2022/04/15

この日のはなし ー おばあさんの日

 

知らない他者の話に耳を傾ける機会は、
日本にいる方が少ない。
訊いてもいないのに、突然自分のことを話し出す
アラブ人とはさっぱり事情が異なる。

火曜日は、機会があれば人の話を聞く機会のある曜日になった。
ただ、聞く側の人間性が試されることも多くて、
私はいつも、誰かの会話を横で聞いていた。

たまたま、おばあさんと話すことが多い日だった。
自分でも、聞かせていただける、ということが、
単純に嬉しくて、なんだかとにかく、耳を傾ける。


鯉のぼりを広げていたら、声をかけてきたおばあさんは、
福島の出身だった。
会津磐梯山を横に見上げる郡山で育ち、
結婚したとき、旦那さんが学校の先生で畑仕事ができないなら、
仕事のある都会に行った方がいい、と東京に出てきた方だった。

先日見かけた、福島出身のおばさまを思い出し、
福島出身の大学の同級生の顔を思い出す。

野球を教えたいと学校の先生になった旦那さんと弟さんのこと、
娘さんばかりで息子さんはいないけれど、
お孫さんは男の子だから、鯉のぼりが必要になった、と。

昼に、以前話に聞いていたコーヒー豆やさんへ行ったら、
おばあちゃんが一人でお店をしていた。
小さな、東京コーヒー、という看板。

土間の両脇にコーヒー豆の入った銀色の缶がずらりと並び、
奥の畳にきっと、いつも座っているおばあさんが、
土間へ降りる壁に取り付けられた手すりにしっかりつかまり、
注意深く土間へ降りていらした。

ブラジル、ブルーマウンテン、モカ、ブレンド
サラサラとお店に置いてある豆の種類を教えてくれる。

ブレンドをお願いすると、見たこともない種類の秤で
豆の重さを量っていた。
分銅のような塊を目盛に沿ってずらせる棒が、受け皿の反対側に伸びている。
目盛のところまで、分銅をずらして、均衡を取る。

今年の年号の入った、検査合格証のステッカーが貼ってある。
これがないと、仕事ができないから毎年、きちんと検査してもらう、と。

きけば、96歳になられる方で、以前は喫茶店専門で、
コーヒー豆を卸していたらしい。

この仕事を取ってボケちゃっても困るでしょ、と息子に言って、
今でもこの仕事を続けているのよ、と
きれいな声音でお話しされていた。


お借りしている施設にある小さな棚を覗きにきたおばあさんがいた。
少し曲がった腰がちょうど、棚の高さに合っていて、
中に入っている本やものを見ているようだった。

話しかけてみると、本を探しにきたようだった。

本を読むのが好きで、少しぼやけているけれど、今でもきちんと読めるので、
本を読むのが楽しい、とおっしゃる。

小学生の時から、戦争で工場へかりだされ、
本を読んだり、勉強をする機会に恵まれなかった。
だから、大人になってから通信で大学にも通い、
文学にも親しんでいる。

お年は、91歳だった。
2本の杖を両手に持って、歩いている。

腰の曲がった私が歩いているのを、じろっと見る子どもがいるのよね、
こんなおばあさん見たことないからなのかしら、
でも、少し不躾だわ。

有料の施設に入ったこともあるけれど、
誰かにやってもらうようになると、どんどんできることが減っていくの。
自分でなんでもできる方がやっぱり、いいのよ。

大学の中にも図書館はあるけど、他にも勉強できる場所として、
図書館はとても大事なのに、図書館がなくなってしまって。

東京大空襲の時、目黒から真っ赤に燃える街が見えました。

私は本当に、戦争で本が読めなかったことが悔しくて、
こんな歳でも本が読みたくて仕方がないの。

ずっとウクライナのニュースをテレビでやっているけれど、
震災で大変だった方たちは今もまだ大変なのに、
まず、自分の国からよくしていかないといけないわよね。


マスクの下からでも、声音は澄んでいて、
透明で細いけれど、決して切れない張り詰めた線のような
美しさのある、話し方だった。

これは、このおばあさんだけではなくて、
コーヒー屋さんのおばあさんもそうで、
言葉が適切な速度で、過不足なく選別されて発せられている。
そのまま、いいマイクで漏れることなく録音したいような
とてもいい声だった。


おばあさんたちが、話を終える瞬間にいつも、戸惑う。
どう話を終えたらいいのか分からないようでもあり、
もっと話したいようでもあり、
でも、どなたも謙虚で、
ずっと同じ話をしてしまうから、と言いながら
こちらの方が少し後ろ髪引かれるような後ろ姿で
歩き去っていく。

でも、世の中のおばあさんの多くは、どこか、潔い。

私の祖母も、そんな人だった。
歩けなくなったら辛すぎる、と88歳で人工膝を入れる手術をして、
やはり痛みはあったのか、そこまで活動的ではなかったけれど、
いつも話すことはしっかりしていて、
92歳で亡くなった。

最後に祖母と話をした時、なぜか随分昔、幼少期の遊びについて
詳細を話してくれた。
長良川の浅瀬で、体を丸めて水の勢いに任せて
くるくる回っていく遊びを、かぼちゃ流れ、と呼んでいた、という話。

私がそれなりに話をしたことのある親族の中で、
頑ななところはあるけれど、一番ものの考え方がフラットな人だった。

聡明な語り口のおばあさんは、どこか神々しい。
おじいさんの多くが、かくしゃくとしていてもどこかで、
弱さが見え隠れするのとはどうしても、決定的に何かが違う。

もっと色々と聞きたい話がある。



2022/04/09

都会の桜

 
桜はどこか、恨めしいものの象徴のように、
久しく私を捉えていた。
愛でられない悔しさが、恨みに変わる、なんともありきたりな
僻みのようなものだった。

ヨルダンの春も、湧き立つような緑に溢れる。
その、ひどくあからさまで呆れるほど明るい春を
初めて経験した年には、心のどこかで物足りなく、感じていた。
翳りのない春は、瑞々しい緑の葉が陽を照り返し、
どこまでも光に満ちている。
そのうちあっという間に枯れて、砂をかぶるのだけれど。

力のかぎり春という季節を享受しようとする様に、
どこかに情緒でもないものか、と思ったりした。

でも、10年も住めば、それがまさに春なのだ、と
身体も感覚も慣れてきて、
春に咲く花を週末ごとに決めて、いそいそと出かけていた。
大事な年中行事のようなものだ。


10年ぶりに、心いっぱい桜が愛でられる時が来た。

私の記憶よりもよほど早く、蕾は膨らみ
私の記憶よりもよほど急いで、桜は散っていった。

桜の花の色は、曇った空に溶けて消えてしまいそうだった。
一度だけ見た、青空の下の桜は、もっと儚げだった。

街中の桜は、人に愛でてもらうために存在していた。
たくさんの人々が、桜並木に集まってきて、
座ることはできなくても、並木の下をただただ、
歩き続けていた。

桜を見るよりも、桜を見る人々に気を取られがちだった。
犬の散歩をしながら歩く人、
ベビーカーを押しながら歩く人、
子どもを肩車しながら歩く人、
友達数人で連れ立って歩く人。

桜を愛でる人々の姿が妙に、愛おしく
でも、どこか疎外感を感じる。

都会の桜には、桜と対峙する場がなかった。

阿呆のように桜を眺めていては、
都会に暮らしていけないのだ、と
教えてくれるのが、都会の桜だった。
その教えが、私にとっては今、必要なことなのだろう。

それでも、やはり桜が散るまでそわそわした。
立派なカメラを貸していただいたので、
とにかく桜を撮り続けていた。