2017/12/24

移動しながら、考える


乗り物に乗れる機会が、最近あまりなかった。
旅が苦手なせいか、休みが続けて取れないせいか、
長距離の移動をすることもなかった。

日常的に歩くことも少ないので、

歩きながら考える、という
そう云えば大事だったことも、久しくできていない。
これはヨルダンの道の作りのせいなのだけれど、
そもそも、どこかへ往くことも、あまりなかった。

奇しくも、仕事の予算のせいで、最近バスによく、乗る。

合計、うまく乗り継げても2時間ほどかかる道のりを
バスやらセルビスやらを乗り継いで、サイトへ出かけなくてはならなくなった。





バスの思い出で一番鮮明なのは、大学に入ったばかりの6月の移動だった。

祖父が亡くなったという連絡を受けての帰郷だった。
学生でお金もないので、東京から実家近くの街まで、
バスで帰った。

東京から横浜までの小さい、大きい、建物ばかりの景色から

小田原から熱海にかけてのトンネルと、一瞬見える、海。
富士山を拝みながら、開けた平野と大きな川を越え、
見事に剪定された茶畑の濃い緑、みかん畑の中を抜けて、
また住宅が増えてくると、下車が近づく。

祖父についての記憶を辿りながら、

過ぎ去る景色をただ、一つも見逃すまい、と
バカみたいに真剣に窓の外を見ていた。
たまたまその時によく聴いていた、ショパンのピアノコンチェルトは
繊細だけれど潔い、甘くなりすぎることのない、ピリスの演奏だった。
大きなCDウォークマンを膝に載せて、聴く。
CDが終わってもまだ、ずっと頭の中を旋律が徒に駆巡るので
結局何度も、繰り返して聴くことになった。
その頃は常にノートを持ち歩いていたので、
思うことや感じることを、よく、ノートに書いた。


その後、ショパンのピアノコンチェルトを聴くと、反射的に、

日本平の穏やかな白っぽい海と、三ヶ日あたりの鮮やかな緑を
思い出すこととなった。

移動する時に音楽を聴くと、

まるで映画の1シーンのように、
目に映る景色が違って見えてくることがある。
その時の気持ちに合わせて、
その時の景色に合う音楽を選ぶ。
乗り物に乗る時の、楽しみでもある。
1人の移動には、欠かせない。


ヨルダンに住み始めた初めの2年、

毎朝10分ぐらいだけだけれど、バスに乗って出勤していた。
朝早い時間のバスの中では、コーランが流れていることが多くて、
坂道を転げ落ちるように下るその道のりでコーランを聞けると、
きっと、事故はないだろう、と妙に安心した。
今でもコーランが流れている時には、音楽は聴かないようにしている。



今月の頭、仕事でとてつもなく憔悴して帰った日があった。

その美しさを愛でるより他に、できることがなくて
進行方向に沈む夕日を見続けていた。
辺りは一面の土漠で、どこにも緑なんてない。
満員のバスは人いきれで暑いような、でも
空調のせいか冷たい風が頭をかするから、寒いような、
頭と同じぐらい感覚も混乱していて、
唇が乾燥していくのを、そういうものとして、感じながら、
ただただ、放心していた。
その時は、新世界を聴いていたけれど、
その音楽の壮大さと、自分の頭の中の混乱は、どうにも釣り合いが取れなくて
ただ、できるだけ違う何かへ意識を向けさせるためのものでしかなかった。


音楽と、景色と、心持ちがうまく合う瞬間があるバスの移動は、

つらつらとものを考えるのに、とてもいい。
どのみちそこで浮かんでくる考えに、
大したものなどないのだけれど、
どこか、大事な時間のように、思える。

今の移動時間では、まだ物足りない。

目的と手段が逆になってしまう滑稽さを持っても、
ただ考えるためだけに、ずっと長距離バスに乗っていたい。



2017/12/09

そして、アンマン城参り


城を見る、というのは、どうも
生まれた時からの習性のようだ。
私の今のアパートメントからアンマン城までの距離と
実家から山城までの距離が、直線でちょうど同じぐらいだ。


実家の台所から西に見える山城は
夕日をバックに黒い輪郭を描いていた。
そして、アンマンのアパートメントから南東に見えるアンマン城は、
遠い夕日に色が黄色く、赤く、染まる。



冬になるとなぜか、アンマン城に往きたくなる。


小春日和にはもう遅い、初冬のアンマンで
穏やかな冬の、傾いた日射しを享受するには
アンマン城が一番、いい。

残念ながら、緩やかな坂道ばかりの山城への道のりと
丘を下って登る、アンマン城への道のりでは
疲労具合が違う。
それでも、自分の足で下って登る、というのは
決まり事になっている。

最近疲れきっているせいか、足が重い。
だから、ダウンタウンの入り口の、墓場の横の階段が何だか、長い。
うつむく青年、詩のタイトルを思い出す。

でも、城壁が見えてくると、足取りが軽くなる。
入り口への最後のスロープの手前の、いつもの店で濃いコーヒーを買って
鬱陶しいガイドを適当にあしらって
西の端っこへ、往く。

初めてアンマン城に来た時から
ここで休む、と決めている場所がある。
奇しくも、その後アンマン城好きが高じたせいで
その場所から自分のフラットがよく、見える。




遺跡の残骸の、石の壁に、すぽっと身体を納めて
夕日が落ちていくのを、鳩が旋回するのを、見る。

旋回の角度と道筋を決める群れの一羽が、
随分と大回りをしながら、随分と気持ち良さそうに先頭を飛ぶ。
何もない、ということを色にした、
どこまでも澄んだ、濃い青い空を
小さな鳩の姿が粒になって突っ切っていく。





私も、あの、何にもない空間に、身を置いてみたくなる。
もしくは、
あそこを立方体に切り取って、ずっと心のどこかに取っておきたい。
そして、ずっと、いつまでも、宝石みたいに、眺めていたい。


空を見ると、身体が少し、伸びる。
そして、肩こりにちょうどいい。

でも、首周りがすっと寒くなって、またきゅっと首をすくめる。
亀みたいだ、と思う。

頭も空みたいに真空にしたい時には、馴染んだ曲を聴くのが、いい。

金太郎あめみたいだ、と村上春樹が評した
内田光子のシューベルトの21番を
最後まで、夕日をみながら集中して、聴く。

日が落ちると、急に寒くなる。
そして、家に帰らなくては、と思う。






帰りに人に溢れたダウンタウンを歩きながら
また、Water Water Camelを聴く。
「あなたは ずっとちいさな にんげんだったのよ
 うつわじゃなかったの でも なんだっていうの」
知らない人ばかりの道なのに、
1人で、でも、親密な空気の中に居るような、気分になる。
「よろこびは しょくたくに かなしみはといれに」





お伊勢参りの帰りに買う生姜糖みたいに、
アンマン城からの下るとあるダウンタウンのお菓子屋さんで
オスマンリーエを、買う。
暖かい家履きのスリッパが必要だ、とか、思いつき
あやしい古着屋さんでスリッパを買う。
買ったあとで、そう云えば前も買ったんだった、と思い出す。

たぶん、何度も何度も、似たようなことを毎年、している。

アンマン城参りは、私にとって、
儀式のようなものなのだろう。