2016/04/28

温度を持って



今回、ぼんやりとだけれど、
一体自分のしている仕事や関わっていること、ものごとが
どれぐらいの温度で語られ、伝えられ、
そして、受け止められているのか
見てみたい、と思っていた。
帰国の間の、ちょっとした課題のようなものだ。

講演会を聞きに往き、新聞を読み、映画や本をチェックし

友人知人の活動を見ながら
必死に探ろうとした。
それぞれの人や、アウトプットされたものと
それを囲むその周囲、とそのまた周辺を
単純に自分がアウトプットする訳ではないので
客観的に、もしくは遠巻きに、見てみよう、と。

でも、私の感度が鈍くなっているからか

雨に濡れた田舎の景色を夜、電車の中から眺めるように
円心的に光るものは見えるのだけれど
その周りは意外とすぐに、真っ暗になってしまっているように、感じた。

とにかくぼんやりししていた。
何が、とはっきり云えないけれど、掴みどころが、はっきりと見えない。

私の中にはとても、光を強くする力もすべもないし
そもそも、何かしらを発光することもない。
敢えてそうしているわけではなくて
仕事の性質上、やりづらい。

人の見解に感動したり、疑問を抱いたり、はっとしたりしながら
そろそろ、自分なりに、何かしなくてはならないのかしら、と
ぼんやり、考えたりしていた。

現場で仕事をしているのが私ではなくて他の人でも
普段通り、小さな問題と、小さな成果があって
卑下ではなく、ただ事実として
自分でなくても、全く問題ないことがわかった。

このかたはヨルダンに住んでいるんですよ、と紹介される。
でも、私には、だから提供できるスペシャルなものが、ない。


ヨルダンに戻ってきて
すっかり自分の部屋に納まる。

からりと晴れた、きらきらのアンマン城を見ながら
それでも私がここに居たいと思うのなら
存在意義をもう少し、自分自身で見いださなくては
ならないようだと、結局ぼんやりとだけれど思う。

できれば、自分に適温な、何かを。



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