2021/04/23

砂塵と鳩の舞う土地 - ラマダンのキャンプ 花が咲く



ラマダン中は、色々と気を遣う月でもある。
夜をただひたすら心待ちにしている人たちが多いと
一緒に仕事をするには、それなりに忍耐力も必要となってくる。

ヨルダンはキリスト教徒もいるけれど
ラマダン中に外で飲食をすると、場合によっては
捕まってしまうので、誰も公共の場では飲食をしない。

キャンプへ行く朝、車の中でこっそりお水を飲んでいる人を見る。
公共の定義について、ぼんやり考えながら事務所へ向かう。


以前は完全に日中断食をしていたけれど、
ここ数年平日はお水は家で飲んでから出かけ、
食事はできるだけ、日没後にしか摂らないという生活をしている。

私はイスラム教徒ではありませんが、
郷に入っては郷に従え、文化や宗教は尊重すべきものなので、
ある程度はコミットします。
でも、やはり仕事にも集中しなくてはならないので、
できる範囲にしています、と大人には言っている。

だが、これを子どもたちに言うと、その後には、壮大な質問が始まる。
宗教が生活の隅々まで行き渡り、行動規範の全てを司っている、と
体感することがしばしばある土地でもある。
宗教への関心はとても高いから、
イスラム教徒ではない、仏教徒であるとわかると、
仏教について、お祈りの仕方、神様のこと、など
色々と尋ねられる。


たくさん神様がいるという状況が
一神教徒にとっては冒涜とも捉えられかねなかったりする。
そもそも、異なる神様を崇めている、ということが
子どもたちのほとんどにとっては信じられない。
(また、うまく説明しづらいことだけれど、
こちらの大人と会話をしていて、気づいたこととして、
一般的な思想や概念と、個人の考えに境界がない傾向がある。
思想や概念のように、大方外部から定義づけられるものが、
自分の思考そのもののように認識していて、区別していない。
だから、例えばある事象に対して捉え方が異なっているのがわかると、
それが個人の考え方を否定されたように受け取ってしまう人も、
多い傾向にある)。

私が地獄へ行くことを心から心配し、
イスラム教徒への改宗を熱心に勧められる。
私が経験する限り、
パレスティナ難民キャンプやシリア難民キャンプの子どもたちには、
特に、その傾向が強い。
天国も地獄も、この世にしかない、という私の悟りは、
通じないことになる。

もう今は慣れたけれど、初めの頃は、
小さな子たちが純粋な目で真っ直ぐこちらを見つめながら、
これらの質問をされることが、もはや怖くもあった。


本当は、こちらもまた、他の宗教があること、
信じるとはどういうことなのか、異なる宗教への寛容さについて、など
伝えたいことはたくさんある。

ただ、言語的な問題もさることながら、
経験上、齟齬が発生しやすく、
周囲の人たちに迷惑をかけてしまう結果になるので、
ラマダン中の自分の飲食に関する行為を制限して、
断食に関する行為については、
子どもに訊かれても嘘をつかなくていい状態に、している。

イスラム教徒の人たちは、小さい頃から徐々に断食に慣れていくので、
結果ずっと私は、5、6歳の子と同じ、ということになる。
心の弱さ、もしくは、このテーマについて腹を据えられない、という観点からも、
私は5、6歳児と同じ、ということにもなる。

時々、イスラム教徒の中にもきちんと他宗教についてある程度理解し、
説明できる人がいるので、本当に助かる。
ただ、どちらかというと肌感覚としてヨルダンでは、
他宗教に対して寛容性について、
頭ではわかっていても、子どもたちも納得できるように話せる人は少ない。

一つ、確実に言えることとして、
イスラム教徒の人が、他宗教への理解を促すことの方が
他宗教の人間が他宗教への理解を促すよりも、
意味があり、子どもたちの理解の深度も異なる。


完全に断食をしていた頃、断食していることを伝えると、
本当に嬉しそうな顔を、周囲の人たちがしてくれた。
それはそれで、宗教が云々ではなく、連帯感のようなものから、
こちらも嬉しかった。

完全な断食を数年間してみた結果として、
普段からよく食事をし忘れて、夜しか食べない、
という生活をしがちな私でさえ、本当に疲弊した。
とかくずっと、仕事中もものを食べたり飲んだりしがちなこちらの人たちにとって、
苦行であり、朦朧としていても、イライラしていても
仕方がないことなのだと思う。





今年は、ラマダン中にキャンプへ行っても、
学校が閉まっているので、子どもたちにはほとんど会えない。

道端では、買い物へ出かける姿はちらほら見たけれど、
ラマダン中で、さらに中間テスト期間だったからか、
4月なのに既に、30度をゆうに越える暑い日だったからか、
家の中で静かにしている様子を、想像するしかない。

この日、朝から心待ちにしていたことがあった。
昨年はロックダウンで全く家から出られなかったから、
見ることが叶わなかった教室の外の、小さな花壇の花が
咲いているはずだった。
あまりいい表現ではないけれど、造花のような
色や艶を持っている。
おそらく、水がなくても花を咲かせ、
受粉のための昆虫を呼ぶためだろう。
見る者を驚かせるために作られた花。





一昨年、初めて花壇にこの花を見た時、
そのあっけらかんとした明るさと立派さに、ただ感嘆した。
こちらの子どもたちのような明るさと整った見た目。

教室で待っているスタッフもいるのに、挨拶するより前に
花を愛でていたので、教室の中から呆れた笑い声が聞こえる。

午前中は大体、ラマダン中でもまだ元気だ。
だから、大切な要件はなるべく早めに話し合う。
外は暑いけれど、こちらの常で日の当たらない場所は涼しい。
いつもと変わらず集中して話ができて、少し安心する。

午後はまた、新聞を貼りに出かけなくてはならなかった。
一番暑いのは3時頃だから、とにかく時間ができたらすぐ、
外へ出かけてさっさと済ませようとした。

子どもたちの姿が消えたキャンプの道は
いつもよりも白っぽく、霞んで見えた。

スークではない場所に点在する小さなお店にまず、貼ってもらう。
その地域には学校の子どもたちがたくさん住んでいるから、
お遣いのついでに目にすることができるだろう。
服屋さん、金物屋さん、モスク、なんでも屋さん、
目に付くお店を順に訪ねる。

小さなお菓子ばかり売っている商店にも貼らせてもらう。
客のいないお店は、がらんと涼しかった。
普段なら、ラマダン中、イフタールが終わると子どもたちは
近くの商店へお菓子を買いに行く。
夜間ロックダウンはキャンプ内でも同じだから、
子どもたちがどうしているのか、尋ねてみたら、
近所に店をしている人がいれば、
店は開けずに、自宅に商品を移動させて
こっそり売っているらしい。

呆れるぐらい身体に悪そうなお菓子の袋を
たっぷり抱えた子どもたちの姿を思い出す。
夜の暗闇の中でも、弱い街灯の光にパッケージが反射して、
顔が朧げにわかるぐらい、袋を抱えていたりする。


以前も覗かせてもらった床屋さんでは、
生徒が立派に店の店員となっていて、
同じぐらいの歳の子の髪をバリカンで刈っている。
店の中には子どもたちが数人、ソファに座って様子を見ていた。
慣れた手つきの軽やかな仕事っぷりに、つい、見惚れる。






スークへも出て、前回話をつけた店を回って行った。

一緒に回っているスタッフはキャンプの中に住んでいる。
だから、道ゆく人たちに挨拶をしていた。

ふと、軽く挨拶をしたあと、二言三言、会話をする。
その内容が、気になった。


八百屋まで行き着いたところで、もう手持ちの紙が底を尽きる。
来た道を戻りながら、小声で話をする。

さっきスタッフは、誰かの近況を尋ね、
アズラックへ行ったよ、と相手は答えていた。
アズラックへ行ったマハムードのことを、思い出す。

ちょうど午前中も、話し合いの合間で、その話になっていた。
アズラックとは、アズラックキャンプのことだ。
恐怖の対象としての、カタアハーミス。

なぜ未だに、違うキャンプへ移される人たちがいるのか、
ずっと疑問に思っていたので、詳細を聞く。
それは、本当に心塞ぐ話だった。
小声で話さなくてはならないような、話なのだ。

ロバの蹄鉄の動画をくれたおじさんが、その日も
ロバの手入れをしていたのが目に入る。
その時だけは、普通の大きさで話す。
そういう類の話だった。


学校に着くと、既に他のチームは教室に戻っていた。
顔を真っ赤にしたスタッフたちが、ぐったりしている。
絵に描いたようなぐったり加減に、思わず笑ってしまう。

雲ひとつない、炎天下のキャンプを歩き回るのは、確かに疲れる。
しばらく休みを取るしかなさそうなので、
ただひたすらぐったりしている人たちを見つめる。

その日はまだ、話をしなくてはならないことがあった。
話の内容がかなりシビアなことだったので、
端的に、短く、通訳を入れずにアラビア語で、熱を入れて話をした。
仲介に入る通訳のスタッフが翻訳に困る内容は、
できるだけアラビア語で話をするようにしている。

一生懸命話しているけれど、私もスタッフたちも
周囲に群がる蠅が気になる。
水分も食べ物もないカラカラのラマダン中のキャンプでは
人の汗も大事な養分なのだ。
汗の滲んだスタッフたちの帽子の周辺が
黒い塊になっていた。

私が真剣だ、ということは通じているけれど、
既に聞き手は聞く集中力に欠けているのは、一目瞭然だった。
そうなると、言葉が足りないのかと、結局
色々たとえを交えて話が膨らんできて
話の内容の順番を間違えたな、と思った時には、
帰らなくてはならない時間になっていた。

結構嫌な話もしたはずだったのに、
地元のスタッフたちは熱心に、私をイフタールに誘ってくれる。
さっき話したことがどれだけ伝わっているのか、不安になると同時に、
美味しい食事がきっと待っているであろうことに、
生唾を飲む。

夜間はロックダウンだから、
お宅へ伺っても、帰ることができない。
泣く泣く、お断りをした。


車に戻りながら、そういえば、
いつも学校の周りをうろうろしている生徒も
さっぱり姿を現さないことに、気づく。
キャンプの中を移動していても、
凧が空を泳いでいない。

白茶色いプレハブの一つ一つの
薄暗い部屋の中を思い描く。
子どもたちもまた、必死に空腹に耐えながら、
イフタールに出てくる料理の匂いや音に
感覚を研ぎ澄ませていることだろう。

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