2018/01/06

年の瀬から年始にかけての、音楽事情


年末には必ず、今年の音楽まとめ、のようなことを勝手にするのだけれど、
あまり豊作とは云えない年だった、と
12月に入ったあたりで、思っていた。

そもそも、いつも新しい楽曲のアップデートは、帰国中にする。
タワレコに往く日、というのが帰国のスケジュールに必ず、丸1日とってある。
本屋と並ぶ、大事な時間だ。

旧年中は1回だけしか帰れていなくて、
そこで買ったCDは1枚だけだった。
だから、豊作ではない、ということになる。

ただ、最後の数ヶ月でライブ音源を中心に小さなヒットを連打し、
昔から聴いている曲たちと、いい具合に混ざって
個人的には一貫性があった、らしい。



視聴できない代わりに、
今年一年も、NPRのTiny Desk Concertに随分と助けられることになる。

いつまでも、自分でもよくわからないところに居ると、
とかくよく思う、年末だった。
定住できない人間は、ノマッドを体現する曲調で、自己肯定を試みる。
飽くまで試みなので、うまくいったためしはない。

浮遊していても素敵じゃないか、なんて思いながら
地に足つけるために、屋上の部屋から毎朝出勤のために降りるわけだ。






このサイトで、年末にみっけものだったのは、この曲だった。
ライブ版の方がいいので、最後の曲(10分ぐらいから)のものを。



ピアノがあったら、歌いながら弾けるのにな、と思った。
アラブの曲は、歌詞を口にするだけで必死にならざるを得ない
吉田拓郎も驚きの歌詞詰め込み型が多いのだけれど、
この曲ならば、歌える。

この人の不思議な踊りは、以前うちのお向かいに住んでいた
レバノン人ローラちゃんを思い出す。
ほんと、お酒を飲んでご機嫌になると、そっくりな身体の動かし方をしていた。

歌詞が少なめで何とか追えるけれど、
アラブ人独特の、若干本来の音よりも低く感じる
憂いのある声は、残念ながら
平均律で育った私には、一生出ることはないだろう。
それでも、音だけは出し放題の屋上の家で、1人真似をしてみたり、していた。


そして、自分の声に、あらためて失望することになる。

仕方あるまい、音楽は聴くものだ、と、腹をくくる。

日本に戻って、アルバムを買ってからしばらく、
ずっと聴き続けていたAsgeirもライブをしている。







11月にあたりから、よく聴いていたのは、この曲だった。
アルバムの1曲目だから、というのもあるのだろう。
他の曲もいいのだけれど、いつでもどこでもSting、という感覚は、残念ながら、ない。
イントロの音だけならば、スコットランドでも思い出しそうなものだけれど、
荒野のイメージは、この土地に合っていた。








やはり、寒いからだろうか。こういう楽曲に往きがちになる。
そして、心底冷えて、これはいけない、と何か、親密なものを聴くことにする。




以前も載せたけれど、やはりこのライブの音源が一番いい。


そして、近くて親しいものものはいくつかあるのだけれど、
最終的にはいつも、この音源になる。




いつ聴いても、グールドのintermezzoは、
濃淡や光と影が、明確に描き出されている。
他の人の演奏の方が正当派なのかもしれないけれど、
聴きたいと思うのは、この音源だ。
随分練習した曲だから、ピアノがあったら弾けるのに、と思う。


この映像も12月によく聴いていた。
完全にジャズというよりはフュージョンだけれど、
元々はクラシック畑の人なんだということが実感できる旋律だ。
楽しそうなのが、とにかく、とてつもなく、素敵だ。
これを聴いてから、よし、仕事へ往こう、ということになる。
幾分暴力的だけれど、そうでもしなければ、出かけられない事情もあるのだ。







年の瀬に豊作ではないことを後悔し始めた頃、
年末恒例BBCの昨年のベストアルバムをチェックしていて
久しぶりの名前を目にした。






この人たちの曲をよく聴いていたのは日本だったので、
私はこの曲の感覚がどこから来ているのか、分かっていなかったんだと、
気づくことになる。
寒さから一転、恐ろしく乾燥したところに耳だけが移動する。
マリの砂漠。


BBCサイトの紹介では、この人の楽曲も全般的に好みだった。
音の作りもそうだけれど、声が好みだ。
それから、素敵なドレッド。
ぜひ、次に日本に戻ったら、アルバムを買いたい。







年が明けてやっと2連休が取れた日の朝、
たまたま掃除の間にかけていたこのライブが、気に入った。

年末年始に預かっていた猫の毛が家中に落ちていて、
何だか掃除をしながら、寂しくなる。
アンマンは雨が降っていて、雲が形と厚みを変えながら
流れ続けていた。
寒いところからやってきた音楽だ。






つまるところ、昨年から年始にかけて
時々寒すぎて、暖を取ったけれど、
アイスランドやスウェーデンなど
寒いところにご縁のある音楽事情だった。

アイスランドに往ってみたらいいのかしら、と
アイスランドの景色の写真とかを、見たりした。
いっそのこと、極寒の地で潔く、寒さを楽しんだら、いい。

こんな大量の電気を消費しながら
あんなに寒いのがいやだいやだと云いながらも、
きっと、あの空気にさらされたら、
もう少しまともな思考回路になるはずだ、と
あの、鼻がつんとするような、
脳天を刺激する冷たさが、恋しくなり始めている。




2017/12/24

移動しながら、考える


乗り物に乗れる機会が、最近あまりなかった。
旅が苦手なせいか、休みが続けて取れないせいか、
長距離の移動をすることもなかった。

日常的に歩くことも少ないので、

歩きながら考える、という
そう云えば大事だったことも、久しくできていない。
これはヨルダンの道の作りのせいなのだけれど、
そもそも、どこかへ往くことも、あまりなかった。

奇しくも、仕事の予算のせいで、最近バスによく、乗る。

合計、うまく乗り継げても2時間ほどかかる道のりを
バスやらセルビスやらを乗り継いで、サイトへ出かけなくてはならなくなった。





バスの思い出で一番鮮明なのは、大学に入ったばかりの6月の移動だった。

祖父が亡くなったという連絡を受けての帰郷だった。
学生でお金もないので、東京から実家近くの街まで、
バスで帰った。

東京から横浜までの小さい、大きい、建物ばかりの景色から

小田原から熱海にかけてのトンネルと、一瞬見える、海。
富士山を拝みながら、開けた平野と大きな川を越え、
見事に剪定された茶畑の濃い緑、みかん畑の中を抜けて、
また住宅が増えてくると、下車が近づく。

祖父についての記憶を辿りながら、

過ぎ去る景色をただ、一つも見逃すまい、と
バカみたいに真剣に窓の外を見ていた。
たまたまその時によく聴いていた、ショパンのピアノコンチェルトは
繊細だけれど潔い、甘くなりすぎることのない、ピリスの演奏だった。
大きなCDウォークマンを膝に載せて、聴く。
CDが終わってもまだ、ずっと頭の中を旋律が徒に駆巡るので
結局何度も、繰り返して聴くことになった。
その頃は常にノートを持ち歩いていたので、
思うことや感じることを、よく、ノートに書いた。


その後、ショパンのピアノコンチェルトを聴くと、反射的に、

日本平の穏やかな白っぽい海と、三ヶ日あたりの鮮やかな緑を
思い出すこととなった。

移動する時に音楽を聴くと、

まるで映画の1シーンのように、
目に映る景色が違って見えてくることがある。
その時の気持ちに合わせて、
その時の景色に合う音楽を選ぶ。
乗り物に乗る時の、楽しみでもある。
1人の移動には、欠かせない。


ヨルダンに住み始めた初めの2年、

毎朝10分ぐらいだけだけれど、バスに乗って出勤していた。
朝早い時間のバスの中では、コーランが流れていることが多くて、
坂道を転げ落ちるように下るその道のりでコーランを聞けると、
きっと、事故はないだろう、と妙に安心した。
今でもコーランが流れている時には、音楽は聴かないようにしている。



今月の頭、仕事でとてつもなく憔悴して帰った日があった。

その美しさを愛でるより他に、できることがなくて
進行方向に沈む夕日を見続けていた。
辺りは一面の土漠で、どこにも緑なんてない。
満員のバスは人いきれで暑いような、でも
空調のせいか冷たい風が頭をかするから、寒いような、
頭と同じぐらい感覚も混乱していて、
唇が乾燥していくのを、そういうものとして、感じながら、
ただただ、放心していた。
その時は、新世界を聴いていたけれど、
その音楽の壮大さと、自分の頭の中の混乱は、どうにも釣り合いが取れなくて
ただ、できるだけ違う何かへ意識を向けさせるためのものでしかなかった。


音楽と、景色と、心持ちがうまく合う瞬間があるバスの移動は、

つらつらとものを考えるのに、とてもいい。
どのみちそこで浮かんでくる考えに、
大したものなどないのだけれど、
どこか、大事な時間のように、思える。

今の移動時間では、まだ物足りない。

目的と手段が逆になってしまう滑稽さを持っても、
ただ考えるためだけに、ずっと長距離バスに乗っていたい。



2017/12/09

そして、アンマン城参り


城を見る、というのは、どうも
生まれた時からの習性のようだ。
私の今のアパートメントからアンマン城までの距離と
実家から山城までの距離が、直線でちょうど同じぐらいだ。


実家の台所から西に見える山城は
夕日をバックに黒い輪郭を描いていた。
そして、アンマンのアパートメントから南東に見えるアンマン城は、
遠い夕日に色が黄色く、赤く、染まる。



冬になるとなぜか、アンマン城に往きたくなる。


小春日和にはもう遅い、初冬のアンマンで
穏やかな冬の、傾いた日射しを享受するには
アンマン城が一番、いい。

残念ながら、緩やかな坂道ばかりの山城への道のりと
丘を下って登る、アンマン城への道のりでは
疲労具合が違う。
それでも、自分の足で下って登る、というのは
決まり事になっている。

最近疲れきっているせいか、足が重い。
だから、ダウンタウンの入り口の、墓場の横の階段が何だか、長い。
うつむく青年、詩のタイトルを思い出す。

でも、城壁が見えてくると、足取りが軽くなる。
入り口への最後のスロープの手前の、いつもの店で濃いコーヒーを買って
鬱陶しいガイドを適当にあしらって
西の端っこへ、往く。

初めてアンマン城に来た時から
ここで休む、と決めている場所がある。
奇しくも、その後アンマン城好きが高じたせいで
その場所から自分のフラットがよく、見える。




遺跡の残骸の、石の壁に、すぽっと身体を納めて
夕日が落ちていくのを、鳩が旋回するのを、見る。

旋回の角度と道筋を決める群れの一羽が、
随分と大回りをしながら、随分と気持ち良さそうに先頭を飛ぶ。
何もない、ということを色にした、
どこまでも澄んだ、濃い青い空を
小さな鳩の姿が粒になって突っ切っていく。





私も、あの、何にもない空間に、身を置いてみたくなる。
もしくは、
あそこを立方体に切り取って、ずっと心のどこかに取っておきたい。
そして、ずっと、いつまでも、宝石みたいに、眺めていたい。


空を見ると、身体が少し、伸びる。
そして、肩こりにちょうどいい。

でも、首周りがすっと寒くなって、またきゅっと首をすくめる。
亀みたいだ、と思う。

頭も空みたいに真空にしたい時には、馴染んだ曲を聴くのが、いい。

金太郎あめみたいだ、と村上春樹が評した
内田光子のシューベルトの21番を
最後まで、夕日をみながら集中して、聴く。

日が落ちると、急に寒くなる。
そして、家に帰らなくては、と思う。






帰りに人に溢れたダウンタウンを歩きながら
また、Water Water Camelを聴く。
「あなたは ずっとちいさな にんげんだったのよ
 うつわじゃなかったの でも なんだっていうの」
知らない人ばかりの道なのに、
1人で、でも、親密な空気の中に居るような、気分になる。
「よろこびは しょくたくに かなしみはといれに」





お伊勢参りの帰りに買う生姜糖みたいに、
アンマン城からの下るとあるダウンタウンのお菓子屋さんで
オスマンリーエを、買う。
暖かい家履きのスリッパが必要だ、とか、思いつき
あやしい古着屋さんでスリッパを買う。
買ったあとで、そう云えば前も買ったんだった、と思い出す。

たぶん、何度も何度も、似たようなことを毎年、している。

アンマン城参りは、私にとって、
儀式のようなものなのだろう。

2017/11/17

染み込む秋の冷えと、音楽


春も短いけれど、秋も短いヨルダンでは、
暑い日が10月も続く。
いい加減にしたらいい、
などと愚痴を云っているうちに、いつの間にか
朝、部屋から一歩外へ出てすぐに、
マフラーを取りに戻らなくてはならなくなる。

また、今年もオリーブの圧搾所に往けなかった。
季節は目一杯楽しむべきだという、
信条に反することを、余儀なくされたりする。


ここ数週間、ひたすらボレロを聴いていた。
17、8分の楽曲を、ただ集中して、何回も聴く。



家に帰ってくると、とにかく、流していた。
一度思い出して聴きはじめると、癖になるのは
別にボレロに限った話ではない。
ただ、ボレロに関しては、
何度も聴けば、そもそもトランスの極みみたいな曲だから、
それなりに仕事から、気持ちが他のところに向くようだ。

小学校の時の学芸会で演奏したのを思い出して、
あの奇妙でトリッキーな、旋律に絡むハモりは、
小学生には難しすぎたのか、
編曲に含まれていなかったことに今更、気がついたりした。


そこから始まる、久しぶりのクラシック祭には
ピアノの音は繊細すぎた。
盛大にあらゆる楽器を使いまくるオーケストラを流し続け
何ならyoutubeで演奏の様子を凝視したりした。



新世界を聴くたびに、何故だかシリア人のことを思った。
新世界という楽曲には、
故郷を思う瞬間や
向かい合わなくてはならない未知の世界に対する
畏怖や震えが、あるような気がする。
それは、たぶん、彼らの心境のなにかしらに、共鳴するものだろう。

もっとも、新世界を聴く趣向を持つシリア人に
私は会ったことがないけれど。

ショスタコ、ブラームスを経由して、マーラーを聴く頃にふと、
今求めるものとは違うような気がしてきて、
いい加減寝ようか、なんてことになる。



今月はあまり休みが取れない。
休みともなれば、心ゆくまで寝るぐらいしかできる楽しみがなくて、
眺めばかりはいい部屋から、
日の傾斜が色を変えて、
真っ白な箱に埋め尽くされた街並を染めるのを
ぼんやりと見るともなしに見る頃には、
もう、夕方になってしまう。

鳩の舞いが、夕闇に群れが影になりかけた頃、
アザーンを聞きながら、声が聴きたい、と思う。
どこまでも親密な声を、聴きたい。
無理矢理クラシックで頭の中をすっからかんにしなくも、
まだ今日と云う休日には、時間がある。

そう思う時には、必ずまずは、これを聴く。




聴くたびに、同じ妄想をする曲もある。
寒いのに湿度のある、冷淡な都会の中の角で聴いたなら
救われるのか、絶望するのか、どちらなんだろうか、と。


Fuji rockの映像が見つかったのだけれど、
何だか、全然彼は、日本の緑あふれるピースフルなフェスに
しっくりきていなかった。







この人のアルバムは、日本に居る時に視聴した。




いじりすぎていて、元の音楽性がいいのか悪いのかもわからない、
というのが正直な感想だった。
でも、この映像だと、
どうやってその音を出しているのかも分かるし
本人の声の良さも、きちんと生きている。
こういう楽曲のアルバムだったら、買ったのに、と
気持ち良さそうに歌う顔を見つめた。


いろいろと検索をかけているうちに、
Nick Drakeにそっくりの不思議な深みのある和音を演奏するライブに当たる。




アルバムよりライブの方がいい、というのが結論だった。
アルゼンチンからの移民で、スウェーデン生まれ。

アルバムは、深みよりもまとまり感が先行している。
見た目のアルゼンチン感を一蹴する、
見事に北欧系の楽曲の特徴を系譜した曲作りだった。


寒くなってきて、今年初の、エアコンを入れる。

しっくりくるものがなかったわけではないけれど、
これではまだ、冬の寒さに耐えられるだけの
取り憑かれるような魅力には、欠ける、ような気がする。

秋も冬も、その音で身体いっぱいになった時、
どんな温度も湿度も、その冷たさと湿り気を
鋭敏に、愛でるように、感じられるような
音楽が欲しい。

どうしようもなく寒くなるには、
まだもう少しだけ、時間が必要だ。





2017/10/15

新しい暮らしを約束してくれる土地





勧められた本だから、というのもあるけれど
この本を読もうと思ったのは、
ここ数年、ずっと疑問として頭を擡げていたことの答えが
もしかしたら本の中にあるかもしれない、と、思ったからだった。

私の周りに居るシリア人はみな
当然、私の周りだから、ヨルダンに居る。
ヨルダンに居るシリア人のほとんどは
シリアから直接避難していて
他の国を経由してやってくることはない。
もっとも、一度ヨルダンのイミグレで、レバノンに送られた、
という家族は居たけれど、
地理的にも、経由の必要はない。
そして、他の国へ往こうにも、
シリア、イラク、パレスティナに囲まれたヨルダンから
空路を抜きにして移動するのは、サウディの他、選択肢がなく
サウディに往こうとしている人など、一度も会ったことがなかった。

今までに私の会ったシリア人の中にも
息子が地中海を渡った家族、親族がドイツで永住権を得た家族がいた。
そんな家族は皆、ヨーロッパに憧れつつ
第三国定住の申請をしつつ、
それでもヨルダンに居ることを一時的にでも、選択していた。

シリア人を含め、アラブ人の気質をそれなりに知っている私は、
ヨーロッパに渡るシリア人たちが、
ただただ海を渡り、想像を絶する距離を移動するニュースを見聞きしながら
きっと、その先でまた待っている困難を想像しきれていない、かもしれない、
彼らの盲目さに、そこはかとない不安を抱き続けていた。

シリア人は、リスクの大きさを、どれだけ考えているのだろうか。
大量のシリア人を受け入れることの難しさがすぐに
政策の変更につながるだろうと予見していたら、
案の定、ヨーロッパ諸国の難民受け入れの条件がどんどんと厳しくなっていった。

ヨーロッパの各地でテロが起こる度に
移民、難民としてその国々に居る人たちの暮らしを脅かしていることを思い、
胸が痛んだ。



何よりも、たどり着いた先で待っている暮らしが、
シリアよりもよほど寒くて、知り合いも少なくて
大なり小なり偏見を持たれ、言葉も通じず、宗教も違う、ということの意味するところを
どれぐらい、想定し、考えているのだろうか、と
こんなに長く住んでいてもヨルダンに馴染めない私には、
彼らの勇気よりも無謀さが、どこかで決定的に、腑に落ちなかった。


ヨルダンがいい、と云っているわけでは、けして、ない。
ただ、少なくとも、言葉が同じで、宗教、宗派も多くのシリア人にとって同じで、
過去から人の行き来があった国の方が、
たとえ労働許可を取れる可能性がものすごく低くても
生活の基盤は作り易いはずだ、と、思ったりした。
教育だって、同じ言語か否かは、最重要問題と、云える。


本の中では、ヨルダン経由、トルコ経由、北アフリカから、アフガニスタンから、
様々な移民や難民が登場する。
多くの人々の状況は、移動していけば往くほど苦しくなり、
移動を始めたら最後、
冷ややかに、暴力的に、間接的に、自分たちを阻害する人や国を通過して、
自分が目指すゴールまで
移動し続けるしか、ない。

今居るところよりましなところが、きっとある。
自分たちを温かく受け入れてくれる国が、その先にある。
難民の権利を認めてくれる国へ、家族と共に暮らせる国へ、とにかく移動し続ける
その壮絶な旅の記録や背景が、本当に仔細に、書かれていた。

移動していかざるをえない人々にとって
移動を突き動かすものは、
「新しい暮らしを約束してくれる土地」だった。
未来が描ける環境が、特に子どもを抱えた家族にとって
何よりも、かえがたいものだと。
これが、ただただ明確な、彼らの移動の理由だった。

自国で受けた仕打ちに比べたら、
国境のフェンスを越えるのも
ぼろぼろの船に乗るのも、道ばたで野宿するのも、
大したことではない、と、多くの人は本の中で語っていた。

自国で受けた仕打ち、は
私の周りのシリア人のほとんども、また
経験しているはずだった。
本の筆者がずっと同行していたシリア人が
ヨルダンへ出国するまでに経験したことが詳細に書かれた部分を読んだとき
あえて私も詳細を訊いたことのなかった、周囲の人たちの
内戦後のシリアでの経験を、見た気がした。

片や、様々な理由でヨルダンに留まり、
片や、移動をし続ける。

現在の第三国定住や難民申請のプロセスでは
どちらがいい、とも、言い難い。

ただ、死とすれすれで移動してきた人たちを突き動かしたものと同じものを、
シリア人の多くがどこにいても、まだ抱いているはずで、
私の周囲のシリア人の多くも、当然、抱いているはずだ。


彼らの未来に夢を抱ける環境、
それが、受け入れを行うヨーロッパの国々なのか
ヨルダンやレバノンなどの隣国なのか、
情勢が安定する、いつの日かのシリアなのか、分からない。

祖国のすぐ脇で、
移動もできず、希望も捨てられず、
踏みとどまる苦しみ、というものもあることを、
移動し続ける人々の姿の背後に、見た気がした。



2017/09/01

青いぴかぴかの長靴の、男の子


ザータリキャンプで、
真っ青な長靴をはいた
3、4歳の男の子の姿を見た。
まだ、今年最初の雨まで3ヶ月は待たなくてはならない、
夏の終わり。

その日、キャンプへの道すがらに、

幹線道路から見えるキャンプの全景を無感動に眺めて、
シリア難民キャンプの、シンボルのようなその見慣れた図に、
「これを難民キャンプというものとして捉えるのは、陳腐だ」と心の中で呟いていた。

そして、そう思ったことに、自分で随分動揺した。
その呟きと動揺の関係性が漠然としか見えないままキャンプに入った。

朝から暑いキャンプの、

入り口からほど近いプレハブとプレハブの間で、
水なんてどこにもないのに、
ぴかぴかの長靴をはいた
その男の子を、見た。

ちょうどブローティガンの

「シンガポールの高い塔」という話のように
啓示を持って現れる
私にとっての、確実に愛おしい、なにかだった。

同時に、親密さと俯瞰のバランスが

未だに全く取れていない、ということに気がつく。

ある意味、難民の暮らす場所の象徴として、

ザータリキャンプの遠景があるとして、
その図に、何を見出すのだろう。
埃の舞う厳しい暮らしや、失った家族、
内戦の影と云い様もない、息苦しさ、なのだろうか。
それは、ある意味事実で、でも、すべてではない。


ティピカルでシンボリックな難民の姿を文章にしなくてはならなくて、

それに疲れきっていた。
それぞれの暮らしの文脈の中に、
辛く苦しいものも、ささやかで幸せな
小さなものもあるはずなのに、
そういうものはそこそこに、日本人が考える「難民」を
より形として浮き上がらすことのできる内容を求められていた。

どうしたって事実しか書いてはならない。

その場合。人を、ケースを選ばなくてはならない。
より「日本人の思う難民っぽいから」という理由で、
その対象を選ぶ。
そこで聞き出される質問は、日本人の私が、
難民に対して多くの日本人が持つイメージをより鮮明にすることを
目的としたものに、限定される。
結局のところ、
限られた字数の中で、
その詳細を親密さを持って書く技能がないから
期待される「難民」の姿に頼って
書くことしかできないのだろう、と
逡巡の果てに、思った。
粘ったら見えたかもしれない何かは捨てて、
作業のようにこなすしかない、と一旦は腹を決めたが、
でもそれが随分と失礼なことだと、思いとどまる。

文章のためのヒアリングに往く。

家庭訪問に往くと、写真を撮れない家庭が多い。
宗教的な理由から、特に女の子の写真を納めるのは、難しい。
ましてや、「ティピカルな難民の子どもの話を書くのに使わせてほしい」など、
説明できるわけもない。

それでも、最後に写真を数枚だけ撮らせてもらった家庭があった。

最後まで嬉しそうな顔は見せてくれなかったその子の
暗い写真が手元に残る。

数週間前、その訪問の後に

久しぶりにその子の顔を描きたくなって、鉛筆を取る。
描いている間ずっと
その子から聞いた話を反芻していた。
彼女が笑わなかった理由はたくさんありすぎる。

当然元々デッサンは苦手なので全然思うように描けない。

特に口元がうまくいかない、と執着して
全体が見えないのは、絵でも彫刻でも同じだった、と
自分の過去の限界を、また、苦々しく思い知らされる。

しばらく、その絵は机の上に置きっぱなしになっていた。

何度見たって、描けてないものは要素は大量にあって
描けていないたくさんのものを見出しながら
彼女から聞けていないこともたくさんあっただろう、と
ずっとどこかで、その絵は私を弾糾し続ける。



どんなものを造り出す時にも、
最終的に形にするための基のようなものが、必要とされる。
そこには、全体を把握し、消化し、昇華する作業がある。
ディテールから共通項を見つけ出し、
ある思想に昇華しなくてはならない。
いつまでたっても、どこかで
私は対象となる人々をうまく、
確固たる基を持って、描き出すことができない。

でも、確実に、その長靴は、何かを私に明示していた。
それが何だったのか、どうしても、掴まなくてはならない。







2017/08/14

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


まだまだ、夏は続く。

夏の盛りに美しいのはブーゲンビリアで、
この国で初めて見た、真っ白なブーゲンビリアは
こんもりとアパートメントの壁から漏れ出ていた。
濃く艶やかな緑と、真っ白の花は
ふいに、ここが南国のように暑いのだということを、思い出させる。

久々の家庭訪問は、所属団体の原稿のためで
いつものようなアンケートをベースにした話の展開ではなく
往った先の様子から、あくまで自然に、
質問事項をひねり出さなくてはならなかった。

うまく書き取れないことも、聞き取れないことも、多かった。

まだ記憶が鮮明な間に
おそらく原稿には使えない、
私、が主語で見たものを、書いておく。



1件目:ジャバル・フセイン


アパートメントの入り口には、赤いブーゲンビリアが咲いていた。

こぎれいな、少し古い建物の入り口には
瀟洒な鉄の飾りの施されたガラスの覗き窓がある。

伺った家庭は、よく知っている生徒のお宅で

兄弟3人でよく、身を寄せ合って学校へ来ているのを
訪れたどのスタッフもよく、記憶していた。

迎えてくれたのは、生徒のいとこに当たる人だった。

おそらく、25歳ぐらいだろう、
個人的に好きな部類の、やさしく聡明な表情が
こちらを安心させてくれる。

何となく、相手の顔から
初対面でも頬を寄せる挨拶ができるかどうか
自分の中の判断基準がある。
彼女はそれを、無条件でさせてくれる雰囲気があった。

でも、会話の節々で、じっとこちらを見る視線が気になる。

よく、相手のことを見る、視線だ。

聞けば、特別支援の教員を、シリアではしていたと云う。

教員の視線なのだ、ということを、知る。


家族の名字がジャザエリ、と言う。
これは、アルジェリアのアラビア語名で
もともとは、アルジェリアからシリアへの移民とのことだった。
パスポートも、アルジェリアのパスポートを持っている。
だから、陸路ではなく、空路でヨルダンに逃げてきた。

ダマスカスの、ダウンタウンにほど近い

まん中のまん中に、家はあった、と云う。
家庭訪問の経験から、シャーム(ダマスカス)と答える家族も
郊外に住んでいたケースが多い。
でも、この家族は、生粋の、シャーミー(ダマスカスッ子)だった。

子どもへと話そうとしても、話が脱線する。

当の本人は恥ずかしがり屋でなかなか話そうとせず、
大人たちが話を進めてしまうからだ。
いとこが男女の双子で、スタッフとこの二人が
シリアでの話やら、こちらでの話やらを、する。

誰かが帰ってきたと云って、

子どもたちが玄関から外へ出て行く。
次々と、大量の茄子やら、タマネギやら、キュウリやら、トマトやら
ついでに5つもメロンの入った袋まで
運び入れている。

そして、おばあさんが、買い物から帰ってきた。


おばあさんは結構なお年なのだろうけれど、

日本人が珍しいのか、目を大きく見開いて
こちらの話を聞きつつ、会話に入ってきた。

ダマスカスの話をしていたとき、

朝5時半頃にはアラーイス(ひき肉の乗ったパン)を売る人が出てきて、
いろんな小径にたくさんのお店があって、、、、と
記憶を辿りながら、街の様子を話してくれる。

日当りのいい窓付きのベランダには

立派なアルジェリアの国旗が飾ってあった。


国籍はアルジェリアでも、アルジェリアに戻りたいとは思わない。

もちろん、シリアの状況が良くなったらシリアに戻りたいけれど、
ヨルダンでも、治安がいいし、言葉も同じだし、
暮らしていけるのだから、と、云う。
昔、パレスティナもヨルダンもシリアも
同じ地域だったのよね、と
大人たちはみな、穏やかな顔つきでうなずきながら話していた。

その感覚はたぶん、彼らもまた他の国からの移民で、

同行したスタッフもまた、母親はトルコ人なので、
自分の住んでいる土地を、温かいけれども、客観的に見る術を、持っているということだ。

手をいじりながら、あまり話に参加しようとしなかった生徒は
でも、最後の最後に、
ひょろりと細い腕を突き出して、
帰りがけにはきちんと、握手をしてくれた。




2件目:マルカ・シャマーリー


アパートメントの階段が途中から

タイルのないコンクリート打ちに変わる。
上段に往くほど、建設途中の可能性は大きい。

迎えにきてくれた男の子の後をついてドアに入っていくと、

5畳ほどの部屋の天井近くに
6つも鳥かごがあって
どのかごからも賑やかな小鳥の、さわやかな鳴き声が響いていた。

子ども連れの女性が、立て続けに二人、

通された部屋についてドアの向こうに消えていく。

お母さんは眼鏡をかけた真面目そうな人だったけれども
お母さんに負けずとも劣らず、
子どももまた、生真面目な子だった。
話し方はゆっくりだけれど
その速度は、よく考えてものを話す人のものだ。

ヨルダンへの避難を決めてシリアのパスポートを取り、

ヨルダンに空路で入国したのに
一度入国拒否をされて、レバノンへ強制的に送られた。
もちろん、実費で。
その後、再度ヨルダンへの入国に挑戦したのは
おばあさんが、心筋梗塞で入院したからだった。

途中でさっき入ってきた人たちが、また出て行く。

思ったよりもたくさんの人が、扉の奥から出て来て
そして、部屋を出ていくので、どういうことなのか、首を傾げる。

近所の人たちが、遊びに来て
おしゃべりをしているという。
どんな話をしているの?と、これも興味本位で訊いてみると、
料理の話とか、日々の暮らしのことなんかをね、と
ふっふと笑いながら、答えてくれた。
ご近所さんだから、シリア人も居るし、ヨルダン人も、パレスティナ人も来る。

ホムスの話をする時、つい、

街の状態が特にひどい、ホムスの写真ばかりを思い出してしまう。
けれども、農業のさかんな、緑の多い土地だったということを
会話の中から知らされる。

ヨルダンはからからで、

日本から来た、そして、ヨルダンの前にはベトナムに居た身としては
この土地の緑を、どうやって享受したらいいのか、
途方にくれてしまうことも、ある。
既に長くこちらに居るので、
緑のありがたみと、ささやかな緑への喜びは大きく、なったけれど、
根本的な緑への欲求は、ここに居る限り満たされない。

姉弟のうち、お姉さんは

絵を描くのが好きだと、云う。
どんな絵を描くのが好きなのか訊いてみたら、
自然の風景だと云う。
それは、シリアなのか、ヨルダンなのか、画像などからなのか
はたまた、想像なのか気になって、
尋ねてみる。

自然の色がきれいだから、想像でも描いている。
自然の景色を描いていると、素敵な気分になる、と。

どんな土地に居ても、いくつであっても、

緑を愛でる心持ちは、自然と沸き上がってくるものなのだと、
生真面目な顔のお姉さんを見ながら
納得させられる。


小鳥のさえずりは、おそらく

人間のおしゃべりと呼応しているのだろう。
まったく、あきれるほどに、
よく啼き、歌う小鳥たちだった。




3件目:ジャバル・フセイン


ジャバル・フセインのパレスティナキャンプは

過去に何度も訪れたことのある地域だ。
以前は友人がこの地域の学校で働いていて
手伝いにいったこともあった。
ここのUNRWAの学校には、アップライトのピアノが2台、ある。

でも、同行したローカルスタッフは一度も来たことがなくて

何だか怖いね、と云う。
別に彼がおかしいのでは、おそらく、ない。
この国の人たちの格差は大きい。
元来裕福な人たちは、特定の地域以外を、本当にあきれるほど、知らない。

訪問先は、フセインキャンプのメイン通りから

上と下に伸びるいくつもの道の一つを上がった
間口の小さな2階建てのアパートメントが続く
典型的なフセインキャンプの家の一つだった。

ここ辺りの建物は、隣の建物とつながっている作りが多く、

極端に窓が少ない。
過去に往った家庭の多くも
玄関からの光の他、どこからも外の光の入らない
どことなく湿った部屋が多かった。

通された部屋もまた、部屋の3面には窓がなくて

入り口のある壁の上方に開けられた小さな窓が
アパートの上階に続く階段につながっていた。
アパートの階段は建物の外側にあるので
その、小さな窓が明かり取りに、なっている。


なぜだか真っ紅に、部屋の半分が塗られていた。

随分と濃くて、深い紅。
その壁を背に、家族が座る。

話をするつもりだった子どもの他にも、
小さな子どもが3人やってきた。
なかなかやんちゃな子どもたちで
持っていたプラスティックの棒が、
見る間に裂かれてばらばらになっていった。

体格の似た3歳と5歳の小さな子がふたり居た。

てっきり兄弟だと思っていたら、違っていた。
5歳の子が、3歳の子の叔父に当たる、という。


5歳の子の姉にあたる子と、話をしていた。
ずっと、黒めがちな目はどこかかたくなで
14歳という年頃には似合わない
云い表せない影と、意思の強さがある。

ちょうど内戦が始まった時に2年生に上がったその子は、

シリアで3年、逃げまどった。
ヨルダンに来てもまだ、学校に往けない時期があったから
やっと落ち着いて学校に往ける頃には、
既に4年、ブランクがあった。

本当に、歳に似合わない苦労をたくさんして来たのだろう。


もう少し話をしてみたかったのだけれど、
どこからどう、聞き出したらいいのか、分からなかった。
彼女のとても黒い目が、どうも私には、
私のなにかを、拒絶されているように、
感じてしまったからなのかもしれない。

それでも、有名人のように

一緒に写真を撮って、などとお願いされる。
そんな硬い表情をしていてもやはり、
年頃の子らしいことも好きなんだな、と
勝手に心の中で、うれしくなっていた。

撮っていただいた写真を見直して、気がつく。

いい歳をして、どんな顔をしていいのかも分からず、

おどけたような締まりのない顔をして写っている私の横で、
やはり彼女の口は真っ直ぐ、横に引っぱられていた。
そして、どこまでも黒い目には、どこにも隙がなくて
レンズをしっかりと、見据えていた。