2009/01/21

ことばの偶然と、広がりと、思わぬ、闇について






以前も載せたcow booksで
背表紙を見た瞬間に、買わなくちゃ、と手に取ったのが
「リチャード・ブローティガン」

好きな作家の多くがこの本を紹介していました。
気になっていて、でも本屋でさっぱり見かけなくて、
いつか会うだろう、と何となく思っていた本。

前も書いた通り、ブローティガンの作品をとても気に入っていました。
読んでいるときに立ち上がる情景、映像が
ずっと、私の中で消えずに残っています。
美しく、おかしみに富んでいて、どこか青い清々しさがあるもの、
暗いのだけど、ちょうど白っぽい抜け穴が
底にはちゃんとあるのではないか、と思わせるような、
不思議な明るさがあるもの。

何よりも、形容の言葉や、ものものの羅列や、発想の広がりが、
たまらなくすてきだと思っていました。例えば。


「貧乏人の墓場へいって芝を刈り、果物の瓶、ブリキの空缶、墓標、萎れた花、虫、雑草、土くれをとりあつめて持って帰ろう。それから万力に釣針を固定して、墓地から持ち帰ったものを残らず結わえつけて毛鉤をつくる。それができたら外へ出て、その毛鉤を空に投げあげるのだ。」

ブローティガンを読む時
不思議な映像や情景を
暗い室内でぱっぱっぱっと見ているような気になります。

抜粋の文章のように
たとえ、前後関係が分からなくても、
この発想は、何だか、かえがたい
奇跡のようなスパークを隠しているような気がする。


でも、
私が読んできたブローティガンの小説の、
根本的に視点が浮いている、のを
ただおもしろい、と思っていた私は
どうしようもなく、至らない、読み込めない奴だ、ということを
この自伝書は、語っていました。

視点が浮いているのは、空想の産物で
空想をしなくてはやっていけないブローティガンの
あまりにも辛い幼少から死ぬまでの人生が
書かれていたのでした。
どうしてその背景を読み取れなかったのか、私は愕然とする。
正確には、その背景について、何となく分かっていたけれど、
ことばの組み合わせから広がるおもしろさにかまけて、
その一見明るいように見えることばに、私がごまかされたい、
そう思って、読んでいたような気がします。

ただ、ブローティガンは同情を好むような人ではなかったし
感傷的な文章はそれほどありません。
だから私が、こう思うのはお門違いなのだけど、
無性に悲しくて、どうも読み終わっても引きずっています。
当然、はぶりもよくて
作家として、いい時期もあったし、
娘さんのことはとても大切にしていた。
ただ、ちょうど、どうしようもなく悲しい思いを明るい旋律にのせて唄うように
明るく見えた分だけ、暗さに底がないように思えました。

書いたのは、ずっとブローティガンの作品を翻訳していて
ブローティガンの友人でもあった藤本和子という人です。
タイトルの通り、
「リチャード・ブローティガン」という
本人がアメリカの「ちり」と呼んだ、生活の苦しい最下層に生まれ
想像力を武器に生き抜いて、
でも昔の記憶がぬぐえずにアルコール中毒で
でも子供の前ではいい父親になろうと心がけて
どこか俯瞰の視点を持って、自分とその周辺を醒めた視線で見つめながら
生ききれなくて、自分で死んでしまった
小説家が主人公として出てくる、
小説のようでした。

2009/01/14

ルーの引っ越し



正月に家を空けている間、
ルーを預かってもらっていました。
(本当はアルーと云う名前なのですが
 最近ではすっかりルー、と呼ぶようになっています)。

ルーは今まで、家の奥の作業場になっていたところで
ほとんど独立国を作っていました。
どうにも自由が好きなようだったので
互いにあまり干渉しない、という関係でした。
8畳を自由に走り回る生活。

寂しいと死んでしまう、などと云うけれど
本当なのかしら、と思っていました。

ただ、作業場は寒い。
預かってもらって帰ってきたのをきっかけに
ルーの住処を、玄関の半畳にもならない空間に
引っ越しさせてもらいました。
玄関が我が家の中で、一番暖かい空間だったからでした。

冬毛ですっかり丸くなったルーは
昼は暖かく、夜はとっても寒いところで
ぬくぬく暮らしています。

狭い空間では寄ってくる、
広い空間だと逃げてゆくルーは
玄関サイズがちょうどいいようで
靴を履く度に
靴を脱ぐ度に
くるくるくるくる、回っています。


2009/01/09

お伊勢参り





お正月を挟んで、いろいろなことがありました。神都麦酒 350ml 缶
いいこともあったし、悲しいこともあって
いつになく、印象深い、お正月でした。

印象深い、ということのひとつに、伊勢参りがありました。

伊勢神宮には興味がある、
でも、三日に往くなど、あり得ない
そう思っていました。
でも、誘われれば何となしに、三日に往く方が
ご利益もありそうで、厄年だからお参りも大切だ、
などとも思う。
実利根性も伴っていたのが、正直なところでした。

本や絵など、たくさんのものに
大きくなってからもう一度巡り会って、
より深く理解できることがある。
伊勢神宮も、まさに、そう云う体験をさせてくれるところでした。


ただ、驚くのは、小さな頃の記憶がほとんどない、ということでした。
ひとつだけ覚えていた赤福の本店の脇の和紙屋でさえ、
町並みが変わってしまったせいか見つからない。
かろうじて、内宮の脇を流れる五十鈴川の景色だけが
記憶と合致するものでした。

伊勢神宮自体に
全く知識もない状態で往きました。

それを見て、感じるだけで
自分の中に、凪いだ大きな湖をつくるような底知れない力が
たてものの色や佇まいの中にありました。
一瞬でも、その湖のようなものを
自分の中に見られたことが
何よりの経験でした。

それから
大人だから知れること。

綿菓子を食べながら、タバコを吸うのと似たようなものですが
伊勢参りで、ビールをいただきました。
同級生と往ったのに、おごってもらうという
本当に心底情けない思いをしたのだけど、
お昼を食べたお店が
図らずも、かねがね周囲の人から話を聴いていた
伊勢角ビールの会社がやっているお店でした。

神都麦酒、という少しすっぱいビールいただいて
パッケージの色合いがすてきだったのが気になって、
お土産に2本だけ手に入れました。

つくばに戻ってから、いろいろな情報がきれいに合致して、
おごってくれた長らくの大切な友達に
あらためてお礼を云わなくては
と、思いました。

お伊勢参り、というタイトルには不謹慎なのだけど
ビールの写真を。



2009/01/01

元旦の朝


明けまして おめでとうございます
本年もどうぞ よろしくお願いいたします



お正月らしい、よく晴れた天気です。
つくばの正月は毎年よく晴れていて、日差しが暖かい、そして、風が強い。
地元である犬山は、天気が不安定なことが多くて、
小さなころは、通り雨が降るお正月を何度も経験しました。
だから元旦に、虹を見たこともあります。

今年初めて、正月の朝を一人で迎えました。
年越しは大勢の人と一緒でしたが、
一晩経った朝は、また違う空気と気持ちがある、そう思っています。
例えば少し寒い客間でおせちを食べたり、
親戚の家を回ったので、朝から家の中できちんとした格好をしたり、
今年の抱負を考えたり。

ひとりですから、十分考える時間がありそうなものですが、
今から実家に戻る、ということもあって
あまり心の余裕がない。

その代わり、一つだけ何日か前から決めたことを、してきました。
元旦ジョギング。
風はひどく強かったけれど、車も少なくて、気持ちがよかった。
ちゃんと公園では犬を散歩させている人が居て
2匹のチワワが喧嘩をしていましたし、
かもは日向ぼっこをしていました。

こんなことができるようになったのが、そこはかとなくうれしい、元旦の朝でした