コカコーラの缶を
足で、踏みつぶす。

もし、この少年のように、
からっぽを把握できるだけの
賢さを持っていたら、
そして、このからっぽを
そういうものなのだ、と、受け止め、
でも、ぽいっと放る明るさがあったのなら。

頭が悪い、ということは、
こういう時に本当に、困るのだ、と
海と同じぐらい、たくさんの要素を孕みつつ、からっぽな、
空き地と空をぼんやり、思い出していた。


2018/08/15

彼らの暮らしと、話の断片 8月3週目


もし、今日休日だったならば、
どこかをずっと歩いていただろう。

考えるのには、歩くのが一番いい。

朝からBBCのラジオは、日本の終戦について、触れていた。

でも、今日はいつもと変わらない一日だから、
フィールドへ、往く。



それなりに暑いけれど、今日も風が強かった。
そして、今集中的に訪れている地域には、
実は、緑が多いことに、気づく。

小さな、本当に狭い場所でも、
土があれば、植物を植え、育てる。

オリーブの木が多いように、思う。
まだ固そうな、でも、つややかな緑の実が
どこの家庭に往っても、見ることができた。

この地域への訪問も回を重ね、
週末に訪れたセンターや、何度も通ったスーパーの前を
繰り返し、行き来する。



結婚や、タウジーヒ合格や、おめでたいことがあると、
色とりどりのビニールテープで、道を飾り立てる。
これを見ると、どうしても、パレスティナキャンプを思い出してしまうのは、
こぎれいな地域では絶対、見ないからかも、しれない。

個人的には、とても好きだ。
自分の家のお祝い事なのに、近所中を巻き込んでしまう感じが。

そして、このぴらぴらは、青いヨルダンの空によく、映える。



1件目:ハシミ・シャマーリー

賑やかな、色とりどりの看板が並ぶ商店街を
一本曲がると、
急に、作りかけの、コンクリートやブロックが
むき出しになった建物が、増える。

強い斜視のお父さんが、迎えにくる。
なぜだか最近、目の充血した人にたくさん、会う。
キャンプの子どもたちにも、多い。
お父さんも、右目が充血していた。
もの静かなお父さんだった。

黒いビニール袋には、おそらく私たちのための、
ジュースが入っていて、
その袋を、握りしめていた。

建物の中には入らず、小さな2メートルも幅のない、
細長い庭に置かれた椅子を、薦められる。

お母さんが中から出てくると、
お父さんではなく、お母さんが私たちに対応してくれる。
ほとんどの家庭では、
お父さんがいる限り、お父さんが話をしてくれて、
お母さんは、横で話を聞いているケースが多いので、
少し、気になる。

長男はイラクに居る時に、襲撃に遭って負ったけがで
足にボルトを入れている。
本来ならば8年生になるけれど、
随分学校に往けていないから、
今は、NGOが運営するキャッチアップクラスに登録して、
夏期講習を受けている、とのことだった。

誕生日の子がいれば、誕生日会を開き、
どこかへの移住が決まると、お別れ会をする。
センターの校長先生は、子どもをクラスにきちんと通わせてほしい、と
親御さんを励ます。

でも、14歳になる息子は、ひとりでキャッチアップクラスへ往く
30分の道のりが、怖い。
ご両親に一緒についてきてほしい、とお願いをしてくる。
近所はヨルダン人ばかりなので、
クラスメートも居ないから、他の誰かと一緒に学校へ往くこともできない。
ご両親のうちのどちらかが、ついていく。

聞けば、トルコで既に、2年間避難生活をした後の、ヨルダンだった。

どこの家庭でもそうだが、
UNHCRからのキャッシュアシスタントがなくなり、
UNICEFの交通費支給もなくなり、
生活も、学校に子どもを通わせるのも、大変になってきた、
という話を、聞く。

教育支援をしている、というと、
誰もが、交通費や学費の支給があるのかと、
口には出さないけれど、期待している。
ただ調査のためだけに、訪問している私たちにとって、
ただただ、申しわけない気持ちになる瞬間だ。


それでも、多くの家族は、あからさまに
私たちへの関心を失ったようには、見せないようにしてくれている。
本当に、礼儀正しく、丁寧な人たち。
ここの家族も、そんな優しい家族の一つだった。

一番下の息子は、日射しの強い中を歩いたり、
車に乗ったりすると、すぐに具合が悪くなってしまう。
病院に往っても、原因は分からない。

近所の人たちはみんなヨルダン人だけれど、
仲良く暮らしている。
時折、狭い路地に面した門のところに座って
世間話なども、する。

それでも、公園や遊べるところへ往くことはできないので、
学校の他は、ずっと家の中で過ごしている。

一番下の娘は、数学が苦手だ。
算数、ということばを聞くだけで、もういやで仕方がないのよ、と
お母さんは微笑みながら、云う。

お母さんは、メイサーンで学校の先生をしていた、と聞き、
急に、親近感がわく。
イラクでの教員生活の話をし始めたときから、
少し表情が柔らかくなったような、気がした。

イラクでは、男子校に女性の先生が勤務するケースもあるようで、
お母さんは6年生の男の子たちに、数学と理科を教えていた。
私自身、こちらの学校に慣れているせいか、
6年生の男子を相手に、女性の先生がひとりで授業をするのは
なかなか大変だろう、と想像する。
ものすごい苦労したでしょう、と訊くと、
もう、全然先生のことを尊敬しないし、
石はなげてくるわでやりたい放題、
大変だった、と笑って、答えていた。

お母さんは、13年勤めて、イラクを離れなくてはならなくなった。
イラクでは、おそらく公務員への規定で、
15年以上勤務すると、辞める時に退職金がもらえるようだ。
土地を離れなくてはならなくなったのは、
やはり、他宗派や思想のグループから
脅迫を受けていたのが、原因だった。

13年目で離れなくてはならなくなってけれど、
その前から既に始まっている、一連の戦争のせいで、
彼女が勤め始めた時には、
学校の組織体制も、崩れ始めていた、と話していた。

既に訪れた他の家庭でも、メイサーンという名は耳にしていたので、
どんなところなのか、気になっていた。
あまり、webには情報が載っていなかったので、訊いてみる。

サトウキビの生産と、養魚業、そして、石油があるという。
内陸部なのに、養魚業があるのか、とスタッフは不思議そうだった。
地図に見たメイサーンには、大きな川が流れているから、
川魚を育てられるのだ、と説明すると、
スタッフは納得したようだった。

メイサーンのことを尋ねた時、本当にうれしそうな顔をしていた。
その土地で、どんな目に遭っていたとしても、
故郷の名産の話をするのは、きっと、誇らしいことなのだろう。


2件目

住宅地の一つ、よく見る4、5階建てのアパートメント玄関で
お母さんが小さな女の子の手を握って、待っていてくれた。

部屋の居間からは、オリーブとレモンの木が、見える。
窓の脇には、鉢植えの唐辛子が置かれていた。
座ったソファの向かいの壁には、
イラクの国旗の柄の首掛けと、誰か男性の写真、
それから、ヨルダンの国王の写真と、子どもの描いた、絵。
座った方の壁には、キリストの絵が、貼ってある。

お母さんは、とても早口だった。
とにかく早口で、サラーハ(正直に、という意味だけれど、
おそらく、本当に、というニュアンスなのだろう)を
繰り返していた。

家賃が安いからこの地域に住んでいるけれど、
既に家を2回引っ越している。
一度はセクハラを受けそうになって怖くなり、
一度は同じアパートの別の部屋に、泥棒が入ったからだった。
それから、アパートの住人同士の仲も、とても悪かった。

眉毛の細いお母さんは、一つの質問に、
たっぷりと、たくさん話をした。
先生たちはとてもいい人たちだし、
校長先生も献身的だ。
ただ、子どもたちの間でケジラミが出た時に、
あまりしっかり対処してくれなかったのには、困った。

午後シフトの子どもたちは、授業の終わりに掃除をするけれど
午後シフトが始まる時には、教室は汚い。

掃除を子どもにさせるのがいやな訳では、ない。
ただ、次のシフトにきれいな状態で戻しているのだから、
午前中の子たちだって、それをしてもいいでしょ?

全くその通りなので、本当にそうですね、と
スタッフも私も、答える。
子どもに清掃をさせること自体を嫌がる親御さんが多いので、
このお母さんの意見は、よけいに、至極全うだ。

ただ、時間的なことを考えると、
よほどそこに注力できる先生でないと、
午前シフトの時間中に掃除を終わらせることは、難しいだろう、と
頭の中で、時間割を思い出す。

子どもがクラスメートとけんかをしたり、
学校に訊きたいことがあると、お母さんは学校へ往く。
週に2、3度往っているらしい。
でも、学校で他のお母さんたちに会う機会はあるのか、という質問には、
ないわ、ときっぱり、返事をした。

お母さんはコーヒーを出してくれたり、
お水を出してくれたり、
いろいろとしてくれたけれど、
聞き取りをしている間、一度も、笑顔を見せなかった。
私が聞き取れずに、スタッフに英語で訳を尋ねる度に、
窓の外を、空虚な目で、見つめていた。

何度も、疲れたの、生活が疲れるの、と繰り返し、
最後まで早口で、最後まで何かに追いつめられているような、
険しい表情をして、
時々果てしなく深くて重い、ため息をついた。



3件目

同じアパートメントの上階に住んでいる家族を、紹介してもらう。
学校に往っている子がいたら、とお願いしてみたところ、
紹介された家だった。

お母さんはエプロンをかけていて、
居間のソファでは、12歳ほどの息子が横になっていた。
腕にギブスをつけていて、
なにもすることが、もしくはできることが、ない、といった様子で、
だらんとしている。
遊園地でローラーブレードで遊んでいて、転んでしまったそうだ。

お母さんは、表情の豊かな人だった。

お母さんの背後には、居間の壁が広がっていて、
コバルトブルーに塗られた壁の前に座るお母さんの姿は、
金髪で色白だったせいか、
どこか他の国のお料理番組の1シーンを
切り取ったようだ。

確かにここの子どもたちは、学校に往っているけれど、
公立校ではなく、私立だった。
調査の主旨とは違うけれど、
私立校の話を聞く機会は少ないので、いろいろと話を聞きたいことが出てくる。

モスルから2016年にやってきた、家族だった。
キリスト教徒なので、クリスチャン系の学校に通わせている。

遠足もあるし、月に一度は、朝食会や工作の会を、親御さんも交えて開催する。
音楽の授業はないけれど、体育は週2時間、ある。
どれも、公立校では足りていないものばかり。

公立校の話ばかり見聞きしている私には、何だか、
きらきらした話だった。

途中でお父さんがやってくる。
お父さんは、典型的なアラブ人顔で、
お母さんがいろいろと話す様子を、しばらくは、
静かに聞いていた。

一通りアンケートが終わったところで、お父さんが口を開く。

UNHCRに知り合いは、いないんですか?
シリア人ばかりに支援が往って、
イラク人への支援は、手薄なんですよ。
仕事も、クーポンも、キャッシュアシスタントも、
シリア人ばかりだし。
第3国定住の申請をしてから2年4ヶ月経っているけれど、
全く音沙汰がないんです。
お宅のNGOはUNHCRとつながりはないんですか?
ヨルダンの物価は高すぎますよ。
アメリカの方がよほど、安く暮らせる。
でも、往けるチャンスが、どうにも、ないんです。

私も、スタッフも、うつむきながら話を、聞く。

もし仮に、国連関係に知り合いが居たとしても、
コネなど使える話ではないはずだ、と
お父さんに説明したところで、分かってくれないだろう。
お父さんはどこまでも真剣に、
この国から出る方法を、きっとずっと家の中で、
鬱々と考えている。

お父さんが話しはじめると、
話の内容のせいなのか、お父さんの口調のせいなのか、
お母さんの表情も暗くなって、
子どもたちは押し黙った。


5件目

もう何度も通った、複雑に道の入り組む交差路で、
迎えに来てくれるはずの、子どもたちを待っていた。

あの人かな、と、よく注意して、人を観察する。
人を探している気配がない、と分かると
他の道から降りてくる人たちに、目を移す。

どうも、他の地域に比べて、
道を歩く人の数が多いように、思える。
それは、目抜き通りでも路地裏でも、云えることで、
単純に子どもの数が多いだけではなく、
大人たち、本来ならば働いているだろう、大人たちの姿も
多く見かける。


私たちを迎えにきてくれたのは、長男と次男だった。
すらっと背の高い、にきびが若々しい長男と、色白の次男。

道をまっすぐ進む、というアラビア語方言に、
聞き慣れない単語を使っていた。
そして、長男は、また違うことばで、云い直す。
スタッフは、首をかしげる。
イラク方言ではなくて、サウジアラビアの方言に云い直したことが、
説明をしてもらって、やっと分かる。

それら3つの方言は、どれも全く違う、音の響きで
語根でさえ、共通するものがなかった。


斜めに入る、いびつな形の路地と路地の間に、
アパートメントは、ある。
各世帯のブレーカーはむき出しになっていて、
どこもかしこも、どうにも、古びていた。

建物の敷地に入る手前で、
同じアパートメントに住む、おばあさんと会う。
リームちゃんは居るかい?とおばあさんは、尋ねる。
そんな子、うちには居ないよ、と、子どもたちは答える。


最上階の部屋に通される。
本来、居間になるはずの部屋には、
小さなベッドが二つ置いてあって、
私たちはその一つに、4人の息子たちは、もう一つのベッドに、
お母さんはプラスティックの椅子に、座る。

短い廊下の先のトイレには、
きれいな青い花柄の、タイルが貼ってあった。

西に向いた窓からは、教会が、見える。

4階分を上るのに疲れきっていたスタッフの様子に、
すぐ、水を出してくれる。
そして、聞き取りの途中に、いつの間にやら、
長男が、コーヒーを作ってくれていた。

お母さんは、二の腕から上が、びっくりするほど太くて、
何だか別の人の腕を、途中から入れ替えたみたいだった。

朗らかな話し方をする、お母さんは、
道で歩いているとナイフを持った子に遭ったりする、
という話まで、穏やかな顔で、話していた。


この家族も、モスルから来ていた。
ただ、バグダッドにも以前は住んでいて、
戦争が始まってから、モスルへ往き、
エルビルのキャンプにも入り、その後、
ヨルダンにやってきた。

2017年に、来ている。
危機的状況はもっと以前から続いていたはずなので、
遅れて国を出た理由を、尋ねてみる。


お父さんの作った借金の返済が終わるまで、
国を出ることができなかった、という。
とにかく、イラクから出なくては、将来が見えないと思ってはいたが、
それが許されるのは、返済が完了してからだった。

モスルでは、スポーツセンターに往って、
プールで泳いだりできていた。
こちらでは、公園周辺には、ヨルダン人の若者がいるし、
買い物に往っても、からまれたり、する。
親族のおばさんの家に往くことぐらいが、今のところ、
目的のある、外出先のようだった。

子どもたちは、前年度の一年間、学校に往けていない。
9月から学校に往くために、登録をするところだった。
3番目の子が、何をするにも遅いので、
勉強も時間がかかるだろう、と、
お母さんは困ったような、少しおかしいような、
でも結局のところは、愛おしいような、表情をする。

本人は、ベッドに横になり、まだ4歳ほどの弟に、
ちょっかいを出していた。
小さな粒のようなボールを投げ、きゃっきゃとはしゃいでいる。

ヨルダンには親戚が住んでいたから、その伝手を辿って、やってきた。
ヨルダンに来たら、他の周辺国より
ヨーロッパに往くチャンスがあるかと思ったのだけれど、
そう、お母さんは、云う。

迎えに来てくれた上の息子たちは、
最後までじっと、お母さんの話す様子を、横で見守っていた。

お母さんを守る、家を守る、という
強い意志のようなものを、彼らの佇まいから、感じる。
子どもたちが、家族の醸し出す雰囲気に、
存在感を出していた。

それは、お母さんの朗らかさのおかげなのか、
息子たちに守られて、安心できているから
お母さんが、そんな表情を絶やすことがなくて、
それが、子どもたちを強くしているのか、
どちらなのだろう、と
どちらにしても、いいことには違いないこと、を
帰り道の車の中で、ぼんやりと、考えていた。




イラク難民の話を続けて、聞いている。
いろいろな話を聞きながら、ずっと
バランスよく、いろいろな立場の人の話を聞かなくては、と
どこかで、焦っている。
彼らの会話の中に出てくる、個人ではなく、人種で括られる
シリア人、ヨルダン人、の話も、そろそろ、
聞いていかなくてはならない。

ただ、多くの家庭で会う、
限りなく膨大に、語るものを抱えた人々にも、
失礼な表現だが、単純な興味が、湧いてくる。

やっと、イラクのいろいろな地域の方言に、
ほんの少し、だけれど、慣れてきた気が、している。