2021/04/17

彼らの暮らしと、話の断片 ラマダン前2


今年のラマダンもまた、コロナの影響を受けて
ラマダンらしさを享受できない外出規制が布かれている。
夕方6時には店が閉まり、7時から朝まで外出禁止。
休日である金曜日は完全外出禁止となっている。
だから、金曜日など、普段にまして、外は静かだ。

ラマダンの醍醐味といったら、日没後にやってくる
断食後のイフタール(断食後の「朝食」)を
家族や親族、友人とともにいただくこと。
普段なら、レストランでも家の中でも、イフタールとその後の歓談を
楽しむのが慣わしだ。
いつかのラマダンの写真を、見直したりして
感傷に浸ってしまう。






いつもなら、夜中までカフェからは音楽が流れ、
ファジャル(日の出前のお祈り)まで、人の気配に溢れている。
私の家はダウンタウンのすぐ脇の丘の上にあるから、
谷から沸き立つ音が、どんなに小さくもこだましていた。

ラマダンは時に、仕事を日本のペースに合わせて進めなくてはならない身としては
面倒なこともあるけれど、やはり、
夜の時間がすっぽりと抜けた一人暮らしとしては、
懐かしさと寂しさが、入り混じる。







アル・ハズネ

他の人からの用事を預かっていたのに、
コロナでずっと先送りにしていた末の、訪問だった。
平日には仕事がある、ラマダン前の休日はその日が最後だった。


真っ暗な階段を地下へ下がり、ドアを開けると
知らない顔が、招き入れてくれる。

いつも通される応接間には、50代、60代だろうと思われる
女性ばかりが4人、ソーシャルディスタンスを保って、ソファに腰掛けていた。
一番入り口に近いソファに座ってみたものの、
知っている顔は一度挨拶したことのあるお母さんしかいない。
予想外の光景に、挨拶するのも忘れてしまった。
連絡を取って訪問したその日、会いたかった本人は
家にいなかった。


どこのお宅へ行っても、どことなく場違いだと感じることばかりだけれど、
久々に、見事なアウェイ感だった。
そこにいる御婦人方が、奇異な目で私を見ることもなく、
根掘り葉掘りあらゆる質問をしてくるわけでもなく、
会話を続けてくれていることが、幸いだった。

ヒジャーブをかぶっている人もいる。
つまり、他人の家、もしくは、家の中で出入りをする人の中に
同じ家族ではない人がいる可能性もあった。
誰もが身ぎれいで、所作もたおやかな人たち。

しばらくすると、会話に入れるわけでもない私をいたたまれなく思ったのか、
いつもは通されない別の部屋へ入る。
キッチンと通じたその部屋の外には小さな庭があった。
(丘だらけのアンマンでは、建物が坂や崖に作られている場合、
入り口から地下に下がっても、外に通じる庭があったりする。)

小さな子が二人、寒い日なのに外で遊んでいた。

いつも私の相手をしてくれる5年生の女の子が、
居場所を無くしてなぜか、テレビの前に座っている私に
話しかけてくれる。
けれどもすぐに、外で遊んでいる弟と従兄弟を連れてくるよう言いつけられ、
女の子は外へ出る。
連れ戻された男の子たちは、まだ外で遊びたかったのか
目一杯ぐずっていた。

気がつくと、会いたかった人と瓜二つの女性が、私の横に座っている。
聞けば、双子ではなく、妹さんだった。
見事な亜麻仁色の髪は肩あたりでまとまりよくセットされ、
細身で撫で肩の体型と相まって、一昔前の古き良き西洋人のようだった。
浅いミント色のニットにタイトスカート、
妹さんたちも、着ている服の趣味がとてもいい。

続いてまた、知らない女性がやってくる。
その人もまた妹さんで、さらにもう一人の妹さんが
キッチンに立って何やら、忙しそうにしていた。

携帯電話の電波がうまく入らず、本人と連絡も取れない。
どうしたものか、と途方に暮れていると、コーヒーが出てきた。
お礼を述べつつ、コーヒーを口にして、
次々登場してくる人物の関係を説明してもらう。

叔母さん、という人も登場する。
自分の家の近くには中国の人が住んでいて、アラビア語の学校に通っていること、
私のアラビア語はヨルダン方言だけれど、
シリア方言の方がフスハ(正則アラビア語)に近いこと、
フスハを勉強すると言葉が豊かになること、を話してくる

この会話になると、私は窮地に立たされる。
大方話していることは分かるけれど、
殊、アウトプットを伴うシリア出身の人たちとの会話では、
自分がきちんと勉強していないことが露呈するばかりではなく、
ヨルダン方言の語気の強さが、
ヨルダン人の多くが気質として持ち合わせている押しの強さと重なり合い、
私自身は気が弱いのに、話す言葉だけがやたらに、
きつい印象を持たせてしまうのだ。

もっとも、自分の気が弱いことには変わりないが、
もはや話の仕方には、ヨルダン人の何かしらが、
備わっているのかも知れない。

いつも実感するけれど、シリア方言の中でも
シリア中央部から北部にかけては
歌うような美しさが、会話の端々に散りばめられている。
言葉も柔らかく、語感が優しい。

パレスティナ人やヨルダン人の男性陣が
女性がシリア方言を話すと、一気にその人の魅力が増して見えてくる、
などと口にしているのを、耳にしたことがある。

アラブ圏での仕事に、アジア人の女性らしさは災いにしかならないけど、
美しい音そのものには、ずっと憧れを抱いている。
特に、シリア人の女性ばかりが大勢いる場所に加わると
彼らの容姿の美しさと、歌うような音の広がりに
うっとりもする。
(同時に、自分の見窄らしさが際立ったり、するけれど、
言葉に関しては自分の努力不足なので、仕方ない)

アラビア語の講釈が一通り終わる頃、
テーブルの上に今度は、クッペの乗ったお皿が出てくる。



手のひらサイズのラグビーボールのような形をしたコロッケで、
炒めた挽肉や玉ねぎを、
パン粉の代わりにブルゴル(パスタと同じ材料を小粒の玉にしたようなもの)で覆い
揚げた食べ物だ。
家庭や地域によって少しずつ中身は異なる。
久しぶりに食べるクッペは、
主張しないけれど、きちんと役目を果たしているスパイスが
肉の味を引き立てていて、とてもおいしかった。

ついでにパイ生地を使ったパンも出てきて、
何やらただ、食事を食べに来たような状況になってしまった。

何度しても本人には電話が繋がらず、大事な用事は済ませなくてはならないし
どう話を切り出したらいいのかわからない。
ここにいたら、もっとたくさんクッペを食べてしまいそうだから、
用事の算段だけつけさせて欲しい、と冗談まじりに言うと、
再び御婦人方の部屋へ通された。

御婦人方は相変わらず、私が部屋に入ってきても
別段気に留めるでもなく
熱心に会話を続けていた。

シリア国内の自分達の育った街のどこが
戦闘で潰されてしまったのか、私の知らない店の名前や場所の名前が
次々と出てくる。
あの人はどうなったのか、あそこはどうなったのか。

話の筋を追いきれなくて、途中からパンを食べることに集中していたら
斜め前の女性が、大きくため息をつきながら、目尻を抑えた。
あぁ、なんてことなんだろう、とつぶやく。

少しの間を置いて、さっきと変わらない口調で
会話が再開する。
いつの間にか料理の話になっていて、あの食材が見つからない、とか
それはうちにあるから持っていって、とか
近くのモールに売っているから大丈夫、とか、
女性たちがどこででもする会話に戻っていた。

しばらくするとやっと、
御婦人方の会話に参加していたお母さんが私に話しかけてくれて、
要件を済ませることができた。

身支度をしていると妹さんがさりげなく、袋を手渡してくれる。
何かと思ったら、クッペとパンがたっぷり、入っていた。
さっき、クッペを言い訳に使ったから、準備してくれたのだろう。
そんなつもりで言ったわけではないんです、と弁解するけれど
クッペの中に入った麦のような食感を残す材料が
何なのか突き止められるかもしれないと思うと
思わず顔が綻んでしまう。

部屋を出る前、ずっと気になっていたことを、確認する。
一体、あの御婦人方は誰なのか。
遠い親戚、と説明される。


この一族は、その日私が会った人たちだけを思い出してみても
誰もがとても礼儀正しく、
礼節の定義、と言うものがあるのなら、
おそらく私と同じような定義を持っている。
むしろそんなことを勝手に思う私の方が、
失礼な態度を取ってしまっていた。

何もかもが開けっ広げで、
言いたいことは、どこでもなんでも口にしてしまうぐらい、
気心も知れているけれど、
同時に、気心が知れている、では理由にはならないような
一線をすぐに越えがちな、周囲のアラブ人とは
明らかに違っていた。

冷たいわけでも、プライドが高いわけでもなく、
適切な振る舞いや適度な距離が備わっている人たちに、
実のところ、それほど頻繁に会えるわけではない。

一体こういう人たちのような距離感は、どのように育まれてきたのか
興味が湧いてくる。

自国の彼らの家で、ずっと繰り広げられていたであろう
会話や調理、子どもたちの遊ぶ様子が、
その根底にある、節度や距離感、を崩さないまま
逃げてきた先のアンマンでも、きちんと保たれている。

もちろん、生活レベルも要因としてあるだろう。
けれど、もっと根源的な、温かさや豊かさから成る
一族の、品位のようなもの、を垣間見る時間だった。

建物を出て時計を見たら、2時間以上、
ただひたすら食べて、会話を聞いていたことが、わかる。


帰りの車中では、起伏の多い土地の地下に、目がいく。

さっき目にしたような集まりの場の中で、
さまざまな一族の、さまざまな在りようが
保たれ、成熟され、語り継がれる。

蛍光灯に照らされた応接間には、
そういえば、窓がひとつも、なかった。
あの応接間は、ぽっかりとそこだけが、
異なる土地の、異なる文化が密かに息づく空間だった。

地下の閉ざされた空間が、密やかさを助長させているのかもしれない。

会話の中身には、当然のように紛争の影がちらつくけれど、
十数年前までは、隣の国のどこかの応接間で
どこかの庭やベランダで繰り広げられていた一族の姿を、
地下の明るい応接間という舞台で、見せていただいたような心持ちになる。




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