2024/04/06

この世の不純な、無数の白




川面を埋め尽くす桜の花びらが、無数の雨粒の波紋に乗って
小刻みに震える。
哲学の道は、踏みしだかれた花びらで覆われていた。
茶色く変色した花びらと、川面に揺れる白い花びら、どちらも
暗い街灯の光が、ぼんやりと照らしていた。


京都の桜が一番美しく見えたのは、あの時だった。

強い雨の夜が、一番花を美しく見せるのだという
高校生の時の映像と認識と記憶はいまだに、鮮明だ。



細かな無数の傷に変色した花びらと、
暗い川の中を流れる花に惹かれた記憶は
梶井基次郎とともに、随分と長い歳月を経てもなお、
盛りを過ぎ、衰え、消えていく、生と死の象徴のはずだった。





頭のおかしい人だ、
そう思われるのは、みっともなくていやだ。
頭のおかしい人、の定義がどれだけ、
島国の異常に苛烈な同調圧力のせいだとしても、
日本に住む、とはその圧力に甘んじて押されることだと思っている。


だから、川岸に並ぶ桜は、深夜か早朝に、見にいく。
混んでいるのも、あまり好きではないけれど、
なにより、立ち止まれないし、ふらふら歩けないし、
一人でいる、というのは居心地が悪いからだ。
犬でも連れていればいいのだろうけれど、
桜を見る散歩のためだけに、犬を飼うことはできない。




満開のほんの少し手前の桜は、
静かなしとやかさを孕み、ほんのりと赤みががった白を
枝いっぱいに携えて並んでいる。
曇った空に、その花の色は不思議と際立つ。


川にはまだ、花びらがいくつか、流れているだけだった。






今年の花見の友は、ケーゲルの田園にする。
自死する1ヶ月前に、日本で演奏されたコンサートの音源。
冷ややかで研ぎ澄まされ、そしてどうにもならない悲壮感の漂う音で
背筋をそっとなでられるような震えとともに、
美しく、奏でられている。


耳から身体全体に流れ込ませる。
予防のためだ。
すぐ調子にのって、たぶん、どこか浮ついてしまうから。





白、という色の種類は計り知れない。
もし純白がこの世にあるのならば、だけれど、その白に
どんなに美しい色でも、どんなに少量でも、ひとたび混じったら、
たちまち、純白ではなくなる。
だから、この世にはたくさんの不純な白が、
無数に存在していることになる。


鮮烈な赤でも、底の見えない黒でもなく、
真っ白い、ということが狂気の片鱗を思い起こさせる。
きっと、その白が純粋であればあるほど、
そして、面積が広ければ広いほど、
感覚のどこかが、おかしくなるのだろう。

曇った日の桜は、空よりも白い、けれども
光をたっぷり浴びて光り輝くこともなく、
それがどこかしら、不安を和らげてくれる。

真っ白では存在し得ない、あらゆる生の不純さをも
いくらか想起させるその無数の白は、曖昧でわずかに温かい。





白という色を思う時、ハン・ガンの小説を思い出す。
「すべての、白いものたちの」






生死をめぐる、近しい、もしくは遠い国の人々の記憶が、
白、という色の持つ象徴、抽象度の高い余韻と混じり合い、
痛みを伴いながら、昇華されていく過程を描いている。

手に取り、序章を読むだけで、心の中を
雪の日の夜のように、しんとした静けさで満たす。
そんな稀有な作品だから、何度も読んだけれど、
魅力を語れるほどには、いまだに消化できていない。


”私の母国語で白い色を表す言葉に、
「ハヤン(まっしろな)」と「ヒン(しろい)」がある。
綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、
「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。
私の書きたかったのは、「ヒン」についての本だった。”


ヒン、という音を、小さく声に出して呟く。
本の書き出しを彷彿とさせる、静かな心持ちになる。




この「ヒン」という言葉と、ケーゲルの田園に支えられて、桜を見る。


政治的立場で常に悩まされながらも活動を続けた末、
夢に描いた”本当の社会主義”が実現しないことを悟る
うつ病のケーゲルが抱いていたであろう、
深い深い絶望が乗り移ってしまった音色は、奇しくも
光り輝く自然を往く幸福感を、描いた曲だった。
その見事なほどの矛盾は、
正気にさせるのに、十分だった。

生死に直結した狂気の際を奏でる音を、往く。


最終楽章の最後の和音が宙に消えたとあとには、
「ヒン」が残る。
生死を表すその言葉が、桜の色の不純さと溶け合う。








2024/04/04

目覚めの夢と、シャンデリアの光

 

例えば、朝意識がはっきりする手前で、
さまざまな夢を見ることがあるだろう。

記憶している夢は、日頃の心配ごとや気にかかっていることが
なぜそうなってしまうのだろう、というような、
不可思議な状況で描かれる。
面白いのは、おそらく起きることはないだろうけれど、微妙に現実的で、
現実世界では関係のない人々が、夢の中では接触をはかり、
それぞれの人々に対してわたしが抱いている不安が
複合されることだ。

結果的に、目覚める時にはひどく生々しく、
悲しかったり辛かったりする。

実にいやなことを主題にするものだ、と
自分で自分の無意識に呆れる。

たぶん、もっと楽しい夢も見ているのだろう。
楽しい夢はそのままで居たいから、目覚めることもない。
いやな夢は、見ている間にひどく心痛み、
そんな痛みで覚醒してしまうから、覚えているのだと、
勝手に分析している。


よほど印象に残るような状況でなければ、
生々しさに呆然とする目覚めをやり過ごしたのち、忘れてしまう。

けれど時々、強烈な感触の断片が頭のどこかで記憶されていて
ある瞬間にふとしたきっかけで、映像が思い起こされたりする。







その日の演奏会は、曲目そのものには非常に興味があったけれど、
ほとんど馴染みのない曲ばかりだった。
ブルックナーの3番はいくつかのアルバムを聴いていたけれど、
正直、ブルックナーの交響曲の中では、あまり聴かないもので、
第2稿にいたっては、聴いたことがなかった。

けれども、初めてのバージョンを聴く、というのは
その曲が初めて演奏された時のことを想起させる。
一体その時代の人は、初めての音楽をどのように聴いたのか、
体感してみたくなることが時折、ある。

そんな極シンプルな興味に、安いチケットが手に入る、という
幸運が重なることもある。



前半の、アルマ・マーラーの歌曲は、その人物像が先走りすぎだったせいか、
想像していたよりも複雑で繊細な音が多く、
選ばれた詩の言葉との幾らかのギャップもあいまって、
その面白さを追っていたら終わってしまった。


ブルックナーが始まると、当初抱いていた新しい曲目としての関心より、
オーケストラの音に耳を奪われていた。
わたしが記憶していた音とはまったく異なっていた。
よく降る雨に打たれて洗い流された後のように、
瑞々しい音は明度をぐっと上げていた。

自分の耳が急に、今日その瞬間だけ、性能が良くなった気がした。
行き道にどんなクラシックでもなく、スティービー・ワンダーを聴いたのが
今日の勝算だったのかもしれない、と頭の片隅で思いながら、
随分久しぶりの生の音を、楽しんでいた。

ただ、やはりわたしの知っているブルックナー3番、
第3稿との違いにいくらかの戸惑いを抱く。
だからといって、比較できるほどの細かな譜面の違いが
分析できるはずもなく、ただ純朴な素人のクラシック愛好者として
とにかく音を楽しもうと、腹を括る。

大好きなブルックナー独特の節回しや
音の重ね方は十分に美しかった。
どこか、パッチワークのようにフレーズが途切れたり繋がったりするのを
構成として認識し直したりすることも諦めて、
ひたすら音の美しさを堪能することにした。






けれども、2楽章の途中で意識が音楽から離れてしまう。
きっかけは、遠くの2階席に座っていた、見も知らぬ女性の姿だった。
1楽章が終わり、咳払いや衣擦れの音が響く中、
何気なくステージから顔をあげた時、目に飛び込んでくる。


その女性の姿とよく似た人を
目覚め前の夢に、時折、見る。

髪の長さ、肌の色、服の趣味、随分遠くに座っているのに、
詳細を鮮明に見ることができる。
いや、正確には鮮明に頭の中で、描き直すことができる。
そして、見知らぬ女性を夢の中の女性と、もっと似せることができる。


けれども、その作業をわたし自身は、まったく望んでいない。

遠くの見知らぬ女性を見た瞬間から、
夢の辛い感触だけが、身体全体を支配して
胸の辺りがひどく痛み出す、そんなことなど
いくらも望んではいないのに、止められない。

夢に出てくる女性には一つの否もない、ただ、
そんなふうに、詳細を描けるほどのわたしの意識が
勝手に、夢の悲しい感触に溺れさせる。


2楽章の旋律は、沼のように変化に乏しく響く、
そして、音などいくらも耳に入らなくなる。
音楽の記憶がその部分だけぽっかり空いて、
ただただ、ひどくはっきりとした夢の感触を
意思に反して丹念に確かめる工程が繰り返された。
なぜそうなってしまうのかと、問いかける作業が
よけいに自分を苦しめる。


気がついた時には、さっきと同じ旋律が流れている、ような気がする。
それがリピートによるものなのか、思い違いなのか、
もはやさっぱり、わからなくなっていた。

音の煌めきに集中しよう、そう小さく頭を振り、
天井からぶらさがる幾何学のシャンデリアを見ながら
音とガラスの輝きを重ねる。
視覚と聴覚を連動させて、
よけいなものを一掃しようと必死になっていた。


瞑想のような2楽章が終わる。
そして、きれのいい、見事な出だしの3楽章に救われ、
再び、音楽の中に身体が戻っていった。







演奏が終了し、拍手の音に満ちる会場の中、
その日に聴いた音を反芻しようとする。
すっかり抜け落ちた、おそらく10分ぐらいの音のことは
思い出さないように、シャンデリアをじっと、見つめる。

聴いたことのない演奏だったから、集中力が落ちてしまったのだ、
そう言い聞かせて、ホールをあとにした。


雨に濡れそぶる桜の花が、街灯の光に照らされて暗く光る。





今日の音は、こんな妖艶さなどなくて、
もっと澄んだきれいな音だった。
強いていうなら、アルマ・マーラーのあの、
時折掴みどころがないような、フランスものを思い出させる
伴奏の弦の和音だ、と記憶を辿る。

よけいなものは、目に入らないようにしなくては。
湿る空気の中、傘を深くさして、
濡れた地面に映るさまざまな色の光だけを見つめる。




2024/04/02

漂う春の、いくつかの花の香り

 

ようやっと、ふわりと、どの花なのかはわからない、
けれども、日の光を集めたような明るい香りが時々、
漂う時季になった。


春といえば、けれども、3月のはじめ、
沈丁花の香りから始まる、と思っている。


あの香りは独特だ。
あのつんとした刺激を含む香りは、
そのものに本質的な冷たさを孕んでいる。

その花が咲くまで、そこにあったとは気づかないような、
地味な葉と背丈、風にもなびかぬ、
たおやかさからはほど遠い律儀な形の花弁、しかも、
枝ぶりと花の数は均一で、
こんもりとした低木の全方向に顔を向けている。

香りも形も咲く時季も、これほどまである種の
抑制を思わせる花はない、と幾度となく
香りが鼻をかすめるたびに、思ってきた。

香りが消える頃には、心弾む暖かな空気が来るだろう、
けれども、それまでの寒く凍える季節の最後には
終わりにふさわしい、象徴的な花を残しておかなくては、
そうして選ばれた花のようだ。

だから、というわけではないけれど、
沈丁花の香りが好きだ。
頭をすっきりさせる清々しい寒さと、
その香りはよく呼応している。

そして確実に、その残り香の先には、春がある。







中東で花の香り、と言ったら
誰もが真っ先に、ジャスミンを思い浮かべる。
少なくとも、アラブ人に香りのある花は、と尋ねたら
おそらく9割以上、ジャスミンだと答えるだろう。

日本では、ダマスカスローズ、という香りの強いバラが人気だから、
地名を含む花の名に、彼の地を想像することも、あるかもしれないけれど、
ヨルダンでは、ダマスカスローズよりもジャスミンの方が、
育てやすさもあってか、目にする頻度は圧倒的に高かった。

難民キャンプの庭にも、見事に咲き誇るジャスミンを
何度となく見たし、それを愛で、自慢する人々の嬉しそうな顔もまた、
たくさん見てきた。

シリアの子どもたちが書く詩の中に出てくる、ジャスミンの香り、は
故郷の芳しさと美しさを象徴するものだった。
ジャスミンの季節になると、小さな白い花を摘み取る子もいる。
外国人が珍しいからか、道端や学校で会った幾人かの子が、
ふと、ポケットからジャスミンの花を取り出して、
わたしにくれたりした。







白くて星の形の小さな無数の花が、春先から咲き出す。
スタージャスミン、とも呼ばれているもので、一番一般的な種類だ。
ヨルダンでヤスミーン(ジャスミン)の香水を試すと
この花の香りになる。



日本では時折アラビアジャスミン、もしくはマツリカ
と呼ばれている種類には、アラビア語だと
ジャスミンとともに、フル(فل)という名もついている。
香水も、ヤスミーンとフルでは、種類も香りも異なる。


わたしにはマツリカと梔子の花の形が、種類によっては似て見える。
梔子の学名はGardenia Jasminoides、
ジャスミンのようなガーデニア、という名になる。
ただ、マツリカには、梔子のような、
あの身体中に充満して頭の芯まで麻痺させるような
ひどく魅惑的で強い甘さはない。


(実家にもカロライナジャスミンがあったと思い出し、検索してみたら、
これもまた、ジャスミンという名はついているけれど、梔子と同様
リンドウ目で、ジャスミンとは種が異なっていた)


なぜジャスミンのことなど思い出したかといえば、単純に、
白いスタージャスミンの鉢植えが、ある日家にやってきたからだった。
小さな鉢植えのスタージャスミンは、けれども
随分と気前よく、香りを振り撒いていた。

わたしにとっては懐かしい香りでもある。

けれども、湿気ばかりの日本の気候に、
このジャスミンの香りは、いくらか重すぎる。
からりといつも晴れていて、湿度も一桁台が続く中東の空気には
強く甘い香りも薄まって漂うけれど、
日本の住宅の中では、目に見えない湿度の粒子の一つ一つに
香りはぴったりとくっついて、停滞しがちだった。



その鉢植えが、地面に植え替えられた頃、外では
沈丁花の季節がやってきた。

一言に花の香り、と言っても、もちろん
花の種類の数だけ、香りもある。

ただ、随分と対照的な香りを同時に嗅ぐことになる。

ジャスミンにも、初夏の夜に野外で聴くウードの演奏のような
静謐さと気品を、持ちうる。
けれども、春先の日本では、その資質と魅力は
十分に発揮できないようだった。

蝶々夫人のアリアと、フォーレのヴォカリーズぐらい
性質も種類も状況も異なる花の香りを、
毎年やってくるものとして、いつかはきちんと、
愛でることができるように、とりあえずは、
きちんと地面に根付くように水をまこう。






2024/04/01

なけなしの正気を奪う、美容院という場所



 
どうしてだか、とりとめもない思考が止まらない場所がある。
1つは歯医者、そしてもう1つは美容院。


 
髪を変えたい、そう思った瞬間から、もうその思いで
頭がいっぱいになってしまう。
よく晴れて暖かな3月の終わり、
新年度なんて、日本にしかない区切りである4月を前に、
髪も一新するのはなんだかとても、大事なことのように思えて
その願望に取り憑かれる。
 
 
けれども、美容院そのものは、とことん苦手で居心地が悪い。
美しい女性たちが、もっと美しくなろうと美容院にやってくる。
目の前に置かれた雑誌の中のモデルと、寸分変わらぬ出立ちの女性たちが
わたしからしてみたら、十分美しく見える
髪の毛をさらに、切ったり染めたり巻いたりする。
美容院へ行くといつもわたしは、ただ、そんな美しい女性たちを
鏡越しに、もしくは、鏡と鏡の間から見つめる。
 
 
日本の美容院は、その空間が特別なように思える。
美容院に行く時からすでに、美しくしていなくてはならない。
素ではいけない場所だ。
入る時の格好で値踏みをされ、判断されている気がする。
 
 
 
店の立地によるけれど、住んでいたヨルダンとベトナムでは、
美容院という場所は往々にして、
素で行って、きれいになるところ、だった。
 
例えば結婚式に呼ばれている、とか、大事なデートがある、
だから、近所で行きつけの美容院があったりすると、
お店の人との世間話から、親族の婚姻事情から
最新の恋愛情報まで、把握することができる。
常日頃の髪の毛の手入れをしないわけでもないけれど、
美容院へ行って髪を結ってもらう機会が多く、
その時についでに、髪の長さをそろえたり、少し染めたりしていた。
 
そして、美容院へ用事もなく立ち寄る人々も多かった。
日本では理解しづらいけれど、
美容院や床屋は人が集う場所になっていた。
 
兄弟が髪を切ってもらっている間、自分は切らないけれど
ついて行って様子を見ている、とか、
夕方からの親族の結婚式に出席するために、一家の女たちが総出で
朝美容院へやってくる、とか、
とりあえず暇だから、美容院へ来て、
近所の人が髪を切る様子を見ながら世間話をしつつ、少し手伝う、とか。
そんな人たちが23人やってくれば、井戸端会議場になる。
 
そんなところに、おめかしをして登場すれば、
今日は何があるのか、と好奇心を隠すつもりもない人々から
質問攻めにされる。
そして、質問されることをいくらか、期待しながら
本人もまた、特別な格好をしていくのだ、、、、。
 
 
 
 
ベトナムでよく行っていた韓国人の美容院、
火焔樹の並木がよく見える、大きなガラス張りの窓と
K-popコンテストが延々と流れるテレビ、
いつ行っても紅茶を作ったりカラー剤の調合を手伝っている
おばさんの丸い肩、
もともと目鼻顔立ちの整った顔が、また見違えるほどきれいになって、
「化ける」とはこのことだ、とひどく感慨深く見入ったアラブの女性たち。
 
そんないくつもの、脈絡のない映像の断片を思い出していると、
順番が回ってきて、ピカピカに磨かれた鏡の前に連れて行かれる。
 
 
 
 
美容院で一番緊張するのは、一体何をしてもらいたくて
美容院に来たのかを説明する時だ。
前回と同じで、と言えれば楽だったけれど、この日は、
そうではなかった。
 
 
ハイライトで明るくする、というわたしの要望は
さっぱり聞き入れてもらえなかった。
おそらく、究極的には予約が詰まっていて時間がなかったのだろう。

 
さまざまな、大なり小なりの、「今日はできない理由」を聞かされる。
すっかり意気消沈して、あからさまに
わたしの返事に覇気がなくなる。
 
 
 
それならば、願う施術をしてくれる美容院に行けばいい、
その選択肢がないわけではなかったのに、結局そうしなかった。
自分の要望が聞き入れられなくても、
この日どうしても、髪を「ちゃんと」したかった。
今の機会を失ったら、「この日」には、できない。
 
さまざまによぎる思いを一旦おいて、とにかく
いくらか「ちゃんと」してもらうことにした。
だって、周囲には、きれいな女の人たちがあまりにも
「ちゃんと」した状態から、さらに、きれいになろうとしているからだ。
 
 
 
髪を切っていく見事な手捌きを見つめる。
はらはらと落ちる髪にススキの穂を思い出したり、
前回来た時に見た、鏡越しに見える街路樹の葉の色を思い出そうとしたり、
目の前の雑誌に書かれた言葉たちにツッコミを入れたり、
雑誌から抜け出てきたような、美しい服を着た女性のバックグラウンドについて
いくつかの選択肢を設定してみたり、する。
 
 
 
 
 
要望はわたしにとって、どんな意味を持っていたのか、
「ちゃんと」する、とは一体何なのか、
自分に欠けているものは、一体何なのか、
今日がいい、のではなく、ただ単純に優柔不断なのではないか。

そして、要望が通らなかった時点で、
髪型を変えて気分も変えられるかもしれない、という
外的刺激による心的変容、を期待する道は閉ざされたのではなかったか。
 
さまざまな思いがぐるぐるとめぐり、気持ちが悪くなってくる。
腹いせに、心の中で、鏡越しの美容師さんを責めてみたりする。
 
いろんな客がいるだろうけれど、
わたしはそれなりの覚悟と期待をもってここへやってきた。
今日髪が明るくできないということが、わたしにとって
どのような意味を持っているのか、あなたは想像してみたことがあるだろうか。
 
 
そこまで考えたところで、いい加減自分自身にうんざりする。
こんなことを心の中で呟く人間は、
一生思い通りの髪型になど、できないだろう、
わたしはわたしに呪いをかけてみたりする。



 
そして、ただ座っているだけなのにすっかり疲れ切ったところで、
やっと、すべての工程が終わる。
 
髪は3ヶ月前の状態へ、見事なほど正確に戻っていた。
それは本来、とても素晴らしいことだし、実際に、
1時間半前に比べてずいぶんと、「ちゃんと」した髪になった。


要望通りの髪にしてもらったら、
ちゃんと」しなかったかもしれない。
そう思うと、日本でよしとされている、標準的な髪型になったことが
とてもよいことのように思えてきた。

たとえ自分の意思には反しても、
社会的にはこちらの方がいいのだから、それに従え、と
(いるのかいないのかわからないけれど)
今日の運の神さま、のようなものが、髪の行く末を決めていたのかもしれない。
そっちがいいと神さまが言うなら、そうなのだろう。

 

 
春めいた、あたたかな風に髪が揺れる。
お前は浮かれている場合ではない、だから、
これはちょうどいい、ちゃんとした髪なのです、
そう、風に擦れる髪の隙間から、神さまが耳元でささやいてくる。

そうやって、美容院はわたしのなけなしの正気を、奪っていく。






 

2024/03/30

電車と田園

 

空の色が白みがかって、空気が急に、春になる。


春の空を眺めながら、電車に乗る。
都心から離れていくと、窓の外で空が広くなる。
同じ車両に乗る見知らぬ人々が一様に、この春の空気に
浮き足だっているように見える。
親に連れられて、控えめにはしゃぐ子どもたちが
電車の中の空気を作る。
わたしの隣で、3、4歳の女の子が、椅子の上に立膝をついて
窓の外を見つめている。
白い靴下が、上下に動くのが、目の端に入ってくる。
じっとしていられない心のうちが、ちらちら蝶のように舞う。

大人のわたしは、じっとしている。

女の子が隣に座るお母さんに、何か話している。
何を言っているのか、少しだけ気になる。
どんな声なのかも、少しだけ聞いてみたくなる。

けれども、ヘッドフォンをずらすわけにはいかない。
郊外の景色に、いくらかでもふさわしいはずの
ベートーヴェンの田園を聴いている。

空が白い、それが何よりも救いだ。

田園を聴くと、ありきたりで時代錯誤だけれど、
ヨーロッパの初夏の、さまざまな濃淡の緑にあふれた
草原と森を組み合わせた、バロック時代の絵画の色の明度を
ぐっと上げたような景色を
想像するのが常だった。


庭や樹木にあふれた広大な敷地を持つ屋敷の
大きな扉を開けるような始まりの数小節から、
すでに扉を開けているのが、亡霊であるかのような音ではあった。

音楽そのものは、楽譜通りに進んでいく。
朗々とした音の美しい広がり、緩急の心地よさ、
弦と管楽器の支え合い、呼応するフレーズの波。
けれども、急に音に覇気がなくなる、
突然それまでの文脈から外れてテンポがはやくなる、
コントラバスの音が時々不吉なものが迫り来るように
ひどく目立って響く。



今耳から流れ込んでくる音楽は、総じて
ただひたすら、真っ青で、その中に吸い込まれるような
底なしのからっぽな空間が広がる空ばかりを思わせる。

どれだけ、よく知っているはずの旋律を追っていても、
弦の擦れや、楽器の中を突き抜ける息のすべてに
青いセロファンのフィルターをかけているように見える。
楽曲の持つ、そしてオーケストラが奏でる音、
どちらの気品も、蝋燭のあかりに輝く銀カトラリーのようだけれど
ところどころ黒ずんでいる。

通り過ぎる音の残像の影だけが、ひどく濃くて、
物質的な手応えがない。
だから、耳をすべて覆い尽くす音があるのに、
青い影だけが、秋の空のようにどんどんと澄んで深くなる。

銀のカトラリーにつられたのか、
ペーヴに敷き詰められた煉瓦のわずかな段差につまづかぬよう
お盆を持って何度も歩く練習をする、
「日の名残」の父親の背中と屋敷の緑を思い出す。



目の前では、別の子どもたちが親を両側に挟むようにして座り、
父親の携帯電話をうれしそうに覗き込んでいる。
外国人のカップルがバックパックをおろして何かを取り出そうとしている。
老夫婦が食卓を囲むような日常の顔で、手すりに掴まり立っている。
川を渡る電車は中空を走る。


3楽章で急に管楽器の音が弱くなった気がする。
弦だけが、これでもか、というほどに全面に出たと思ったら、
4楽章に入って爆音が耳を覆う、けれども、どこか切れがなくて
今度は金管楽器の音だけがつんざくように警笛を鳴らし、
それが過ぎ去った後一瞬だけ、
空っぽをゆくような音が、ひどく曲の流れと合った気がした。
5楽章に入ってもどこかが欠けてしまったまま、
これではいけない、と弦も管楽器も勢いをつけようとするのに
うまくいかなくて、やけになっているような盛り上がりと
沈みが何度も繰り返される。
5楽章の一番美しい旋律は
まるで、空には自由に舞う鳥がいたはずだ、だから
見つかるまで探そうと励まし合いながら空を見上げ
空を見上げすぎて、青い空に鳥の幻を作り上げてしまったかのようで、
そのことに気づいて、
あぁ、あれは幻だった、と、呆然としたまま
曲が終わってしまう。

秋のどこまでも青い空を見つめるような、
胸を巣食う悲しみと絶望の影で、身体中がいっぱいになる。


そこで、乗り換えの駅に着く。
白い靴下を小さな靴の中に納めた女の子も、
外国人のカップルも、
そして、そのほかのたくさんの人も、私と一緒に電車から吐き出される。

呆れるほどたくさんの人たちが、駅の構内できちんと、
行くべきどこかを知っていて、そこへ向かって歩いている。

何に乗り換えたらいいのか失念してしまう。
携帯を確認しようとして、視界が滲む。
とてつもなく、悲しくなっているのに気づく。

立ち止まっていては邪魔だから、とにかく歩きながら、
乗り換えのホームを確認する。
これから人に会うのに、一体どう説明したらいいのだろう。



ケーゲルがドレスデンフィルと演奏した1989年の録音を聴いていたのです。


そう説明したところで、意味がわからなくて、
またおかしなことを言っている、と苦笑されるだけだろう。

混乱したままホームへ昇る。
広告の壁と屋根の隙間に
わずかに見える空が、明るい濁った春の光で
温かな薄水色に霞んでいた。

電車が入ってきて消していくまで、
ずっとその、空の白い帯を必死に見つめていた。





2024/03/29

とりとめもなく、日々の会話を思い出そうとする



じっと根を詰めて、頭の中で思考を展開させる人、
思考を紙の上に書き落として視覚化していく人、
言葉を音声でアウトプットしながら思考を展開する人、
議題についての意見を他者に尋ねて、その回答をもとに思考を深める人、
いろいろなタイプの人がいるだろうし、考える内容によっても
方法は変わってくるだろう、けれども
大方思考の方法には傾向があるだろう。

思考を深める方法がそれぞれ異なる人たちが集まり、
ある議題について話し合う時、
それぞれのアウトプットの速度が違ったり、
思考の道筋のどこかが言語化されていなかったり、
ものすごく頭を回転させて相手の意図を汲もうとして、言葉が出てこなかったり、
相手の出方を見ていたら、発言のタイミングを失ったり、
なんとなくわだかまりを残したまま、
話し合いを終えることは、誰しもある経験だと思う。

よほど知っている人たちの間でも起きうることだから、
それほど深い付き合いのない人々が一緒に話をする時には、
言葉を飲み込んでしまわない空気を作ること、
できるだけそれぞれの建設的な意見を引き出せる工夫をすることが
当たり前で、けれども難しいことも、認識している。


実のところ、日本語で議論をする、という仕事上の経験はあまり多くない。

ヨルダンでは話し相手の性格をよくわかっていたので、
Pros/Consの提示の仕方や
議論の目的で強調するところや、
それぞれに得意な分野で話をふることなどを、
失敗もたくさんあったけれど、それなりにやってきた。

日常的に、どうでもいいこともよくないことも、
話好きで一生懸命話す人が多いし、
自分の意見ははっきり言う人が一定数いるので、
内容の深度は置いておいても、活発な議論、そのものはしやすい環境だった。


わたしも朝一で中東のニュースを話題に振ることが多くて、
あなたたちはどう考えているの、よく尋ねていた。
そんな話題と同レベルで、昨日作った食事の話や
週末に会った親族の話や、家族の喧嘩や、そんな
細々とした個人的な話もよくしていて、
そこにも、感想や意見を求められていた。
(基本的にウィットと皮肉を交えたコメントをする、というのが
わたしとしては流儀だったので、朝早くても
面白く答えようと努力していた。)

もっとも、わたしは外国人だったので、立場が異なるということが、
相手の話しやすさを感じさせることもあったのだろう。
同じ国籍同士だと言いづらい意見も、ぽろっと出てきたりして、
そんな考え方をしているのか、とはっとさせられる場面もあった。

思い返すと、日常のコミュニケーションが圧倒的に多かった。
もっとも、そんな面白く話ができる場面ばかりではないので、
フィールドで耳を疑うような発言や場面に出くわし、
その愚痴と解決方法についても、話していた。





長く住んでいれば、ヨルダン人よりもよく話すようになり、
スタッフの時間を邪魔していたこともよくあって、申し訳なかった。

こちらも集中する仕事は家に持ち帰るから、まったく効率はよくなかったけれど、
そういう仕事だと、思っていた。



単語の意味一つとっても、相手はアラビア語、
もしくはアラビア語から英語にして、
こちらも日本語から同じ作業をするので、
間に横たわる異なる言語の意味は大なり小なり、異なる。
単語一つでも、その背後に膨大に蓄積された文化や思考回路を詳にするため、
会話で相手の言葉の意味を理解し、
同様にこちらの意図するところを、できるだけ理解してもらう。

異なる国で育ち、環境が異なり、違う思考回路と
違う文化風習の中を生きてきた他者同士だから、
会話の中ですり合わせをしていく作業がどうしても必要だと認識していた。

けれどもそれは、国籍の違いだけではなく、
同じ言語を母国語としていても、同様な作業が必要であることに
つい最近まで気づかなかった。

なんとなくこうだろう、と推察することを
日本では高度に要求される。
けれども、推察をし続けて結果、
大きな齟齬が発生することもある。
そのことに気づいて、腹を割って話す、という場を設定しても、
みな、相手を傷つけないような会話を心がけていたら、
言葉を選ぶ間に、話が終わっていたりする。
しっかり議論するよりも、推察にとどめておくほうが
心地よく、楽なのだという空気を感じる。
なかなかに、難しい場所だ、と思う。



それから、考えをまとめてから話す、というのが
日本ではマナーの一つだったのを、忘れていた。



他者の時間をいただいているのだから、
効率を考えなくてはならない、
趣旨を明確に簡潔に、伝えなくてはらない。
準備にかけられる時間は、そのまま相手への敬意につながる。
殊、プレゼンとなると、いかに相手を納得してもらうかという
明らかな目的もある。

日常のどうでもいい話7割、仕事の話3割だった
ヨルダンから帰ってくると、
簡潔に話すこともできず、空気を読むこともできず、
どうにかしなくては、と焦り、結果的に
すっかり社会不適合者になってしまった。


ずっとそんなことをうっすらと思いながら、
何気ない会話もそれほどしない毎日に、
一体、日本でふと顔の見える人たちとするとりとめもない会話とは、
どんなものだったか考える。
そういうものの積み重ねで
作り上げられた日常と関係性があったことを、
そして、それらがわたしに与えてくれた安心感のことを
どこか必死に、思い出そうとしている。




2024/03/27

春と冬のあいだに必要な、清冽さと均衡について


 ある暖かな日には、身体が軽くなるような気がする。
それは気のせいだったと、寒さが戻り、思い直す。

三寒四温とは、ずいぶんそのままの四字熟語だ。
足したら奇数になる数字で、いくらかでも
暖かさが増していることを比率で示したい、という
寒さへの失望と名残おしさ、そして、暖かさへの期待を
じわりと身勝手に、感じ取る。

そんな、奇数になるような集合を過ごすこの時季は
身体も心も中途半端で置きどころがなく、そのせいなのか、
見えるものや聴こえるもの、感覚がいつもよりほんの少し
敏感になっている。


おそらく目は、日の光が春の色に変わったり
また冬の色に戻ったりするのが、無意識に気になっているのだろう。
雨で冷える日は、ものの輪郭を形作る影が深く青い。
その青が突き抜けるように明度を増して、天気の良い日、空の色になる。
この時季の空の青さは、どの季節の青とも違う。
特別に混じり気のない、純度の高い強い日差しが、
寒さを残した影だけ置き去りにして、輝きすぎる。

あっという間に葉桜になった、神社の河津桜に残る
花柄、花床筒、萼片、あの赤く細い線、
青々した葉の影にしがみつく線たちにも、輪郭と影を与える。







耳ではずっとうっすらと耳鳴りがしていた、花粉症のせいだ。
その音を消すためにずっと音楽を集中して聴き続けていた。
いつも大方の時間、音楽を聴いているけれど、
止むに止まれぬ事情で、随分真剣に聴いていたことになる。


雨の朝は必ず、ラヴェルのクープランの墓を聴く。

クープランの墓を聴きながら眺める三月の終わりの雨は、
その水気に春の気配を含み、雨粒の一つ一つが
土に染みたらその瞬間に、あらゆる植物の芽吹きのための
栄養になっている、特別な雨のように見える。
霧雨のような柔らかな雨が、音の瑞々しさと呼応して
そこらじゅうに染み渡っていく。

オーケストラ版、時間があれば好きな指揮者の演奏もいくつか聴く。
春だろうが、秋だろうが、季節を問わず聴くのが習慣になっている。
いくらか憂鬱なはずの雨の一日の始まりの景色が
瑞々しく映り、湿度がいくらか低くなるように思える。








仕事もプライヴェートも、人と話をする、もしくは
動画の編集で音声を聞かなくてはならに時の他は、ほぼずっと
音楽を聴いている。
随分と態度の悪い人間だ。

東京は音が多すぎる、親切心なのか、保身なのか、
わたしたちに呼びかける声が多すぎる。
電車に乗っていて、駅にいても、信号を渡る時も、道を歩いている時も
エレベーターに乗っても、店に入っても、
ありとあらゆるところで、不特定多数の誰か、への呼びかけに満ちている。



日本に帰ってくるといつも、灰色で静かな国だ、と感じていた。
その記憶は、25年前の春、インドからの帰国に始まり、しばらくは
帰国のたびにそんな印象を持っていた、
けれども久々に日本で暮らすようになると、街の中の音が気になってくる。
耳鳴りと同じ理由で、ヘッドホンをずっと、使い続けることになった。

無音なのは、朝だけ。
屋根に雨の当たる音を聞く。
プラスティック、屋根瓦、木材、コンクリート
さまざまなものに当たる雨の音を聴きながら、
頭の中を、クープランの墓の第一楽章の始まり、
オーボエの音がくるくるとめぐる。


クープランの墓は、ピアノ版もある。
ピアノの方が曲数は多く、オーケストラとピアノと
ほぼ旋律も同じ曲は4曲ある。
ある朝オーケストラ版だけではなく、ピアノ版も聴き、
ふと、このピアノ版の楽譜をはじめてさらった人は
自分の弾く音の中に、心の爽やかなざわめきを感じていたのだろうか、と思う。










「器楽的幻想」は、ピアノの音楽会へ行った時の
音楽とそれを聴く人々と作者の心の変移を描いた
ごく短い作品だ。
ひどく他愛もないやりとりの中で出てきた
梶井基次郎の名前に、思い出した短編だった。


20年ぶりほどで読む基次郎は、記憶よりもはるかに
誠実で実直で清冽で繊細だった。
なにより、その清冽な実直さがどの短編の読後にも、じわりと残る。

あなたにとっては、取るに足らないことのように響くだろうけれど、
そんな頭出しとともに、日常の景色と小さな出来事を仔細にまなざし、
そのまなざしから生まれる心の赴を描く。
ささやかで、でも、鮮血の飛沫のような鋭さと切実さを滲ませる描写は
読み手の記憶にも、その小さな血痕を残していく。

けれども時には、切り取る画角も、瞬間も、言葉も、感情も
いくばくかのかろみを残す。
どれだけ深刻な、深淵なことを語っていても、
どこか達観したような拘泥のなさ、がある。

(かろみと、時に深刻さをはぐらかすような姿勢は
うっすらとブローティガンを彷彿とさせる)

そのバランスの絶妙さは、どこかいじらしくもある。
わたしも知る、生なのか死なのか、放埒なのか真摯なのか、
その両極に生きることへ必死さを抱える人たちのことを、思い浮かべる。

亡くなったわたしの友人は、「城のある町にて」が大好きで、
彼女はいつか、この短編の話を熱心にしていた。
近鉄線か松坂の地名を聞けば、必ずこの短編と、友人を思い出す。
けれども、何にそんなに心を惹かれていたのか、詳細を忘れていた。

”「××ちゃん。花は」
「フロラ」一番年のいったのがそんなに答えている。”

久々に読んだ時、友人はこのはなしをしていた、と
急に鮮明な記憶が蘇る場面を見つける。




桜の咲く時季になると、決まってそわそわして、
それなのに、えも言われぬ不安を感じる。
小学生の頃は、ただひたすら、通学路の坂道の両側に咲き誇る
桜の花を、咲き始めから散るまで無邪気に愛でていた。
中学に入る頃から、その不安が、ただ単純に落ち着きを失うからなのか、
何か他の理由があるのか、わからないことがさらに、不安を掻き立てる。

「桜の樹の下には」を初めて読んだのは、中学の時だった。
”桜の樹の下には屍体が埋まっている!”
この強烈な書き出しの、目眩のするような甘美な幻想から
いまだに取り憑かれて、桜と切り離すことができない。


今読むと、腐敗する屍体の描写も、その透明な液を吸い上げる様も、
それは精緻で美しく、何度読んでも見事だ。

ただ、文章の中に、すっかり記憶から抜け落ちていた箇所があった。

”俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、
はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように
憂鬱に乾いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、
俺の心は和んでくる。”

この短編の核心はここだったのかもしれない。
少なくとも、この部分に一番、”俺”の意思と欲望が明確に描かれていた。

にわかに信じがたい桜の美しさに不安を感じた”俺”が、
屍体が埋まっているという想像のうちに、不安を拭っていく。
わたしが抱いた不安と、”俺”の抱いた不安が同じものではないだろう、
けれども、幻想的な桜に強烈で生々しい生死を当てがい、
均衡を図ろうとするその心の動きを追随する。





桜の咲く時季に日本にいられるのは、ひどく有難いことだ。
毎年毎年、諦めることなく何度も桜を思い浮かべ、
その姿を愛でたいと願い続けた、在外の13年間を思い出す。

阿呆のように、日中桜をぼうっと眺めていいのは
ちびっこと老人ばかりだ、ということに去年、気がついた。
だから、深夜の桜並木を、音楽を聴きながら散歩するようにしている。


あまり暖かくなってほしくない。
三寒四温でも、二寒五温でもいいから、
視覚と聴覚が鋭敏なまま、桜を迎えたい。

冷えた空気の中、身を切るような冷たいピアノの音なのか、
荘厳なレクイエムなのか、なにか、桜にうつつを抜かさぬよう
梶井基次郎の憂鬱や、屍体の幻想のように、
均衡を取ることのできる何かを、携えておかなくてはならない。