2022/08/22

盲信する男と、どこまでも温かな人間への眼差し




すでに十数回は読んだ「日の名残り」をもう一度読んだのは、
トム・ウェイツの歌が、この小説の最後のクライマックスに
影響を与えている、という件を確認したかったからだった。

小説の最後の方、束の間の再開を果たし、バス停まで送った別れ際、
女中頭だったミス・ケントンの口にした事実と
それを耳にした主人公の執事スティーブンスの反応には、
どうしようもない後悔の悲しみがあり、
何度読んでも、胸が締めつけられる。

当たり前のようにその情感をただ味わい、数十回と読んでいた。
けれども、何度もの読書経験を経て、今さら気づく。
ここにだけ、スティーブンス自身の激しい感情が描写されている。

「わたしの胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。
いえ、今更隠す必要はありますまい。
その瞬間、わたしの心は張り裂けんばかりに痛んでおりました。」

ずっと、一人称で語られ続ける文章は、
スティーブンス自身が、自分の心を偽り続けている様までも、そのまま語っている
実際に発せられる「」の言葉だけではなく、読み手は、
ナレーションとして綴られるスティーブンスの語りの裏側に潜む思いを、
声に出した言葉と照らし合わせながら、
色々と推察して、このシーンまで辿り着く。

ここで一瞬だけ、はっきりと思いを吐露させる、という
明らかな意図を持って、クライマックスは作り上げられていた。

けれども、ミス・ケントンには、ただ彼女の幸福を願う、
どちらかというと、ありきたりな言葉を伝え、
彼女の涙に気づきつつも、バスに乗っていく彼女を見送る。

作中のスティーブンスが、語りの中でさえ、心の内を
はっきり言い切ることなど、このシーンの手前にはどこにもなかった。



ラジオドラマの脚本を書いていた、カズオ・イシグロが
登場人物に話させるセリフを、ナレーションとともに丁寧に読んでいくと、
よくそれぞれの人物の特徴を捉えていて、見事だったんだと、
これもまた、今さら気づいた。






例えば、レコーディングされた曲を聴くとき、
もう何度も聴いている曲だったら、次にくる音、リズム、旋律が予想できる。
そして、聴いているわたしは、予想しているそれらが
思った通りやってくる確実な再現性と、
思った通りに美しかったり気の利いている音やリズム、
それら両方を常に享受している。
一種の安心感を担保してくれるものだ。

音楽にしろ、映画にしろ、小説にしろ、
もう血肉のように身体に染みているものであれば
そんな安心に裏打ちされた享受方法がある。

ただ、殊、小説に関しては
新たな発見があり、読み手であるわたしのものの見方や
考え方の変化に、客観的に気づくきっかけになったりして、
今まで何をわたしは読んでいたのだろう、と
自分で自分に呆れる、という経験をしたりも、する。


政治、生き方、会話が目の前で繰り広げられていても、
主人公スティーブンスと雇い主であるダーリントン卿への敬愛、
また、スティーブンスとミス・ケントンとの変化する関係性などを
丁寧に鮮やかに、描き出すための伏線のような形で存在している、と
わたしは認識していた。
もしくは、人間関係の炙り出しの面白さに夢中だった。

けれど、今回は特に、登場人物が語る台詞の背後にある、
情景や状況、含みや感情が、以前に増して
くっきりと立ち上がって、頭の中に広がる。




「この村だって、その民主主義を守るために大きな犠牲を払ってきたんだからね。
だから、こうやって獲得した権利を行使するのが、私ども全員の義務だと思うんです。
この村の若者が何人も戦場で命を亡くしたのは、
それは残った私どもにその権利を与えてくれるためでしてね」

「われわれは国の意思決定を、この執事殿や、
その数百万人のお仲間に委ねようと言い張っている。
この議会政治という重荷を担っている限り、
さまざまな困難に少しも解決策を見出せないのは当たり前のことではないか。
母親の会に戦争の指揮をとってくれと頼んだ方がまだマシだ。」

「その辺を歩いている人が、誰でも政治学と経済学と、
世界貿易のことを知っているとは期待できまい?
大体、一般人はそんなことを知っている必然性がないのだ。」

「次元の高い問題について、あなたは的確な判断を下せる立場にはありますまい。
今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています。
例えばユダヤ人問題にしても、あなたやわたしのような立場のものには、
理解できないことがいくつもあるのです。」

「社会主義になれば、全ての国民が品格と尊厳を保ちながら生きられる。
そう信じて、田舎までやってきたんだが、、、。」



イギリスの大戦における立ち位置、
反ユダヤ主義、戦時の民主主義とその凋落、
社会主義思想の実生活での限界、
ごく一般市民の中の「強い意見」の理想と現実。

実のところ、これらのテーマがふんだんに散りばめられている。
そして、これらのテーマに関わる登場する人物たち、
働き者のユダヤ人女中、卿と親族のように仲のいいジャーナリスト、
プロフェッショナルに外交に長けたアメリカ政治家、
農村部の村人や、そこで働く医師、のそれぞれの訴えは
どの立場においても、その立場だから抱く思い、皮肉、傲慢、諦めとともに、
的を得て表されている。

なのに、往々にして、誰かが説明している、訴えている言葉を
スティーブンスは語りの中でも、やもするとそのまま、受け止める。

そしてすっと、思い出に戻っていくスティーブンスは、
ダイナミックな時代の流れを間近で見て、感じていたのにも関わらず
常に自分なりの意見や見解をあえて携えず、
雇い主の卿への全幅の信頼、という忠誠心に集約していく。
自分の考える「正しい執事のあり方」に囚われて、
思考を止めていたか、もしくは、持っていることに
気づかないふりをしていた。






まさに、1日の終わり、日の名残りを享受する一番最後のシーン。
見知らぬ男との会話に、自分の正しいと思ってきた、
寄って立つ信条への後悔が
泣きながら吐き出されている。

「卿は勇気のある方でした。

人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道ではございましたが、

しかし、卿はそれをご自分の意志でお選びになったのです。

少なくとも、選ぶことをなさいました。

しかし、私は、私はそれだけのこともしておりません。

私は選ばずに、ただ信じたのです。

私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えしていた何十年という間、

私は自分が価値のあることをしていると信じていただけなのです。

自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。


スティーブンスが気づいた、自分の人生の取り返しのつかない過ちは、

自分ではない何かに自分の判断を委ね続け、委ねた相手を信じたことだった。

おそらく、それは仕えた卿であり、理想とする執事像か、もしくは、品格、だ。

自分の意思を持とうとしなかったために、敬愛する卿の辛い最期を看取り、

忙しさを理由にして、父親の最期は看取ることから避け、

好いた女性の懸命な呼びかけも、聞こえないふりをした。



戦時中だったから、だけではないだろう。

全幅の信頼をする他者を、自分で作り上げた理想的何かを、

信じて疑わない、疑おうとしないこと。


少なくともわたしの周りにも、わたし自身にも、

似たような経験はある。



「クララとお日さま」でも、作品の中で一番気になったのは、

信じることに疑いを持たないクララの危うさと純真さだった。

その作品よりも30年近く前、すでに、同じように盲信する中年男性の

危うさと悲哀を描いていたのだ、と今更ながら、知る。


信じる、という行為は、信じたいという背景に見える

弱さと切実さがわかった時、愛おしい。



自分を律する自信がない、賢明な判断ができなかった過去がある、

他には助けを求められない、漠然とした不安や悲しみがある。

弱さ、とまとめてしまうのも良くないかもしれないが、

そんなさまざまな、自分ではどうしようもできなかったこと、そのものは

誰の人生にもあるはずだ。


宗教だけではなく、近くの、遠くの人を崇めたり、

すべてがいいと思い込んだり、

何かを信じること自体を、咎める権利は誰にもない。


ただ、信じていた人や思想が間違っていた、と気づく時の

足元にあるはずの地面がうっすら透明になるような感覚は辛いし、

それに気づいた人を近くで見るという経験もまた、辛いのだけど。



以前も書いたけれど、

カズオ・イシグロはじめ、何度も読み続けてきた作家は、

須賀敦子も、いしいしんじも、宮沢賢治も、ジュンパ・ラヒリも

自身が悩み、苦しんでいるからこそ、

人として存在することを、肯定して愛しむ片鱗が見える。

深度や角度には、それぞれ違いがあるけれども、

それらが滲みでる文章を、わたしは何度でも読んでいられる。


どう世界を見ていたのか、どう人を、自分を捉えたらいいのか、

どうしたら他者に対する愛しみを手放さずに生きられるのか、

示唆してくれる挿話と人の姿の描写に、溢れている。

(アリス・マンローも、アントニオ・タブッキも、夏目漱石も、ヒメネスも、そう。)


(そして、アンソニー・ドーアも、ベルンハルト・シュリンクも、

芥川龍之介も、カフカも好きだ。

けれど、彼らにはどこか、厳しさがつきまとう。

その厳しさが透徹して美しいけれど、同時に恐ろしくもある。

おそらく、自分自身にひどく厳しかったからだろう。)



この作品には時折、あまりにも生真面目で職務に忠実すぎる

スティーブンスの思考が、意図的に狙って

ユーモアを込めて描かれている。

そこには、自ら作り上げたスティーブンスという主人公への

親しみと愛おしさが満ちている。


自分の気持ちを直視しようともせず、

自分なりの少し歪んだ哲学を手放したがらず、

仕えた人を信頼しすぎて自分の考えや感情をも表せないまま、

常に背筋を伸ばして、かしこまって佇む

不恰好で不器用で偏屈な男へ、

これほどまでに惹きつけられる。


スティーブンスのような(例えばわたしのような)

素直でもなく、複雑さと業を抱いて生き続ける人間と、

そんな人間を取り巻く未来を、切り捨ても諦めもせず、

忍耐強く見つめ続ける

カズオ・イシグロの、人間への眼差しに

読みながら救われていく。


だから、読むことを通じて、そんな経験を

何度でも、何度でも、欲してしまう。


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