2020/08/07

しゃがんで、目を瞑らせる


乾燥の激しいこの国では、何もない荒野を歩くと
時々、羊かヤギの骨に出くわす。
その度に、デッサン用の牛骨を思い出す。
谷底にある骨は、崖から落ちた羊やヤギだ。
だから、肉が朽ちた後、骨と少しの毛だけが残っていたりする。

例えば、羊を絞めるシーンは、
何度見ても、小さく、大きく、衝撃を覚える。
生きていたものが、そのナイフのひとかきで、息絶える。

イードアルアドハーという祭日は、
羊や、場合によっては牛やヤギやラクダを捧げる。
預言者イブラヒムが、神への忠誠を誓って息子を生贄に差し出そうとした時、
息子の代わりに羊を差し出すように、と言う天使の言葉に従い
羊を絞めて捧げたという話に由来する。

絞めた羊を貧しい人々に分け与える日、ともなっている。

実際に、地域の羊肉を配る人もいるし、
羊肉を扱う業者にお金を寄付して、解体配布をお願いする人もいるし、
家族親族で分ける人もいるし、
隣の国のようにお金だけはたくさんある金持ちのいる国には、
大量に絞めて、結局食べられずに捨てたりする人もいる。



今年は、羊やヤギを飼いともに暮らしている
今ではいくらかヨルダンでも珍しくなってきた、
べドゥインの家庭で、羊を絞めて料理し、いただくところまでを
ご一緒させていただいた。

彼らが選んだ羊は、まだ6ヶ月の子羊だった。
まだ、身体つきも小さくて、毛もふわふわしていた。
家族や親族の子どもたちがまだ、跨って押さえておけるぐらいのサイズだ。

彼らがどれぐらいの頻度で羊を絞めるのか、分からない。
5歳から12歳ぐらいまでの子どもたちは、
父親と母親に頼まれて、逃げていかないように子羊を捕まえていて、
その様子は、羊と戯れる子どもの図とあまり変わりがなかった。
彼らは羊やヤギと一緒に暮らしている。

ただ、いよいよ絞めるために地面に寝かせようとした時、
子羊の動きと気配が、明らかに変わる。
それでも、抵抗するにはまだ小さすぎて、
奥さんと子どもが、前脚と後脚を掴んで寝かせ、
ご主人のナイフが首元にすっと入るまでに、
いくらの時間もかからなかった。

首と胴体が、皮一枚でつながった状態で、しばらく血抜きをする。
神経反射なのか、何度か体だけがバタバタと痙攣する。
それも、数回で、そのまま子羊は動かなくなる。
さっきまで生きていた子羊が、もの、に変わる瞬間だった。

周りで見ていた男の子たちは、少し静かになる。
でも、彼らはある程度慣れているのか、
もしくは、やはり見るのはあまり好きではないのか、
どこかへ遊びに行ってしまった。

8歳の女の子だけが一人、子羊の脇にしゃがんで、
一生懸命子羊の目を、閉じさせようと
何度も何度も、まぶたを手で押さえる。

本意ではないけれども、観ることになった
近隣国の広場に投げ出された首のない、もしくはひどい傷口を晒した
死体の映像を思い出す。

ぼうっと横たわる子羊を眺めていると、
奥さんが、悲しいのね、と言う。



毛皮を剥がす。
後脚の関節の皮を削ぐ。
肉と毛皮の境目が見えるように切ると、
そこから極力ナイフは使わず、手の力だけで
毛皮を剥がしていく。
掌を丸め、拳を境目に入れて押していく。

途中から塀に吊り下げて作業をする。
その方が明らかに、効率が良さそうだった。
夫婦は壁にかかった肉と向き合う。

奥さんの色鮮やかな服が、
肉を覆う白い膜と黄土色の壁の中で
随分と美しく見えた。

後脚から始まった毛皮を剥ぐ工程が
最後に首まで到達すると、毛皮を下へ引っ張る。
つるり、と首から毛皮が剥がされると、
全身の毛皮が逆さになって、抜け殻のようになった。

でも、内臓はまだ残っている。
逆さにつられて突き出た腹へ、縦にナイフを入れると
中身がどろり、と勢いよく出てくる。
胃袋と腸だけを除くと、
肺や心臓、腎臓や肝臓だけを丁寧に胴から外し、
金属のたらいに入れていった。
その頃には、吊るされた肉の塊はすでに、
肉屋で見慣れた姿になっている。

あっという間の手慣れた作業だった。

胴体の解体も吊されたまま手早く済ませ、
最後に、頭の皮を剥いだ。
頭だけは、胴体のようにすっと毛皮は剥げない。
飼料用のビニール袋の上で、
頭の毛皮が削がれていく。

毛を削ぐために角度を変えられる頭を見ていたら、
一瞬だけ、陽を受けて目が、様々な澄んだ青色に輝いた。
虹彩も働くなった目の内側で、瑠璃色の輝板が、
光を受けて反射するからだ。


時折力を込めなくてはならない場面がありつつも、
淡々とさばかれていく工程は
牛肉や鶏肉を食べる私にとって、誰かがいつも
自分の代わりにやってくれていることだ。

私ができるだけその工程を淡々と見続けていたのは
ただただ、彼らの手際のよさへの感心からでもあったし、
つぶさに見られる数少ない機会を逃すまいとする、欲深さからでもあったし、
この工程をしてくれる彼らへの敬意からでもあった。

けれども、一瞬見えた、あの青緑色の瞳には
羊が生きものだったことを不意に、強烈に思い出させる。
こちらの身体の深部をえぐるだけの、鋭い意思が残っていて、
いくらかなりとも、動揺した。

必死になって、目を閉ざそうとしていたあの子を思い出す。




内臓はそのまま、台所で細く切られる。
心臓が、随分小さく見えた。
腎臓と肺と心臓と肝臓と尻尾の脂を
玉ねぎと一緒に炒める。
塩とカレースパイスを入れて、味を整える。

肉も部位ごとに切られる。
水で洗うところだけ、手伝わせてもらう。
もう温度もなくて、ただの肉になった。
頭を洗おうとして、前歯を凝視してしまう。
半年ならば、春先の柔らかい草もたくさん、食べていただろう。
でも、もしかしたらその頃には、まだ
乳を吸うのに必死だったかもしれない。

肉もまた、あばら肉も腿肉も頭も一緒に
大きな鍋で煮る。
子羊の胴体は、そのほとんどが一つの鍋に入ってしまった。

この日は、臓物は炒め物に、肉はマンサフになった。
マンサフはヨルダン人の一番の好物で
羊肉と、その煮汁で炊いた米に
酸味のあるヨーグルトソースをかけていただく。

この過程のマンサフのソースは
ヤギのミルクを煮立てて常温で冷ます天然のヨーグルトを
煮汁とスパイスで溶いて作られていた。


臓物は、一つ一つ、臓器の種類を確認しながら食べる。
朝焼いた、薄い膜のようなパンのシートに包んでいただく。
肺はあまり味がなく、心臓は弾力があった。

マンサフもいただく。
頭蓋骨が容易に想像できる頭が乗った大きなお盆から
米と肉を皿に取り分ける。
他のところでいただく時には感じないのに、
その日は、臓物とマンサフの味に、どこか生々しさがあった。

むろん、調理方法のせいではなくて、食べ手の問題だ。

こちらで羊を絞める時には、
恐怖に慄いたまま死んでいくことのないように、
羊の目にナイフなどは見せないようにする。
苦しまずに死ねるように、首のどこを切ったらいいのか
子どもに教えている家族と一緒に、イードを過ごしたこともある。

あの映像の撮られた周辺の国々で、人を殺した人々もまた、
このイードには、羊にナイフを見せずに急所をついて
羊を絞めているのだろうか。
もしそうだとしたら、その行動は
どのような思考のもとになされるのだろうか、とふと、思う。



日差しはとても強いけれど、風のよく吹く日だった。
カメラを持ってきたので、写真を撮ろうと外へ出る。
そこへ、日本の過疎地なら複式学級ひとクラス分ぐらいはいる
近所の子どもたちがわらわらとついて来て、
カメラに興味を示す。

一人2回だけ、とルールを決める。
子どもたちは、他の場所でカメラを出す時の子どもたちの反応よりも
よほど大人しくて控えめで、よく話を聞いてくれた。
一番小さな、4歳ぐらいの女の子にも、
男の子たちはきちんと順番を回してあげていた。

久しく無人の別荘から、葡萄を一房ちょうだいして来た子たちは、
黄緑色のきらきらした葡萄を頬張る。
色が黒い方が甘いんだけどね、と女の子は言う。

子どもたちは、羊やヤギの説明をしてくれる。
あのヤギは主で名前がある、とか、あのヤギは何歳だ、とか。

子どもたちがゴロゴロできる小さな小屋は
高床式倉庫のような形をしていて、
下には、日差しを避けたがる力の強いヤギたちが
蹲って、涼をとっていた。
高床のスペースが気持ち良さそうなので、お邪魔してみると、
生後10ヶ月ぐらいの、みるからに丈夫そうな赤ちゃんが、
仰向けになって気持ち良さそうに寝ていた。




家に戻って、子どもたちの撮った写真を見る。
周りに急かされて、慌ててシャッターを切った写真がほとんどなのだけど、
どの写真にも、羊やヤギが、中途半端に見切れていて、
ヤギや羊を撮りたい、という意識はなかったのだ、と分かる。
おそらく、彼らの景色の中で、羊やヤギは
特別なものでは、ない。

私に、自分と近い地平にいる存在として、
家畜を見る視点を獲得できる環境はない。
だからなのか、彼らが子どものうちにしている
様々な生きものとともに暮らす、そして
生き死にを目にする経験が尊く思える。
子どもたちがその経験をどのように捉えているのか、
想像してみようと思ったけれど、うまくいかない。




パソコンの画面で見る
首を切られた直後の横たわる子羊の顔と、
たらいに乗った臓物に、
食べていた時には忘れていた、過去の残虐な映像が再度蘇り
どうして、都合よく思い出さなかったのかぼんやり考えた。


何もかもを一緒くたにしてはいけない。
羊は家畜であり、食糧であり、
私はビーガンでもなければ、動物のwellbeingについて
声高に訴える何かしらも持ち合わせてはいない。

ただ、ある時点で何も感じなくなること、
思考が止まることへの恐怖のようなものが、
じわりと心の中で、小さな黒い染のように滲む。

人も生き物である以上、
息の根を止めさせる方法は羊と変わりがなく、
場合によっては人を直接的に、間接的に、殺す人もいる。
憎しみや欲望や、もしくは、社会の構造や戦争により、
心を失ってしまったり、
想像を働かせる思考が止まる状況の中で。

都合よく、自分や近しい人、会ったことはないけど知っている人と、
自分には無関係な人たちを分ける能力を
身に付けていたりする。
その能力で、自分に無関係な人たちの死と
サバンナでライオンに急所をつかれるエンパラの死を、
同じように処理し、いくらの想像も遮断ているのではないか、
と思いが巡り、ぶるっと頭を振る。

もしも、そうだとしたら、
羊は儀式に則って、ナイフを見せずに静かに絞めるけれど、
ある原則や正義に則って人は残虐に殺せる人々と、ある意味で、
同じような思考停止機能を持っていることになる。

心を失い、想像が働かなくなるきっかけが
意外とそこらじゅうに溢れる情報と言葉の中に
転がっている。

だからこそ、誰かの、何かの死に対しての、
ひたすらな悲しみや喪失感から、
もしくはたとえ、息たえた誰かや何かへの
憎しみや欲望があったとしてもなお、
せめて、目を瞑らせてあげようという敬いが
自分にも他人にも、どこかで存在していてほしいと、切実に願う。


日本のように屠殺業者が担ってくれている社会の中では
生きているものの命がなくなることが、どのようなことなのか、
目にする機会など、少ない方がいい。

ただ、もし命がなくなる瞬間を目にしたならば、
生きることと死ぬことがどんなことなのか、という
とかく抽象的になりがちな事象の断片を
道徳とか、倫理観に照らし合わせるのではなく、
本能的な恐怖と混沌の中で、感覚的に知る機会なのだと思う。

そして、そこから生きていることの意味について、逆説的に、考える。

まぶたを閉じさせようとする女の子の、その反応が
羊であろうが人であろうが、死だけではなく、生に対しての、
根源的で純粋な姿勢だったはずだ。
尊び、敬うこと。

何も感じていないのではないかという不安で
怖くなった時には、せめて
あの女の子を思い出すことにする。




2020/08/02

彼らの暮らしと、話の断片 長い自粛の果ての、イード


毎年、イードアルアドハー(犠牲祭の祝日)は、
道端の羊市を尻目に、移動していた記憶のほうが多い。

でも、今年はドナーからの移動制限がかかっていて、
県境を越えることが、叶わない。

日本に住む難民の方々についての討論会を見ていて、
仮放免の難民申請者が、県境を越えるのに許可が必要である事実を知る。
この状況から学ぶことの多さ、そして、
自らの想像力の限界と、経験することの意義について
あらためて考えさせられる。

不必要に苦しい思いなどしなくても、
想像力で埋められるものがあるはずだ、と言う意見もある。
けれども実際のところ、実感しないとわからないことが、
少なくとも私にとっては、多すぎる。

加えて、経験をどの事象とつなげるのかは、
実のところ、興味関心に寄るところが大きい。
おそらく、私のまだ知らない、想像力の及ばない何かに、
この状況はまだ、いくらでも当てはめられるのだろう。



仕事柄、より自粛ムードは助長されていく。
支援関連の仕事をしているのに、万が一
裨益者への感染の原因になったなら、目も当てられないない。
だから、限りなくリスクを減らす生活が余儀なくされる。

個人的に知っているお宅へ伺うのも、躊躇する。
なぜなら、明らかに360度どこからどう見てもアジア人の私が、
誰かの家に行くところが、心ない噂の原因になったら、
これもまた、迷惑にしかならないからだ。

ヨルダン人の家なら、まだいい。
噂を払拭するだけの、大きな声を持ちうるから。
けれども、コミュニティの中でマイノリティの難民宅であれば、
その近くで感染者が出た時、自分の訪問が
彼らを窮地に追いやる可能性もある。

そんな時に、あなたが家にきたから責められて大変なのだ、
と言ってくるような人とは、元来友達ではないということにも、気づく。
優しいシリア人ばかりが知り合いだから
何かが起きたとしても、私には連絡してこないだろう。

非人道的だと罵られたら、自分の非はいくらでも認める。
ただ、お金ばかりをひたすら無心してくる人を相手にし続けられるほど、
私一人では強くもなければ、根本的な解決を提示し、
実行し、見届けられる力もない。

ひたすら後悔と言い訳をしながら、
この国で、同じくマイノリティである私は、
結果、身動きが取れなかった。

自ら行動を規制していく過程を、これもまた実感する。
そして、結構、まいってしまった。



ヨルダンは今のところ、市中感染数がほとんどない、といえるほど少ない。
かなり、抑え込みに成功していると言える。

でも、イード明けには空港が開く。
確度の高いシナリオを予想した時、
この休みに会いに行かなければ、もしかしたら、
この先にチャンスはないのかもしれない、と思い当たる。

そんなことをぐだぐだと一人、考えあぐねているところへ、
知り合いから、イードの挨拶を兼ねたメッセージが届く。
子どもたちが会いたがっているから、遊びに来てよ、と。

二つ返事で、伺うことを約束する。




お土産を買いに、スーパーへ行く。
羊肉の塊と、お菓子と果物。

子どもたちへのお土産も探す。
お休みだから開いている店もまばらな街の中で、
適当なものが見つからず、途方に暮れていると
路上でおもちゃを並べ始めるおじさんが目に入った。

どんなものでも1JDだと言う。
子どもたちが一瞬で飽きてしまうような、
もしくは、一瞬で壊してしまうような、
プラスティックのやたら明るい色合いが、並べられていく。

銃が男の子たちには、一番人気なのは、知っている。
初めてヨルダンに来た年のパレスティナキャンプで
あらゆる種類の銃を持った子どもたちが
いたるところで撃ち合いをしている情景をみた時には、
胸が塞いだ。

ただ、これはどうしようもなく人気のようで
毎年毎年、パレスティナキャンプでもシリアキャンプでも
見受けられる光景だ。

結局、矢尻の代わりに吸盤のついた弓矢のセットを見つけて、購入する。
ちょっとやってみたいな、と思ったからだ。
それに、原型が武器であることには違いないけれど、
今日日弓で人を射ることは、ない。

ついでに、自分のための使い捨てマスクを探そうと
おじさんにマスクを売っている店は知らないかと尋ねたら、
うちにあるよ、と自慢げに、まだ並べていない商品の入った段ボールを開ける。
子ども用のマスクを見つけて、即決で子どもの人数分を買う。
学校が始まったら、絶対に必要になるから。


総額を考えたら、現金の方がうれしかっただろう。
お金をあげないことをポリシーとしていることが、
いよいよ正しいのかどうか自問する。






玄関脇に敷かれたマットの上で、
一番下の子が気持ちよさそうに寝ていた。
風が扉の向こうからやってきて、直毛の黒い髪を撫でていく。

お母さんはいつも通り、ふかふか笑いながら、出迎えてくれる。
お父さんも、寝ている息子を気遣っているのか、
小声で、ようこそ、と呟く。
白髪のいよいよ増えてきたお父さんと、
どんどんふくよかになっていくお母さん。


お土産をすべて渡し終えると、早速
下手なアラビア語を必死で使って、近々の様子を尋ねる。

学校はずっと閉まっていたけれど、
先生たちが丁寧にフォローしてくれていたようだ。
学習用のテレビチャンネルを見て、その後、先生たちとSNSで宿題をする。
子どもが3人いたら、3人分のSNSグループができる。
お母さんの携帯電話からは、グループからの通知音が絶え間なく、なり続ける。

先生たちは本当によく面倒見てくれて、
ついでに私も勉強できていいのよ、とお母さんは言う。

ここのお母さんは、小学校を出てからすぐに、
お針子さんとして、働きに出ていた。
長女で、下に3人の妹と二人の弟がいて、
働かなくては家計が支えられなかったからだ。


日本の様子はどうなの?と尋ねられる。
日本の今の状況は、なかなか説明しづらいが、
事実を端的に、話す。
そうじゃなくて、ご家族は?と訊いてくる。
みんな元気そうです、と言うと、
あぁ、よかったわね、と顔が綻ぶ。

台所では、美味しそうなスープがすでに出来上がっていて、
すぐに食事が始まる。
ブルゴル(小麦を砕いて炊いたもの)をパスタと一緒に炊いた主食と、
裂いた鶏肉をヨーグルトスープで煮たスープが出てきた。

イード中だけは、近所での買い食いを許されている子どもたちに
あまり食欲はない。
せっかくお母さんが作った食事を、
何度も身体を揺さぶられてやっと起きた一番下の子だけが
半分寝ながら、食べていた。
上の二人は外で走り回って疲れたのか、
水ばかりをごくごく飲んでいる。


食事が終わると早々に、風の気持ちいい屋上へ移動した。

以前来た時に、試行錯誤の末に設置した日除けの下には、
ソファーとブランコ、テーブルとたくさんの植物がある。

無花果、レモン、ハイビスカス、
ぶどう、セイジ、それから、種類さまざまなジャスミンが
鉢やバケツに植えられていた。
大きくなってきたら、どうやって鉢を変えるのか尋ねたら、
一度割ってからもっと大きな容れ物に、土と一緒に植え替える、と言う。
どの容器もプラスティックでできているから、割ることができるのだ。
屋上に植物を増やしていくことへの躊躇いのなさの理由を知り、
ひどく、腑に落ちる。

さっきまで居間にいたオウムも、一緒に屋上へやってきた。

このオウムはお父さんの声にだけ反応する。
前に来た時には、コーランの朗読に合わせて鳴いていたけれど、
今は、猫の鳴き真似ができるようになっていた。
猫の鳴き声、とお父さんが言うと、
声音を変えて、鳴き真似をするのだ。

でも、私が近くに寄ると見知らぬ人間に警戒して、
オウムらしい、ギザギザした声を連発する。

お土産の果物とお母さんの作ったお菓子とコーヒーが
屋上のテーブルの上に並ぶ。
フェンネルとゴマが入っている私の好きなクッキーだった。

オウムも桃をもらって、
器用に中身だけを食べると、皮を下に落とし
食べ終えると止まり木で、嘴を拭った。



お父さんはずっと携帯をいじっていているので、
私はお母さんと話をする。

会話の途中で、通知音がする。
トルコとエジプトにいる姉妹たちのSNSグループで
音声を送り合っているのが、自動再生される。

そっちはどう?
とりあえず元気。
でも暑くてやってられないわ。

近所に住んでいる、お父さんのお兄さんの兄弟もやってくる。
まだ3歳の小さな男の子が、私が路上で見つけた極彩色のおもちゃよりも
よほど立派な銃をすでに、持っていた。

子どもたちはビービー弾が撃てるおもちゃの銃を持っていて、
銃を示す単語を一つしか知らない私が、
その単語を口にするたびに、いや、これは機関銃なんだ、と
言い直された。
2年前には、もっと小さなおもちゃのピストルを持っていた。

何度言われても、銃の種類の違いを示す単語は、覚えられない。

そういえば、さっき携帯電話で見せてくれた
お父さんの兄弟のうち、シリア国内に残っている長男は、
迷彩色の服を着ていた。
自警団のようなところに入っているらしく、
非接触の体温計を使って自分たちで街の中の検温を、
行なっている、と話していた。
あの人は、子どもがいないからそんなこともできるの、と
お母さんは呟いていた。

来年のイードは、銃の代わりに
おもちゃの体温計が人気にでもならないだろうか。



一番下の子は、今事業をしている学校に通っている。
学校の遠隔授業について聞きたくて、お母さんと話をしていたはずなのに
そのうち話は、ロックダウン中の支援の話になる。

知り合いで地域の支援をしているヨルダン人は
支援先を選り好みするから、うちには羊肉も届かなかった、とか
3月に世帯主の亡くなったすぐそこの家族にも
足を怪我していて動けないのに、支援しなかった、とか。


それから、国連機関の支援状況についての話に変わる。
説明を受けても要領を得ない私のために、
シリア人用のコールセンターの電話受付がどのようになっているのか、
実際に電話をかけて、実演してくれる。

なかなか、システマティックになっていた。
音声ガイドに従って登録番号と自分の電話番号などを入力すると
支援対象か否かを、折り返しの電話で通知されるようだ。

一度もかかってきたことなんてないわよ、とお母さんは言う。
ヨルダン人も失業率が上がっている今、
この状況下で、細々ながら仕事が続けられているこの家庭に
電話が折り返しかかってくることは、ないだろう。

そのことを遠回しに口にしようか迷っていると、
話は登録証の更新に流れる。

炎天下で、朝一からずっと並び続けて、
夕方までかかってやっと更新できる。
家畜じゃないんだから、あんな暑いところで
何時間も待たされるっておかしいじゃない、と。

難民数も多いから、1日に更新申請をする人数も、相当だろう。
ざっとアンマン市内に登録している難民数を思い出して計算してみても、
うまく均せたとして、一日800人ぐらいになる。

だからと言って、800人だろうが、2000人だろうが
炎天下で、もしくは冬の冷たい雨に濡れながら
待たなくてはならない人たちの苦痛は、変わらない。
黙って一通り話を聞いた後、
システムが改善されていないのが良くないですよね、と
苦渋のコメントをする。

そんなことを話していると、
夫婦の、口調に少し刺のある話し声に反応してか、
オウムがギザギザな声を繰り返し張り上げながら、話に参戦してくる。
正直、うるさくて会話にならない。

話を中断させるオウムの役割について、
いくらか理解できた気がした。
梨木香歩の「村田エフェインディ滞土録」を思い出す。


屋上から見下ろして視界に入る、
道路の端から端までを行き来する子どもたちは
水を飲みに来るほか、ほとんど家に戻ってこなかった。
子どもたちが下の道路で遊ぶ様子だけを、
屋上からお母さんと一緒に、眺める。

すっかり大きくなった子どもたちのうち、
長男と次男は、歳の近い親戚の子と
あちこちへ歩き回る。
いくらか駄々っ子な一番下の子は、
お兄さんたちの遊び相手にはならないようだった。
少しふてくされたまま、お兄さんたちの後ろを
パタパタと足音を響かせながら、ついていく。

お父さんは相変わらず携帯をいじりつつ、懸命にオウムへ話しかけ、
お母さんと私は、夕日が沈むのを、見届ける。

向かいの家の屋上で、女の子が自転車に乗っているのが見える。
自転車を女の子が乗るのは、珍しい。
お母さんも乗れるの?と尋ねると、
私はダメだけど、下の子たちは5、6年生までは乗っていたわね、と言う。
移動するなら、自転車よりもシリア製のバイクの方をよく見たわね。
もぉとぉ、って言うのよ。





配水車の補助の仕事をしているお父さんの朝は早い。
子どもたちは、9時には寝てしまう、と話していた。
それならば、もうそろそろお暇の時間だろう。

お礼を言い、ソファに投げ出された弓矢のセットに目を落とす。

大きくなっちゃったのに、私、何だか
あの子たちには合わないおもちゃを、持ってきちゃって。
そう思わず、口にする。

きっと後で家に戻ってきたらまた、遊ぶわよ、と
お母さんはふかふか笑いながら、別れのキスをしてくれた。

帰りの車がやってくると、道路で遊んでいた子どもたちが
見送りに集まってきた。

急に、少し寂しくなる。
私ばかりが車の中から、一生懸命子どもに手を振り、
子どもたちは薄暗い街頭の下で、
小さな手のひらと、おもちゃの銃をふって挨拶してくれたり、する。




次に来られるのは、いつなのだろうか。
どんどん、子どもたちは大きくなる。
半年来なければ、しっかり半年分、
一年来なければ、しっかり一年分。

羊の腸詰料理を、一緒に作ると約束していた。
暑い時期は調理に向いていないから、
10月か11月を過ぎた頃がちょうどいい、と
お母さんは言っていた。

その頃、私がヨルダンに居るのか、
この家に遊びに来られるのか、分からない。



お父さんが仕事も見つからず、腰痛もひどくて
シリアへ帰ろうかと思い悩んでいた頃に
この家へ訪問した数年前のことを思い出す。
お父さんの口調とともに、部屋の中も真っ暗な空気が流れていて、
子どもたちの声だけが空気を察してか、妙に明るかった。

今は仕事があるからいい、でも、この先は分からない。
ただ、先が見えないことなど、今に始まった話ではない。
もう7年も8年も、先は見えないままだ。
それでも、近い将来が見えない暮らしを、何とか踏ん張って、
子どもたちが遊び回り、オウムを飼って、美味しいスープの飲める
今がある。


先が何も見えないことがどれだけ不安なことなのかを
いやと言うほど、身をもって体感している今、ようやっと、
その踏ん張りに要した苦しさと強さが、どれほどのものだったのか、
ほんの少しだけ、分かった気がした。

そして、経てきた年月の果ての温かな空気から、
限りない安心を、感じとる。




2020/07/25

夜はやさしくないけれど、夜の音楽はやさしいかもしれない



Jeff Buckleyをバックにかけながら話し始めたので、
思わずじっと、インスタライブに聞き入ってしまう。
どちらかというと、話よりも、音楽の方へ。
それから、どうしてこの曲をかけるのだろう、という
幾らかの興味も、あった。





日本との時差は、夏時間で6時間。
こちらの夜8時は、日本の深夜2時。
そんな時間帯に、ある芸人さんがインスタライブをやっていた。
途中で、最近ずっと聴いているandimoriが出てきたりして、
生まれて初めて、コメントを書きたいという、衝動に駆られたりする。

深夜のライブには100人以上の視聴者がいる。
どことなく、さみしかったり、不安だったりする人たちが、
「灯りの燈るところ」に集まってきていた。
時に、辛辣な言葉がこぼれ落ちながらも、
どことなく、温かな空気の流れるライブだった。

語り手は、自分で選曲した曲を、
自由気ままに歌い始める。
その中でかかった一曲を、絶対私は知っていた。
でも、どうしても思い出せない。


そこはかとなく、自分たちの関係に不安を抱くカップルが、
ファミレスらしき24時間営業のレストランで、
ステーキとスパゲッティを食べている。
気まずくなるような会話の背景では、
暑い外国で起きる戦争のニュースが流れる。
遠い国の戦争よりも、
目の前のステーキがうまく切れないのに、腹を立てている。
でも、僕たちの将来は、よくなっていくはずだ、という曲。

検索をかけると、Bank Bandがカバーした
中島みゆきの「僕たちの将来」だった。

原曲がわかった時、すっかり忘れていた昔の記憶が、
突然溢れかえるように、蘇ってきた。


大学に入学してすぐ、ジャズバーでバイトを始めた。
アップライトのピアノがあって、お客がいなければ好きに弾いていい、
と言われたからだった。
繁盛している、とはとても言えないお店で、
いくらでもピアノを弾く時間はあった。
お酒は弱いので一滴も飲まずに、お客が来ればグラスを洗い、お酒を出し、
出番がきたら、弾き語りをした。

いかんせん、恐ろしく田舎のバーなので、
ジャズの代わりに、中島みゆきの曲をお願いされたりした。
どう頑張っても、ジャズにはならない、とため息をつきつつ、
アルバムをお客さんから借りたりして、練習する。

リクエストされた曲を歌うと、彼女にふられたお客が、
カウンターに突っ伏して、泣きながら安いボトルを空にしていった。
ママはチワワを腕に抱いて、お客と飲み明かしてしまい、
11時を過ぎる頃には出来上がって、お勘定ができない。
横須賀の駐屯地で、米兵相手にサックスを吹いていた、というマスターは
演歌のように、こぶしを効かせた「枯れ葉」を熱演した。
ボトルさえ入っていれば、どれだけ飲み食いしても
2000円しか、取らない。

隣の店は小料理屋で、お店が先に終わる小料理屋のママは、
よく閉店すると、こちらの店に飲みにきた。
ある日、大事な人が亡くなったの、と
泣きながらやってきた隣のママの話を聞いていると、
昔、隣のママは某有名な俳優の、お妾さんだったことが分かる。
あんた、お葬式にも行けないのね、とうちのママは呟く。
そして二人とも泣きながら、夜が更けていった。

よくご夫婦でいらしていたお客の奥様が癌で亡くなった夜、
お通夜を済ませてやってきた旦那さんが、
かすれた声で泣きながら絶唱した、
Summer Timeは、今でも忘れられない。

下手な脚本家が書いたドラマのようなことが起こったけれど、
人生経験の少ないその頃の私は、いろいろと学ばせてもらった。

絵に描いたような場末感が漂う店で、お客からくるリクエストは
フった、フラれた的な曲ばかりだったから、
女って怖いな、と思いつつ、
いつになったら、ジャズが歌えるのだろうか、と
途方に暮れた。

けれども、借りたアルバムの中に入っている、
決してリクエストなどされない、マイナーな曲のいくつかには、
地味だけれど、丁寧に心情や情景を描き出しているものがあって、
詩としての、余白や情緒を気に入ったり、した。
それから、世の中の不条理や矛盾を、さらりと洗い出したものも、
印象に残っていた。


その一つが、「僕たちの将来」
もう一つが、「蕎麦屋」。



落ち込んで、腐った気分になっている時に、
偶然を装って、友人が蕎麦屋に誘ってくれる。
大相撲中継を聞きながら、蕎麦とうどんを食べる。
「あのね、わかんないやつもいるさ」
友人の一言に、泣きたくなる、という曲。

この曲は、斉藤和義がカバーしていて、
どれも今では、カバーしか聴かないけれど、
誰が歌っても、いい歌詞だな、と思う。



日本語の曲は、どうしても歌詞が気になってしまう。
だから、どれだけアレンジがカッコよくて、旋律のいい曲でも、
歌詞が軽くて、よく練られていないと
ほとんど、聴かない。
反対に、音楽的には野暮ったくて、いくらもカッコよくなくても、
言葉がきちんと選ばれていて、センスが良ければ、
結構、ちゃんと聴く。

洋楽が好きなのは、歌詞がすっと入ってこないから、
純粋に音として、曲が楽しめるからだと思う。
もし、しっかり何を言っているのかが分かってしまったら、
我慢ならないものも、多いだろう。


歌詞は大事だ、と明言しているのにもかかわらず、
ヒップホップは、音楽的要素の中の大事な旋律が抜けているから、
今まで全く、聴いてこなかった。
けれども、先日、Kate Tempestの名前をニュースで見て、あらためて、聴いてみる。
以前、KEXPをランダムに聴いていた時、
周りの電子楽器には興味があったのだけれど、
ヒップホップだから、と飛ばしてしまっていた。




その、比較的地味なビジュアルと、キレキレでエッジの効いた感じにグッとくる。
歌詞を確認して、なぜか、野間宏の小説を思い出した。

おそらく、ロンドンの郊外あたりの、どうにも明るい未来なんて
描けないような若者たちの、黒く蠢く感情が、吐露されている。

暗い夜ばかりを想起させる曲たちだけれど、
語気の強い、でも、緩急を使い分けた言葉のリズムに乗せて、
白黒のショートフィルムのように、
心の動きと、断片的な情景を刻み込んでくる。

ヒップホップの世界は、思ったよりも豊かな広がりがあった。

ディテールは大事だ、と再確認する。
それは、歌だろうが、語りだろうが、
ニュースだろうが、馬鹿話だろうが。



結局、一度も歌わせてもらえなかったけれど、
その、場末のバーでのバイトが終えると、
寒風吹き荒ぶ欅並木を自転車で疾走しながら、
よく、Caravanを練習していた。

疾走感のあるベースラインに、
滑り落ちるような旋律が乗る、あのアレンジは
仔細まで正確に思い出せるのに、
誰のCaravanだったのか、思い出せない。

古いジャズの女性ボーカルをかたっぱしから検索していたら、
Nina Simonとか、Cassandra Wilsonとか、Sara Vaughanとか、
昔のジャケットがYoutubeにたくさん、出てくる。
最終的に、Madeleine PeyrouxのBetween the barsに行き着き、
また、原曲のElliott Smithのライブが見つかる。
曲の間に言葉を探す、その声が思ったよりも
柔らかくて優しくて、すっと、胸梳かれる。




2000年のフジロックの映像が見つかる。
どことなく、居心地が悪そうで、早く終わらせたいのか、
先を急ぐように、どんどんと歌っていく。
アルコールが抜けたからか、ニコチンが抜けたからか、
ぶるぶる震えながら歌っているのをみて、もっと胸梳かれる。


そんな映像などを確認したりしていると、
もうこちらも、深夜2時を回ってしまったりして、
明日も仕事があるのに、眠れなくなる。

仕方がないので、1日の終わりに、「シンガー」を聴く。
最近ずっと、頭の中を回るから、口ずさんでいる曲だ。





コンビニにも行きたいし、何だか疲れてしまっているから。

日本はもう朝の8時。
健全な人たちが、健全に仕事を始める時間だ。
深夜のヨルダンの、終わりのない空気感に
誰も寄り添ってくれたりは、しない。

でも、こんなに一生懸命歌っている人の声が聴けるのだから、
その歌声だけで十分じゃないか、と思いながら、
真夜中の静かな、街並みを見つめる。



2020/06/26

続 手をつなぎましょう もしくは、握手をするように


こんな時期だから、
手を取り合って、とか、手を携えて、とか
手を差し伸べて、とか
いろいろな文言があるけれど、
手を上げたり、手を下したり、手をこまねいたり、手を反したりと、
同時並行でいろいろな手を打ってくるから、
手を使った慣用句の中でなされる、人の行動の様々は、
いつもとても、忙しい。

手湿疹と激しい乾燥、日頃の不養生で、
もともと節だってごつごつしているのに
最近では手袋着用が義務なので、
アレルギーですっかり荒れ果てた私の手は、
手を差し出す行為には結構、観念的にも物理的にも
躊躇したりすることが多い。

こちらのCOVID-19予防のパンフレットには
ウェルカムコーヒーのカップは回し飲みしない、とか
挨拶にハグやキスをしない、というのと並んで
握手もしない、という記載がある。

日本人で握手をするのは、政治家か有名人。もしくは
商談でも成立した時にしたりするのかもしれない。
私は商談したことがないので、分からない。


握手は得意ではない。
こちらでは握手をするのが挨拶とセットなので
いい加減習慣には慣れたけれど、心の底では握手のたびに、
白魚のような手、という言葉を思い出し、
切ない気持ちになる。
完全に不養生は私のせいなのだけれど。

うちの近所の犬は、最近私の姿を認めると、
撫でて欲しさにところ構わず、ゴロリ、と横になるようになった。
撫でられている間に、前足を必ず私の膝に乗せてくる。
犬は飼ったことがないので、どういう意味なのか分からないけれど、
左手で犬の足を握りながら、右手で体を撫でる。
差し出されたら握手するのが、アラブ流だから。

足は汚くてなかなかごつい。でも、出されたら握手する。





先日、止むを得ぬ所用で、久々にアンマンの住宅地へ行った。
たくさん家庭訪問をした地域だったから、
過去に伺ったイラク人のご家庭の話を思い出したりしながら、
小さな路地でポツンと一人、先方を待つ。

マスクをつけると、アジア人であることが、ある程度消される感覚がある。
それは、とかく目立ってしまいがちな外見には
ありがたいことだった。

赤ちゃんの泣き声や子どものはしゃぐ声、
たくさんの家の中から漏れる、人の気配に満ちた平日の夕方の音。
もうしばらく、聞くこともなかった音と空気だった。
住宅地の音に、心ならずも日常の何たるか、を知らされる。




街路樹として植えられているオリーブの木では
もう実がふくらみ始めていた。
うちの近所にはオリーブはないから、
物珍しいものでも見るように、しげしげと観察する。

先方はマスクも手袋もせずにやってきて、
荷物を受け取るだけのはずだったのに、家の中へ私を招き入れる。
初対面の人に対して、断る勇気がなかったのも確かだった。
ただ何よりも、誰かのお宅へ伺うという、今まで普通にしてきたことから
すっかり遠のいてしまっていたせいで、
ふと、身体が自然と人の気配や温度に反応して、
考えるよりも前に、促されるままふらふらと、建物に入ってしまった。

6、7階建ての建物が所狭しと並ぶ典型的なアンマンの住宅地は
建物の入り口からもう、懐かしさにあふれていた。

アパートメントの入り口の、プラスティックのブランコや
その周りに散らばるおもちゃ。
手入れの中途半端なたくさんの植物たち。

玄関のドアのすぐ横で、おじいさんがソファにごろ寝をしていて、
私が入ったことにも気づかず、体を撫でているであろう夕涼みの風に
気持ち良さそうだった。
応接間に通される。そして、家族の中の女性ばかりが、
私のところにやってきて、挨拶をする。

躊躇することなどいくらもなく、ふわっとふくよかな手で
誰もが私に羽のように軽い、握手をしていった。
私に拒否権はない、だから、手袋を外して、
こちらの女性たちの優しく柔らかい手の感触を
ふわりと感じていく。


本当はもっと、聞きたい話があったのだけれど、
用事を済ませてそそくさと家を後にする。
建物にたっぷりと這う蔦の緑と、
住宅が醸し出す日常の空気に、後ろ髪ひかれた。


家に戻ってから、ごつごつした手を洗う。


在外で感染することは、日本で感染するよりも、おそらく事は重大だ。
単純に医療事情もあるけれど、それより
外国人が、日本人が、という括りの中で、
同じ括りに自動的に入ってしまうであろう他の人々に
かかる迷惑の方が、理由として大きい。

COVID-19なんてないんでしょ、そんなことを口にするような人もいるぐらい
今のところは蔓延を回避できているこの国で、
こちらの抱く目に見えないものへの警戒と、相手の無防備さを照らし合わせ
自分の行動を規制していくのは、思ったよりも難しかった。

だったら、もうどこへも出かけずに、
誰にも会わなければいい、というのが
こちらに残っている数少ない日本人の間では常識になっている。
もしくは日本に戻ればいい、と。
けれども、日本に戻ったら、今度は外国から帰ってきたからと
私も気を遣うし、警戒もされる。


一体いつまでこの状態のまま、
暮らしていかなくてはならないのだろう、と
屋上の家から街を見下ろし、途方に暮れた。




隔離生活期間、一番ありがたさを感じたのは、
家の立地だった。
屋上の家からの景色は、開放感があって
下を覗けば人々の営みが、幾らかでも垣間見れた。
見られている方は、私が上から眺めているなど、知る由もないけれど、
こちらは勝手に、慰められたりした。

色とりどりの洗濯物を干し、
三輪車で駆け回り、
ソファを持ち出しては夕涼みをする
たくさんの、四角い屋上が見える。

でも、それはあくまで眺めるものであって、
身体的に何かしらを感じられるものではない、ということを
薄々感づいてはいたけれど、知らないふりをしていた。


COVID-19のおかげで、ネット回線での電話の頻度は増えた。
電話口で、元気ですね、なんて言われたりする。
何せ、大体笑っているからだ。
笑ってないとやっていけないからなんだけどな、と
本当のところを理解してもらえない一抹の寂しさを感じつつ、
みな似たような状況なのだから、と相手の反応を受け入れる。


それでも、つながっているのはありがたい。

だから、物理的には不可能だけれど、
慣用句的に手を使ってつながれる方法を
できるだけ持っておくことに、一縷の望みを抱く。

笑うのに疲れたのか、この状態に疲れたのか、
すっかり疎かになっていたけれども、
それこそ、握手をする時の身体的な温かみを感じられるような
言葉を探しながら伝える作業が、普段以上に大切なのだろう。

それは、思った以上に難しく、心砕くものだ。

会って顔を見る方が、人それぞれの気配から立ち上がる空気感を察知する方が、
握手をする方が、正直、よほど楽だ。

COVID-19が去った後には、握手への苦手意識が
いくらか軽減されるのかもしれない。


2020/06/01

今、リリィ・シュシュのすべて



相変わらず金曜日だけは、完全外出禁止、

さっぱり出られないヨルダンの休日は、長い。

久しぶりに映画が観たくなった。
しかも、こともあろうに、邦画が無性に観たかった。
昔観たやつを。

違法を重々承知で、検索をかけたら

昔いくつか観に行っていた、岩井俊二の映画がいくつか載っていた。

四月物語が上映された年、同じく

一人暮らしを始めた私は、
桜並木にも人の息遣いがある映画の中の街と、
移り住んだ先に待っていた、ただ無機質で人工的な桜並木との
えも云われぬギャップから、
その先に続くであろう学生生活に、不安を抱いた記憶がある。

当然、松たか子のように、可愛らしい笑顔も瑞々しさもなく、

かっこいい先輩も待っていなかった学生生活の始まりを思い、
映画というのは、残酷なものだな、とその時ひどく
感じたものだ。


おそらく、私の世代ではありがちな話だけれど、

美術系の学生だったら大体、観るもののリストに入っていた。
スワロウテイルとか、PiCNiCとか、庵野秀明だけれど、式日とか。

ただ考えてみたら、リリィ・シュシュのすべて、だけは

観たことがなかった。
結構、周りの人たちは観ていたはずだったのだけれど、
どうしても、観る気になれなかった。おそらく、
普通に、怖そうだったからなのだと、思う。

田舎で隔離に近い環境で育った私には、

同世代の間にリアルタイムで起きているのであろう、
援交とか、暴力的ないじめとか、万引きとか、自殺とか、
ネットという架空の空間でのやり取りとかを
どう捉えたらいいのか、
考えのベースになる軸を持つ準備ができていなかった。

もしくは、単純に、映画の中では

美しいものを観ていたい、と思っていた節もある。
単館映画しか基本的に観にいかず、その大方が
映像の美しいヨーロッパ映画だったし、
借りる映画もほとんどが、北欧かイランかアジア映画だった。


限りなく、甘ちゃんだった。

あまり今も変わっていないけれど。






断片的だけれど、丁寧に緻密に描かれている話の展開と、
架空の居場所の中で語られる音楽にまつわる言葉の幾つかが、
交わったり、解離したり、解放されたり、重なったりする。
身体的にも、精神的にも、どこかで痛みばかりを抱える
映画の中の10代たちは、とにかく、ひりひりする。

そして、どこか個を明示したいと欲求しながら、でも、
とろけるような恍惚感を感じられる、居場所を探す感覚には、
青臭くて、裏若いのに、決して馬鹿にはできない、
あの年頃独特の、鋭敏な感性がある。


好きなアーティストについて、そのひそやかな高揚感や興奮を

言葉で共有する、匿名が許されたコミュニティ。
身体の底からもわもわと立ち上がる、懐かしさだった。

青くてちくちくする痛み、
煙の中を射す光の、奇妙な透明感のような、
背をそっと撫でられるように密やかな感覚を、
思い出したりした。

その感覚を思い出させる映画を構成するすべてが、
ただただ見事だった。

上映していた時期に観ていたのなら、一体

どんな感想を抱いたのだろう。


ちょうど、この映画の頃、ネットの中でのコミュニティが
同世代の間で、広まりつつあった。


匿名性とは、そういえば、もっと密やかで内に向かうものだった。


映画の中のネットコミュニティは、
ある時点まで、共通した”好きなもの”を軸に、
親密で、だけれども適度に距離が確保されていた。
微妙な空気感を保とうとする、
客観的にはどうしようもなくバランスには欠けるけど、
繊細で脆くて優しい場所のように見える。

自分だと知られるのは恥ずかしいけれど、
何かを誰かに伝えたり、共感したりしたい。
たくさんの刺や気負い、もしくは、さり気なさや可愛らしさ、
仮名にありったけの思いを込めたりして、
閉ざされた、自分の思いを理解してくれる世界の中で、
共感を求め、差異に敏感になり、でも心のどこかで感心したりして、
繊細さに、痛み、傷つけながらも、
そこに自分の居場所があることで、
自分や他者を癒していく手段としての、匿名性。

そこに居られなくなったのならば、匿名であることを捨てる時だ。
そう考えるのは、未だに、私が甘ちゃんだからなのだろうか。



匿名を使って向かう先が、好きなものではなく、嫌いなものへと

真逆になりつつある今だけれど、
結局、手に入れたいもう一つの世界は、
実のところ、同じようなものに見える。

もしそうだとしたら、弱さや恥ずかしさや脆さや優しさが

うまく出せない大人のような子どもや、子どものような大人が、
ずっと彷徨い続けていることになる。



リアルタイムではこの映画を観ようとせず、
立派なスケルトンのMacは持っていたけれど、
ネットのコミュニティにも縁がなかった私は、
身近な人たちの中に、好きな音楽を共有する人を
見つけられなかったりして、
うまく言語化も、共有もできないまま
ただひたすら、音楽に没入しながら
一人全身で感じ続けるしかなかった。

アウトプットできなかったからこそ、
あの感覚をひどく、鮮明に思い出すことができるのかもしれない。


もはや、匿名性に頼り、ひた隠しに没入できる何かを
持ち合わせることもなくなった。

ただ、今でも音楽は、逃げ場であり居場所でもあるから、
その空間での孤独に耐えられなくなった時には、
その弱や脆さを引き受け、共感してくれる場があって欲しい、と
いい歳にになっても未だに、どこかで切に、願っている。

他人に向けて、言葉をふりかざすのではなく、
浸透性の高い液体のような言葉に満ちた、
傷を癒していく力を感じられる場所があるのなら、
匿名のまま、もぐり込みたい。

2020/05/08

近所のおいちゃんの話


アンマンがロックダウンの間、
屋上から見える、路地という路地から、見事に
人の姿が消えた。
部屋の窓から、近所の目抜き通りに人影が一切消えてしまったのを
毎日毎日、不思議な気分で眺めていた。


その通の脇にはベンチがあって、
ずっといつもおいちゃんが座っている。

おいちゃん、と私が勝手に呼んでいる人は、
脳に障害がある。
おいちゃんは、たぶん家がない。
もしくは、家があっても、家にあまり居ない。
いつも同じような服を着ているし、
皮膚病なのか、右足を引きずっていて、だからよく転ぶのか、
顔の頬からおでこまで、丸い痣やかさぶたがある。
いつも、痣もかさぶたも、そのままだ。
目はいつも、充血して真っ赤で、鋭い。

ずっとこの辺りに住んでいるから、
何度か、そのおいちゃんが、
ものすごい怒って大声を出したり、ばんばん近くの人を叩いたりするのを、
そんな時ばかりは、遠巻きに見ていたことがあった。

時々、裏通りの商店街のおじさんたちが、
足の悪いおいちゃんが歩くのを、支えてあげたりしていた。
それから、時々同じおじさんたちが
おいちゃんの脇に座って、話し相手になったりしている。

でも、普段はじっとベンチに座っていて、通りを見ている。

だから、目が合ったら必ず、挨拶をするようにしている。
私はいつも胸に手を当てて、こんにちは、と言う。
そうすると、おいちゃんは必ず真顔で、
エンティ チャイナ?(あんた中国人?)と
訊いてくる。大きな声で。
だから、いつも私は、いや、日本人なんです、と
アラビア語で答える。
もうこのやりとりを、軽く100回以上、やってきた。

必ず挨拶するし、必ず同じ返しをしてくれるけど、
若者などがいると、アジア人の私は冷やかされて、
ついでにおいちゃんを馬鹿にされてしまうので、
おいちゃんとは、挨拶しか、したことがなかった。

おいちゃんに挨拶をするのには、いくつかの理由がたぶん、ある。
一つには、とりあえず見知った顔には挨拶して、礼儀は重んじる、ということ。
もう一つ挙げるなら、同情心とか憐憫とかではなくて、
どちらかというと、親近感に近い、感情があるからだ。

おいちゃんも、それほど存在を歓迎されているわけではなさそうだし、
だいたい、いつも一人で座っている。
私の方もまた、だいたい一人だし、
歩いている時まで、自分が日本人で一応仕事があります、なんて
提示する方法はないから、
根本的にはかなり閉鎖的なヨルダン社会の中で、
似た者同士なのではないかな、と勝手に思っている。
おいちゃんにとっては、全くいらない親近感かもしれないけど。


ロックダウンが始まって、どの道にも人影が消え、
時々、あのおいちゃんはどうしているのかな、と思いつつ
買い物の用事もなくて、外へしばらく、出なかった。

久しぶりに、目抜き通りを越えて買い物に出た。
おいちゃんの姿は普段通り、ベンチにあった。
人がいないから、おいちゃんの大きな猫背の身体は
何だかいつもよりぽつん、としている。
思わず日本語で、あぁ、おいちゃん、と口にしてしまい、
その後、いつも通り挨拶をした。
私自身、日常で会っていた人と再会するのは久しぶりだったから、
いつも以上に声が弾んでいたと思う。
おいちゃんはどことなく、嬉しそうだった。
おいちゃんの笑顔は見たことがなかったので、
こちらも何だか、嬉しくなる。
おいちゃんのいつもの返しを、心待ちにする自分がいたりする。

エンティ バングラデーッシュ?
おいちゃんは唐突に、中国人ではなく、バングラディッシュ人か
訊いてきた。
思わず笑ってしまった。
いや、いつも言ってますよね、私、日本人なんです、
中国人でもなく、韓国人でもなく、日本人なんですよ、
そう言うと、そっか、と呟くには大きな声を出すと、
私が前を通り過ぎるのをじっと、見ていた。

どうも私はいつも、
おいちゃんにからかわれていたのかもしれない、と思う。
それでも、あまり悪い気はしない。
なんで今日ばかりはバングラディッシュ人と訊いてきたんだろう、と
ロックダウン中のおいちゃんの思考について、考えてみようとした。
ロックダウンで人通りがなくなると、
おいちゃんの質問のレパートリーも変わってくる。
いつもと違う日々が、こんな形で影響してくることもあるようだ。


その後も何度か、ロックダウン中においちゃんに挨拶をした。
おいちゃんは何か言いたげな様子で、私が通り過ぎるのをじっと見ていた。
きっと、話し相手がいなくて、誰でもいいから話したいのだろう。

先日も、買い物前に、おいちゃんに会った。
雨が降ると予報が出ていたので、慌てていた。
挨拶をすると、何かを早口で言ってくる。
なんですか?聞き返すと、おいちゃんは
今から仕事に行くのか?と、英語で訊いてきた。

おいちゃんが英語を話すのも知らなかったし、
おいちゃんが何かを私に尋ねてくることもなかったから、
驚いて、立ち止まってしまった。
いや、仕事じゃなくて、買い物なんです、と言うと、
そっか、とまたアラビア語で、大きく呟く。
そして、何かを話したそうだったけれど、
ぐっと言葉を飲み込んでいるようだった。

おいちゃんの前を通り過ぎてすぐに、
財布を忘れたことに気がつく。
また、おいちゃんの前を、罰が悪い思い満載で、足早に通り過ぎると、
買い物、早いね、とまた、英語で声をかけてきた。
財布を忘れたんです、と答える。

おいちゃんはもしかしたら、冗談好きなのかもしれない。

アパートメントに戻る道すがら、
一体おいちゃんは、どうして今のおいちゃんになったのだろう、と
考えていた。
仕事柄、障害の種類のいくつかはなんとなく知っているけど
私は、おいちゃんの問題の種類を、誤解していた。
俄然おいちゃんに、興味が出てくる。


おいちゃんはいつも、アラビア語も英語も早口で、
口がモゴモゴしているので、
何を話しているのか、うまく聞き取れない。
男の人に声をかけるのは、
外国人でもあまり文化的に良くない。
でも、おいちゃんの近くに今度、座ってみようかな、と思ったりもする。
けれどもやはり、少しハードルが高い。






昨日の夜は、満月だった。
いつも通り、満月を写真に納めようと、窓からカメラを構える。
相変わらず6時以降は外出禁止で、
さらに、ラマダン中のイフタール(断食明けの食事)を食べているであろう時間帯、
街はすっかり静まり返っていた。

突然、人の叫び声がする。
お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだよ、
がなるような喚き声が、高台からワディ(谷間)に響く。

おいちゃんがベンチに座ったまま、
通りを挟んだ観光警察の小さな小屋の警察官たちに、
小さな子が駄々をこねるように、叫び続けていた。

警察官の人たちもおそらく、困り果てているようだった。
しばらくしてたまりかねたのか、あんた、頭おかしいよ、という
警察官の怒鳴り声も聞こえた。


本当にお腹が空いていたのか、食べ物はあるのに言い出してしまったのか
よく分からない。
お腹が空いたのなら、何か差し入れてもいいのだけれど、
もう外には出られない時間だから、それもできない。
でもきっと、外国人の私が作ったものなんて、
おいちゃんは食べないだろうな、とも思う。
おいちゃんは私が異人種であることをよく、分かっている。

おいちゃんは、外に居ても注意されないし、
叫んでも、しょうがないよ、おいちゃんだから、と
近所の人たちに黙認されているのだろう。
こんなに身体から目一杯の声を振り絞って叫んでいる声は
やはり、切なかった。

ただ、大声で訴えられるのは、いつも黙認されているおいちゃんだからで、
きっと、おいちゃんみたいに夜は外出禁止で、
イフタールにもありつけない空の下の住人はたくさん、いる。

ダウンタウンや幹線道路で物乞いをする人たちを思い出しながら、
満月を見つめつつ、おいちゃんの悲痛な声を聞き続けた。




しばらくして声が聞こえなくなった。
でも、おいちゃんの姿はまだ、ベンチにじっと固まったままだった。


もしかして、この通りの周りに住んでいる人なら、
おいちゃんがどうやって今のおいちゃんになったのか、
知っているのかもしれない。
お店に人が戻ってきたら、訊いてみよう、と思っている。