2020/08/07

しゃがんで、目を瞑らせる


乾燥の激しいこの国では、何もない荒野を歩くと
時々、羊かヤギの骨に出くわす。
その度に、デッサン用の牛骨を思い出す。
谷底にある骨は、崖から落ちた羊やヤギだ。
だから、肉が朽ちた後、骨と少しの毛だけが残っていたりする。

例えば、羊を絞めるシーンは、
何度見ても、小さく、大きく、衝撃を覚える。
生きていたものが、そのナイフのひとかきで、息絶える。

イードアルアドハーという祭日は、
羊や、場合によっては牛やヤギやラクダを捧げる。
預言者イブラヒムが、神への忠誠を誓って息子を生贄に差し出そうとした時、
息子の代わりに羊を差し出すように、と言う天使の言葉に従い
羊を絞めて捧げたという話に由来する。

絞めた羊を貧しい人々に分け与える日、ともなっている。

実際に、地域の羊肉を配る人もいるし、
羊肉を扱う業者にお金を寄付して、解体配布をお願いする人もいるし、
家族親族で分ける人もいるし、
隣の国のようにお金だけはたくさんある金持ちのいる国には、
大量に絞めて、結局食べられずに捨てたりする人もいる。



今年は、羊やヤギを飼いともに暮らしている
今ではいくらかヨルダンでも珍しくなってきた、
べドゥインの家庭で、羊を絞めて料理し、いただくところまでを
ご一緒させていただいた。

彼らが選んだ羊は、まだ6ヶ月の子羊だった。
まだ、身体つきも小さくて、毛もふわふわしていた。
家族や親族の子どもたちがまだ、跨って押さえておけるぐらいのサイズだ。

彼らがどれぐらいの頻度で羊を絞めるのか、分からない。
5歳から12歳ぐらいまでの子どもたちは、
父親と母親に頼まれて、逃げていかないように子羊を捕まえていて、
その様子は、羊と戯れる子どもの図とあまり変わりがなかった。
彼らは羊やヤギと一緒に暮らしている。

ただ、いよいよ絞めるために地面に寝かせようとした時、
子羊の動きと気配が、明らかに変わる。
それでも、抵抗するにはまだ小さすぎて、
奥さんと子どもが、前脚と後脚を掴んで寝かせ、
ご主人のナイフが首元にすっと入るまでに、
いくらの時間もかからなかった。

首と胴体が、皮一枚でつながった状態で、しばらく血抜きをする。
神経反射なのか、何度か体だけがバタバタと痙攣する。
それも、数回で、そのまま子羊は動かなくなる。
さっきまで生きていた子羊が、もの、に変わる瞬間だった。

周りで見ていた男の子たちは、少し静かになる。
でも、彼らはある程度慣れているのか、
もしくは、やはり見るのはあまり好きではないのか、
どこかへ遊びに行ってしまった。

8歳の女の子だけが一人、子羊の脇にしゃがんで、
一生懸命子羊の目を、閉じさせようと
何度も何度も、まぶたを手で押さえる。

本意ではないけれども、観ることになった
近隣国の広場に投げ出された首のない、もしくはひどい傷口を晒した
死体の映像を思い出す。

ぼうっと横たわる子羊を眺めていると、
奥さんが、悲しいのね、と言う。



毛皮を剥がす。
後脚の関節の皮を削ぐ。
肉と毛皮の境目が見えるように切ると、
そこから極力ナイフは使わず、手の力だけで
毛皮を剥がしていく。
掌を丸め、拳を境目に入れて押していく。

途中から塀に吊り下げて作業をする。
その方が明らかに、効率が良さそうだった。
夫婦は壁にかかった肉と向き合う。

奥さんの色鮮やかな服が、
肉を覆う白い膜と黄土色の壁の中で
随分と美しく見えた。

後脚から始まった毛皮を剥ぐ工程が
最後に首まで到達すると、毛皮を下へ引っ張る。
つるり、と首から毛皮が剥がされると、
全身の毛皮が逆さになって、抜け殻のようになった。

でも、内臓はまだ残っている。
逆さにつられて突き出た腹へ、縦にナイフを入れると
中身がどろり、と勢いよく出てくる。
胃袋と腸だけを除くと、
肺や心臓、腎臓や肝臓だけを丁寧に胴から外し、
金属のたらいに入れていった。
その頃には、吊るされた肉の塊はすでに、
肉屋で見慣れた姿になっている。

あっという間の手慣れた作業だった。

胴体の解体も吊されたまま手早く済ませ、
最後に、頭の皮を剥いだ。
頭だけは、胴体のようにすっと毛皮は剥げない。
飼料用のビニール袋の上で、
頭の毛皮が削がれていく。

毛を削ぐために角度を変えられる頭を見ていたら、
一瞬だけ、陽を受けて目が、様々な澄んだ青色に輝いた。
虹彩も働くなった目の内側で、瑠璃色の輝板が、
光を受けて反射するからだ。


時折力を込めなくてはならない場面がありつつも、
淡々とさばかれていく工程は
牛肉や鶏肉を食べる私にとって、誰かがいつも
自分の代わりにやってくれていることだ。

私ができるだけその工程を淡々と見続けていたのは
ただただ、彼らの手際のよさへの感心からでもあったし、
つぶさに見られる数少ない機会を逃すまいとする、欲深さからでもあったし、
この工程をしてくれる彼らへの敬意からでもあった。

けれども、一瞬見えた、あの青緑色の瞳には
羊が生きものだったことを不意に、強烈に思い出させる。
こちらの身体の深部をえぐるだけの、鋭い意思が残っていて、
いくらかなりとも、動揺した。

必死になって、目を閉ざそうとしていたあの子を思い出す。




内臓はそのまま、台所で細く切られる。
心臓が、随分小さく見えた。
腎臓と肺と心臓と肝臓と尻尾の脂を
玉ねぎと一緒に炒める。
塩とカレースパイスを入れて、味を整える。

肉も部位ごとに切られる。
水で洗うところだけ、手伝わせてもらう。
もう温度もなくて、ただの肉になった。
頭を洗おうとして、前歯を凝視してしまう。
半年ならば、春先の柔らかい草もたくさん、食べていただろう。
でも、もしかしたらその頃には、まだ
乳を吸うのに必死だったかもしれない。

肉もまた、あばら肉も腿肉も頭も一緒に
大きな鍋で煮る。
子羊の胴体は、そのほとんどが一つの鍋に入ってしまった。

この日は、臓物は炒め物に、肉はマンサフになった。
マンサフはヨルダン人の一番の好物で
羊肉と、その煮汁で炊いた米に
酸味のあるヨーグルトソースをかけていただく。

この過程のマンサフのソースは
ヤギのミルクを煮立てて常温で冷ます天然のヨーグルトを
煮汁とスパイスで溶いて作られていた。


臓物は、一つ一つ、臓器の種類を確認しながら食べる。
朝焼いた、薄い膜のようなパンのシートに包んでいただく。
肺はあまり味がなく、心臓は弾力があった。

マンサフもいただく。
頭蓋骨が容易に想像できる頭が乗った大きなお盆から
米と肉を皿に取り分ける。
他のところでいただく時には感じないのに、
その日は、臓物とマンサフの味に、どこか生々しさがあった。

むろん、調理方法のせいではなくて、食べ手の問題だ。

こちらで羊を絞める時には、
恐怖に慄いたまま死んでいくことのないように、
羊の目にナイフなどは見せないようにする。
苦しまずに死ねるように、首のどこを切ったらいいのか
子どもに教えている家族と一緒に、イードを過ごしたこともある。

あの映像の撮られた周辺の国々で、人を殺した人々もまた、
このイードには、羊にナイフを見せずに急所をついて
羊を絞めているのだろうか。
もしそうだとしたら、その行動は
どのような思考のもとになされるのだろうか、とふと、思う。



日差しはとても強いけれど、風のよく吹く日だった。
カメラを持ってきたので、写真を撮ろうと外へ出る。
そこへ、日本の過疎地なら複式学級ひとクラス分ぐらいはいる
近所の子どもたちがわらわらとついて来て、
カメラに興味を示す。

一人2回だけ、とルールを決める。
子どもたちは、他の場所でカメラを出す時の子どもたちの反応よりも
よほど大人しくて控えめで、よく話を聞いてくれた。
一番小さな、4歳ぐらいの女の子にも、
男の子たちはきちんと順番を回してあげていた。

久しく無人の別荘から、葡萄を一房ちょうだいして来た子たちは、
黄緑色のきらきらした葡萄を頬張る。
色が黒い方が甘いんだけどね、と女の子は言う。

子どもたちは、羊やヤギの説明をしてくれる。
あのヤギは主で名前がある、とか、あのヤギは何歳だ、とか。

子どもたちがゴロゴロできる小さな小屋は
高床式倉庫のような形をしていて、
下には、日差しを避けたがる力の強いヤギたちが
蹲って、涼をとっていた。
高床のスペースが気持ち良さそうなので、お邪魔してみると、
生後10ヶ月ぐらいの、みるからに丈夫そうな赤ちゃんが、
仰向けになって気持ち良さそうに寝ていた。




家に戻って、子どもたちの撮った写真を見る。
周りに急かされて、慌ててシャッターを切った写真がほとんどなのだけど、
どの写真にも、羊やヤギが、中途半端に見切れていて、
ヤギや羊を撮りたい、という意識はなかったのだ、と分かる。
おそらく、彼らの景色の中で、羊やヤギは
特別なものでは、ない。

私に、自分と近い地平にいる存在として、
家畜を見る視点を獲得できる環境はない。
だからなのか、彼らが子どものうちにしている
様々な生きものとともに暮らす、そして
生き死にを目にする経験が尊く思える。
子どもたちがその経験をどのように捉えているのか、
想像してみようと思ったけれど、うまくいかない。




パソコンの画面で見る
首を切られた直後の横たわる子羊の顔と、
たらいに乗った臓物に、
食べていた時には忘れていた、過去の残虐な映像が再度蘇り
どうして、都合よく思い出さなかったのかぼんやり考えた。


何もかもを一緒くたにしてはいけない。
羊は家畜であり、食糧であり、
私はビーガンでもなければ、動物のwellbeingについて
声高に訴える何かしらも持ち合わせてはいない。

ただ、ある時点で何も感じなくなること、
思考が止まることへの恐怖のようなものが、
じわりと心の中で、小さな黒い染のように滲む。

人も生き物である以上、
息の根を止めさせる方法は羊と変わりがなく、
場合によっては人を直接的に、間接的に、殺す人もいる。
憎しみや欲望や、もしくは、社会の構造や戦争により、
心を失ってしまったり、
想像を働かせる思考が止まる状況の中で。

都合よく、自分や近しい人、会ったことはないけど知っている人と、
自分には無関係な人たちを分ける能力を
身に付けていたりする。
その能力で、自分に無関係な人たちの死と
サバンナでライオンに急所をつかれるエンパラの死を、
同じように処理し、いくらの想像も遮断ているのではないか、
と思いが巡り、ぶるっと頭を振る。

もしも、そうだとしたら、
羊は儀式に則って、ナイフを見せずに静かに絞めるけれど、
ある原則や正義に則って人は残虐に殺せる人々と、ある意味で、
同じような思考停止機能を持っていることになる。

心を失い、想像が働かなくなるきっかけが
意外とそこらじゅうに溢れる情報と言葉の中に
転がっている。

だからこそ、誰かの、何かの死に対しての、
ひたすらな悲しみや喪失感から、
もしくはたとえ、息たえた誰かや何かへの
憎しみや欲望があったとしてもなお、
せめて、目を瞑らせてあげようという敬いが
自分にも他人にも、どこかで存在していてほしいと、切実に願う。


日本のように屠殺業者が担ってくれている社会の中では
生きているものの命がなくなることが、どのようなことなのか、
目にする機会など、少ない方がいい。

ただ、もし命がなくなる瞬間を目にしたならば、
生きることと死ぬことがどんなことなのか、という
とかく抽象的になりがちな事象の断片を
道徳とか、倫理観に照らし合わせるのではなく、
本能的な恐怖と混沌の中で、感覚的に知る機会なのだと思う。

そして、そこから生きていることの意味について、逆説的に、考える。

まぶたを閉じさせようとする女の子の、その反応が
羊であろうが人であろうが、死だけではなく、生に対しての、
根源的で純粋な姿勢だったはずだ。
尊び、敬うこと。

何も感じていないのではないかという不安で
怖くなった時には、せめて
あの女の子を思い出すことにする。




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