2024/03/27

春と冬のあいだに必要な、清冽さと均衡について


 ある暖かな日には、身体が軽くなるような気がする。
それは気のせいだったと、寒さが戻り、思い直す。

三寒四温とは、ずいぶんそのままの四字熟語だ。
足したら奇数になる数字で、いくらかでも
暖かさが増していることを比率で示したい、という
寒さへの失望と名残おしさ、そして、暖かさへの期待を
じわりと身勝手に、感じ取る。

そんな、奇数になるような集合を過ごすこの時季は
身体も心も中途半端で置きどころがなく、そのせいなのか、
見えるものや聴こえるもの、感覚がいつもよりほんの少し
敏感になっている。


おそらく目は、日の光が春の色に変わったり
また冬の色に戻ったりするのが、無意識に気になっているのだろう。
雨で冷える日は、ものの輪郭を形作る影が深く青い。
その青が突き抜けるように明度を増して、天気の良い日、空の色になる。
この時季の空の青さは、どの季節の青とも違う。
特別に混じり気のない、純度の高い強い日差しが、
寒さを残した影だけ置き去りにして、輝きすぎる。

あっという間に葉桜になった、神社の河津桜に残る
花柄、花床筒、萼片、あの赤く細い線、
青々した葉の影にしがみつく線たちにも、輪郭と影を与える。







耳ではずっとうっすらと耳鳴りがしていた、花粉症のせいだ。
その音を消すためにずっと音楽を集中して聴き続けていた。
いつも大方の時間、音楽を聴いているけれど、
止むに止まれぬ事情で、随分真剣に聴いていたことになる。


雨の朝は必ず、ラヴェルのクープランの墓を聴く。

クープランの墓を聴きながら眺める三月の終わりの雨は、
その水気に春の気配を含み、雨粒の一つ一つが
土に染みたらその瞬間に、あらゆる植物の芽吹きのための
栄養になっている、特別な雨のように見える。
霧雨のような柔らかな雨が、音の瑞々しさと呼応して
そこらじゅうに染み渡っていく。

オーケストラ版、時間があれば好きな指揮者の演奏もいくつか聴く。
春だろうが、秋だろうが、季節を問わず聴くのが習慣になっている。
いくらか憂鬱なはずの雨の一日の始まりの景色が
瑞々しく映り、湿度がいくらか低くなるように思える。








仕事もプライヴェートも、人と話をする、もしくは
動画の編集で音声を聞かなくてはならに時の他は、ほぼずっと
音楽を聴いている。
随分と態度の悪い人間だ。

東京は音が多すぎる、親切心なのか、保身なのか、
わたしたちに呼びかける声が多すぎる。
電車に乗っていて、駅にいても、信号を渡る時も、道を歩いている時も
エレベーターに乗っても、店に入っても、
ありとあらゆるところで、不特定多数の誰か、への呼びかけに満ちている。



日本に帰ってくるといつも、灰色で静かな国だ、と感じていた。
その記憶は、25年前の春、インドからの帰国に始まり、しばらくは
帰国のたびにそんな印象を持っていた、
けれども久々に日本で暮らすようになると、街の中の音が気になってくる。
耳鳴りと同じ理由で、ヘッドホンをずっと、使い続けることになった。

無音なのは、朝だけ。
屋根に雨の当たる音を聞く。
プラスティック、屋根瓦、木材、コンクリート
さまざまなものに当たる雨の音を聴きながら、
頭の中を、クープランの墓の第一楽章の始まり、
オーボエの音がくるくるとめぐる。


クープランの墓は、ピアノ版もある。
ピアノの方が曲数は多く、オーケストラとピアノと
ほぼ旋律も同じ曲は4曲ある。
ある朝オーケストラ版だけではなく、ピアノ版も聴き、
ふと、このピアノ版の楽譜をはじめてさらった人は
自分の弾く音の中に、心の爽やかなざわめきを感じていたのだろうか、と思う。










「器楽的幻想」は、ピアノの音楽会へ行った時の
音楽とそれを聴く人々と作者の心の変移を描いた
ごく短い作品だ。
ひどく他愛もないやりとりの中で出てきた
梶井基次郎の名前に、思い出した短編だった。


20年ぶりほどで読む基次郎は、記憶よりもはるかに
誠実で実直で清冽で繊細だった。
なにより、その清冽な実直さがどの短編の読後にも、じわりと残る。

あなたにとっては、取るに足らないことのように響くだろうけれど、
そんな頭出しとともに、日常の景色と小さな出来事を仔細にまなざし、
そのまなざしから生まれる心の赴を描く。
ささやかで、でも、鮮血の飛沫のような鋭さと切実さを滲ませる描写は
読み手の記憶にも、その小さな血痕を残していく。

けれども時には、切り取る画角も、瞬間も、言葉も、感情も
いくばくかのかろみを残す。
どれだけ深刻な、深淵なことを語っていても、
どこか達観したような拘泥のなさ、がある。

(かろみと、時に深刻さをはぐらかすような姿勢は
うっすらとブローティガンを彷彿とさせる)

そのバランスの絶妙さは、どこかいじらしくもある。
わたしも知る、生なのか死なのか、放埒なのか真摯なのか、
その両極に生きることへ必死さを抱える人たちのことを、思い浮かべる。

亡くなったわたしの友人は、「城のある町にて」が大好きで、
彼女はいつか、この短編の話を熱心にしていた。
近鉄線か松坂の地名を聞けば、必ずこの短編と、友人を思い出す。
けれども、何にそんなに心を惹かれていたのか、詳細を忘れていた。

”「××ちゃん。花は」
「フロラ」一番年のいったのがそんなに答えている。”

久々に読んだ時、友人はこのはなしをしていた、と
急に鮮明な記憶が蘇る場面を見つける。




桜の咲く時季になると、決まってそわそわして、
それなのに、えも言われぬ不安を感じる。
小学生の頃は、ただひたすら、通学路の坂道の両側に咲き誇る
桜の花を、咲き始めから散るまで無邪気に愛でていた。
中学に入る頃から、その不安が、ただ単純に落ち着きを失うからなのか、
何か他の理由があるのか、わからないことがさらに、不安を掻き立てる。

「桜の樹の下には」を初めて読んだのは、中学の時だった。
”桜の樹の下には屍体が埋まっている!”
この強烈な書き出しの、目眩のするような甘美な幻想から
いまだに取り憑かれて、桜と切り離すことができない。


今読むと、腐敗する屍体の描写も、その透明な液を吸い上げる様も、
それは精緻で美しく、何度読んでも見事だ。

ただ、文章の中に、すっかり記憶から抜け落ちていた箇所があった。

”俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、
はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように
憂鬱に乾いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、
俺の心は和んでくる。”

この短編の核心はここだったのかもしれない。
少なくとも、この部分に一番、”俺”の意思と欲望が明確に描かれていた。

にわかに信じがたい桜の美しさに不安を感じた”俺”が、
屍体が埋まっているという想像のうちに、不安を拭っていく。
わたしが抱いた不安と、”俺”の抱いた不安が同じものではないだろう、
けれども、幻想的な桜に強烈で生々しい生死を当てがい、
均衡を図ろうとするその心の動きを追随する。





桜の咲く時季に日本にいられるのは、ひどく有難いことだ。
毎年毎年、諦めることなく何度も桜を思い浮かべ、
その姿を愛でたいと願い続けた、在外の13年間を思い出す。

阿呆のように、日中桜をぼうっと眺めていいのは
ちびっこと老人ばかりだ、ということに去年、気がついた。
だから、深夜の桜並木を、音楽を聴きながら散歩するようにしている。


あまり暖かくなってほしくない。
三寒四温でも、二寒五温でもいいから、
視覚と聴覚が鋭敏なまま、桜を迎えたい。

冷えた空気の中、身を切るような冷たいピアノの音なのか、
荘厳なレクイエムなのか、なにか、桜にうつつを抜かさぬよう
梶井基次郎の憂鬱や、屍体の幻想のように、
均衡を取ることのできる何かを、携えておかなくてはならない。





2023/12/17

贈り物と、不在の時間




ダウンタウンの先、向かいの丘の四角くベージュの家々が
店の奥の窓枠いっぱいに広がる。
絵画のような景色をぼんやり見つめていたのは、店主が
お客の質問に丁寧な対応をするばかりに、自分の番がさっぱり
回ってこないからだった。

買いたいものに他のサイズがあるのかを、訊こうとしている。
けれども訊きたい本当のことは、きっとサイズの話ではない。

そんなものが喜ばれるのか、という疑問を
その質問で払拭することはできないだろう、と、
ラッピング用の麻紐を結ぶ店主の手元を見つめながら思う。

そして、あらゆるものがすべて、収まるべき場所に収まっているような
居心地のいい店と、そこにいる人々を見渡す。










いつも通り頭を悩ませ、いつも通りなんの確信も持てないまま
店のすみっこに置かれたまあるい太鼓を思った。





音楽でもスポーツでもダンスでも、
リズム感が一番大切だから。

そう、わたしが小さかった時、近しい誰かが言った言葉を思い出す。
その言葉を聞いた年頃と同じ子へ、
わたしは、ずいぶんと真剣に、贈り物を探していた。


ラッピングが終わり、麻紐を切った時には、もう
ラッピングされたプレゼントの主の友人と思しきお客が
店主に向かって、アラビア語と英語で、商品の質問を始めていた。

一瞬、私の顔を申し訳なさそうに見遣りながら、でも、
店主は棚に置かれたハーブの説明を始めている。
精油のパーセント、何に効くのか、誰が精製したのか、
豊かで黒く波打った髪をふわふわと揺らしながら、店主は
温かで、でも真剣なまなざしで、観光客に説明をし続ける。


そこへ、また顔見知りであろうお客がやってきて、
体調を気遣う言葉が店主の口から漏れると、その新たなお客は
体の具合に合ったお茶を処方してほしい、と言いながら
店のカウンターの脇の椅子に座る。



諦めて、店の中を歩きまわる。
回れば回るほど、新しい商品が目に入り、わたしは戸惑う。
そして、不安が膨れ上がり、焦ってくる。
手が震えるのではないか、と思えてくるほど。




お土産は、もうもらったよ。
小さな顔が、しっかりと鉛筆を握りしめたまま
こちらを見ずに俯いている。
そう、いつも、必要でもないものを、気に入りもしないものを
わたしはきっと、持って帰ってきた。





鉄でできたカエルの置物、古いカトラリー、銅のパン、古いアコーディオン、
ジャンルもまちまちなレコード、動くのかわからない蓄音機、
刺繍のクッションカバー、アフリカン生地のバッグ。

店は二部屋がつながっている。
片方にはハーブの精油を使った石鹸やお香、クリームやお茶、そして
ドライフラワーが天井近くまで飾られていて、
もう一部屋には、カエルの置物のような、
どうやってここにやって来たのか分からない
古い道具たちが思い思いに居場所を見つけて
どこか人待ち顔で佇んでいる。

箱を見つける。
中には、たくさんの小さな錠前が入っていた。
赤、緑、灰、黄色、どれも古くくすんでいて、
どの錠前にも、小さな鍵がささったままだ。
さっきまでいた、出稼ぎで他の国から来ているのであろう
アフリカ系の顔をした若い女性スタッフが必死に何かしていたのは、
鍵がちゃんとうごくのか、一つ一つ確認していたのだった、と合点がいく。

サイズは2種類、どの錠前も同じ、ハンガリーのメーカーだった。




鍵を失くしたことを覚えていて、口にしてしまったから、
それが嫌だったのかもしれない。
その子とのやりとりとともに、
まだ暑い夏の日本の、傾いた日差しを思い出す。


しばらくの間、幾つもの鍵を、さっきいたお店のスタッフと同様に一つずつ、
動くのかどうか、確かめていた。
確かめながら、なんで、鍵を失くしたなんて、
あんなことを口にしたのだろう、と
たぶん、だれにとっても記憶に残らないような
どうでもいい些細なことを、後悔し続ける。
それがぶっきらぼうな返答の理由ではないことに、うっすら気づきながら。






お待たせしてしまって、ごめんなさいね。
アラブ人女性の温かみを身体全身にたたえたような店主が
申し訳なさそうな表情で、わたしの脇に立っていた。


そこのタールの、もう一つ小さなサイズはないでしょうか。
タールとは、タンバリンの原型のようなシンプルな、
丸い木枠に羊の皮を張った太鼓だ。

置かれたタールの奥や近くの棚の下を覗き込み
もう売れてしまってないわ、と店主はまた、申し訳なさそうに呟く。



あの、贈り物を探していて、でもわたしには
何がいいのか全然、想像できていない気がするんです。
うまく伝わる気がしなくて、アラビア語から英語に切り替え、同じことを
わたしは2度、小さく口にする。


よほど自信がなさそうに思えたのだろう、
どなたへのプレゼントなんですか?と店主は尋ねる。
年齢と性別を口にしながら、わたしは子どもがいないから
よくわからないんです、と付け足す。



ずっと子どもを相手にする仕事をしてきたから
それなりに本当は、いいプレゼントを知っているはずだった。
それでも、仕事先のキャンプでも、子どもを持つすべてのスタッフたちに
何がいいのかしら、と尋ね続けてもいた。
キャンプに住む子たちや、ヨルダンの田舎に住む子たちが
喜びそうなプレゼントを聞くたびに、それは持っていたな、と思う。

他には何かあるかな、と訊くたびに、
その理由を察したスタッフたちの表情は怪訝になり、曇ってくる。
日本には、もっと上質で、もっと精巧なものが
いくらでもあるのだ。

少しでも喜んでもらえたら、とただそれだけで
雲をつかむようにこんな、
探すのにはなにもかも、間違った場所にいる自分を
心の底から呪っていた。


この錠前なんか、いいと思います。
うちの子もその年頃、どこにでも鍵をかけたがっていましたよ。



あらゆる状況を想像しようとして痛くなってきたような頭に
その言葉は、なにだか、とても素敵なことのように響く。
あんなに鍵のことで後悔していたのに。




一体、人はいつから秘密を持ち始めるのだろうか、と思う。
親や周囲の人たちに見られたくないものを、家族に知られたくないものを
もしくは、なにかひどく大切なものを
でも、大切であることを知られないようにしたい、とか、
いつから思うようになるのだろう。

そんな秘密を持てるほど成長していたら、それはなにだか
素敵なことのように思えてくる。

気がつくと、錠前の一つが素朴な麻の袋に入れられて
手元に落ち着いていた。


まぶるーく(おめでとう)。
ほしいものが手に入った時、アラビア語では時々、
そう声をかけられたりする。

けれどもふと、まだ幼さを残したまま頑なに俯く顔を思い出し、
わたしの勝手な願いと想像は、もらう側にとってはいくらも
伝わらないだろう、と思い返す。

結局は自己満足の化身になったような気がして、
あらいばーれくふぃーき(まぶるーくの返答の言葉)、
と答える私の顔は歪み、声が震えるのを自分の耳で、聴く。

店主が私の顔を覗き込む。
多くのものを語ることができるのだろう、
店主の黒くて大きな目を見つめる。


このお店はいつからあるんですか?
できるだけ明るい声で、尋ねる。
なんだかこの店主の女性とは、
もう少し話していたいような気がした。
それからいくらかでも、この選択に自信も欲しかった。

3年前からここでやってるのよ、母が精油を作れるから
商品にして売っているんです。

英語の話し方から、もしかしたら別のルーツと
混じっている人なのかもしれないと思う。
けれども、お母様の出身を訊くと、生粋のアラブ人だった。
店主もその夫も、家族はパレスティナ出身だった。

パレスティナ出身だと聞けば、どの町の出身なのかを訊くのが
きまりごとだ。

母はヘブロン、父はイスラエル側になったガザの近くの町、
義母はエルサレム、義父はジェニン。

どこも今、大変な状況になって、と言葉を繋げる。
ちょうどガザの地上侵攻が始まった日だった。

こんなことになって、でも何もできないし、両親の親族とは
とにかく毎日連絡を取っているのよ。
ジェニンは特に西岸でも本当にひどいですよね、というと
それなりに西岸の情報も知っていることを嬉しく思ってくれたのか
ご家族の話をしてくれた。

以前はパレスティナキャンプの学校で働いていたというと、
柔らかくすっぽり体を抱いてくれる。


子どもたちまであんなひどい状況に巻き込まれるなんて、と
店主は、自分の知っている情報が間違いであってほしいかのように
頭を小さく振った。

新しいお客が入ってきて、また顔見知りだと思われる、挨拶をしあう。
これ以上、店主を引き止めておくことはできない。

あなたともっと話をしたいから、また遊びに来てくださいね、と彼女はいう。
そんなことを言ってもらえるなんてありがたいのに、
出国が迫っていたから、約束はできなかった。



家に戻ろうと歩きながら、ニュースで見た、4、5歳ほどの子どもの写真を思い出す。
埃まみれになったぬいぐるみをぶら下げながら、誰かを見上げている。
よく見慣れた、アラブ人の子どもたちがよく着ている
上下ぱパジャマのようなそろいの、キャラクターのプリントされたスウェット。
ぬいぐるみは、人の形をしていただろうか、うまく思い出せない。
あの子どもが何か秘密を持つようになる年齢になっても、
アラブ人の家族は大家族、キャンプに住む家族や貧しい家族は、
狭い部屋に住んでいることがほとんどだから、
何かを隠すことなど、ひどく難しいだろう。

物理的に隠すことはできないから、きっと
心の中にだけ、秘密を隠し持つ。

そんなことを想像しながら、パレスティナ人にとっての
錠前と鍵の意味を、ふと思い出してしまう。

ヨルダンの難民キャンプに住むパレスティナ人の老人の中には、
鍵を見せてくれる人がいた。
イスラエルに追われて家を離れる時、扉につけた錠前の鍵だ。
よく絵のモチーフにも使われる。
悲劇を物語る物理的な証拠としての、鍵。

店主の黒髪のようなふわりとした期待が、
くしゅっと縮れていく。




深くため息をつき、すっかり暗くなった街を歩く。
ダウンタウンや観光客向けの古道具屋やお土産物屋の
色と光と音楽が旋回するような明るい店を徘徊する。

わたしは優柔不断で、想像力に乏しい。


何件もの店をまわり、邪魔にならなそうな、でも
音のいい太鼓を結局、探すことになった。
土産物屋の太鼓の多くは、おもちゃの延長のようなもので、
形や装飾がよければ、音は悪い。
羊の皮を張っていても、湿気の多い日本では音がぼやける。
本物の、演奏に使うような伝統的な太鼓のタブレは
音もサイズも大きすぎる。

店に入っては音を確かめ、調音の方法を店の人に尋ねる。
紐で締めて調音するのは技術的に難しすぎる。
熱で炙る方法もあるけれど、危ないしすぐに、また張りがなくなる。
こちらがどんどんと知識を身につけ、何件かまわるうちに
どの店の店員よりもタブレの種類と調音方法に詳しくなる。
いい加減なことを言っている店からは足早に立ち去る。

次第に店じまいを始める通りで、こちらは焦り始める。

もう家に戻らなくては。
探す時間は今日しかないのに。
ヘッドホンからはオーケストラが最後に、盛大なドラの音を響かせる。

曲も終わってしまった。
次に聴く曲を選ぶ指先が、冷えた夜の空気のせいか、また震える。

リズム感が、一番大切だから。

打楽器奏者出身の指揮者がふる、シベリウスを流す。
ダウンタウンから坂をのぼりきり、家のある丘からまた、
小さな貝のように家々が急な坂にしがみつく、
向かいの丘に揺れる無数の窓の灯を眺める。
清涼として澄んだ、漣のような弦の音が、美しくて寒い。


最後に、家の近くの目貫通りのお土産物屋に、もう一度行く。
数日前にも訪れたことがあったけれど、隅々まで丁寧には見ていなかった。

低い天井からはランプや金物道具がぶら下がり、
その奥から客を待ち構える店のスタッフが、こちらに向かってくる。

タブレかタールを探している、サイズは小さくていいから、
音のいいものがほしいんです。
何度も繰り返したフレーズを、これが最後だ、と口にする。

若くて人懐こそうな若者は、店の奥に私を連れて行く。
埃の被った大量の、もはや何なのかわからないようなガラクタと
段ボールの中から、赤やら緑やら黄色やら、あからさまに
子ども騙しなタブレを出してくる。
わたしはもう、ヘッドホンを外さない。
シベリウスは管楽器が突き抜けるような明るい音をかき鳴らす。

違うの、こういうのではないんです、と
もう悲しいのか腹立たしいのかわからなくなる。

わたしのひどく失礼な態度にも一向に動じない、気のいい若者は、
段ボールの中を、文字通り発掘するようにかき分ける。
これだったら音もいいし、ドライバーで調音できるよ、と
アルミベースの、シンプルな小さいタブレを手渡してくる。
ヘッドホンを外して、音を聴く。
小さくて可愛らしいけれど、
ちょうど聴いているシベリウスに通じる、明るさがあった。







贈り物を探すのも、お土産物を探すのも、
とことん苦手だ。
大なり小なり、この鍵とタブレのようなストーリーがあり、
選んで買うまでの逡巡と不安に、多くの場合、
わたし自身が耐えられない。

贈る先の相手のことを、それなりに知っていたつもりでいても、
突然、まったく知らない人のように輪郭がぼやけ、
詳細を見失う経験を幾多と繰り返す。
在外に住んでいると、帰国のたびにお土産を探し、
多くの人たちが、見も知らぬ赤の他人になっていく。

その不安とうっすらとした悲しみを携えたまま、
自分自身の不在の時間が、ひどく不恰好で無慈悲で不動の
巨大な氷の塊のように、わたしの前に立ち塞がる。


いつ不在になっても、わたし自身が痛手を負わないよう
時に氷の塊はカマクラのように、守ってくれたりする。
そうやって、諦めることに慣れてしまった。

それに、不在ではなくなったら、
気の利いたものが選べるようになるわけでも、ない。
鼻先で、わたし自身を笑い飛ばそうとする。






結局、タブレも鍵も、渡せなかった。
だから、わたしはこの文章を書いている。
もし渡せたとして、邪魔になっただけで、
喜びもしなかったかもしれない。


きっと世の中には、こんな話よりももっとたくさんの
贈り物をめぐる悲喜交々があるのだろう。
それを集めたら、読んだだけで、うれしいのか、せつないのか、
心がくしゃくしゃになるような話たちが。





さて、氷の塊を少しずつ、解かしていかなくてはならない。

いつか、気の利いた贈り物ができる人間に
どうしても一度ぐらいは、なってみたい。







2023/12/03

同じ時代に、苦悩をともに分かち合う

 

音数が少ない楽曲の、
指を鍵盤に下ろす時に込められるもの、
曲を構成する音の一つ一つに意味と意志を持ち
語られるものが
静謐な空気の中に充満していた。

そのアンコール曲を聴き終え、会場をあとにしながら
わたしはこういう音楽をずっと、聴きたかった、
そう、思い至り、ひどく合点がいった。





ここ2ヶ月ほど、ずっとニュースにしがみついている。
それはどこか脅迫観念のようで、ただ追っているだけなのに
ひどく疲弊していく自分を感じ続けている。

10月7日には、ヨルダンにいた。
そこから1ヶ月弱はヨルダンにいて、
体調が芳しくなかったり、ニュースに翻弄されたり、
ガザの知り合いからのメッセージに動揺したり、
忙しない日々が続いていた。








パレスティナ難民キャンプで教員として働いていたこともあり、
パレスティナの歴史をそれなりに深く知り、
パレスティナオリジンの同僚や知り合いを持ち、
人々の個々の顔を思い浮かべることのできる立場として、
当然、視点はパレスティナに寄る傾向がある。

けれども、ひどく個人的な、でもわたしにとってはひどく深刻にもなりうる
戸惑いをずっと、抱え続けていた。



実のところ、10月の1週目には、西岸とイスラエルへの
旅行の日程を考えていた。
10月はクラシックのコンサートシーズン、
イスラエルフィルのサイトでコンサートの日程表を吟味しながら、
どの週末に狙いを定めて移動しようか思案していた。

そんな、どちらかと言ったら他愛のないような思案が、
2週目には一転する。

そこから、自分のApple Musicの中のユダヤ人の音楽家たちを眺め、
途方に暮れることになる。
ニュースで入ってくる、極右の政治家たちが
目を疑うような発言をしているのを読みながら、
もしも、わたしが愛聴している音楽家たちが同じような思想を持っていたら
その音楽はわたしにとって、受け入れられないものになってしまう、のだろうか、と
漠然とした、けれども、ひどく切実な不安を抱えることになってしまった。

主義主張として、買わない、聴かない、ということは
あり得ないこともない。
けれども、美しく素晴らしく聴こえたものが、
思想によって、美しくなくなる、なんてことがあるのだろうか。




漠然としたままにしておくために、できるだけ
音楽家の情報には触れず、ただただ、彼らが相手側のことにも
思いがいくらかでも馳せられる人々であることを、願うのみだ。
意図的な情報操作の結果かもしれないけれど、
今のところ、どちらかに寄ることはあっても、
殲滅を謳ったり、攻撃を正当化する発言を目にすることはない。




音楽は、わたしにとって暮らしていくために必要不可欠なものだ。
気に入ってさえいれば、邦楽であろうと、ロックであろうと、ジャズであろうと
その時々に、どんな生きている人々よりも確実に、
自分に寄り添い(この単語を人に使うことはない)
時に鼓舞し、時に慰め、時に暗冥から救い、時に新たな視点を提示し、
劇的に、密やかに、感銘を与え、
この音楽を享受できるのであれば、もうしばらく
暮らしていくことに喜びを見出せるだろう、と
思わせてくれる。

本来ならば、いくらかでも前向きに、音楽を享受していたい。


ガザの空爆が続き、人質が囚われ続け、
評論家や学者たちが無傷のまま状況を分析、解説し続ける様子を
抗うこともできないまま見続けている間、
自分を含む人間という生き物の恐ろしさとむごさと強欲さに
すっかり打ちひしがれる。

それでもなお、美しいものをどうしても携えていたい、と
逃げているのか、救いを求めているのか、とにかく
アルジャジーラやBBCのニュースをかけていない間は、
浴びるように音楽を聴き続けていた。

ちょうど、ひどく邪悪なものを清らかな水で洗い流そうとするように。


出張から日本に戻ってきて、心いっぱい音楽を楽しむはずだった。
現実逃避だという自覚はあっても、
とにかく人が創り出すものの美しさを、身体いっぱい浴びたかった。

大好きな演奏家のチケットを手に入れ、
期待に胸を躍らせて聴きにいく、けれども、
その音楽が美しければ美しいほど、なにか
享受することに後ろめたさのようなものを、感じる。
そして、今起きていることのあまりの残忍さと傲慢さがゆえの
わたしを含む人間への、拭えずに溜まり続ける不信感が生み出す
矛盾と向き合わなくてはならなくなった。



まさか、本物の演奏を聴いて、
こんな思いをしなくてはならないなどと思ってもみなかった。
ひどくおかしな話かもしれないけれど、
わたしは随分と自分の身に起きたこの事象で、落ち込んだ。
音楽を楽しめなくなる、など、わたしにとっては大袈裟でもなく
大真面目に絶望でしかない、という事案にだってなりうる。




そんな中、気になる若手の演奏家のリサイタルがあった。
イスラエル国籍のアラブ人、ヴァイオリニストの
ヤーメン・サアディの演奏会だった。

イスラエルには、もともとその土地に住み、
イスラエル建国後もイスラエルとなった土地に住むアラブ人がいる。
アラブ人は人口の20%ほどを占める。


ヤーメンは、パレスティナ人でアメリカに渡り、
文学評論家となったエドワード・サイードと
指揮者でピアニストでもあるユダヤ人、ダニエル・バレンボエムが創設した
ウェスト=イースト・ディワーン管弦楽団の出身だ。
イスラエル、パレスティナ、レバノンをはじめとするアラブ諸国の
若手演奏家で構成されたオーケストラで、
イスラエルと対立構造にある国からの若者たちが、
「共存への架け橋」としての音楽を奏でる。

ヤーメンは現在、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスター候補として
世界最高峰のオーケストラで演奏している。
自国がこのような状況の中、一体どんな心情を抱え
世界公演に回っているのだろう。

ネットの映像などを見る限り、音楽を演奏できるのが嬉しくて仕方がない
とても朗らかな印象のある青年のようだった。


リサイタルは、プーランク、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスの
ヴァイオリンソナタだった。
シュトラウスが特に、演奏の伸びやかさが、
一番よく感じられる演奏だった。

もちろん技術は素晴らしいけれど正直、まだ音そのものに、
楽器の持つ硬さ、のようなものを感じることもあった。
それも、演奏が進むごとにほぐれていく。

アンコールを2曲、演奏する。

2曲目の演奏前に、ヤーメン本人が少し英語で話をする。
観客に対する謝辞の後、この曲は、今の自国に捧げます、と話す。

ラヴェル「5つのギリシャの民謡」の2曲目、歌曲の旋律を
ヴァイオリンで演奏したものだった。
中東の音づくりに限りなく近い楽曲を選んだのだろう、
基音の一つ手前に、西洋音階では調から外れた音が入る。
1/4フラットを思い起こさせる、どこかわたしにとっては
懐かしい旋律だった。
弓をしごき、掠るように音を絞り出し、音を奏でる。
たった、1分ほどの、曲だった。

最後の最後に、彼の心のうちの片鱗を見せたような気がした。
だから、どのメインの楽曲よりも、この最後の
大切に思いを込めて演奏された曲が、一番に印象に残る。

この曲がギリシャ民謡とあるように、中東とその周辺の国々で
伝統的な音楽の中で共有されている、音階や節回しは多い。
だから、宗教に関係なく、その地域に住んでいる人たちにとって
親しみのある旋律だっただろう。


どんな人なのだろうか、気にかかり、サイン会に並んでみる。
前に並ぶ人々とのやりとりを見ながら、
自分の知っているアラブ人に、どこか似た部分を見出していた。
とても情緒が安定していて、基本に明るさがある、
けれど、深く心の内にあるものは、口にすることのない人。

自分の番が回ってきて、相手の顔を見た時、反射的に
アラビア語が出てきてしまう。
英語を普通に話す人なのに、アラブ人だと思うと、
アラビア語しか出てこないのは、習慣なのだろう。

自国が大変な状況で、、、、と言葉を濁らせてしまうと、
次に来る時にはきっとよくなっていますよ、とアラビア語で
言葉を継いでくれた。





帰路に着く中、アラビア語しか出てこなかった自分を呪っていた。
そもそも、ディワーン管弦楽団は人種や国境や宗教の垣根を越えることを
目的としていたし、今この状況の中、
彼の立場はひどく複雑なはずだった。

アラビア語を話す周辺国のアラブ人たちは、この状況で完全に
イスラエルと対抗する姿勢を見せる中、イスラエルに住むアラブ人の多くは、
イスラエルに国籍を持つものとして、日常生活にも
困難を強いられていることは、知っていた。
もしかしたら、アラビア語を話すこと自体が、
日本にきてもなお、複雑さの中に陥れられ、
分断の狭間にいることを、より強く感じさせる結果になってしまったのかもしれない。

でも、彼の顔はまさに、わたしのよく知っている
優しく明るいアラブ人の知り合いたちを思い起こさせる。




ヤーメンのコンサートがあった同じ週、
ピアノコンサートのチケットを譲っていただく機会に恵まれる。
昨年も来日の際に聴きに行き、強く印象に残っていた
イゴール・レヴィットのコンサート、
その日の演目は、ピアノソナタ17、8、9、10、14番だった。



このリサイタルについて、どのような言葉を尽くしても、
的を得た表現をすることは、できない気がする。

途方もない精神力と集中力の中、
どの音も、激しい意志と意味を持ち、奏でられる。

ただただ決して一音も聴き逃すまいと、わたしだけではなく
そこにいた聴衆すべてが、全身全霊で聴こうとする、
そんな緊迫した空気さえ、感じていた。
かすかな自分の呼吸の音さえも邪魔だと思っていたのは、
きっと私だけではないはずだ。





レヴィットは、人権活動家の顔も持つ。

ロシア系ユダヤ人で、両親の亡命について
子どもの頃ドイツに渡ってきた背景を持ち、
ドイツで反ユダヤ主義にかかる問題では、
意見を求められる立場にいる音楽家だ。

私はベートヴェンのピアノソナタ全曲
2年4回の公演で網羅するという企画の最後、4公演目にプログラムされた
ピアノソナタ30−32番があまりにも好きで、
ただただ聴きたい、という思いだけに取り憑かれていた。
つまり、ユダヤ人で人権活動家であること、がすっかり
意識の中から欠落していた。


だからなんなのだ。



最後に演奏されたアンコール曲が、
メンデルスゾーンの無言歌集のOp.3 No,3だった。

レヴィットはインスタに時々演奏をアップしている。
それが聴きたくて過去の投稿をみていた。

レヴィットは11月7日、無言歌集の同じ曲を
インスタにアップしていた。

ハマースに捕らえられた女性のため、
そして、人質となったすべての人たちのために、
そして、この事実を多くの人に知ってもらいたい、と。





わたしもまた、思いは同じだ。
人質など、命と引き換えに交渉をする行為が許されることはない。
同時に、どんな大義があったとしても、子どもや女性を含む一般市民が
でたらめに殺され、負傷することも許されることはない。

反ユダヤ主義に抗議し続ける人権活動家として
人質の苦しみ、帰りを待つ家族の苦しみに思いを寄せることは
当然のことだ。
けれども、同じユダヤ人であるイスラエル政府が
今、まさに空爆をし続けていることの背景にある
彼らが今までパレスチナ人に対して行ってきたあらゆる制約と
武力行使と人権侵害を、いかほどまで許容し、
もしくは、疑問を抱いているのだろうか。

ただ、殊今回の戦争の開始以降、ドイツは過剰なほどに
イスラエル側の行為にかかる疑問に、触れられなくなっている。
過去の反省を促し、徹底的に反ユダヤ思想を排除しようとした結果、
人権の軸が、ユダヤ側に寄りすぎる傾向があるように見受けられる。
もしも、彼がその他にも語りたいことがあったとして、
それを知ることはこの状況下、とても難しいだろう。
(レヴィットならば、今までの活動があるからこそ、
あらためて、訴えてきた人権の軸をあるべき場所へ戻そうとする視点を
提示してくれないだろうか、と
非常に理想主義的な、彼の足元を危うくさせる希望を
それでもわたしは、抱いてしまう。)



ベートヴェンソナタの多くには、楽曲そのものが
苦悩と格闘を孕んでいる。
レヴィットが演奏したソナタは、たとえ本来
美しく心地よい旋律として捉え、表現できるであろう楽章でも、
鉛のような重さを抱え、こちらに何かを問うているように響いた。

それが、レヴィット自身の苦悩なのであれば、と想像するのは
聴衆の身勝手なのかもしれない。
ただ幸いなことに、歌詞を持たないソナタは、
作られた背景についての情報は残っていても、楽曲の背景が必ずしも
聴き方を限定するものではない、と思っている。
(それでも、当分ショスタコーヴィッチの交響曲の多くは聴きたくない。
単純に、音楽の中に戦争を彷彿とさせる音が多すぎるからだ。)


レヴィットの苦悩が何を指すのか、
今彼がどのような意見を持っているのか、もしくは
ただただ人と人のなす行為を見つめているのか、分からない。

ただ、壮絶な労力を注ぎ、ベートヴェンを弾くその音に
わたしは、人のなす行為を見つめることしかできない
わたしの苦しみを重ねる。

おそらくは、立場も異なり、見えているものも異なるだろう。
けれども、同じ時代を生き、同じ事象を見つめるわたしたちの苦悩の
片鱗を共有している、そう、わたしは勝手に思い込んでいる。

だから、今聴きたい音楽はこれだ、と確信を持った、と。




















2023/09/03

この日のはなし ー あまりにも、いつも通り



習慣というのは拭えないもので、
使っていないと忘れてしまうだろう言語も、
ちょっとした身振りや挨拶の方法も、
その場に自分の身を置くと、身体が覚えていたりする。
何よりも、もはや覚えている、という感覚そのものに
新鮮さを感じていないことさえ、しばらく気づかなかったりする。

馴染みの人々に会った時、でも、長いフライトの後で
自分の表情が硬い。
女性同士の挨拶で、当然のように両頬を交互に触れさせながら
長らく会わなかったけど、元気だった?と口にした時、
自然とこわばった頬の力が、溶けるように柔らかくなるのを感じる。

挨拶の種類も幾通りかあって、相手との関係性によって、
胸に手を置くのか、握手をするのか、頬をつけるのか、異なる。
久々のフィールドで、相手の出方を一瞬見極めようとする、その
本能的な作業もまた、反射的にする習慣がついていた。

そして、両頬をつけて挨拶の言葉を口にする時に、
本当に近しく思ってくれているのか、調子がいいのか、打算があるのか、
うっすらと思惑が頭を巡るのもまた、
一連の動作の延長で染みついている。

プロジェクトなどを回していると、
とかく立場的に利用されがちなこともあって、用心深くはある。
けれども、私が特段疑い深いのか、と問われたら、そうではないと思う。
私の感覚では、アラブ人の多くがこの作業を無意識でしている、と思われる。


一方で、道端で会う知り合いの人たちとのあいさつには、
多くは仕事にまつわる場面で無意識に行われるような作業は、ない。
ただひたすら、近所の人たちだから
無条件で私が戻ってきたのを喜んでくれる。
すぐに荷物を持つ手を貸してくれて、
必要な買い物は選ばなくても棚からレジに持ってきてくれる。
日本はどう?天気は?
家族や友達は元気?
美味しいものを食べてきた?
と矢継ぎ早ににこにこしながら質問をしてくれる。

こっちはまだまだ暑いよ、今週末はまた暑いね。
日本はどうなの?

ー湿気がひどいの、あと、湿気のせいで、
生乾きの服の匂いがたまらなく不快なのー

へぇ、と要領を得ない顔をされる。
干せば2時間も経たないうちに、カラカラに乾くほど
乾燥している土地では、あの不快さは伝わらない。

混んだ山手線、人との距離が近いまま無数に行き交うホーム、
冷たさで無理やり匂いを消そうとしている電車の空気、
終電近くの、汗とアルコールの匂いを、思い出す。




アザーンで目覚めることもなく、
丘の下から立ち上がるパーティーの喧騒もさして気にならず、
夜は冷えるから窓を閉めることを忘れず、
すぐ砂塵が溜まるから床の掃除は水を撒かずしては始まらず、
薬を塗っても、乾燥で引きつる肌は痒みが治らない。


いつも通り、到着の翌日は、ひどく澄んだ朝やけを見る。
それなりに苛まれる時差ぼけも、翌日にはなくなる。







仕事にまつわるさまざまな報告をうけ、
フィールドへ行けば交渉ごとが待っている。

もはや、一種の才能なのか国を挙げて育成している能力なのか、
巷には、悪徳か否かは置いておいて、政治家みたいな人たちが一定数いる。

彼らは、相手が敵か味方かを見極め、
敵である可能性が高ければすぐに牽制を始める。
それは、息継ぎもせずに捲し立てることだったり、
相手に一通り気が済むまで話をさせてから、
身も蓋もない一言を一撃することだったり、
何も聞きたくないことを全身でアピールすることだったり、
バリエーションも豊富だ。

大体の牽制は経験しているので、こちらはこちらで
牽制のタイプを見定め、流していいのであれば忍耐強く我慢し、
どうしても修正や反論が必要な時には
タイプ別で効果の高い返答カードを選び、使用する。

根回しに使える人材を探しあて、取り込むのにも長けている。
動物的な嗅覚で、適任に適切な情報を吹き込み、
地固に余念がない。

適任とされる人々の中には、適任であることに自覚的な人もいるけれど
多くは、利用されていることに気づかず、善意で根回しに協力している。
根回しの際、インプットされる情報が虚偽や誇張や抜粋ではないかぎり、
その見事さを感嘆して眺める。
ただ、あからさまな意図をもって(多くは個人的な恨みや
嫉妬やお金や顕示欲や権威誇示のため)
私たちに悪影響のある虚偽や誇張されている場合、もしくは
影響を及ぼそうとする人が根回しを始めていそうな時には、
先回りをして、善意の協力者たちに誠心誠意、説明をする。
根回しに適任であることに自覚的な人には、
もう少し、打算的にネガティブな影響をちらつかせながら
必要な説明方法を記したカードを提示する。


ただひたすら、経験値がものを言う世界。

大量の失敗をして、幾度となく傷つき、
腹が立ちすぎて眠れない夜を幾晩もやり過ごし、
やるすべなく、悔し涙にくれながら
姿美しい、丘の上のアンマン城を呆然と眺め、
手に入れ、貯め込んだカードたちだ。

こんなカードなど、薄汚い金のようなものだから捨ててしまいたいのだけれど、
それでは仕事にならない。


そして、そこまで政治家然とはしていないけれど、
二言目には金銭の話をしてくる人たちもいる。
ほとんどの場合、要求されている金を払う必要はこちら側にはないので、
要求をされている間、いかに静かな顔で話を聞き切るか、に
執心している。
けれど、ロジカルには払う必要のないはずのものなのに
時に話を聞いていると、払わない自分がひどく悪い人間のように
思えてくることもある。
たぶん、私の瞳のうちには、戸惑いと不安がちらついているのだろう。
相手の話がいよいよ、興に乗って表現豊かになっていくのを見ながら、
頭の中の思いが、自分の瞳に滲んでしまったことを、悟る。


もちろん、そんなカードなど出さなくても
不安や戸惑いを隠さなくても、
建設的で共感に満ちた話をできる人たちもいる。
できる限り、そんな人たちばかりと過ごしていたい。

けれども、建設的で共感に満ちた人々もまた、
私の知らない場所で、場面で、時に政治家然となり
時に金の話に執心している、かもしれない。

それでも彼らは、私が仕事や生活のストレスの吐口に
「アラブ人」もしくは「日本人」という総称という偏見で
このように、何かしらを説明しようとするのよりは
でもまだ、ずっとマシなことのように思える。

裏表のなさを美徳とするならば、両者ともだめだけれど、
公平性を美徳とするならば、私の方が、たちが悪いのだろう。


そうやって、いつも通り、
冷えた空気の帯が窓から流れてくるのを感じながら
暗く静かで長いアンマンの夜、自らの思考と行動を省みる。
あまり意味のない、無駄に孤独な作業だ。

なぜ意味がないかといえば、
私自身がその反省を活かせない、ということもある。
そして、さまざまな思いを抱き、後悔し、反省の材料となる
こちらの人々のほとんどにとって、
彼ら自身の言動は必然的であり
訂正、撤回、修正しなくてはならないもの、ではなく、
無意識で決定されていて、
どうして言ったのか、どうして振る舞ったのか、
疑問を抱く必要がないものだからだ。



今日久々に、新しく会う学校の先生たちの間を動き回る。

どのように立ち振る舞えばいいのか、もうこれも
習慣として身についてしまった。

家に戻ってきて、自分の姿がひらひらと
教室の中を、それっぽく机の間を動き回っていたのだろうと、
苦々しく思い返している。
もはやこのあてどもない反省もまた、ひどくいつも通りだ。


おそらく私はずっと、意味のない一人相撲をし続けている。