2020/05/01

素直で冷静なlessons learnedを





ヨルダンは、一番美しい春の季節を一瞬で駆け抜けて、
そろそろ空の色も、突き抜けるような濃い青色に変わりつつある。
毎年桜が見られない代わりに、何としても出かけていた
国花のブラックアイリス探しも、
ちょうど花が咲き始めた頃に外出禁止となって、
見られず仕舞いのまま、青々とした季節を見逃しつつ、ある。

それでも、約1ヶ月半の厳しい外出規制の末に、
やっと日常に戻す動きが、始まった。
自家用車が規定を守れば使用できるようになり、バスやタクシーも走り出した。

この状況を、国外で過ごしながら、
本当に、いろいろと考えるところがあった。


まだ、現在進行形で進むさまざまな事象や、
その先に待っているかもしれない不確定なことを、
言葉にすることは、あまり意味がない。
根拠のない希望にもなれば、呪詛にもなるだろう。

ただ、今まで起きたことと、それについて考えたこと、については
書き残しておいてもいいかと、思いたつ。
自分の整理のために。


おそらく、地域に関わらず、他の国に住むと、
刺激のある面白い日々も、辛酸なめる苦しい日々も
少なからず経験することになる。
自分が持っていた偏見に気づかされることもあるし、
自分に向けられた偏見に過敏になることも、ある。
私のように、もう結構長く同じ国にいれば、
ある程度の諦めと慣れで、なんとかやり過ごすことができるようにも、なる。

ただ、今回のように日常がじわじわと見えない何かに脅かされる時、
人が抱く不安や恐怖は、攻撃となって出てくるのだ、ということを
2月頭あたりから身をもって、体験することになった。
今までもうっすらとあった、偏見や排除が、
はっきりと目に見える形で、立ち現れる瞬間だった。

まさに私は、根拠のない恐怖の対象だった。

その時点で、ある意味、腹を括った。
人が、恐怖と不安でおかしくなってしまう様子を、
この目でしっかりと見届けてみよう、
自分が正気を保つ方法を、冷静になって考えられるだけの頭だけは
必死に留めておこう、と。
もう、そう思っている時点でかなり、参っていたのだけれど。

国民性を知るものとして、すでに差別は受けてきたから、
大方覚悟していたのにも関わらず
なかなか堪えるものだった。
何よりも、教育現場だけで9年間仕事をしてきて、
自分の回すプログラムの子どもたちから、
私の姿に口を塞いだり、なんでこの人が来ているの?と言われたりした時、
シリア難民へのいじめや偏見を取り除くための相互理解を促す
プログラムをやってきた身として、
一体、自分が今までやってきたことは何だったのだろう、と
無力感とともに、途方に暮れたし、
言いようもない焦りもあった。

このまま有耶無耶にして終わらせてはいけない、
そう思うと同時に、
自分が関わることで、今まで事業を助けてくださってきた人たちが
アジア出身である私と関わることで
周囲の人から非難されたり、排除される可能性も捨てきれなかった。
どう身動きを取ればいいのか、分からなかった。

それでも、自分がウィルスを持っていないことを、一人ずつ丁寧に話をし、
衛生教育など、国や状況に関わらず、必要である基本的な指導を
判断するのには十分な時間がない中、
半ば無理やりにでもプログラムに無理入れていった。

ウィルスへの、その時点で分かっていた情報が欠けていたことが気になった。
だから、活動の中で必要な知識を提供したこと、
それに付随してニーズのある衛生用品を配布したことは、
いくらかでも意味があったと思う。

徐々に現実味を帯びてやってくるウィルスに対して
ヨルダンでも、誰もが共通認識を持っているわけではなかったから、
自分たちでできる予防に注力を注ぎ、
地に足のついたことを中心に、幾らかでも日々のルーティーンとして
実行していけるような活動をした。

半ば、意地のようなものだった。
何もせずにやり過ごすには、
個人的にも、あまりに情けなかったし、
アジア人だからと何をされ、言われようとも、
ここの人たちに必要なことは冷静に判断して提供する、という
当たり前のことが、できなければ、
仕事をするためにヨルダンに居る意味がない、と感じていた。

本当は、ウィルスそのものより、それについての情報や
それらをうまく精査できない人たちの行動の方が怖かった。
知らずに行為として滲み出てしまった
偏見や差別を認識し、修正する力を身につける活動もまた、
ウィルスについて知ることと同じぐらい重要だと考えていたけれど、
学校が休校となって、時間切れとなった。



ずっと、気になっていた言葉があった。

当初、日本での対策スローガンのように、しばしば目にしたのが、
「正しく恐れる」という言葉だった。

何となく耳障りが肯定的だ、というだけで
実体が分からない言葉。
個人的に、「正しく」も、「恐れる」も
あまり使いたくない言葉だ。

私が散々こちらで恐怖に苛まれた人たちを目にして
恐れる、ことが引き起こす行動が多様で必ずしも
文字から想像する、屈んで身を震わせるような状況だけではないということを
体験したことも、原因かもしれない。

恐怖は人の行動をコントロールするに、一番手っ取り早い感情だ。
叩かれるかもしれない恐怖、叱られるかもしれない恐怖、
いじめられるかもしれない恐怖、無視されるかもしれない恐怖。
恐怖は行動を規制する。
でも、恐怖は行動を規制することもあれば、
その恐怖を払拭するために、攻撃をしてくることもある。
まさに、私が2月3月に受けてきたことだ。

「正しく恐れる」という言葉は、
寺田寅彦が随筆の中からの引用とのこと。
どの作品に入っているのか、記憶にないのだけれど
天災についての著作もあるから、その文脈で出てきたのかもしれない。
おそらく、過度に恐れるのではなく、
恐れる対象を正確に知り、適切な加減で
恐れを抱いて行動する、というところだろうか。

でも、恐れを予防行動の動機にしなくてはならないのか、
他に、最善の行動を取れるように促す言葉はないのだろうか、と
私はしばらく考えていた。
少なくとも、正しく、の詳細が分からなければ、
それこそ恐ろしい言葉だ、と感じた。

その正しさを確証するのに必要な情報は、
もしくは、その時々で分かりうる最善の行動するための情報は
果たして、どこまであったのだろうか。

何が正しいのか、を説明する記事もたくさんあったし、
それらの情報に意図的に、もしくは無意識にアクセスしない人たちの間の
情報格差を指摘している記事もあった。

ただそもそも、日本で出回っている情報自体に、不足があるように見えた。


2月下旬に一時帰国するつもりだった。
結局、日本に帰ったら、
ヨルダンに再入国できない可能性があったので、帰国を取りやめたが、
帰国するために日本の状況についてかなり仔細に追っていた。
それから、海外の大手のニュースをずっと同時並行で確認していた。

日本が、どのような空気だったのか、
私にははっきりとは、分からない。

ただ、日本のニュースサイトを見ていると、
データや確かな情報に基づいた記事と
そうではないもの、もしくはそれほど重要ではない、と思われる記事が
同じような比率、重さで扱われているように思えた。
明らかに、世界中で起きている同じウィルスへの対応に関する
フェアで均等な情報が欠けているように見受けられた。
結果的に、全体像が見えづらくなっていたし、
かなり確度高く、その先に待っていること、を提示していた情報が
その他の、さして重要ではないニュースに消されているように見えた。

海外のニュースにアクセスできる人はすでに、きちんと確認していただろう。
でも、ウィルスという共通の問題を扱う外国の動きについて知るため
日本語で情報を得ようと思っても、
目立つ事象の他は、よほど積極的に探さない限り見つけづらかった。

Al Jazeeraでは毎日トップで、
数字や政策が目立つものばかりだけではなく、ある程度均等に、
様々な国の状況と政策についての情報を
タイムラインに沿ってまとめて載せていた。
でも、似たようなものを開示している番組もサイトも、
私が確認する限り、日本にはなかった。

どんどんと他の国が結局、先を越して行く中、
自分の国で一日先も見えないまま、正しく恐れろ、と言われても
限界があるだろう、と思った。

3月初めごろにでさえ、すでに明日の生活にも困る方々がたくさんいらっしゃる中で、
それらの問題の方が大きく取り上げられ、
海外の細かな記事にまで目を向ける余裕など
なかったとしても、仕方がないのかもしれない。

ただ、状況が悪化する国ばかりの報道ではなく、
先手を打った国の決断の根拠やジレンマもまた、
頻度高く丁寧に扱われていたのなら、
いくらか生活に見通しがついている人たちにとって、
自分自身で考えるために必要な材料を手に入れることは、
もっとできたはずだと、考えている。

もっとも、不安を煽ってはいけない空気とか、同調圧力もまた、
情報の選別に大きく影響していただろうけれど。


気がついたら、いつの間にか「正しく恐れる」という言葉より
3密という言葉が頻繁に使われるようになってきたように見える。



そして、私が経験した偏見や差別が
日本国内でも広がっていること、
外国人だけではなく、医療従事者の方々や不特定の人と接触する機会の多い人、
また、その家族にも及んでいることに
ただただ、胸が痛んだ。
恐怖や不安は、正義感や倫理観など一瞬で吹き飛ばしてしまうものなんだ、と
再度、見せつけられることになる。

そして、それらを行動にしてしまう側の理由も洗い出されると、
様々な立場で結局のところ、同じような不安と恐怖を抱いていることが、わかる。

おそらく、一番に冷静さが、求められている。
特に、リスクの高いところで働いてらっしゃる方々に対しては、
自分や周囲のリスクを高めない冷静な行動を取り、
それと同時に、感謝を込めた心ある言葉を伝えられるか。

速やかに、偏見や差別の広がりを抑えようと、
様々な記事やサイトができていて、
そこは、さすがきめ細かな日本だ、と思った。

たぶん、ヨルダンではそんな差別があったことなど、
みんなすっかり忘れているだろう。
少なくとも外国人に関しては、早々に国境を閉め
みながこの状況をともに過ごしてきたから、
今のところは差別も何も、いつの間にかなくなってしまった。




自分自身は、そこまで反省が先に立たない、どうしようもない人間だけれど、
それでも、自分のした行動の振り返りは
それなりに意味を成す、と思っている。

この一連がある程度収まった時、
例えば、教育の中で今の状況を客観的に振り返る
プログラムがあってもいいのではないか、と
ぼんやり思っている。
政策や全体の流れや他人の行動ではなく、
自分自身の恐怖について、不安について、
それらがどうしてやってきたのか、
どんな情報を好んで取り入れ、どんな情報は無意識で排除し、
周りの状況をどう把握し、
自分をどんな行動に導いたのか、
一つ一つ、丁寧に見つめ、振り返る。
先に役立つ、lessons learnedとして。

時間が経つと、美化されたり、歪められたりするから、
それほど時間を置かず、心に負担をかけず、
でも、素直に冷静に見つめる時間を。




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