2017/10/15

新しい暮らしを約束してくれる土地





勧められた本だから、というのもあるけれど
この本を読もうと思ったのは、
ここ数年、ずっと疑問として頭を擡げていたことの答えが
もしかしたら本の中にあるかもしれない、と、思ったからだった。

私の周りに居るシリア人はみな
当然、私の周りだから、ヨルダンに居る。
ヨルダンに居るシリア人のほとんどは
シリアから直接避難していて
他の国を経由してやってくることはない。
もっとも、一度ヨルダンのイミグレで、レバノンに送られた、
という家族は居たけれど、
地理的にも、経由の必要はない。
そして、他の国へ往こうにも、
シリア、イラク、パレスティナに囲まれたヨルダンから
空路を抜きにして移動するのは、サウディの他、選択肢がなく
サウディに往こうとしている人など、一度も会ったことがなかった。

今までに私の会ったシリア人の中にも
息子が地中海を渡った家族、親族がドイツで永住権を得た家族がいた。
そんな家族は皆、ヨーロッパに憧れつつ
第三国定住の申請をしつつ、
それでもヨルダンに居ることを一時的にでも、選択していた。

シリア人を含め、アラブ人の気質をそれなりに知っている私は、
ヨーロッパに渡るシリア人たちが、
ただただ海を渡り、想像を絶する距離を移動するニュースを見聞きしながら
きっと、その先でまた待っている困難を想像しきれていない、かもしれない、
彼らの盲目さに、そこはかとない不安を抱き続けていた。

シリア人は、リスクの大きさを、どれだけ考えているのだろうか。
大量のシリア人を受け入れることの難しさがすぐに
政策の変更につながるだろうと予見していたら、
案の定、ヨーロッパ諸国の難民受け入れの条件がどんどんと厳しくなっていった。

ヨーロッパの各地でテロが起こる度に
移民、難民としてその国々に居る人たちの暮らしを脅かしていることを思い、
胸が痛んだ。



何よりも、たどり着いた先で待っている暮らしが、
シリアよりもよほど寒くて、知り合いも少なくて
大なり小なり偏見を持たれ、言葉も通じず、宗教も違う、ということの意味するところを
どれぐらい、想定し、考えているのだろうか、と
こんなに長く住んでいてもヨルダンに馴染めない私には、
彼らの勇気よりも無謀さが、どこかで決定的に、腑に落ちなかった。


ヨルダンがいい、と云っているわけでは、けして、ない。
ただ、少なくとも、言葉が同じで、宗教、宗派も多くのシリア人にとって同じで、
過去から人の行き来があった国の方が、
たとえ労働許可を取れる可能性がものすごく低くても
生活の基盤は作り易いはずだ、と、思ったりした。
教育だって、同じ言語か否かは、最重要問題と、云える。


本の中では、ヨルダン経由、トルコ経由、北アフリカから、アフガニスタンから、
様々な移民や難民が登場する。
多くの人々の状況は、移動していけば往くほど苦しくなり、
移動を始めたら最後、
冷ややかに、暴力的に、間接的に、自分たちを阻害する人や国を通過して、
自分が目指すゴールまで
移動し続けるしか、ない。

今居るところよりましなところが、きっとある。
自分たちを温かく受け入れてくれる国が、その先にある。
難民の権利を認めてくれる国へ、家族と共に暮らせる国へ、とにかく移動し続ける
その壮絶な旅の記録や背景が、本当に仔細に、書かれていた。

移動していかざるをえない人々にとって
移動を突き動かすものは、
「新しい暮らしを約束してくれる土地」だった。
未来が描ける環境が、特に子どもを抱えた家族にとって
何よりも、かえがたいものだと。
これが、ただただ明確な、彼らの移動の理由だった。

自国で受けた仕打ちに比べたら、
国境のフェンスを越えるのも
ぼろぼろの船に乗るのも、道ばたで野宿するのも、
大したことではない、と、多くの人は本の中で語っていた。

自国で受けた仕打ち、は
私の周りのシリア人のほとんども、また
経験しているはずだった。
本の筆者がずっと同行していたシリア人が
ヨルダンへ出国するまでに経験したことが詳細に書かれた部分を読んだとき
あえて私も詳細を訊いたことのなかった、周囲の人たちの
内戦後のシリアでの経験を、見た気がした。

片や、様々な理由でヨルダンに留まり、
片や、移動をし続ける。

現在の第三国定住や難民申請のプロセスでは
どちらがいい、とも、言い難い。

ただ、死とすれすれで移動してきた人たちを突き動かしたものと同じものを、
シリア人の多くがどこにいても、まだ抱いているはずで、
私の周囲のシリア人の多くも、当然、抱いているはずだ。


彼らの未来に夢を抱ける環境、
それが、受け入れを行うヨーロッパの国々なのか
ヨルダンやレバノンなどの隣国なのか、
情勢が安定する、いつの日かのシリアなのか、分からない。

祖国のすぐ脇で、
移動もできず、希望も捨てられず、
踏みとどまる苦しみ、というものもあることを、
移動し続ける人々の姿の背後に、見た気がした。



2017/09/01

青いぴかぴかの長靴の、男の子


ザータリキャンプで、
真っ青な長靴をはいた
3、4歳の男の子の姿を見た。
まだ、今年最初の雨まで3ヶ月は待たなくてはならない、
夏の終わり。

その日、キャンプへの道すがらに、

幹線道路から見えるキャンプの全景を無感動に眺めて、
シリア難民キャンプの、シンボルのようなその見慣れた図に、
「これを難民キャンプというものとして捉えるのは、陳腐だ」と心の中で呟いていた。

そして、そう思ったことに、自分で随分動揺した。
その呟きと動揺の関係性が漠然としか見えないままキャンプに入った。

朝から暑いキャンプの、

入り口からほど近いプレハブとプレハブの間で、
水なんてどこにもないのに、
ぴかぴかの長靴をはいた
その男の子を、見た。

ちょうどブローティガンの

「シンガポールの高い塔」という話のように
啓示を持って現れる
私にとっての、確実に愛おしい、なにかだった。

同時に、親密さと俯瞰のバランスが

未だに全く取れていない、ということに気がつく。

ある意味、難民の暮らす場所の象徴として、

ザータリキャンプの遠景があるとして、
その図に、何を見出すのだろう。
埃の舞う厳しい暮らしや、失った家族、
内戦の影と云い様もない、息苦しさ、なのだろうか。
それは、ある意味事実で、でも、すべてではない。


ティピカルでシンボリックな難民の姿を文章にしなくてはならなくて、

それに疲れきっていた。
それぞれの暮らしの文脈の中に、
辛く苦しいものも、ささやかで幸せな
小さなものもあるはずなのに、
そういうものはそこそこに、日本人が考える「難民」を
より形として浮き上がらすことのできる内容を求められていた。

どうしたって事実しか書いてはならない。

その場合。人を、ケースを選ばなくてはならない。
より「日本人の思う難民っぽいから」という理由で、
その対象を選ぶ。
そこで聞き出される質問は、日本人の私が、
難民に対して多くの日本人が持つイメージをより鮮明にすることを
目的としたものに、限定される。
結局のところ、
限られた字数の中で、
その詳細を親密さを持って書く技能がないから
期待される「難民」の姿に頼って
書くことしかできないのだろう、と
逡巡の果てに、思った。
粘ったら見えたかもしれない何かは捨てて、
作業のようにこなすしかない、と一旦は腹を決めたが、
でもそれが随分と失礼なことだと、思いとどまる。

文章のためのヒアリングに往く。

家庭訪問に往くと、写真を撮れない家庭が多い。
宗教的な理由から、特に女の子の写真を納めるのは、難しい。
ましてや、「ティピカルな難民の子どもの話を書くのに使わせてほしい」など、
説明できるわけもない。

それでも、最後に写真を数枚だけ撮らせてもらった家庭があった。

最後まで嬉しそうな顔は見せてくれなかったその子の
暗い写真が手元に残る。

数週間前、その訪問の後に

久しぶりにその子の顔を描きたくなって、鉛筆を取る。
描いている間ずっと
その子から聞いた話を反芻していた。
彼女が笑わなかった理由はたくさんありすぎる。

当然元々デッサンは苦手なので全然思うように描けない。

特に口元がうまくいかない、と執着して
全体が見えないのは、絵でも彫刻でも同じだった、と
自分の過去の限界を、また、苦々しく思い知らされる。

しばらく、その絵は机の上に置きっぱなしになっていた。

何度見たって、描けてないものは要素は大量にあって
描けていないたくさんのものを見出しながら
彼女から聞けていないこともたくさんあっただろう、と
ずっとどこかで、その絵は私を弾糾し続ける。



どんなものを造り出す時にも、
最終的に形にするための基のようなものが、必要とされる。
そこには、全体を把握し、消化し、昇華する作業がある。
ディテールから共通項を見つけ出し、
ある思想に昇華しなくてはならない。
いつまでたっても、どこかで
私は対象となる人々をうまく、
確固たる基を持って、描き出すことができない。

でも、確実に、その長靴は、何かを私に明示していた。
それが何だったのか、どうしても、掴まなくてはならない。







2017/08/14

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


まだまだ、夏は続く。

夏の盛りに美しいのはブーゲンビリアで、
この国で初めて見た、真っ白なブーゲンビリアは
こんもりとアパートメントの壁から漏れ出ていた。
濃く艶やかな緑と、真っ白の花は
ふいに、ここが南国のように暑いのだということを、思い出させる。

久々の家庭訪問は、所属団体の原稿のためで
いつものようなアンケートをベースにした話の展開ではなく
往った先の様子から、あくまで自然に、
質問事項をひねり出さなくてはならなかった。

うまく書き取れないことも、聞き取れないことも、多かった。

まだ記憶が鮮明な間に
おそらく原稿には使えない、
私、が主語で見たものを、書いておく。



1件目:ジャバル・フセイン


アパートメントの入り口には、赤いブーゲンビリアが咲いていた。

こぎれいな、少し古い建物の入り口には
瀟洒な鉄の飾りの施されたガラスの覗き窓がある。

伺った家庭は、よく知っている生徒のお宅で

兄弟3人でよく、身を寄せ合って学校へ来ているのを
訪れたどのスタッフもよく、記憶していた。

迎えてくれたのは、生徒のいとこに当たる人だった。

おそらく、25歳ぐらいだろう、
個人的に好きな部類の、やさしく聡明な表情が
こちらを安心させてくれる。

何となく、相手の顔から
初対面でも頬を寄せる挨拶ができるかどうか
自分の中の判断基準がある。
彼女はそれを、無条件でさせてくれる雰囲気があった。

でも、会話の節々で、じっとこちらを見る視線が気になる。

よく、相手のことを見る、視線だ。

聞けば、特別支援の教員を、シリアではしていたと云う。

教員の視線なのだ、ということを、知る。


家族の名字がジャザエリ、と言う。
これは、アルジェリアのアラビア語名で
もともとは、アルジェリアからシリアへの移民とのことだった。
パスポートも、アルジェリアのパスポートを持っている。
だから、陸路ではなく、空路でヨルダンに逃げてきた。

ダマスカスの、ダウンタウンにほど近い

まん中のまん中に、家はあった、と云う。
家庭訪問の経験から、シャーム(ダマスカス)と答える家族も
郊外に住んでいたケースが多い。
でも、この家族は、生粋の、シャーミー(ダマスカスッ子)だった。

子どもへと話そうとしても、話が脱線する。

当の本人は恥ずかしがり屋でなかなか話そうとせず、
大人たちが話を進めてしまうからだ。
いとこが男女の双子で、スタッフとこの二人が
シリアでの話やら、こちらでの話やらを、する。

誰かが帰ってきたと云って、

子どもたちが玄関から外へ出て行く。
次々と、大量の茄子やら、タマネギやら、キュウリやら、トマトやら
ついでに5つもメロンの入った袋まで
運び入れている。

そして、おばあさんが、買い物から帰ってきた。


おばあさんは結構なお年なのだろうけれど、

日本人が珍しいのか、目を大きく見開いて
こちらの話を聞きつつ、会話に入ってきた。

ダマスカスの話をしていたとき、

朝5時半頃にはアラーイス(ひき肉の乗ったパン)を売る人が出てきて、
いろんな小径にたくさんのお店があって、、、、と
記憶を辿りながら、街の様子を話してくれる。

日当りのいい窓付きのベランダには

立派なアルジェリアの国旗が飾ってあった。


国籍はアルジェリアでも、アルジェリアに戻りたいとは思わない。

もちろん、シリアの状況が良くなったらシリアに戻りたいけれど、
ヨルダンでも、治安がいいし、言葉も同じだし、
暮らしていけるのだから、と、云う。
昔、パレスティナもヨルダンもシリアも
同じ地域だったのよね、と
大人たちはみな、穏やかな顔つきでうなずきながら話していた。

その感覚はたぶん、彼らもまた他の国からの移民で、

同行したスタッフもまた、母親はトルコ人なので、
自分の住んでいる土地を、温かいけれども、客観的に見る術を、持っているということだ。

手をいじりながら、あまり話に参加しようとしなかった生徒は
でも、最後の最後に、
ひょろりと細い腕を突き出して、
帰りがけにはきちんと、握手をしてくれた。




2件目:マルカ・シャマーリー


アパートメントの階段が途中から

タイルのないコンクリート打ちに変わる。
上段に往くほど、建設途中の可能性は大きい。

迎えにきてくれた男の子の後をついてドアに入っていくと、

5畳ほどの部屋の天井近くに
6つも鳥かごがあって
どのかごからも賑やかな小鳥の、さわやかな鳴き声が響いていた。

子ども連れの女性が、立て続けに二人、

通された部屋についてドアの向こうに消えていく。

お母さんは眼鏡をかけた真面目そうな人だったけれども
お母さんに負けずとも劣らず、
子どももまた、生真面目な子だった。
話し方はゆっくりだけれど
その速度は、よく考えてものを話す人のものだ。

ヨルダンへの避難を決めてシリアのパスポートを取り、

ヨルダンに空路で入国したのに
一度入国拒否をされて、レバノンへ強制的に送られた。
もちろん、実費で。
その後、再度ヨルダンへの入国に挑戦したのは
おばあさんが、心筋梗塞で入院したからだった。

途中でさっき入ってきた人たちが、また出て行く。

思ったよりもたくさんの人が、扉の奥から出て来て
そして、部屋を出ていくので、どういうことなのか、首を傾げる。

近所の人たちが、遊びに来て
おしゃべりをしているという。
どんな話をしているの?と、これも興味本位で訊いてみると、
料理の話とか、日々の暮らしのことなんかをね、と
ふっふと笑いながら、答えてくれた。
ご近所さんだから、シリア人も居るし、ヨルダン人も、パレスティナ人も来る。

ホムスの話をする時、つい、

街の状態が特にひどい、ホムスの写真ばかりを思い出してしまう。
けれども、農業のさかんな、緑の多い土地だったということを
会話の中から知らされる。

ヨルダンはからからで、

日本から来た、そして、ヨルダンの前にはベトナムに居た身としては
この土地の緑を、どうやって享受したらいいのか、
途方にくれてしまうことも、ある。
既に長くこちらに居るので、
緑のありがたみと、ささやかな緑への喜びは大きく、なったけれど、
根本的な緑への欲求は、ここに居る限り満たされない。

姉弟のうち、お姉さんは

絵を描くのが好きだと、云う。
どんな絵を描くのが好きなのか訊いてみたら、
自然の風景だと云う。
それは、シリアなのか、ヨルダンなのか、画像などからなのか
はたまた、想像なのか気になって、
尋ねてみる。

自然の色がきれいだから、想像でも描いている。
自然の景色を描いていると、素敵な気分になる、と。

どんな土地に居ても、いくつであっても、

緑を愛でる心持ちは、自然と沸き上がってくるものなのだと、
生真面目な顔のお姉さんを見ながら
納得させられる。


小鳥のさえずりは、おそらく

人間のおしゃべりと呼応しているのだろう。
まったく、あきれるほどに、
よく啼き、歌う小鳥たちだった。




3件目:ジャバル・フセイン


ジャバル・フセインのパレスティナキャンプは

過去に何度も訪れたことのある地域だ。
以前は友人がこの地域の学校で働いていて
手伝いにいったこともあった。
ここのUNRWAの学校には、アップライトのピアノが2台、ある。

でも、同行したローカルスタッフは一度も来たことがなくて

何だか怖いね、と云う。
別に彼がおかしいのでは、おそらく、ない。
この国の人たちの格差は大きい。
元来裕福な人たちは、特定の地域以外を、本当にあきれるほど、知らない。

訪問先は、フセインキャンプのメイン通りから

上と下に伸びるいくつもの道の一つを上がった
間口の小さな2階建てのアパートメントが続く
典型的なフセインキャンプの家の一つだった。

ここ辺りの建物は、隣の建物とつながっている作りが多く、

極端に窓が少ない。
過去に往った家庭の多くも
玄関からの光の他、どこからも外の光の入らない
どことなく湿った部屋が多かった。

通された部屋もまた、部屋の3面には窓がなくて

入り口のある壁の上方に開けられた小さな窓が
アパートの上階に続く階段につながっていた。
アパートの階段は建物の外側にあるので
その、小さな窓が明かり取りに、なっている。


なぜだか真っ紅に、部屋の半分が塗られていた。

随分と濃くて、深い紅。
その壁を背に、家族が座る。

話をするつもりだった子どもの他にも、
小さな子どもが3人やってきた。
なかなかやんちゃな子どもたちで
持っていたプラスティックの棒が、
見る間に裂かれてばらばらになっていった。

体格の似た3歳と5歳の小さな子がふたり居た。

てっきり兄弟だと思っていたら、違っていた。
5歳の子が、3歳の子の叔父に当たる、という。


5歳の子の姉にあたる子と、話をしていた。
ずっと、黒めがちな目はどこかかたくなで
14歳という年頃には似合わない
云い表せない影と、意思の強さがある。

ちょうど内戦が始まった時に2年生に上がったその子は、

シリアで3年、逃げまどった。
ヨルダンに来てもまだ、学校に往けない時期があったから
やっと落ち着いて学校に往ける頃には、
既に4年、ブランクがあった。

本当に、歳に似合わない苦労をたくさんして来たのだろう。


もう少し話をしてみたかったのだけれど、
どこからどう、聞き出したらいいのか、分からなかった。
彼女のとても黒い目が、どうも私には、
私のなにかを、拒絶されているように、
感じてしまったからなのかもしれない。

それでも、有名人のように

一緒に写真を撮って、などとお願いされる。
そんな硬い表情をしていてもやはり、
年頃の子らしいことも好きなんだな、と
勝手に心の中で、うれしくなっていた。

撮っていただいた写真を見直して、気がつく。

いい歳をして、どんな顔をしていいのかも分からず、

おどけたような締まりのない顔をして写っている私の横で、
やはり彼女の口は真っ直ぐ、横に引っぱられていた。
そして、どこまでも黒い目には、どこにも隙がなくて
レンズをしっかりと、見据えていた。






2017/07/30

空中の住人たち


今住んでいるフラットは
丘のてっぺんから少し降りたところに建つ
アパートメントの屋上の、ペントハウスだ。

元々あった建物の屋上に
二つぽこっと、おもちゃの小屋みたいに建っている。
それぞれの小屋は2階建てなので、屋上には4世帯が、住んでいる


アンマン城が見られる景色も大事だけれど、
音楽を大音量で流せることも、
このフラットを選んだ理由の一つだ。
すぐ横に建つモスクからのアザーンを別にすれば
大方の夕方は、心ゆくまで音楽を楽しめる。

アザーンタイムになると、こんな感じになる。


video










最近よく、この動画をベランダで見ている。
東京タワーの代わりに、我が家から見ることができるのは、
立派なミナレットと、近くのアザーンと、いうわけだ。
アザーンが終わると、また近くのカフェの騒音が下から沸き上がってくる。


我が家の下の階には以前、ヨルダン人が住んでいた。
半裸でベランダに出る姿が、私の部屋の窓から見下ろすと視界に入ってきて、
ちょっと、困った。
早朝まで、大音量で映画を観ている人だった。

ある日、やたら工事の音がするな、と思っていたら
小柄だけれどおしゃれなレバノン人のおじさんが
ヨルダン人の代わりに、移ってきた。
初めて彼を見た日、
まだまだ寒いアンマンの、北風の強い屋上のテラスで
ダウンジャケットを着た彼は、巻きたばこを吸っていた。
なぜだか、自分ちのベランダに居るのに、サングラスをかけていた。

部屋の内装に手を付け、ベランダにも板を打ち付け、植物を植えた。
アンマン城を見ながら、おしゃれにお酒が飲める
バーカウンターまでついている。
部屋の中にはミラーボールが回っていて
その片隅には、サマンサという名前の、ダッチワイフが座っている。

イナセな方だ。

今年のラマダンの初めに、ふと窓から下を見たら
巨大なビニールの丸い物体がが設置されていた。
トランポリンだったら、困るな、と思った。
ギルバート・グレイプの初めのシーンみたいに
飛び上がったら、我が家の中が丸見えだ。


でも、それはレバノンから運んできた蓋つきのジャグジーで
ラマダン中だというのに、
外国人の美女が、昼間からビキニを着て
ジャグジーを楽しんでいた。


向かいの2階、つまり、私のまさにお向かいには、
2ヶ月前まで、下のおじさんと同僚の、レバノン人が住んでいた。
レバノンから連れてきた、という
ヒッチコックと云う名の猫も、ある日やってきた。
いつも立派なおっぱいが半分見えてしまうような
セクシーな格好をして出歩く
キュートで人懐っこい
アフリカンとアラブーをごちゃ混ぜにした不思議なダンスを
音楽が流れるとすぐ披露してくれる、素敵な子だった。

レバノン内戦時に逃げ出した人たちの移住先の一つである
セネガルに彼女が発ってしまった後、
彼女のルームシェアメイトが、残った。
アメリカ人の女の人で、まだ20代だろう、彼女は
早口だし、やたらクレイジーを連発する。
何を話したらいいのやら分からなくて
適当な挨拶しか、してこなかった。

この子もある日、犬を連れてきた。
坂の下のペット屋さんで購入したと云う。
ちょっとバカっぽいだけれど
とにかく子犬の何たるかを体現している、愛くるしい犬。

一時期、屋上でトイレのしつけをしていて
その犬のトイレの砂とか、おしっこシートが風に舞っていた。


我が家の下のおじさんは、
よくいろんな人を呼んで、パーティーをする。
騒音対策として、私も呼ばれる。
文句を云われる前に、取り込んでしまえ、というわけだ。
正直、全く初対面の、モヒートを水のように飲む人たちと、
どんな話をしたらいいのか、やっぱり分からない。
だから、時々顔を出す程度だった。

それでも、顔を出すと
それぞれの人物関係が分かってきて
近所や階段で会う人たちが
あの人とつきあっていたり、この人の親戚だったり、で
状況を把握するには、悪くないのかもしれない、と思ったりした。




ちょうど昨日、家に帰ろうと
アパートメントの前の坂を下っていたら
向かいのアメリカ人の子っぽい人が、道の先で
見たこともないほどゆっくりと、坂を降りていた。
何だか、とても声をかけられる感じには見えない、背中だった。

そのまま通り過ぎてドッキャーン(小さなスーパー)に寄って、
建物の入り口に向かったら、
まさに彼女はアパートメントの門に入っていくところだった。

このまま6階分の階段を
ただならぬ背中が何かを物語る彼女と、
一緒に上がるのかと、一瞬途方に暮れた。

でも、階段は一つしかない。

軽く挨拶をして、ふっと彼女の顔を見ると、
案の定、サングラスの下から
ぼろぼろと涙が流れていた。

ここでアラブ人ならば、
根掘り葉掘り、質問攻めにする。
でも、さすがにそんなことをする勇気もない。
こちらとしても、心当たりがないでもなくて、
だから余計に、途方に暮れた。

彼女の家に出入りする髭もじゃの男の人は
以前、下の階のパーティーにふたりの小さな娘たちを連れてきていた。



こちらも見られたくないので、できるだけ見ないようにしている。
それでも、私がベランダやキッチンに居る限り
お向かいの出入りは目に入ってしまうのだ。

彼が犬の散歩をしているところに、ばったり出会ったりもした。
とにかく、そういう関係なのだろう。
それなりの年になったら、どうしたっていろいろ、あるものだ。


とぼとぼと階段をのぼる彼女は、それでも
社交辞令で、今日はどうだった?と、訊いてくる。
早口で、いつもよりも、神経質な高い声で。

いや、シリア人のお宅に往っていてね、子どもと遊んでいたの。
仕事じゃないんだけど、知り合いになってね。

当然、彼女は私の一日になど、興味がないことぐらい、分かっていた。
ただ、6階分の間を持たせるために、
なんとか話の糸口を見つけたかった。

お宅の様子や、子どもたちの話をしながら、
ふと、左の肩に、くまのマリオネットを連れていたことを思い出す。

私がくまさんの入った袋に目をやると、
なに、それ?と訊いてくる。
明らかに、日本っぽい柄の、随分と長細い、不可思議な袋だ。


きっと、これだって、さして興味がないだろう。
子どもにもおもちゃにも興味のありそうに見えない人だったし、
こちらも荷物で両手が塞がっていた。
でも、もしかしたら、と、くまさんを取り出してみた。


くまさんが袋から顔を出した瞬間、
サングラスの上の眉毛がきゅっと下がって、でも、口元は柔らかく上がって、
見たこともないような、笑顔になった。
ふわっと笑う顔を、金髪の細い髪が撫でていった。

これは、本当にかわいいね、と
微笑んだ。


その頃には屋上に着いたから、
遊んでみたかったら、うちにきてね、と云ってみた。

たぶん、来ることはないだろう。
犬と一緒に来たら、くまさんはくしゃくしゃにされてしまうし。


だけれども、くまさんは大人にも、効き目があることを、
立証できた、夕方だった。



その後彼女は、屋上のベンチに横になって、本を読んでいた。
私は、ベランダで、Afterglowという楽曲を聴いていた。

まさに、Afterglowが美しい時間だった。
彼女も起き上がって、ふと、
残光の美しい西の空に、顔を上げていた。

video





彼らの暮らしと、話の断片 7月4,5週 ー子どもたちとだぼぅどぅーぶー


6月の一時帰国中、
仕事の事業で必要な資金の募金活動をしていた。
助けていただいた方々のご縁で
くまのマリオネットを譲っていただいた。

マリオネット作家さんが居てね、と
マリオネットの動画を見せていただいた。
熊本に無償でマリオネットを譲る活動の一環で
幼稚園を訪問しているシーン、子どもたちの表情に釘付けになる。




いつもの妄想癖で頭が一杯になった。
絶対に、シリア人の子どもたちも喜ぶに違いない。

いい年をしてすぐ思っていることが顔に出る、と未だに周りの人たちにからかわれる。
この時もよほど、この動画を見ながら
欲しそうな顔をしていたのだろう。

マリオネットをいただいたすぐ後には、ヨルダンに戻る予定だった。
帰りの地下鉄の中で
自分が新しいおもちゃをもらった子どものように喜んでいた。
バカみたいにただ単純に、嬉しかった。


一時帰国の度に、日本にうまく適応できないのではないかと、恐怖に襲われる。

いつか日本にもどらなくては、と思いながら、
でも、ヨルダンに住んでいる、ということしか、
自分に価値がないという事実を、日本に戻るたびに、見せつけられる。
そして、今回はまさに、それを使って仕事をするしかなかった。


あれほどさっさとヨルダンに戻るんだと思っていたのに
図らずも長くなった、仕事に追われる東京放浪生活で、
いろんな方に助けていただいたのに
思うように募金の数字も伸びないし、
恐怖と裏腹に、日本の空気に慣れつつある自分も、怖かった。

そんな中で、日本にいてよかった、と思える瞬間の一つだった。
1本の動画に真摯で優しい視点がにじんでいて、
幸いにも、それを紹介していただく機会があった。

人とのつながりはありがたいと、心底しみじみと、思った。


ただ、今度は事業承認の省庁手続きに手間取った。
キャンプの子どもたちに、といただいたのに
キャンプの申請が進まない。
数ヶ月前から申請しているのに
いつまでたっても、
ラマダンだったから、担当者が居ないから、承認審議の会議が開かれないから、と
先延ばしになっていた。

そろそろ子どもたちの顔を見ないと
なんでこんな、日本から離れた国にいるのかも分からなくなってしまうし、
せっかくいただいたものも、
シリアの子どもたちと出会わせてあげられなければ、意味がない。

こういう時にも、
また、周りに人たちにお世話になりっぱなしになる。
この家庭訪問の前にも
数回訪れたことのあったアンマンの母子センターのアポを取ってもらった。

その時、そのセンターの子どもがつけてくれた名前が
”だぼぅどぅーぶ”だった。
”だっぶ”がアラビア語でくま。
くまのぬいぐるみ、とかくまくまさん、という、語感だ。
個人的に、この音が、気に入っている。
とにかく、アラビア語っぽい。
ムハンマドがハッムーデという愛称になるのと、
同じような言葉の活用だ。

名前がついたところで、次にマリオネットを連れて行ったのが
前話の続きになる、この家庭訪問だった。


マルカ・ジャヌビーエ ハイ ラアブース ーくまのマリオネットとー



金曜の午後か土曜日の方が、

個人的な家庭訪問は圧倒的にしやすい。
2週に渡って伺ったお宅も
午前中にはもっとたくさん親戚が遊びに来ていた、と云っていて
それでも部屋には次から次へと
親戚の子どもたちが集まってきていた。

お休みの日は、親戚同士が顔を合わせる

大事な日になる。

1回目の訪問前、

男の子3人兄弟の家だ、と
紹介していただいた人から家族構成を聞いたとき
きっと、気に入ってくれるだろう、と
衝動的にマリオネットを取りに、家へ戻った。
最上階のペントハウスに戻る途中、
エレベーターのない長い階段をひたすら登りながら
うまく自分が操れるのかを考えていなかった、と練習を怠っていたことと、
どんな家族なのか知らないことに、
少し後悔した。

家によっては、笑顔が一つも見られない家庭もある。
また、私たち外国人への警戒心を
あからさまに見せてくる親御さんもいる。
せっかくだぼぅどぅーぶを連れて往っても
空気が読めない状況になってしまうことも、
あり得るのだった。

でも、ありがたいことに、そんな遅ればせの杞憂を一蹴してくれる
元気な子どもたちが、訪問先では待っていた。

屋上のビニールプールで遊ぶ3人の子どもたちは、

あまりにはしゃぎすぎて、
プールサイドでご両親と用事を話す合間にも
子どもたちは飛沫を飛ばしまくり
お父さんから、休憩を云い渡される。
ちょうどいいタイミングだろうと、くまのマリオネットを出す。

パンツ一丁でプールから出てきた末っ子が

だぼぅどぅーぶを見て、文字通り踊りながら、喜んだ。
このマリオネットのパワーはすごさを
あらためて思い知らされる、
なんともかわいらしい喜びの踊りだった。


階下には”だばでぃーぶ”が居るよ、とお父さんは云う。

どう云う意味なのだろうか、と思いつつ、
階下の部屋へ往くと
子どもたちが寝室から、次から次へ、ぬいぐるみを持ってきた。
くまが3匹、蛇やら何やらよくわからないものまで、
たくさんのぬいぐるみがあった。

くま、の複数形は”だばでぃーぶ”になる。

アラビア語は、本当に、難しい。

手足が動くくまのぬいぐるみを持ちながら

間接は、革ね、糸をつけて、、、、と
お父さんはだぶどぅーぶの構造を既製のぬいぐるみに当てはめて
どうやったら作れるのか、と
ぶつぶつつぶやいていた。

このお父さんなら、作れるかもしれない。


お父さんとお母さんが子どもたちの様子をしっかり見ていてくれていたので

背丈がまだ小さくて、この兄弟には難しいけれど
だぼぅどぅーぶを操ってもらう。

長男ラビアがまず、コントローラーを器用に握って

歩かせる。
指がまだ長くないから
口を動かす糸には指がとどかなくて
口が開きっぱなしになる。

すると、次男のヤーコブが

この糸が口につながってるんだよね、と
口をぱくぱく動かす。
末っ子のイスマイールが握手とキッスを浴びせかける。

なるほど、3人でやれば、できるかもしれない、と

新しい発見をした。

こちらでは、必ず会った時には、
アッサラーム アレイコムと云って、握手をする。
近しければ、もしくは、2回目に会った時からは
左頬に1回、右頬に3、4回、キスをする。
同じことを、だぼぅどぅーぶにもしてくれるわけだ。


でも、どう動かしているのかは自分たちでは見られない。

鏡はある?と訊いたら
ご両親の寝室に連れて行ってくれた。

ベッドの上にだぼぅどぅーぶを座らせて、

ベッドの上に子どもたちは立って、
きゃっきゃと云いながら、マリオネットで遊んでいた。
そのうち、そういえば、と
寝室の奥から、普段はたぶん、触らせてもらえないのだろう
秘蔵のおもちゃを持ち出してきて、
これはトルコに住む親戚から送られてきたの、と
電源につなぐと光の灯る、小さな家を見せてくれた。

長男ラビアが違うおもちゃに気持ちが向き始めたのをいいことに、

次男ヤーコブがまた、コントローラーを握り
一生懸命歩かせようとしていた。
あまりうまくいかないのだけれど
本人は満足げに、ご両親のところに連れて往った。

あまりマリオネットは器用に動かせなかったけれど

6歳のヤーコブは既に、47章までコーランを覚えている。
お父さんは近くでコーラン教室を開いているのもあって、
47章目をがんばって暗唱してくれた。

だぼぅどぅーぶと、無邪気な子どもたちと

無邪気に過ごせる環境を作り出しているご両親のおかげで
コロコロと笑いが絶えない、時間を過ごした。

2回目の訪問の時には、親戚の子どもたちも来ていた。

本当に、みんな同じように挨拶をする。
それがおかしくて、かわいらしくて、
いつまでたっても人気者のだぼぅどぅーぶは
キスをされまくり、握手をされまくり
アラブ風の踊りまで踊って、
大活躍だった。


シリアの子どもたちを笑顔に、といただいたのだけれど
私の方が、楽しませていただいて、
助けてもらっている。


2017/07/29

彼らの暮らしと、話の断片 7月 4,5週目 ー水泳(シバーハ)ー


アンマンは、例年よりも暑い、とみんなが口をそろえて云う。
今年は何だか蒸していて、いつもと調子が違っているせいか、
標高が高いアンマンだから享受できる、涼しい夜も
この週はお預けだった。

夕方を過ぎても
日本のように夕立があるわけでもない。

ただただ、ひたすら乾季のアンマンでは、
日が傾いても、色だけ少し黄色に染まった太陽が
じりじりと肌を焼いていく。

久しぶりにシリア人宅へ往く。
仕事ではないけれど、用事があった。
1回目はお願いごとの説明、2回目がお願いごとをしていただく日だった。

マルカ・ジャヌービーエ・ハイ ラアブース ーアパートの屋上ー

連れてきていただいた人と、建物の階段を昇る。

最上階の家のドアを叩いてみるけれど、気配がない。
その代わりに、子どものはしゃぐかすかな声が
屋上に続く階段の明るい光の先から、聴こえる。

屋上に上がると、丘のてっぺんの建物の、さらにてっぺんから

北東に広がるアンマンの街が、見えた。
ただ猫みたいに見晴らしのいいところが好きだから、
うぅんと、背伸びをする。

でも、景色を楽しむことを忘れさせるほど見事なビニールプールが

屋上の半分ぐらいを占めていて、
その中で、男の子が3人、きゃっきゃと騒いでいた。
そして、その脇で夫婦が、子どもたちの様子を見ていた。


初めて会った夫婦は、

シリア人家庭に伺うと感じる、目には見えないけれど、確固とした安定感があった。
これを感じるとき、いつも、とてつもなく、落ち着く。

子どもたちが水をばしゃばしゃしながら、心一杯遊ぶ横で
用件を話す。
感触通り、理解のある夫婦で、
用件はすんなりと話がついた。

その後、世間話をしていると、恒例のように年齢の話になって、
いくつなの?などと訊かれ、云いたくないですよ、と
仕方なくにやつきながら、答える。

お母さんはお世辞を云ってくれる。

もう、お世辞を云ってくれるであろう雰囲気さえ、分かるようになってしまった。
随分と若く見積もってくれたので、お礼を云いつつ
ずっと上なのよ、などと云うと、
お母さんはあら、じゃあ、私とあまり変わらないかしら、と云う。
聞けば、お母さんは3つ上、お父さんは1つ上だった。
姉さん女房は珍しい。
ただ、それよりも、お父さんが同じ学年だということに、驚いた。

すっかり髭が白髪になっているお父さんは

いや、白くなっちゃったんだけどね、と
こちらが抱いた印象を読み取るように、髭を撫でていた。

ホムスから来たという家族は

親族も同じアパートに住んでいて
屋上の建物をぐるりと見回しながら
あの建物も、そっちの建物も、
みんなシリア人が住んでいるんだよ、と云った。

こんな立派なプール、見たことなかったと、感心していると、
これはエジプト製なんだ、と自慢げに教えてくれる。
小さいけれど水質を保つフィルター付きポンプがついていて
塩素も入れているらしい。

子どもたちが本当に、身体も心もいっぱいに遊んでいる様子を見ながら

ここ数年の間、家庭訪問する度にずっと気になっていたことが、
それこそ、やっと家に帰ってこられた迷い猫のように、
すっと、納まった。

家庭訪問で、子どもたちに趣味は何か、訊いていた。

特にホムスとハマーから避難してきた家族は必ずと云っていいほど
シバーハ(水泳)と答えていた。
ヨルダンはそもそも水が限られていて、
人口当たりの消費できる水量もワースト10に入るような国だから
プールもほとんどない。
川も人が入って遊べるようなところはないから
ヨルダン人の子どもたちからこの解答は、一度も聞いたことがない。

聞き手の自分には想像がつかなくて

川が近くにあったの?とか、どこで泳いでいたの?とか
根掘り葉掘り訊いたこともあった。
場所は様々だったけれど、だれもがシバーハの話をするとき、
懐かしいような、寂しいような表情を一瞬、見せる。
その度に、申し訳ない気持ちになり、
その度に、でも、腑に落ちなかった。

確かに立派だけれど、泳げるほどのサイズではないビニールプールで

水遊び、と云った方がいいような風情ではあるけれど
見たことがないほど思い切り良く遊んでいる、シリア人の子どもたちを見て
ただ、無性に感慨深かった。


2回目に伺った時も、

その家族の末っ子が、彼よりも年上の親戚や兄弟がお祈りをしている様子を尻目に
ねぇ、上に行って泳ごうよ、と
ひそひそ声で誘ってきた。

上は10歳から下は4歳まで、6人の男の子と女の子1人が

プールの中でばしゃばしゃと水を掛け合い
飛び込んだり,文字通り少し泳いだりする様子を見られたのは
ただ、見ているだけなのに、
随分と、幸せだった。

結局一度も訪れることができていないシリアの、

どこかのどかな田舎の
川ベリの情景を、想像していた。