2018/08/09

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目-2


一見、何もかもが単一なヨルダンでは、
考え方も、国籍も、宗教も、文化も、
メジャーなものの他に、そもそもマジョリティの人々が、
興味を抱かないように、見える。
もしくは、あえて交流しようとはしない、と
決めているきらいが、私の周りのヨルダン人からは、伺える。

それは、陸続きの国であり、侵略と制圧ばかりが繰り返された
歴史の成せる結果なのかもしれない。

過度に排除する傾向にあるように見えるのは、
でも、日本も程度の差はあれ、あまり変わりが、ない。
だから、よく日本に戻る度に
そこはかとなく、ヨルダンと日本は似ているな、と
感じることがある。
もっとも、難民に関して云えば、
よほどヨルダンの方が、寛容だ。

360度、どこから見てもアジア人の女性である私は、
完全なるマイノリティとして、
ある社会の中でマイノリティとして生きることが、どういうものなのか、を
まざまざと体感する日々を送っている。

生活基盤も、庇護に溢れた、いわゆる駐在の人々よりは、
出稼ぎに来ているフィリピン人やインドネシア人の人々に、より、近い。
結果的にそうなっただけだし、
最終的には、日本人であることに、救われた機会は、何度となく、ある。
また、私の側に立って、助けてくれる人がいる時もある。
その時は、本当に、ありがたくて、
文字通り、涙が出てくる。

でも、見た目で判断するのは、全世界津々浦々変わらず、
あえて交流しない人々の間では、偏見がはびこり、
多くの場合、言語的にも、立場的にも、私に発言権は、ない。

圧倒的な理不尽を経験することが、
でも、本当に得難い経験だと思えるのは、
結局、そうならないと本当の意味で、
ある社会の中の、ある分類において、
マイノリティになるとは、どういうことなのかを理解することが、
少なくとも私には、難しかったからだ。
分かったつもり、では、想像の及ばないものものが、
あまりにもたくさん、ある。


ただ、マイノリティの生きづらさの種類もまた、
マイノリティになる所以によって、異なる。

時折、ヨルダン人との会話の中で、
他宗教について触れる時に見せる、頑なまでの否定が、
私に、恐怖心を抱かせる。
特に、同じイスラム教の中の、他の宗派には、厳しい。

普段、信仰が何なのか、こちらから訊くことは、ない。
八百万の神を何となく感じている、程度の私には、
触れることのできない、主題だと、
避けて通ってきた。

その日の訪問では、2件目の訪問先で
彼らが、自ら自分の宗教について、語ることになる。




1件目:ハシミ・シャマーリー

午後から出かけたフィールドで、
一番道が混んでいる時間にあたってしまう。
それなのに、電話口で場所を確認するスタッフは、
相手のことばがうまく聞き取れなくて、いらついていた。
建物の番号を聞き間違え、目印になる建物の名前が違い、
結局1時間ほど、道に迷う。

往き着いた建物の前には、あまり手入れのされていない
ヒノキが数本、立っていた。
でも、家の前に木があることが珍しいので、
何だか、気に入る。

ブロックがむき出しになった建物の中1階に、
訪問先はあった。
たった10段ほどの階段が、感覚が狂いそうになるほど、歪んでいる。




玄関の脇の居間に通されて、正直、困る。
置いてあるソファのどれも、張り布が破れて
どれを選んでいいのか、分からなかった。
西に向いた窓からは、ヒノキの幹が見える。
こちらでは珍しい、鉄枠で観音開きの窓に、ヒノキという組み合わせが
そこだけヨルダンらしくなくて、
しばらく窓とその先を、眺めていた。

お父さんには、大柄だけれど温和な人柄が、
表情ににじみ出ていた。
お母さんはヒジャーブを被っていなくて
少し染まった茶色い髪に、小さな水玉のシャツを着ている。

1年生と2年生の息子たちが、
わらわらとやってきて、空いているソファに座る。
物珍しいのか、私の顔と兄弟のお互いの顔を、
代わる代わる、見ていた。

男子校に通う子どもたちには、苦難が多い。
私でも分かる、発音や単語、アクセントの違いが、
同じアラビア語を話しているのに、
子どもたちを窮地に追い込んでいるようだった。

イラク人だから、できなくてもしょうがない、と云われる。
学校に往っているのに、アラビア語のアルファベットも
きちんと学習できていない。
外で遊んでいたら、近所の子どもから嫌がらせを受けた。
お父さんがその子どもの親に会いに往くと、
自分の子どもがしたけど、それが何なんだ、と開き直られる。
結局、外に子どもは出さないことにして、
時々、モールに一緒に、遊びに往くだけが
外でできる遊びになってしまった。

おそらく、少し自閉の傾向がある下の子が、
お父さんとお母さんの間を往き交い、
私たちに出されたお水を何度も飲んで、
座っては、また、立つ。
うまく、合わせようとしても視線が合わないのに、
時々じっと、こちらを見ていたりする。

この子、学校ではぎゅっとなっているのよ、と
お母さんは、身体全身、きゅっと屈める。

うまく、この子に適切な支援ができていないけれど、
どうしたらいいのか、おそらく、ご両親は分からない。

シリア人家庭では、よくカリキュラムの違いが問題になっていた。
イラクのカリキュラムを知らないので、
尋ねてみる。

英語は3年生から、そして、農業の授業が
5年生から、あるという。
家族がやってきたのは、ティグリス川の流れる、
イラク南部のメイサーン。
文化の発祥の地を支えた、豊かな土地を、思い描く。

イラクでは宿題がたくさん出ていたから、
宿題をやってこないと、叩かれたりしたな。
2012年にやってきているから、
この二人の子どもたちは、イラクで教育を受けていない。
お父さんの時代の、話のようだ。

ソファの背もたれの上に置かれた絵が、
ずっと気になっていた。
授業の内容の話になった時に、
この絵はこの子が描いたのよ、と
お母さんが絵を取り出す。
上の子は、絵を描くのが好きなのよ、と
子どもたちに描いた絵を、部屋の奥から取りに往かせる。




厚い板に描かれた絵は、自然の色合いだけが、
何ともいえず、美しかった。
板に描いたのが、偶然だったのかもしれないけれど、
ふわりと滲む、絵の具の色合いが、やさしい。

どうしたら絵が上手になりますか?と尋ねられる。
同じ質問を、ガザの子どもからも訊かれたことを、思い出す。

おそらく、ご両親の醸し出す空気だったのだろう、
かちゃかちゃと動き回る下の子が居るのに、
どこか落ち着いた、安心できる雰囲気があった。

訪問の後、歪んだ階段を降りて、振り向くと、
ちょこんと階段の上に立った下の子が、
はにかみながら、何度もこちらに、手を振っていた。



2件目

随分歩いて迎えにきてくれたことが、
お父さんの後をついていって、分かる。
道の片脇には、色鮮やかな壁画のある
子ども向けのセンターがあって、
その壁画の上には、小さく十字架が飾られていた。

お父さんは小柄で、ずんぐりしていて、
こちらのアラブ人とは、どこかが違っている。
ヨーロッパの田舎の牧師か神父みたいだな、と、思ったのは、
往き道に見た、その建物のせいなのかも、しれない。
歩く姿は、どこか、かたくなだった。

建物の階段を上がっていくと、
吹き抜けの階段から、小さな子どもの
執拗な泣き声が響いていた。
ドアを開けると、当の本人が、
もしゃもしゃの黒髪を顔の両側に垂らしながら、
ぐゎんぐゎん泣いていた。

上の二人の女の子は、学校に通っている。
この子たちが通っている学校は、
他の家庭でも耳にしたが、評判がいい。
校長先生が随分献身的に、学校を回しているらしい様子がうかがえた。

Asylum Seekerの紙には、上に大きな息子も二人、登録されている。
でも、息子の姿はなくて、仕事もしていないという息子たちが、
どこに居るのか、訊けずじまいだった。

上の子どもたちの名前を訊いたところで、
スタッフが、首をかしげる。
確かに、今まで一度も耳にしたことのない、名前だった。

その場に居た、一番上の娘の名前は、
天国にある、木の名前だという。
その天国が、誰にとっての天国なのか、分からない。
私も、おそらくスタッフも、聞いたことのない話だった。
でも、お父さんは、少し高めの、早口ではないのに
切羽詰まったような口調で、
一生懸命、説明をしていた。

サービア教を信仰している、ということが、分かる。

もじゃもじゃの一番下の子だけが、
私にも聞き覚えのある、名前だった。
この名前だったら、馴染みがあります、と
スタッフが、無理に明るい声を出して、場を取り繕う。

お父さんとお母さんは、大学を出ている。
僕たちだって、仕事もしたいし、勉強もしたい、
けれど、この国では無理だから、
第三国定住を申請している。

親戚には、アメリカやイスラエルに移住していたり、
まだ、イラクに残っている家族もいるようだった。

お父さんは、変わらず、どこかに切実さを感じる口調で、話し続ける。
コーランだって読むし、好きだけれど、
子どもたちは学校で、宗教のことを訊かれたりして、困っている。

メイサーンから出てくる時には、
出て往かなければ子どもたちをレイプする、殺す、
脅迫され続けた。
お父さんは、この背後にはイランが居て、
直接イランという国が手を下さずとも、
影響を及ぼせる状況にしている、と云う。
他宗派を排除しろ、と説法をしている、
見慣れたシーア派の冠物を身につけた男性の動画を、
私たちに、見せた。

私もスタッフどう反応したらいいのか、困る。
私がよくわからない、というふりをして、動画を終わらせてもらう。


ヨルダンでも、外に遊び往かせるのはとにかく怖くて、できない。
ほら、下の子はストレスで、よくかんしゃくを起こすんだ。

上の息子たちにも、問題は起こさないでくれ、と
いつも云って聞かせている。
ヨルダンでは宗教的な活動はできないし、
何か起こして大使館にでも往かなくてはならなくなったら、
いろいろと、問題だ。
静かに、目立たずに暮らして、
早く違う国へ、往きたい。


お父さんがこんな話をしている間、
一番下の子は、コーヒーを準備してくれているお母さんの後を
カルガモのあかちゃんみたいについて回り、
髪の毛を束ねてもらったり、抱っこをしてもらったりして、
いくらか満足しだす。

学校での授業以外のアクティビティ内容について、
一番上の女の子に訊いていたら、
放送委員会を選んでいる、という。
人前で話をするのは、きらいじゃないの、と
思慮深そうな、おとなしい印象だったけれども、
その話をしている時には、
子どもらしく、笑っていた。

お父さんの、息を殺すような暮らしへの危惧は、
まだ、この子にまでは、現実の何ものかとなっていなくて、
それは、たぶんこの家庭の、救いになっている。



家を出る時に、近所で学校に通っている家庭を紹介してもらうと、
同じ建物に、もう一家族、住んでいた。
時間がなかったので、次回訪問するために
電話番号をもらう。

スタッフが上の階で電話番号をもらっている間、
ついていった私の後を追って、
子どもたちが階段を上がってついてきた。
もじゃもじゃの頭をまとめようと、持っていたゴムには
すっかり塗装のはげた、
小さなプラスティックのハートの、飾り物がついていた。
どんなゴムか見せて、というと、
ためらいながら、でも、ゴムをこちらの手に、乗せてくれる。

そんなことをしている間に、
上の家族の子どもたちも廊下に出てきて、
4人の子どもたちが、手すりにしがみつきながら
こちらをじっと、見つめていた。
金属の、縦格子の手すりのせいなのか、
牢屋に入れられているように見えて、一瞬、ぞっとする。

手すりから離れて、下の階に往くことはできても、
この建物の外に出ることは、学校の他に、ないだろう。
そう考えると、でも、その図の印象は、
必ずしも間違っていないのかも、しれなかった。





おそらく、スタッフにとっても、他のこの宗派の話を聞くのは、
初めての体験だったのだと思う。
中立的で信頼の置けるスタッフだけれども、
たぶん、心の中ではひどく、動揺していたに違いなかった。

私も初めてムスリムの家庭に往った時には、
いろいろな話が初めてで、分からなくて困った、と
帰り道で、スタッフに話してみる。

いや、本当に、よく分からなくて、と云う彼女の声は、
いつもよりも早口になっていた。
坂を登っていたから、息が切れていたのか、
まだ何かに動揺しているのか、
私には見極められなかった。



2018/08/08

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


数年前、一度だけ訪問したイラク人家庭は、
ジャバル・フセインの古いアパートの最上階、
屋上にしがみつく、小屋のような家だった。
話しながらお母さんが泣き出して、
涙が溢れるのには十分すぎる、あまりに理不尽な話ばかりだったから、
しばらく鮮明に、お母さんの泣き顔と話し方を覚えていた。

訪問の後、階段を降りようとして、ふと足を止め、
ヨルダンで事故に遭い、足が不自由になったお父さんが毎日、
仕事に出て帰ってくるのに、
この階段を登らなくてはならないのか、と
5階分の、石のすり減ったつるつるの階段を、
呆然と見下ろした記憶が、ある。

シリア難民が増えたことで、イラク難民への保護が手薄になった、
そう、数年前の訪問でのイラク難民は、云っていた。
彼らは逃げてきてから既に、10年近い年月が経っていて、
その家庭は、40JDの授業料を公立学校に支払わなくてはならなかった。
就学年齢の子どもがたくさん居て、
そんなことは不可能だ、とお母さんは訴えていた。

教育省にその事実関係を確認したところ、
だって、イラク人は金持ちもいるからね、と
何が疑問なのか分からない、という口ぶりの、返答をされた。


その日の訪問先は、5件すべて、イラク難民だった。
ここ4年以内にヨルダンに逃げてきている。
先の家庭とは状況も違い、
5月までは、交通費支給があり、教科書も無料でもらえていた。
公立学校に登録して、学校に往けている子どもの割合は
他の地域に比べて、相当低い。
だから、その日の訪問で会った子どもたちは、まだ
学校に往けているだけ、いい。

ただ、国際機関も予算縮小のあおりを受けて、
前学期まであった交通費の保護が、9月からなくなる。
今まで学校に往けていた子どもたちの中には、
9月から登校できなくなる子も、出てくるだろう。

常に紛争状態のため、大きなニュースにもならないけれど、
イラク国内の混乱も、ある人々にとっては、
国外に避難するより他に手段がないような、
混迷を極めた状況にある。
あまり深い知識がない状態で訪問した結果、
私の全く知らなかった話が、
唐突に、明確な輪郭を持って、浮かび上がってくる。


今回の訪問は、新しいプログラムのための事前調査のためだ。
既に手に入れた候補の対象校について、
学校周辺のコミュニティの状況を把握するのが、
訪問の目的となっている。




今回訪問する地区は、いつも目にはしていた場所だった。
キャンプへの出勤途中のバスターミナルから必ず、眺める山。
下から見上げる山の側面には、
どちらかというと古さが目立つ、作りかけのような建物が多くて
なぜだかよく、凧が揚がっている。
ぱっと見た感じ、パレスティナキャンプに似ている、というのが
何となく親しみを感じる、理由なのかもしれない。


正直、私が想像していたよりも、よほどこの地域はきれいだった。
見上げていた崖の景色から、もっと荒んだものを勝手に、妄想していたようだ。
大通りの幅は広いし、ぱらぱらと見える子どもたちの服装も
あまり他の地域と大差がなかった。

1件目の訪問のために出迎えてくれたお父さんのあとについて、
小さな路地に入る。
表通りよりも幾分くたびれた建物を見送った先に、
目的の建物はある。

建物に入ると、でも
手すりの朽ちた、ぼろぼろの階段と
冬場でも閉まることのない、割れた窓ガラスが嵌められた
見慣れた風景が待っていた。



1件目:ハシミ・シャマーリー

扉のコンパネは、一層目がはがれ落ちていた。

小柄ですべてが四角い感じのお父さんは、でも、
終始柔和な表情で、話をしてくれた。
連絡先をもらうために訪れたセンターで、既に面識のあった
その家庭の女の子も、同席する。
お母さんも妹も、居間で話をしてくれた。

お父さんの話し方には、サ行が多くて、私には聞き取りづらい。
聞けばバスラの出身で、
そう云われてみると、お母さんの服の彩りは、
あまりこちらにはない、赤と紫の、鮮やかなもので、
濃い目の肌の色に、よく合っていた。

お客が来たから、と、ペットボトルのお水を出してくれる。
ついでにペプシの缶とコップまでいただく。

当たり前だけれど、
突然訪問しにきた人間に、そこまで
心を開いて話すことができる人は、多くない。
こちらも、それは覚悟で話を訊く。

バックグラウンドの話は、正直こちらも、訊きづらい。
でも、子どもの話となると、どの親御さんも
たくさん話をしてくれる。

学校までの道のりでの、子どもたちの体験がひどいこと、
それなのに、UNICEF関連の交通費の支給が、
おそらく9月から打ち切りになること、
2部制の午後シフトに登録しているけれど、
クラスメートのシリア人も、イラク人であることに
差別的なことばを口にすること。

その日の5件のすべてで、聞くこととになる、話だ。

それでも、そういうものだ、という態で
笑いも交えながら話をするお父さんは
子どもたちがいかに、学校が好きか、話している。
学校に行く時は大変だけど、
まぁ、まだ眠たいから、いいってことだね。

難民というバックグラウンドについて、
学校ではあまり、指導はないものなんでしょうね。
こちらとしては、配慮してもらいたいんだけど、と
お父さんは、子どもたちの顔を見る。

ただおそらく、同じクラスメートのほとんども
国籍は違えど難民のはずで、
でも、子どもたちの背景は微妙に、もしくは大きく、違っている。
教員もまた、どう扱うか、非常に困るところだろう。

それでも、学校は協力的だと、繰り返しお父さんは云う。
どこまで本当か分からないけれど、少なくとも
子どもたちの前でそう言ってくれる親御さんには、
感謝と信頼の念を、抱かなくてはならない。

開けていないペプシを置いて席を立とうとしたら、
無理矢理バックの中に入れてくれる。

玄関先まで見送ってくれた女の子の様子が、
どこか、シリア難民の家庭の子どもたちとも、
微妙に、違った。
人懐っこい、というのか、人恋しい、というのか、
控えめだけれど、心は閉じていない、感触がある。


2件目

同じアパートメントに、イラク人ばかり住んでいることが
1件目のお父さんの話で、判明する。
いろいろな家庭から話を訊きたいこちらとしては、
移動せずに話を訊けるなんて、有り難い話だ。

すぐ隣の家のドアを叩く。
若そうな見た目のお父さんが出てくる。
この国で若そうな見た目、というのは、珍しい。
お母さんのお腹は大きい。
ヒジャーブを被っているのに、ノースリーブという姿が、
何だか新鮮だった。
挨拶の仕方が、違っていた。
頬をつける回数が違うので、顔が当たりそうになる。
ほっぺただけがすっと冷たい。

Asylum Seekerの紙で、お父さんは31歳だった。

その紙と一緒に、医療証明書の束が渡される。
滑膜肉腫の診断と、今までの通院履歴、
必要な医療処置に関する、詳細が書かれていた。

2年生と1年生の女の子、就学前の男の子と、お腹の中に、もう1人。
お母さんの脇で、ちびの男の子がずっと、
携帯電話を口に咥えていた。
何でも口に入れたがるには、既に歳が大きくなっているはずだけれど、
携帯電話も、リモコンも、彼にとってはちょうどいいサイズのようだ。

成績がいい上の子の成績表を、持ってきてくれる。
算数はあんまりだけれど、その他の教科はすべて、90点前後だ。
弟の他はみな、随分と静かな子たち、
お母さんも、ほとんど何も話さなくて、
始終おとなしく、お父さんの話を聞いていた。

学校に求めるものは、どの家庭もおしなべて、勉強、だった。
英語の教育をしてほしい、そういう家族が多い。
第3国定住の申請を出しているから、
どこへ往っても使うであろう、英語に、関心が寄る。
娘は英語が得意なんだ、と
お父さんは嬉しそうに、云っていた。

ここの子も、見送ってくれた玄関先で、
手を振りながら、屈託なく、笑いかけてくれた。


3件目

またすぐ、隣のドアを叩く。
大きくて垂れ目の、大柄なお父さんが出てくる。
そして、やはり大きな目のお母さんと、
みんな大きくて垂れ目の兄弟3人と姉妹二人が、居た。
全員が、私たちの前に座ってくれて、
全員が、勢揃いする。

14、15年まではキャッシュサポートがあったけれど、
16年以降は、ない。
男子校は女子校よりも、物理的に諍いが多いことが、
話の端々から伺えた。
それでも、眼鏡をかけた、真面目そうな長男が、
学校は大好きだ、と答えているのを、
うん、とうなずくしか、ない。

まぁ、それでも、アラブ世界なんだから、そんなに大変じゃ、ないよ。
お父さんはそう云いながら、
お父さんは途中で、雨漏りの修理に屋上へ出て往った。

キティちゃんのTシャツを来た一番下の子が
見たことがないほど真っ黒な大きな目で、
何がうれしいのかわからないけれど、
随分とかわいらしい笑顔で、
ずっと私の顔を見つめていた。

あまりに家族の様子がさやに収まっている感じがして、
どうしても写真を撮っておきたくなった。
普段はしないのだけれど、1枚だけ、
こどもたちの写真を、撮らせてもらう。
兄弟がみんな、身体を寄せ合って、写真に収まっていた。





5件目

同じアパートメントでの4件目を終えて、
場所を移動し、違う地域へ往く。

お母さんはヒジャーブを被っていなくて、
私のよく見知っているイラク人の雰囲気がある。
細くて、眉頭がはっきりした、きれいな顔立ちをした、お母さん。

まん中の女の子と、お母さんが
聞き取りにつきあってくれた。
お父さんは居ないが、理由は訊けなかった。

宗教的にマイノリティであることで、
ここから立ち退かないと、子どもをレイプする、と脅迫され、
ヨルダンに逃げてきた。
それでも、ヨルダンでまた、通学途中で石を投げられ、
イラク人だと揶揄される。
学校へ往っても、シリア人、ヨルダン人、イラク人と
名前の代わりに国籍を云われる。
夫がいないのに、
キャッシュサポートの優先順位外だと云われ、
収入がない。

バグダットから来ているというこのお母さんの話し方は、
あまり聞き慣れないものだった。
قがア、كがチェの発音になることが分かるのに、
随分時間が必要だった。

お母さんは、前のめりな感じで、
途切れることなく、今の状況を話し続けていた。
お母さんは話の途中で、とてつもなく悲しい笑顔をする。
もう、しょうがないのよ、ということばを
表情で表したら、こういう顔にしか、ならない、という風な。

子どもに、学校の話を訊いてみる。
どの先生が好き?と尋ねると
数学の先生が好き、と答える。
先生の名前も、笑顔で口にしていた。
その子が、初めて見せてくれた表情に、
少しだけ、こころのどこかで、安堵する。

部屋の奥でハーモニカの音がした。

学校で、子どもに勉強の他に学んでほしいことは何ですか?
人間性を育むこと、と
お母さんは答えながらまた、悲しい笑顔を浮かべた。




シリア人でもたくさん、第三国定住を希望している家庭はいる。
でも、イラク人のヨルダンに居る背景は、
場合に寄っては、シリア人よりも複雑で、
難民として他国へ往く条件に、より適合するものもある。

宗教的な理由で、自国に住むことができなくなった、
そう答える家族に、イラクに戻る意志はない。
通過地点でしかないはずのヨルダンで、
彼らが過ごす日々には、
今まで私が見聞きしていたものとは、
どこかが根本的に違う、
仮住まいの姿があった。
もっと仔細なところまで、見なくては、ならない。


2018/08/03

苦海浄土—半ば憑依し、見続け、書き続ける




まだ高校の時、かいつまんで紹介されたこの本の記憶は
水俣病に苦しむ人々の姿を、
その苦しみに反して、
たおやかで、でもぎりぎりの
美しさと情緒を保ったことばで描いている、
いくつかの、情景だった。
それから不知火の、煌めく海。


授業で扱われたこの本には、
熊本出身の教師の思い入れがあった。
本の中の住人の独白は、徹底的に方言で記されていたから、
音読する教師の声には、はなし慣れた、何ものかがあった。
感情移入を排除してもなお残る、親密さのようなものを
淡々とした教師の音読から、なぜか敏感に感じ取ったのもまた、
よく記憶している。

方言での記述は、文字として起こされた時
理解がより困難になる。

ある者には限りなく親しく、
ある者には難解で、疎外感さえ感じさせる。


どうしたら、これほど文学的に、
目の前に居る苦しみ喘ぐ人たちを描けるのだろう、と
心の中でずっと、わだかまりながら、
この本を読んでいた。
だから、読みながら、頭の中で必死に理由を探していた。

石牟礼道子がその土地の出身だからなのか、
ひたすら家を訪れ続け、耳をかし続けたからなのか、
彼女の限りなく強い、人を見透す力なのか、
昇華にかけた時間なのか、、、、、。


実は、本を半分ほど読んだところで、
この本がフィクションである、という事実を
20数年ぶりに、知る。

正直、どこか興ざめした、とは云えなくもない。
よくよく考えれば、フィクションなのは当然のことなのかもしれないけれど、
石牟礼道子なら、そうではないのかもしれない、と思わせる
虚像があったのかもしれない。

そして、ノンフィクションではないという事実が
この本の読み方を、変える。

ある意味衝撃の、この事実は、
本の内容というよりも、
石牟礼道子という人に、より深く共感できる契機となる。

解説に書かれていた一説に、思い当たる節があった。
一度か二度しか、書かれている家庭には訪れていない。
「そんなに行けるもんじゃありません」
そう、云っていたいう。

既に亡くなってしまった人となりもよく存じ上げず、
全くおこがましく、失礼な話ではあるけれども、
フィクションであることが、どこか安堵感を抱かせてくれた。



病を背負ってしまった人と、その周囲の人たちの
終わりのない苦悩や、ささやかな喜び、
日常の些細なつまづきや、途方もない困難を
ひとり、語り続けるその描写は、
その人に成りきらなければ、書くことはできない。
もしくは、その人でなければ、書くことはできない。

実際に苦しむ人に成りきって書く、という作業には、
葛藤がつきまとうだろう。
どれだけその人の本当の語りを耳にしたとしても、
心の中まで耳を傾けるということは、もはや想像でしか、ない。

「だって、あの人の心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」
そう云いきれることに、果てしない、想像を越えた共感がある。

その、共感と云う限界に、敢えて挑戦したのか、
もしくは、それらを拾わなければ
書き表したかったことが、書ききれなかったのか。
いずれにしろ、かなり危険な作業だ。

それでも、その手法を選択し、書ききっていることに、
ありきたりなことばだけれど、深く、感じ入った。



無謀ともいえる挑戦に、
土地の文化的背景や風土、歴史への深い造詣が相まって、
大きく、小さくうねるような、
壮大な叙事詩の様相を呈す。
そして、文学的に、読み物としての、美しさや面白さが、生まれてくる。
確実に、そこには深い愛情があって、
とことんまで対象に入り込む、覚悟がある。

そのようにして書かれたものには、
美しさがそこにあるからこそ、よけいにむごいたらしい現実が
はっきりとした明暗で浮き上がってくる。
だから、ひどく鮮明に、映像として、画像として
記憶に残ることになる。


主題には、社会との隔離や、それに伴うやり場のない無力感、
それでも、生き続け、暮らし続ける人々の姿がある。

もし、その画像や映像とともに、
会った人々のあらゆる思いを
読み手にくっきりとした輪郭を持って
思い描かせることが、書き手の狙いだったのならば、
成功している、と云えるだろう。




今の仕事ではよく、見たもの、聞いたものを書かなくてはならない。

語学の問題、私の体力や気力の問題がほとんどなのだけれど、
それを度外視しても、やはり難しいのは、
私がヨルダン人でもシリア人でもなくて、
そして、何かしらの問題の渦中にいるわけではない、からだ。

代弁する権利も資格もない。

彼らの云うことを伝えることはできる。
でも、多くのことばは、それだけを切り取っては意味が通じにくい。
それを都合良く、ヤフーニュースの見出しみたいに
いい感じに切り取ったり、書き換えたりする作業は、
絶対にしたくないし、できない。

そして、だいたい暗礁に乗り上げる。

意味が完璧に分かったり、状況がよく把握できたとしても、
また別の問題が出てくる。

細かいものが気になるので、そういう詳細を書こうとすると、
あっさり削られたり、無視されたりする。
でも、その中にしか、描けない
微細な人やものの様子と、それらが物語るなにものか、を
本当は、出来る限り事実に則って、書いていきたい、と
いつも思いつつ、叶わない。

そしてまた、暗唱に乗り上げる。

当たり前だけれど、描きたいと思うものが
私には不可能である、ということを思い知らされて、
どこか、すっきりとした、晴れやかな気持ちになる。


2018/07/23

ごく、限定的な邦楽祭ーことばの周辺を往く


十年ぶりぐらいに、秘蔵の飲み物を準備する。



インスタントコーヒーにコーラを入れると、こうなる。
カフェインを最大限に摂取するための飲み物。
ルーマニアの石工たちは、仕事中に飲むらしい。
昔教えられたこの味は、
身体に悪いけれど、一度飲むと忘れられないものだ。

事務仕事がなかなか進まない。
もともときらいではないけれど、得意ではないので、
常に結構な分量が、残っている。

やる気が出ないのは、おそらく
何だか最近、わけもなくモヤモヤしていて、
でもそれに、明確な理由がないから、困っている。
中学生みたいだ。


正規の勤務時間を過ぎた瞬間に、
ヘッドホンを手に取る。
ぱっと気分を変えよう、
とにかく仕事をしておまんまをいただいているから、
文句を云わず、粛々と終わらせなくてはならない。

と思い、いい感じのバランスの、毒も害もない、
でも浅くもなくて、声はいい、というところを攻めようとして
秦基博を流していた。
いいじゃないか、Rainとか映画と相まって甘酸っぱいじゃない、
ドラえもんだってある。
ドラえもんで浄化したい、などとバカなことを思いながら
時々特に好きな楽曲があると、誰もいない事務所で唄ったりする。





そして、本家も好きだがこのバージョンも大好きだ。





それから、これもいい。



カバーもいいんだよな、などと
眉間に皺を寄せながら書類を読みつつ、
とぎれとぎれ耳にしていたのだけれど、
ふと、手と思考が止まる。




うんと、切ない。
旋律とことばがとても、よく合っている。
合いすぎて、聴き流せず、思考に反して
そこでは困る、というところに心が塡まってしまう。
奥村チヨではないのね、などと独り言をいいながら
次の曲に移るがままにしていたのだけれど、
結局、もう一度再生してしまう。

歌詞が、ある事象とそれに付随する感情をそのままことばにしていて、
それが、あからさまにそのままだから、
余韻に生々しさを遺す。
曲としては素敵だけれど、今はそういうのを聴きたいわけではない、と
コーヒーを淹れ直す。

気分を刷新しようと、暑い日本を思いながら
昔さんざんラジオから聴いた曲に移る。



何度見ても、やっぱり千原ジュニアに似てるのが、気になる。
実は、スガシカオはもやもやしている、といつも思っている。
腕のいいギターと、キャッチーで印象的なメロディーライン、
切れのいいスピード感の割に、
結構、すっきりしなくて、そこが好きだ。

大方の事象も感情も、そんなものだ。




どのPVも結構本人が全面に出ている。
サングラスでいろいろと隠しているのだろう。




懐かしすぎるな、と感慨にふける。
リアルタイムで聴いた時と今に、あまり曲の印象が変わらないのは、
自分が成長していないからなのか、歌詞がうまいところを云い当てているからなのか
判断には困るところだ。



これもラジオでよく聴いた曲だ。
シングルカットの売れ筋の曲だったから、
あの頃は、ふん、ぐらいの思入れしかなかった。
でも、今聴くと、何だかよく分かる、
そのゆびにとまりたい、と思えてくる。


普段は仕事中、
ロウロウとクラシックを聴くことはあっても、
ほとんど邦楽を聴かないのは、
歌詞が気になるからである。

日本語の歌については、
ただただセンスしか見てない曲か、
多少野暮ったくても、唄いたくなるような、
いいことばを使っているものしか、
両者にバランスのあるものしか、
基本的には聴かない。

もっともこれも、完全に個人の好みによる。
個人的に、歌になる感情や、歌になる情景や
もしくは、云い当てられてぐっとくる場面は、限定的だ。

前向きな歌詞の中には、
そこに至るまでの葛藤が描き出されていなければ、不足を感じる。
何かしら暗い感情ならば、なおさらよく見知ったものだから
ぺろっと描かれたら腹が立つ。
面倒くさい人間だ。

オザケンぐらいさらっと生きられたらどんなに人生素敵だろう、
西野かなぐらい自分のことばかり都合良く考えられたらどんなに楽だろう、
などと、イヤミを云ってはいけない。

スガシカオのもやもやは、歌詞の周辺に
逡巡する思いが、しっかりと残されている。
云い切ることのできない、たくさんのものものを
一つ一つ汲み取ろうとしている。

そう云う作業を、たぶん自分自身がきちんとしたい、と思っているから
変な引っかかりなく、でもしっかり心にはひっかかりながら
曲を聴けるのだろう。

かくして、仕事は進まず。



2018/06/29

名前を聞きそびれた、お母さんに



バスに乗る時は、隣の人を選ぶようにしている。

男性の横に座ることは文化的によしとされていないので、
余程でない限り、座らない。
どれだけ空いていても、既に座っている女性の横に
座るようにしている。

子ども連れのお母さんは、私の中で一番、いい。

私の身体のサイズはこちらの人より小さいので、
子どもを膝に乗せているお母さんたちにも、
私は都合がいい。

先日のバス。


小さな赤ちゃんを膝に乗せた、ブルカの女性の隣に狙いを定め、

空いているか訊いてみる。
どうぞ、と云ってくれたので、もたもたと
バックパックを降ろそうとして、
片手に持ったもう一つのバッグの置き場所に困っていたら
赤ちゃんを抱いていない方の手で、さっと
お母さんは私のバッグを持ってくれた。
どうも、ありがとうございます、とお礼を云う。

バスの乗車時間は長い。

元来人見知りなのに、どうしたって知らない人と相席になるので、
自分からは積極的に話はしない。
でもその日は、お礼を云った流れで、
何となく会話が、始まる。

とってもきれいな子ですね。

8ヶ月なの、と云いながら、お母さんは
ノースリーブのワンピースから出た、
あかちゃんらしいふっくらした腕を
撫でていた。

バレエの衣装のような、ふわふわの白いスカートの先から伸びる

むっちりとした足が、私の太ももをやさしくけってくる。
ワンピースを着た赤ちゃんが、お母さんの膝の上で
私の顔を見上げていた。

バスはさっぱり出発しない。

その間に、声は出さずにしぐさだけで、小さくあかちゃんがむずがる。 
大振りの服と、ブルカの裾を上手に使って、
おっぱいをあげようとしていたので、
乗車する人が行き来する通路から見えないように、
こちらは少し前屈みになって、視界を遮ったりする。
おっぱいを飲んだ体勢のまま、赤ちゃんは寝てしまった。

お母さんは、今から向かう場所の話をする。
今から旦那さんの家族が住むキャンプに往こうとしていた。
彼女もまた、以前はキャンプに住んでいたけれど、
アンマンに移り住んだ家族のお母さんだった。

お母さんは会話が途切れると、ブルカの下から

子どもに向けて何かを小さな声でささやき、
時々めくれあがった赤ちゃんのスカートの裾を直し、
髪につけたヘアーバンドをはめ直す。

あなた、いくつなの?と、ふいに訊かれる。

確実にお母さんより歳上なのは分かり切っている。
云いたくないんだけど、などと
苦笑しながら、同じ質問を彼女に返す。
やはり私よりも8歳若くて、
でも既に、11歳と6歳、4歳と膝の赤ちゃんがいた。

そして、一連のお決まりな質問を受ける。


家族はどこにいるの。あなた1人で住んでるの。結婚してないの。どうして。


一つ一つの質問が、でも、どこか真剣で

あまり真剣に耳をかしてくれるから、
つたないアラビア語で、釈然としない理由も口にすると、
そうなの、、、と一つ一つ
納得しようとしていた。
大方はおそらく、彼女には納得できない理由なのだろうけれど。


赤ちゃんは目を覚ますと、

吸い付くような大きな亜麻色の目で、
物珍しそうに私の顔を、じっと見る。
こちらもまじまじと、その大きくて澄んだ目を、見つめる。
おそらく、バスの中のエアコンは寒いだろう、と
赤ちゃんの両腕を、両手で包んでみる。

ンシャアッラ、子どももできるわよ、まだ若いわ、と

励ましてくれる。
こちらも、インシャアッラ、と、呟く。
何だか、いつもならくしゃくしゃな気持ちになるこのやりとりが
でも、そんなに気にならなかった。
ことば通り、インシャアッラ、だろう。

お母さんは、小さいけれど、深さと明るさという

本来、一緒にはならないはずの要素をバランスよく持った、きれいな声音で、
落ち着いた、丁寧な話し方をする。

子どもへの愛情は、世界中どこに居ても変わらないでしょ。

ほら、こんな生活しているし、シリアもあんな状態だけれど
子どもたちが居るから、生活できるの。
みんな知っているから、ほら、子どもへの愛情って。
ヨルダンでもシリアでも変わらないわ。
あなたも子どもは好きなんでしょ。
その気持ちって、とても大事な思いだから、
子どもが居るってことは、あなたの人生にも大事なことだと思うわ。

お母さんは時々ふと、考えているのか、何かを思い出しているのか、

間を作り、そして、丁寧に、思案し、口にする。
云い終えると、赤ちゃんを自分の身体にふわっと寄りかからせて
頭にキスをした。

本当に、そうなんだろう。

このお母さんに云われると、
すとん、と心に納まって、
何だかとても大切な真理を示す、ありがたい言葉に思えた。


あれやこれや、質問攻めにされることに慣れているから、

控えめな人と話していると、
不思議とその人のことをもっと、知りたくなる。
でも、相手がそれを望まない人なのであれば、
私からも、あまり質問はしない。

赤ちゃんは少し口を開けたまま、また眠ってしまった。

真っ白で、まだ伸び切らない短い髪を、お母さんは撫でていた。
本当にかわいい子ですね、といいつつ、
お母さんもきっと美人だから、この子もかわいいのだと、思う。

初めて話す人なのに、安心していた。

そういうことは、本当に久しぶりだった。

だからなのか、つい、そのまま思ったことを云ってみた。

あなた美人だから、この子もこんなにかわいいんですよ。

あら、あなた私の顔を見てないでしょ、と云う。

確かに、ブルカでは睫毛の長い、化粧っけのない大きな目しか、
私には見えなかった。

顔を見せてあげるわ、とブルカを挙げようとする。

全力で遠慮したのに、
大丈夫よ、と通路を挟んだ隣の席の男性をちらっと覗いて
ほら、あの人寝てるもの、と目配せする。
そして、ぱっとブルカの裾をまくしあげて、
顔を見せてくれる。
色白の、地味だけれど、しみじみと美しい、優しい顔をしていた。

バスは街を抜けて、軍事施設の他は何もない、

薄茶色の風景に変わる。

私の家からも車で15分ぐらいのところに住んでいて、

ブランクを埋めるために学年を2つ落としたけれど
勉強が好きだからいい成績が取れている、就学年齢の娘が居て、
赤ちゃんは今風邪をひいているけれど、
政府系の診療所はサービスが悪いから
プライベートの病院へ連れて行っていて、
縫製関連の仕事をしている旦那さんは
紛争前からヨルダンで仕事をしていたから
仕事の口はどうにかなっていて、
知り合いがシリアに戻るから、
シリアに居る家族にお金を託すことにしている。

そんな話を、お母さんは、ぽつぽつ、とぎれとぎれ、話していた。

時々窓の外をみて、時々私の顔をみつめ、
赤ちゃんをずっと撫でていた。


あなた、ダラーのことは知ってる?

マフラックへ向かう土漠の景色を背景に、
お母さんは赤ちゃんに視線を落としたまま、尋ねてくる。
今週頭から始まった攻撃は、ニュースで見ていた。

お母さんの家族はまだ、みんなダラーに居る。

ふたりのお兄さんと、ふたりの妹と、
一番上は3人とお腹の中に、二番目も3人、
妹さんも1人、子どもさんがいて、
彼女のお母さんもまだ、ダラーに居る。

連絡はついたけど、電気も水道もなくて、

逃げる場所もない。
でも、ハモゥドゥリッラ、みんな生きてるの。
ハモゥドゥリッラ、と何度も繰り返しながら、
過去に住んでいた家の間取りや、家の周りのものもの、
それから、今の状況を淡々と、話してくれた。

やはり、どうしても、訊いてしまう。


あなたも、帰るんですか?いつか。

インシャアッラ、帰りたいから、帰るわ。
そうしたら、アパートではなくて、
子どももいるから、一軒家が欲しいの。


キャンプに住む人の8割以上は、ダラー出身だ。

3年前にキャンプからダラーに戻ったスタッフや
最近帰ったという子どもたちの顔を、思い出していた。

マフラックのバスターミナルからも、

同じバスに乗る。
これに乗りましょ、と、いくつかあるバスの中から一台選ぶと、
お母さんは率先してバスに乗る。
あくまで動きはたおやかなのに、決断はぱっとする。
きっと4人も子どもがいたら、迷ってなどいられないのだろう。

通路の先の白いジュズダーシュを着たおじいさんが

膝にちょこんと座っている赤ちゃんを
必死にあやそうとしていた。
彼もシリア人だ。キャンプに往こうとしているから。

ものすごいスピードで幹線道路を疾走するバスの窓からは
相変わらず茶色い平たい土地と、
遠くにスウェイダの黒い山が見える。
私にとって見慣れた風景は、でも、彼女にとっては
上の娘二人の喘息に苦しむ記憶しかない、意地悪な土地なのかもしれない。
互いに無言で窓の外を見つめていた。

全開の窓からの突風に顔をしかめる赤ちゃんに
気がついたお母さんは、窓を閉める。


シリア人用のゲートは面倒が多いので、普段は使わない。

でも、何だかお母さんと一緒に居たくて、
キャンプ内のタクシーをシェアするために、
彼女と一緒にシリア人用ゲートを使う。

彼女が2つ目のゲートの検問で車を降りている間に

定額になっているタクシー代を払い、
キャンプ内の目的地で、私が先に、タクシーを降りた。

タクシーの中から、お母さんはこちらに向けて、

ひらひらと、手を振っていた。
さりげなくて、静かなお別れだった。

初めて会った人との別れ際には、

お会いできて光栄です、というアラビア語の挨拶をよく、使う。
その挨拶を云って、車を降りたあと、
云いたかったことはそんな言葉ではなかった、と
車を見送りながら、後悔に立ち尽くす。

きっと、私はあなたのことを、
ほとんど何も、わかっていないのだろうけれど、
何だかとても、あなたのことが好きだ。

よく知らないのに、好きだなんて口にしようとするなんて
こちらの子どもたちみたいだ、
そう、気を紛らわそうとしたけれど、
ごめんなさい、が云えなかった子どものときみたいに
小さく胸の奥をつねられるような、痛みが残った。



ブヒッビック

女性単数に向けての、好き、というこのフレーズは
子どもたちがやたらと誰にでも使うので、
聴き馴れたアラビア語だ。
けれども、私から誰かに云ったことは、
ほとんど、なかった。

そして、
4人の子どもの名前は聞いたのに

お母さんの名前は聞かなかった。
私の名前も、云わなかった。