2020/08/02

彼らの暮らしと、話の断片 長い自粛の果ての、イード


毎年、イードアルアドハー(犠牲祭の祝日)は、
道端の羊市を尻目に、移動していた記憶のほうが多い。

でも、今年はドナーからの移動制限がかかっていて、
県境を越えることが、叶わない。

日本に住む難民の方々についての討論会を見ていて、
仮放免の難民申請者が、県境を越えるのに許可が必要である事実を知る。
この状況から学ぶことの多さ、そして、
自らの想像力の限界と、経験することの意義について
あらためて考えさせられる。

不必要に苦しい思いなどしなくても、
想像力で埋められるものがあるはずだ、と言う意見もある。
けれども実際のところ、実感しないとわからないことが、
少なくとも私にとっては、多すぎる。

加えて、経験をどの事象とつなげるのかは、
実のところ、興味関心に寄るところが大きい。
おそらく、私のまだ知らない、想像力の及ばない何かに、
この状況はまだ、いくらでも当てはめられるのだろう。



仕事柄、より自粛ムードは助長されていく。
支援関連の仕事をしているのに、万が一
裨益者への感染の原因になったなら、目も当てられないない。
だから、限りなくリスクを減らす生活が余儀なくされる。

個人的に知っているお宅へ伺うのも、躊躇する。
なぜなら、明らかに360度どこからどう見てもアジア人の私が、
誰かの家に行くところが、心ない噂の原因になったら、
これもまた、迷惑にしかならないからだ。

ヨルダン人の家なら、まだいい。
噂を払拭するだけの、大きな声を持ちうるから。
けれども、コミュニティの中でマイノリティの難民宅であれば、
その近くで感染者が出た時、自分の訪問が
彼らを窮地に追いやる可能性もある。

そんな時に、あなたが家にきたから責められて大変なのだ、
と言ってくるような人とは、元来友達ではないということにも、気づく。
優しいシリア人ばかりが知り合いだから
何かが起きたとしても、私には連絡してこないだろう。

非人道的だと罵られたら、自分の非はいくらでも認める。
ただ、お金ばかりをひたすら無心してくる人を相手にし続けられるほど、
私一人では強くもなければ、根本的な解決を提示し、
実行し、見届けられる力もない。

ひたすら後悔と言い訳をしながら、
この国で、同じくマイノリティである私は、
結果、身動きが取れなかった。

自ら行動を規制していく過程を、これもまた実感する。
そして、結構、まいってしまった。



ヨルダンは今のところ、市中感染数がほとんどない、といえるほど少ない。
かなり、抑え込みに成功していると言える。

でも、イード明けには空港が開く。
確度の高いシナリオを予想した時、
この休みに会いに行かなければ、もしかしたら、
この先にチャンスはないのかもしれない、と思い当たる。

そんなことをぐだぐだと一人、考えあぐねているところへ、
知り合いから、イードの挨拶を兼ねたメッセージが届く。
子どもたちが会いたがっているから、遊びに来てよ、と。

二つ返事で、伺うことを約束する。




お土産を買いに、スーパーへ行く。
羊肉の塊と、お菓子と果物。

子どもたちへのお土産も探す。
お休みだから開いている店もまばらな街の中で、
適当なものが見つからず、途方に暮れていると
路上でおもちゃを並べ始めるおじさんが目に入った。

どんなものでも1JDだと言う。
子どもたちが一瞬で飽きてしまうような、
もしくは、一瞬で壊してしまうような、
プラスティックのやたら明るい色合いが、並べられていく。

銃が男の子たちには、一番人気なのは、知っている。
初めてヨルダンに来た年のパレスティナキャンプで
あらゆる種類の銃を持った子どもたちが
いたるところで撃ち合いをしている情景をみた時には、
胸が塞いだ。

ただ、これはどうしようもなく人気のようで
毎年毎年、パレスティナキャンプでもシリアキャンプでも
見受けられる光景だ。

結局、矢尻の代わりに吸盤のついた弓矢のセットを見つけて、購入する。
ちょっとやってみたいな、と思ったからだ。
それに、原型が武器であることには違いないけれど、
今日日弓で人を射ることは、ない。

ついでに、自分のための使い捨てマスクを探そうと
おじさんにマスクを売っている店は知らないかと尋ねたら、
うちにあるよ、と自慢げに、まだ並べていない商品の入った段ボールを開ける。
子ども用のマスクを見つけて、即決で子どもの人数分を買う。
学校が始まったら、絶対に必要になるから。


総額を考えたら、現金の方がうれしかっただろう。
お金をあげないことをポリシーとしていることが、
いよいよ正しいのかどうか自問する。






玄関脇に敷かれたマットの上で、
一番下の子が気持ちよさそうに寝ていた。
風が扉の向こうからやってきて、直毛の黒い髪を撫でていく。

お母さんはいつも通り、ふかふか笑いながら、出迎えてくれる。
お父さんも、寝ている息子を気遣っているのか、
小声で、ようこそ、と呟く。
白髪のいよいよ増えてきたお父さんと、
どんどんふくよかになっていくお母さん。


お土産をすべて渡し終えると、早速
下手なアラビア語を必死で使って、近々の様子を尋ねる。

学校はずっと閉まっていたけれど、
先生たちが丁寧にフォローしてくれていたようだ。
学習用のテレビチャンネルを見て、その後、先生たちとSNSで宿題をする。
子どもが3人いたら、3人分のSNSグループができる。
お母さんの携帯電話からは、グループからの通知音が絶え間なく、なり続ける。

先生たちは本当によく面倒見てくれて、
ついでに私も勉強できていいのよ、とお母さんは言う。

ここのお母さんは、小学校を出てからすぐに、
お針子さんとして、働きに出ていた。
長女で、下に3人の妹と二人の弟がいて、
働かなくては家計が支えられなかったからだ。


日本の様子はどうなの?と尋ねられる。
日本の今の状況は、なかなか説明しづらいが、
事実を端的に、話す。
そうじゃなくて、ご家族は?と訊いてくる。
みんな元気そうです、と言うと、
あぁ、よかったわね、と顔が綻ぶ。

台所では、美味しそうなスープがすでに出来上がっていて、
すぐに食事が始まる。
ブルゴル(小麦を砕いて炊いたもの)をパスタと一緒に炊いた主食と、
裂いた鶏肉をヨーグルトスープで煮たスープが出てきた。

イード中だけは、近所での買い食いを許されている子どもたちに
あまり食欲はない。
せっかくお母さんが作った食事を、
何度も身体を揺さぶられてやっと起きた一番下の子だけが
半分寝ながら、食べていた。
上の二人は外で走り回って疲れたのか、
水ばかりをごくごく飲んでいる。


食事が終わると早々に、風の気持ちいい屋上へ移動した。

以前来た時に、試行錯誤の末に設置した日除けの下には、
ソファーとブランコ、テーブルとたくさんの植物がある。

無花果、レモン、ハイビスカス、
ぶどう、セイジ、それから、種類さまざまなジャスミンが
鉢やバケツに植えられていた。
大きくなってきたら、どうやって鉢を変えるのか尋ねたら、
一度割ってからもっと大きな容れ物に、土と一緒に植え替える、と言う。
どの容器もプラスティックでできているから、割ることができるのだ。
屋上に植物を増やしていくことへの躊躇いのなさの理由を知り、
ひどく、腑に落ちる。

さっきまで居間にいたオウムも、一緒に屋上へやってきた。

このオウムはお父さんの声にだけ反応する。
前に来た時には、コーランの朗読に合わせて鳴いていたけれど、
今は、猫の鳴き真似ができるようになっていた。
猫の鳴き声、とお父さんが言うと、
声音を変えて、鳴き真似をするのだ。

でも、私が近くに寄ると見知らぬ人間に警戒して、
オウムらしい、ギザギザした声を連発する。

お土産の果物とお母さんの作ったお菓子とコーヒーが
屋上のテーブルの上に並ぶ。
フェンネルとゴマが入っている私の好きなクッキーだった。

オウムも桃をもらって、
器用に中身だけを食べると、皮を下に落とし
食べ終えると止まり木で、嘴を拭った。



お父さんはずっと携帯をいじっていているので、
私はお母さんと話をする。

会話の途中で、通知音がする。
トルコとエジプトにいる姉妹たちのSNSグループで
音声を送り合っているのが、自動再生される。

そっちはどう?
とりあえず元気。
でも暑くてやってられないわ。

近所に住んでいる、お父さんのお兄さんの兄弟もやってくる。
まだ3歳の小さな男の子が、私が路上で見つけた極彩色のおもちゃよりも
よほど立派な銃をすでに、持っていた。

子どもたちはビービー弾が撃てるおもちゃの銃を持っていて、
銃を示す単語を一つしか知らない私が、
その単語を口にするたびに、いや、これは機関銃なんだ、と
言い直された。
2年前には、もっと小さなおもちゃのピストルを持っていた。

何度言われても、銃の種類の違いを示す単語は、覚えられない。

そういえば、さっき携帯電話で見せてくれた
お父さんの兄弟のうち、シリア国内に残っている長男は、
迷彩色の服を着ていた。
自警団のようなところに入っているらしく、
非接触の体温計を使って自分たちで街の中の検温を、
行なっている、と話していた。
あの人は、子どもがいないからそんなこともできるの、と
お母さんは呟いていた。

来年のイードは、銃の代わりに
おもちゃの体温計が人気にでもならないだろうか。



一番下の子は、今事業をしている学校に通っている。
学校の遠隔授業について聞きたくて、お母さんと話をしていたはずなのに
そのうち話は、ロックダウン中の支援の話になる。

知り合いで地域の支援をしているヨルダン人は
支援先を選り好みするから、うちには羊肉も届かなかった、とか
3月に世帯主の亡くなったすぐそこの家族にも
足を怪我していて動けないのに、支援しなかった、とか。


それから、国連機関の支援状況についての話に変わる。
説明を受けても要領を得ない私のために、
シリア人用のコールセンターの電話受付がどのようになっているのか、
実際に電話をかけて、実演してくれる。

なかなか、システマティックになっていた。
音声ガイドに従って登録番号と自分の電話番号などを入力すると
支援対象か否かを、折り返しの電話で通知されるようだ。

一度もかかってきたことなんてないわよ、とお母さんは言う。
ヨルダン人も失業率が上がっている今、
この状況下で、細々ながら仕事が続けられているこの家庭に
電話が折り返しかかってくることは、ないだろう。

そのことを遠回しに口にしようか迷っていると、
話は登録証の更新に流れる。

炎天下で、朝一からずっと並び続けて、
夕方までかかってやっと更新できる。
家畜じゃないんだから、あんな暑いところで
何時間も待たされるっておかしいじゃない、と。

難民数も多いから、1日に更新申請をする人数も、相当だろう。
ざっとアンマン市内に登録している難民数を思い出して計算してみても、
うまく均せたとして、一日800人ぐらいになる。

だからと言って、800人だろうが、2000人だろうが
炎天下で、もしくは冬の冷たい雨に濡れながら
待たなくてはならない人たちの苦痛は、変わらない。
黙って一通り話を聞いた後、
システムが改善されていないのが良くないですよね、と
苦渋のコメントをする。

そんなことを話していると、
夫婦の、口調に少し刺のある話し声に反応してか、
オウムがギザギザな声を繰り返し張り上げながら、話に参戦してくる。
正直、うるさくて会話にならない。

話を中断させるオウムの役割について、
いくらか理解できた気がした。
梨木香歩の「村田エフェインディ滞土録」を思い出す。


屋上から見下ろして視界に入る、
道路の端から端までを行き来する子どもたちは
水を飲みに来るほか、ほとんど家に戻ってこなかった。
子どもたちが下の道路で遊ぶ様子だけを、
屋上からお母さんと一緒に、眺める。

すっかり大きくなった子どもたちのうち、
長男と次男は、歳の近い親戚の子と
あちこちへ歩き回る。
いくらか駄々っ子な一番下の子は、
お兄さんたちの遊び相手にはならないようだった。
少しふてくされたまま、お兄さんたちの後ろを
パタパタと足音を響かせながら、ついていく。

お父さんは相変わらず携帯をいじりつつ、懸命にオウムへ話しかけ、
お母さんと私は、夕日が沈むのを、見届ける。

向かいの家の屋上で、女の子が自転車に乗っているのが見える。
自転車を女の子が乗るのは、珍しい。
お母さんも乗れるの?と尋ねると、
私はダメだけど、下の子たちは5、6年生までは乗っていたわね、と言う。
移動するなら、自転車よりもシリア製のバイクの方をよく見たわね。
もぉとぉ、って言うのよ。





配水車の補助の仕事をしているお父さんの朝は早い。
子どもたちは、9時には寝てしまう、と話していた。
それならば、もうそろそろお暇の時間だろう。

お礼を言い、ソファに投げ出された弓矢のセットに目を落とす。

大きくなっちゃったのに、私、何だか
あの子たちには合わないおもちゃを、持ってきちゃって。
そう思わず、口にする。

きっと後で家に戻ってきたらまた、遊ぶわよ、と
お母さんはふかふか笑いながら、別れのキスをしてくれた。

帰りの車がやってくると、道路で遊んでいた子どもたちが
見送りに集まってきた。

急に、少し寂しくなる。
私ばかりが車の中から、一生懸命子どもに手を振り、
子どもたちは薄暗い街頭の下で、
小さな手のひらと、おもちゃの銃をふって挨拶してくれたり、する。




次に来られるのは、いつなのだろうか。
どんどん、子どもたちは大きくなる。
半年来なければ、しっかり半年分、
一年来なければ、しっかり一年分。

羊の腸詰料理を、一緒に作ると約束していた。
暑い時期は調理に向いていないから、
10月か11月を過ぎた頃がちょうどいい、と
お母さんは言っていた。

その頃、私がヨルダンに居るのか、
この家に遊びに来られるのか、分からない。



お父さんが仕事も見つからず、腰痛もひどくて
シリアへ帰ろうかと思い悩んでいた頃に
この家へ訪問した数年前のことを思い出す。
お父さんの口調とともに、部屋の中も真っ暗な空気が流れていて、
子どもたちの声だけが空気を察してか、妙に明るかった。

今は仕事があるからいい、でも、この先は分からない。
ただ、先が見えないことなど、今に始まった話ではない。
もう7年も8年も、先は見えないままだ。
それでも、近い将来が見えない暮らしを、何とか踏ん張って、
子どもたちが遊び回り、オウムを飼って、美味しいスープの飲める
今がある。


先が何も見えないことがどれだけ不安なことなのかを
いやと言うほど、身をもって体感している今、ようやっと、
その踏ん張りに要した苦しさと強さが、どれほどのものだったのか、
ほんの少しだけ、分かった気がした。

そして、経てきた年月の果ての温かな空気から、
限りない安心を、感じとる。




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