2021/07/02

砂塵と鳩の舞う土地 - あの世の暮らし 子どもたちの存在

朝から、うっすらと望んでいることが、自然と実現する。

遅刻しかけてまずいな、と思っていたら、ドライバーさんが遅刻した。
途中でコーヒー買う余裕はないかな、と思っていたら、
ドライバーさんが遅刻のお詫びにコーヒーをすでに、買ってくれていた。

この日、親族が亡くなったヨルダン人スタッフの家でお葬式があった。
一親等二親等の場合、もしくは会ったことのある方なら
弔問に行くけれど、そうでない場合は判断に迷うところだった。
結局、休むはずだったスタッフが仕事場に顔を出し
声をかけてくれたので、行くことになった。


キャンプへの行き道は、その親族の話になる。
どうも、自死したようだ、と他のスタッフから話があった。

イスラム教では、自死は鬼門だ。
宗教的に、とても悪いことだという認識がなされている。
それが、何が鬼門の理由なのかを同行したスタッフに尋ねる。

神の助けを信じて、生を全うするのが教えだから
自死をしたら、神を裏切ったことになる、つまり
自死をしたらもはや、イスラム教徒ではない、という。

亡くなる時に、信じていた神に見放される、というのは
自ら見放される道を選んだとしても、辛いことだ。
せめて、自死を選んだとしてもその選択に、
神は寛大であってくれないものなのか、と
きっと私が親族ならば、切に思うだろう。
敬虔なご家族であることを知っているばかりに、
なんとも言えない辛さが、身体中へ広がる感覚に襲われる。

自死をした人のお葬式には、通常あまり弔問しないらしい。
それもまた、亡くなった本人にとってもご家族にとっても
辛いことだ。

日本の自殺率の話から、天国の話になる。
最後の審判の日、地獄行きの判決が出ても
地獄を経験した後、天国へ行けるらしい。

私の知り合いは、天国について
この世では経験できない素敵なことが待っている、と言っていた。
具体的にはどんなことなのか、と訊いてみたら
綺麗な女の人に囲まれて、お酒も飲めるらしい、と言う。

それは本当なのか、と同行するイスラム教徒のスタッフに尋ねると
彼女は顔を顰める。
想像できないような世界である、それから
ぶどうやいちじく、オリーブの木などがある、という記述はあるけれど
それ以上のことは、もはや知人の想像らしいということが判明する。
そもそも、想像できている時点で、その想像は天国で実現しないことになる。

たぶん、綺麗な女の人は、天使のことだ、とスタッフは言う。
では、女性にとっての天国には美男がいるのか、という話だ。
それに大前提として、天使に性別はあっただろうか、と記憶を探る。
美男美女の天使がいたとして、天国でも伴侶は同席している、という。
夫婦仲が悪かったら大変だね、とコメントすると
一番幸せで美しい時期が、天国では永遠に続くのだ、と説明してくれる。

人の記憶の中の一番美しい時期はそれぞれ違うから
必ずしも夫の幸せな時期と、妻の幸せな時期が同じとは限らないね、と
意地悪なことを口にする。

自分だったら、どの時期を選ぶのだろう。
そして、亡くなった方は、どの時期を選ぶのだろう。
地獄をくぐり抜けて天国へ行けた時には、
無邪気で愛情に満ちた世界の中で過ごしてほしい。


まだ、若かりし日の寺島進と井浦新がいい役で出ていた
ワンダフルライフ、という映画を思い出す。





一通りキャンプでしなくてはならないことを済ませ、
スタッフの家を訪問する。

いつも通される広い居間には、スタッフのお父さんとお母さんがいた。
訪問した先のスタッフは、用事があって外出中だった。


お母さんは私の正面に座って、じっと一点を見つめている。
もともと心臓も悪いし、コロナでめっきり弱っていたのに
今度の件でまた、ひとまわり小さくなってしまったように見える。

夫が不在の間、上司の相手をしなくてはならないと思ったのだろう。
スタッフの奥さんは私たちの横にいてくれたのだけれど、
何を話していいのか分からない様子だった。

お父さんは必死に、訪問客をもてなそうとして
スタッフの奥さんにコーヒーやお茶、お水やカスラというパンを
持ってこさせる。
いろいろ話しかけてくれるのだけれど
返事を一通り済ませると後は、何を話題にしたらいいのか
戸惑っているようだった。
私もまた、何と声をかけたらいいのか、分からない。


開け放したドアから、なぜか黒いビニール袋が
強い風に舞って部屋の中に入ってくる。
皆が呆然とそれを見つめ、ふと我に返ったのだろうスタッフの奥さんが
立ち上がって、ビニール袋を掴む。

じっと、お母さんの様子を見つめる。
いつもお顔を見るたびに、抱きしめたくなるような
小柄で可愛らしいお母さんが、今日は
白い足の裏を手でずっと小さく撫で続けていた。
私が来たらきっとお母さんの気が紛れるから、とスタッフが言ってくれて
お宅の訪問を決めたのだけれど
私には、どうすることもできなかった。

家にいる女性たちの手を伝って、スタッフの息子が奥さんの手に渡される。
さっきまで寝ていた生後半年ほどの赤ちゃんは
目こそぱっちり開いていたけれど、頭はぼんやりしているようだった。
見知らぬ私の顔をしばらくじっと見つめて、
はたと気づいたのか泣きそうになる。
お母さんであるスタッフの奥さんは、頭にキスをしながら
息子の気をそらせようと、体を抱えて
足で立つ練習をさせる。

亡くなった若い青年にも、当たり前だけれど
こうやって、大人たちにあやしてもらった時期があった。

赤ちゃんは可愛らしくて、その様子につい、顔が綻ぶ。
赤ちゃんの後ろには、亡くなった方のお母さんが
じっと、赤ちゃんの横顔を見つめていた。



以前訪問した時、たくさんのちびっ子たちが家にいた。
親族が皆、同じ土地に住んでいるから
スタッフの兄弟とその家族の子どもたちだけで
サッカーチームで対戦できるぐらいの人数になるのだ。

大人たちが沈痛な面持ちで居間に集っている。
けれども廊下では、子どもたちが私の姿を見つけて、笑顔で手をふる。

こちらのお葬式は3日間続くから、
ずっとこの空気に支配されては、子どもたちとしてもどうしたらいいのか
分からないのだろう。

子どもたちに挨拶をしたい、と言って
奥の部屋を覗いてみる。
すると、ざっと15人ぐらいの歳も性別も異なる子どもたちが
何をするともなく、集まっていた。
部屋の中で話をしていると
スタッフの姉妹や兄弟の奥さんたちもまた
顔を出してくれる。
居間を離れると、どの顔も少し解けてきて
普段の顔つきに戻りつつあった。

でも、子どもたちが空気を察しつつ、小さく騒ぐ部屋の窓の先では
亡くなった方のお父さんが、一人で木陰に座っている。
ほとんど身じろぎもせず、タバコを吸いながら、ぼうっと何かを見つめていた。



聞けば、親族以外の近所の人たちには、
事故で亡くなった、という話にしているようだった。
私もまた、何が原因だったのか、とても訊くことなどできなかった。

亡くなったらもう、自分の意思や思いは伝えられないし
たとえ生前に伝える手段を持ち合わせていたとしても、
法的な手段を使わない限り、
それを公表するか否かは、残されたご家族の判断に委ねられる。
亡くなったら何もできなくなるのだな、と
しみじみ、思う。


何をどう話したらいいのか分からない時間だった。
だから、初めに挨拶した時にはしなかったけれど
お暇する時、挨拶の代わりにお母さんとスタッフの奥さんの手を握る。
アッラーヤルハム(神のご慈悲を)という言葉しか口にできない。

彼らの信じる神にご慈悲を乞うことができるのだとすれば、
この願いほど、乞うものはないのかもしれない。
彼らの理論からすれば、ご慈悲が彼に注がれることはない。
だから私は、残されたご家族へのご慈悲を神に乞うていることになる。


じっと私を見つめるお母さんの小さな目は、やはり虚ろだった。

まだ裏若い奥さんは、少し目を細めてくれる。
初めて会った時にはまだ20歳ほどだったのに
子どもを産んですっかりお母さんになった彼女の手は
こちらの強力で色も鮮やかな洗剤のせいで
すっかり荒れてカサカサしていた。


未来は、いつも生きている人々に委ねられる。
彼女の赤ちゃんが、亡くなった従兄弟のことを知る日がやってくるだろう。
この家族は、たくさんの子どもたちがいる。
亡くなった方の生きていた証を、受け継ぐ人々のいることが
一つの救いなのかもしれない。


ひどく暑い日だった。
キャンプの中を歩いて、その後キャンプの外の家を訪問して、
なんだかどっと、疲れてしまった。
行きはそれなりに、軽快に話をしていたのだけれど、
帰りは、私もスタッフも、ただぼうっと白茶けた景色を見つめていた。






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