2020/06/01

今、リリィ・シュシュのすべて



相変わらず金曜日だけは、完全外出禁止、

さっぱり出られないヨルダンの休日は、長い。

久しぶりに映画が観たくなった。
しかも、こともあろうに、邦画が無性に観たかった。
昔観たやつを。

違法を重々承知で、検索をかけたら

昔いくつか観に行っていた、岩井俊二の映画がいくつか載っていた。

四月物語が上映された年、同じく

一人暮らしを始めた私は、
桜並木にも人の息遣いがある映画の中の街と、
移り住んだ先に待っていた、ただ無機質で人工的な桜並木との
えも云われぬギャップから、
その先に続くであろう学生生活に、不安を抱いた記憶がある。

当然、松たか子のように、可愛らしい笑顔も瑞々しさもなく、

かっこいい先輩も待っていなかった学生生活の始まりを思い、
映画というのは、残酷なものだな、とその時ひどく
感じたものだ。


おそらく、私の世代ではありがちな話だけれど、

美術系の学生だったら大体、観るもののリストに入っていた。
スワロウテイルとか、PiCNiCとか、庵野秀明だけれど、式日とか。

ただ考えてみたら、リリィ・シュシュのすべて、だけは

観たことがなかった。
結構、周りの人たちは観ていたはずだったのだけれど、
どうしても、観る気になれなかった。おそらく、
普通に、怖そうだったからなのだと、思う。

田舎で隔離に近い環境で育った私には、

同世代の間にリアルタイムで起きているのであろう、
援交とか、暴力的ないじめとか、万引きとか、自殺とか、
ネットという架空の空間でのやり取りとかを
どう捉えたらいいのか、
考えのベースになる軸を持つ準備ができていなかった。

もしくは、単純に、映画の中では

美しいものを観ていたい、と思っていた節もある。
単館映画しか基本的に観にいかず、その大方が
映像の美しいヨーロッパ映画だったし、
借りる映画もほとんどが、北欧かイランかアジア映画だった。


限りなく、甘ちゃんだった。

あまり今も変わっていないけれど。






断片的だけれど、丁寧に緻密に描かれている話の展開と、
架空の居場所の中で語られる音楽にまつわる言葉の幾つかが、
交わったり、解離したり、解放されたり、重なったりする。
身体的にも、精神的にも、どこかで痛みばかりを抱える
映画の中の10代たちは、とにかく、ひりひりする。

そして、どこか個を明示したいと欲求しながら、でも、
とろけるような恍惚感を感じられる、居場所を探す感覚には、
青臭くて、裏若いのに、決して馬鹿にはできない、
あの年頃独特の、鋭敏な感性がある。


好きなアーティストについて、そのひそやかな高揚感や興奮を

言葉で共有する、匿名が許されたコミュニティ。
身体の底からもわもわと立ち上がる、懐かしさだった。

青くてちくちくする痛み、
煙の中を射す光の、奇妙な透明感のような、
背をそっと撫でられるように密やかな感覚を、
思い出したりした。

その感覚を思い出させる映画を構成するすべてが、
ただただ見事だった。

上映していた時期に観ていたのなら、一体

どんな感想を抱いたのだろう。


ちょうど、この映画の頃、ネットの中でのコミュニティが
同世代の間で、広まりつつあった。


匿名性とは、そういえば、もっと密やかで内に向かうものだった。


映画の中のネットコミュニティは、
ある時点まで、共通した”好きなもの”を軸に、
親密で、だけれども適度に距離が確保されていた。
微妙な空気感を保とうとする、
客観的にはどうしようもなくバランスには欠けるけど、
繊細で脆くて優しい場所のように見える。

自分だと知られるのは恥ずかしいけれど、
何かを誰かに伝えたり、共感したりしたい。
たくさんの刺や気負い、もしくは、さり気なさや可愛らしさ、
仮名にありったけの思いを込めたりして、
閉ざされた、自分の思いを理解してくれる世界の中で、
共感を求め、差異に敏感になり、でも心のどこかで感心したりして、
繊細さに、痛み、傷つけながらも、
そこに自分の居場所があることで、
自分や他者を癒していく手段としての、匿名性。

そこに居られなくなったのならば、匿名であることを捨てる時だ。
そう考えるのは、未だに、私が甘ちゃんだからなのだろうか。



匿名を使って向かう先が、好きなものではなく、嫌いなものへと

真逆になりつつある今だけれど、
結局、手に入れたいもう一つの世界は、
実のところ、同じようなものに見える。

もしそうだとしたら、弱さや恥ずかしさや脆さや優しさが

うまく出せない大人のような子どもや、子どものような大人が、
ずっと彷徨い続けていることになる。



リアルタイムではこの映画を観ようとせず、
立派なスケルトンのMacは持っていたけれど、
ネットのコミュニティにも縁がなかった私は、
身近な人たちの中に、好きな音楽を共有する人を
見つけられなかったりして、
うまく言語化も、共有もできないまま
ただひたすら、音楽に没入しながら
一人全身で感じ続けるしかなかった。

アウトプットできなかったからこそ、
あの感覚をひどく、鮮明に思い出すことができるのかもしれない。


もはや、匿名性に頼り、ひた隠しに没入できる何かを
持ち合わせることもなくなった。

ただ、今でも音楽は、逃げ場であり居場所でもあるから、
その空間での孤独に耐えられなくなった時には、
その弱や脆さを引き受け、共感してくれる場があって欲しい、と
いい歳にになっても未だに、どこかで切に、願っている。

他人に向けて、言葉をふりかざすのではなく、
浸透性の高い液体のような言葉に満ちた、
傷を癒していく力を感じられる場所があるのなら、
匿名のまま、もぐり込みたい。

0 件のコメント: