2016/04/28

反芻動物としての資質




日本に帰るタイミングはいつも、仕事の関係で少しずつずれていくので
去年とも、一昨年とも、違っている。

今回の季節も、ここ数年間には享受していなかった季節だった。

こんなにたくさんの種類の、色とりどりの緑があって
例えば、蛍光色というのは、自然の中にあることを
きとともに知ったのはいつだったかしら、と
柿の新芽を見ながら、思い出そうとしていた。


最後に、この緑を見てから、5年が経っていた。

その頃、何を思って何をしていたのかを、
ふいに、たくさんの緑から、思い出したりしていた。


地震があって、しばらくテレビを何も考えられずにただ、凝視していた。
そして、プリンスが亡くなって、purple rainを久しぶりに耳にした。
ヨルダンから、随分とかわいがった猫が死んだ、と連絡をもらった。

それでも、こなさなくてはならない様々をしているうちに
お決まりのように具合が悪くなって
それでも見たいものを、聴くべきものを
できるかぎり、享受しようとした。

結果、随分疲れてしまった。
多くのものは、消化しきれなかった。
見た映画も、聴いたライブも、人の話も、風景のたたずまいも
その時に感じた何かが、何だったのかさえ
かすめ、逃げていく感覚があった。


恐ろしく大量のもやもやを抱えて
誰にも的確に伝えられない。
悶々とする、という言葉の響きに
よくできた言葉だと、感心する始末だった。

ただただ、木々の緑色だけは
色を楽しむことができるから
途方に暮れると、ぼうっと緑を見ていた。
山の手の原宿から代々木公園までの
ちらちら光る土手の緑が、妙に美しく見えた。




やっとアンマンに戻ってきた。
自分の部屋で、とりあえず音楽を聴く。

アルバムが終わって、音が切れると
教会の鐘の音が響いていた。
イースターだからか、いつもと違う時間、違う音色とリズムだった。

久しぶりに視聴しまくったタワレコで
結局財布と相談の末、
新譜一つと、Jeff Buckleyのみ、買ってきた。
しっかりと、聴く。




この楽曲、いろいろなversionがすでにうたわれている。
そもそも彼ではなくThe Smithsの曲なのだけれど。

今回のアルバムに入っている曲の
絶え間なく続くギターのストロークなのに繊細な和音と
伸びやかだけれど、どこか押さえ気味の歌声が
過去に出ている違うバージョンよりも
ぽっかりと失ってしまった何かを思い起こさせるようで
とにかく、気にかかって、でも、よかった。





もう一枚はJack Garrattという人。
アコースティックとエレクトリックな音と
たっぷり叙情的にもなりうる声と
どことはっきり云いがたいジャンルを跨いだ曲調が
見事に一つになっている。
違和感はなくて、バランスがいい。
James Blakeやの新譜がでていなかったので
代わりに、などと
ご本人には申し訳ない買い方をしたのだけれど
新しい発見があるアルバムだった。




ちなみに、ライブを見てみると
本人が打ち込みしながら何種類もの楽器を
自分で演奏したりしていて
何でもできる人のようだ。



残念ながら、新しいアルバムは残すところあと1枚で
もう、当分のところ、タワレコアップデートはできないのだけれど
毎週末とか、こうやって新しい曲をじっくり聴けたらいいのに
時間があれば、じっくり消化できるのに
と、思ってしまう。


何度も同じものを見て、聞くことができるから
噛み砕いて消化する作業がじっくり、好きなだけできる。


でも、決定的に、そして致命的に、
その場で聞いたものや見たものへの
鮮明な感覚とは違っていて、
そこで時間と場所に居合わせなければ分からないものは
一度しか起きないから、ただただ
とにかく身体いっぱい、受け止めるしかない。
結果、その場では消化できない、という話だ。

至極、当たり前だと思うと同時に
ヨルダンの暮らしの刺激と
日本で出会う刺激の違いをまざまざと感じる。

なんだか、日本に旅行に行っているようだ。



たぶん、次に日本に戻る時までの間に
もやもやしたものを羊か山羊のように
反芻し続けて、どうにか消化していくのだろう。

その場での消化能力が低い、
でも、もやもやしてしまうのであれば、
反芻するしかない。

瑞々しい、輝く緑の色を思い浮かべながら
かわいらしさの欠片もない横長の瞳孔で
ひたすらもぐもぐ口を動かす羊のように
せっせと消化に勤しむことにしようと、思う。







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