2019/03/09

彼らの暮らしと、話の断片 3月 2週目


金曜日にキャンプへ往くことになったのは、
3月に入ってから1週間分の給与を、
長らく働いてくれていたスタッフに、渡さなくてはならなかったからだった。

久しぶりに、雲ひとつない青空だった。

キャンプへ往く車の窓からは、うっすらとスウェイダの山並が見える。

休日のキャンプは、静止画のようだった。
いつもの通り歩いて向かう、ゲートへの道から見える
キャンプの遠景は、真っ青な空と、土漠と、白いキャラバンの波。

お祈りの時間だったからか、外にいるのは子どもたちばかりで、
装甲車の控えるキャンプの端っこで、
サッカーをしていた。

ただ、歩いていただけなのに、
あそこの家に往くんでしょ、場所知ってるよ、と
見知らぬ子どもが、声をかけてきて、家まで案内してくれた。

明日帰還するスタッフに、会いに往く。


1件目:ザアタリキャンプ シャーリア・ヤンスーン


家の扉を叩いてくれたのは、近所の子だった。
入ってすぐの、見慣れたコンクリートの小さな庭には、
うず高く、荷物が積まれていた。
明日の早朝出るので、荷物は一旦、
キャンプの外の倉庫に保管しなくてはならない。
家族は車を待っていた。

家に入ると、知らない子どもたちが幾人も居る。
近所の子どもたちが遊びに来ていて、
その代わり、家の子どもたちが見当たらない。

一通り挨拶をして、預かったお土産や、プレゼントを渡す。
元の同僚から預かったピアスのセットに喜び、
私が家から持ってきた、アラビア語のムーミン谷の本を、熱心に見ていた。
オバケの一家の話など、全くこちらの文化には合わないけれど、
作文の先生でもあった彼女には、
夢の詰まったものを何か、あげたかった。



ほどなく、車がやってくる。
キャンプの中でも、ゲートに近く、
家の密集した地区だけれど、そんな細い土むき出しの道にも
ピックアックトラックは入ってきた。

家族の親族の男手が勢ぞろいして、
荷台に荷物を載せて往く。

長男も買い物から帰ってきて、手伝う。
次男はチビなのに、うろうろしていて、叱られる。


UNHCRのロゴが入った、見たこともないほど大きなバッグが数個、
やはり大きな農業用の袋も数個、
そして、小ぶりなバッグたち。

洗濯機も、ガスストーブも、扇風機も持って往く。
こんなものも持って往くの?と
すでに巨大な袋で置く場所も見当たらない荷台を見上げる。

入国時に税金を払わなくてはならないけれど、
それでも、向こうで買うよりは、安いし
必要には違いないから、という答えが返ってくる。

まだ4歳の、やんちゃな次男のために、
おもちゃの車も乗せる。
旦那の自転車も、持って往く。

いつも通してもらっていた部屋のアラビーマットも、
最後まで余っていた、ロゴ付きの袋に入れられると、
部屋には何も、残っていなかった。

早速掃除を始めるスタッフ。
そして、近所からお客人用にと、アラビーマットが貸し出される。


キャンプの暮らしが最後の日、
たくさんのお客がやってきていた。
近所の人、キャンプの外に住む親戚、
元の同僚、旦那の知り合い。

女たちは部屋の中のアラビーマットに座り、
口々にお別れの挨拶をする。
ほとんどの女たちは、小さな、大きな子どもを連れてきていて
会話の途中で少し、赤ちゃんがむずがると、
授乳をしつつ、上の子を叱りつつ、
大人同士の話を続ける。

とにかく、向こうでの暮らしがいいものでありますように、と
型通りの挨拶をしつつ、でも、
今帰るなんて、驚いているのよ、と
久しぶりに会った、シリア人の元同僚は云う。
その言葉に、スタッフは涙ぐむ。


お客の中には、シリアでも同じアパートメントに住んでいた、という
女性も子どもを連れてきていた。
来週の今日、やはりシリアへ、戻るという。
シリアでもキャンプでも、ずっと一緒だったから、
帰る時も一緒なの、と家人は云う。



家具も食材も、何もなくなったのに、昼食を一緒に食べよう、と云う。
出してもらったのは、お土産にもいただくことになる、
マグドゥースだった。





あの小さな庭の、さらに奥で、
以前は鶏を数羽、飼っていた。
庭の土の上で、マグドゥースのナスの
水切りをしていたのを、思い出す。

今日もいつも通り、マグドゥースは美味しかった。

おばさんに当たる人が、自宅でお茶を沸かして、持ってきてくれる。

円陣を組んで、様々な話をしていた。



スタッフがキッチンへと席を立ったとき、
一緒に円陣から、抜ける。

預かった日本からの手紙の中に、お金を入れておいたのを、
伝えなくてはならなかった。

旅立つと聞いてから、周囲の人たちは、
帰還の先に待つ暮らしのことを心配しているスタッフのために、
必要なものを見繕ってすでに、あげていた。
子どもたちが、シリアに戻ったら通う学校のための、
文房具や通学用のバッグ、それから、
具合が悪くなった時のための、子どもたちの薬。

一通り揃った段階で、他に何が要るんだろう、と
同僚に尋ねたら、やはり、お金だろうと、返事が返ってくる。

仕事がすぐ見つかる可能性は、低い。
紛争中も、シリアに住み続けていた親族は、
仕事がなくて、貯蓄も十分にない。
まだ、インフラの整備は地域差がある状況でも、
帰ってきてほしいと、親族がお願いしてくるのには、
そんな理由もあった。

切り詰めれば、数ヶ月を暮らすお金はあるだろう。
でも、今あるお金は、親族にもきっと、分配されてしまう。

私と同僚は、スタッフに自分のお金を、持っていて欲しかった。
いつも、家族のことばかり考え、
好きなおしゃれもできない環境で、
我慢の6年間だったのに、
ここからの暮らしは、もしかしたら、しばらくはもっと、
苦しいかもしれない。


こちらのお札には、何かの殴り書きが、時々されている。
書かれていても価値が落ちないのであれば、と
お札に直接、メッセージを書く。

自分のために、このお金は使ってください。

薄暗くて水浸しのキッチンで、
書いた言葉をそのまま、もう一度彼女に伝える。
わっと、彼女の目から、涙が溢れだす。
お金の心配が、やはり一番、辛いのだろう。


中東の女性たちを、男性の目線で国別に比較したのを、聞いたことがある。

イラク女性は料理上手だから、体格が良くなる。
レバノン女性は美人だから、他人に自慢できる。
エジプト女性は体が丈夫だから、子どもがたくさん産める。
シリア女性は堅実だから、家計がしっかり回る。

この話は、ヨルダン人男性の口から出た挿話で、
ヨルダン女性はお金が好きだから、ブランド品をねだってくる、
と云うオチだったのだけれど
シリア女性は、家をしっかり守れるから、
家庭を持つには一番いいのだ、と
陸続きの国々の間で人が行き来する中東で、
ずっといい伝えられてきた、と話していた。

確かに彼女は、シリア女性の鏡のような、人物だ。

円陣に戻った彼女は、
マグドゥースとスライストマトを食べながら、
来たお客には明るく楽しそうに話をしていた。
人が来てはヒジャーブを巻き直し、玄関で出迎え、
お客人同士を紹介し、お菓子を勧め、
支払いが必要ならば財布を取り、外で次男が泣けば駆けつけ、
一番下の子の口の周りを食べこぼしを拭き、
ティッシュで床を拭きながら、話を続ける。




学校で仕事をしている時も変わらず、
我慢をおくびにも出さずに、頑固だけれど堅実に、
できることとしたいことを、形にしていって、
絶え間なく動き、働き、話し、笑っていた。

何か大事な相談事があると、緊張して顔がこわばった。
表情が豊かで分かりやすかった。
でも、ここ最近は、ふと、一点を見つめて
思いつめていることも、多かった。
帰りたくない、と、本音を漏らしていたのは、
つい数週間ほど前で、そこからあっという間に、
今日という日を、迎えてしまった。



もう、キャンプをでなくてはならない時間になったので、
散歩がてら、門までの道を歩く。
見送りに、夫婦と子どもたちのうち、おチビも二人、やってくる。

青くて澄んだ空気が、遮るもののないキャンプの上に、広がる。
夕方前の、一番暖かい時間帯、
大人も子どもも、キャンプの外の空き地で
この春らしい空気を、楽しんでいた。


キャンプの暮らしはどうだった?と歩きながら、訊く。

来た当初は、家もテント、水も十分になくて、
本当に大変だったけど、
今はこうして、たくさんの人がお別れを言いに来てくれる。
周りの人たちに、助けられた。

彼女は明るくはきはきとした、いつも通りの彼女に戻っていて、
私の方が、最後までめそめそしていた。

家の電話番号と住所を書いた紙を、もらう。
可愛らしい袋に、大事に入れて、準備してくれていた。

ダラーのバスターミナルから、あの地区行きのバスが出てるから、
バスに乗ったら電話をちょうだい。
橋の先あたりで待ってるから。
アンマンから地方都市に往く時のように、
彼女の説明は、何気ない。


わかった、必ず往くから、と、答える。


2019/03/02

誰かを理解するための、道のり


ドナルド・キーンの訃報を受けて、
以前読んだ記事のことを思い出していた。

松原耕二さんの連載、「ぼくは見ておこう」。

さっそく余談だが、偶然、前回の帰国で幸運にも、
松原さんご本人にお会いすることができた。
身の程知らずの私は、ご本人を目の前に、
いかに、私がこの連載を心待ちにしていたのか、
いかに、このタイトルのスタンスに酔心していたか、
(このタイトルについて書かれた回:https://www.1101.com/watch/2009-05-01.html
顔を真っ赤にして、まごまごと話し、
周囲の人たちの失笑を買うことになる。

この日たまたま、どんな話の流れか忘れたが、
奥様との馴れ初めを、どなたかが聞いてくださって、
その質問に、「爪が汚れていたから」と、答えていらした。
その頃、NGOでアフリカの途上国に勤務されていた、
のちの奥様となる方の爪が、汚れているのを見て、
懸命に仕事をする姿を思い、惹かれた、と。

ヨルダンでは塗らないマニキュアを、日本だからきれいにしなきゃ、と
慌てて塗っていた私は、心の中で、深くため息をついた。
こんなところでも出てくる、自分への自信のなさに、
心底恥じ入ることになる。




この連載の多くは、対談で会った人々を、描いている
いくつも記憶に残っているものがあるけれど、
その中でもよく覚えていたのが、
ドナルド・キーン氏との対談だった。
https://www.1101.com/watch/2015-05-01.html


源氏物語を通じて日本に興味を持ったキーン氏が、
日本人のことを理解したい、という一心で
第二次世界大戦中、米軍に従事し、日本人捕虜の尋問に当たる。
捕虜と、一通りの尋問を終えた後、
好きな音楽や小説について、話すことを通じて、親しくなる。

そしてある日、彼らの要望に応えて、蓄音機を持ち出し、
よく音の響くシャワールームで、捕虜たちと一緒にベートーベンを聴く。

読む側の私にも、心の震えが伝わってくる場面だ。


思えば、同じ音楽を享受する経験を、私はほとんどアラブ人としたことがない。
音楽のどの要素に価値を見出すのかが、異なることに起因するのかもしれない。

アラブ人の方が話し相手には多いけれど、
私のアラビア語力、もしくは相手の英語力から
仕事と世間話や、相手の抱える問題以外の話題は、難しい。

反対にそのおかげで、よく、相手を観察するようになった。
言葉に限界があるのであれば、見続けて、
どんな人なのかを、理解しようとする。
まだまだ、鍛錬は必要だけれど、
ある程度、分かるようになった。

でも、そんな観察眼を持たずとも、
心がとてつもなく開いていて、
その人の、良さのようなものが透けて、
もしくは滲み出て見えてくるような人々もまた、
アラブ世界には、居る。
そういう人たちとの出会いに、救われている。

最近、個人的に深い話をするシリア人はみな、
心のうちにとても、慮れないほどの、
大変な状況を抱えた人ばかりで、
それなのに、彼らはとても、素敵な言葉を口にし、
何とか置かれた状況の中で、精一杯最善であろうとする。

どうして、そんなに強くあれるのか、
私は、ただただ深く敬意を抱き、言葉を失う。
そして、自分の未熟さを、省みる。



それは、言葉を飲み込むことが多いことも意味する。


そして、飲み込む言葉が多い分、
誰かと、事象ではなく、何か別のテーマを深く話し、
共感したい、という欲求が出てくる。

例えば、読んだ本の話であったり、よかった音楽の話であったり、
誰かに会った話であったり、見た景色の美しさであったり。


頭が悪い自覚のある私は、基本的に思考の発展性に弱さがある。
それを補うのは、信頼の置ける、そして気の置けない人たちとの、会話にあった。

皮肉もなく、批判もなく、批評もなく、
何か心に響いたいいものを、
言葉の限りを尽くして、それを共感できる人と話す。
話す中で、思考がさまざまな場所へ飛び、
でも、その展開が、それこそ、
美しい音楽を聴くときのような、恍惚感を導き出す。


おそらく、キーン氏は、対等の立場でその人を理解するツールとして、
文学や音楽を、母国語ではない言語でも言い表す術を持っていた。
それらが、多様な共感のチャンネルを生み、
より深い、他者への理解につながっていたのだろう。


アラビア語では、すでに限界がある。
本当に、語学のセンスがこれっぽっちもない、自分が残念でならない。

そして、敬意しか抱けず、対等に話すだけの人間力のないことも、
また、残念でならない。

それでも語学よりは、人間力の方がまだ、可能性があるのかもしれない。

相手の話を、肯定的に、フラットに聞くことは、
自己もまた肯定できる人にしかできない、と
何かで読んだ記憶がある。

やはり、道のりが、長すぎる。

それでも、何かを分かち合うところに、相手への理解があるのであれば、
そして、理解したいという欲求があるのであれば、
もっと、いろいろな人と話さなくては、いろいろな人の話を聞かなくては、
と今更、思う。

そうしたら、マニキュアなんかに頼らなくても、
よくなるかもしれない。








2019/02/16

彼らの暮らしと、話の断片 2月3周目



仕事ではない訪問は、久しぶりだった。
訪問相手も、4年ぶりに会うシリア人で、
本人はおそらく、私のことを誰だか、しっかり覚えていなかったと、思う。

本人を知る人から、彼の暮らしに動きがあったので、
様子を見に行ってきてほしい、
というお願いがあっての、訪問だった。

電話で連絡を取って所在地を尋ねると、ホテルにいる、という。
ホテルなんてお金のかかるところに、どうしているのだろうか。

彼には過去に、2度ほど会っている。
正確には、その頃住んでいたリハビリ施設に訪問していた。
そこには、負傷して治療が必要な人たちが肩を寄せて暮らしていた。

施設である貸家の庭には、立派なぶどう棚があって、
そのぶどう棚の木陰に椅子を出し、
話し相手を見つけては、椅子をずらし、
男たちは何をするでもない時間を、過ごしていた。

陽の光に輝く浅葱色のぶどうの葉と、
その葉の揺れて描く、ちらちらと淡くやさしい色の影が
どうしようもなく、笑っていても、なお暗い、男たちの顔と
対照的だった。

この人たちはいつまで、ここに居なくてはならないのだろう、と
庭の片隅から、男たちを眺めていた記憶がある。

あれから、すでに4年以上が経っている。






ホテルという看板は出ているのに、
通りに面した入り口には鍵がかかっている。
別の入り口は、同じ建物の別の場所に通じる廊下にあった。

通訳をお願いしていた日本人の友人と私は、明らかに部外者で、
いくらか不審顔で、レセプションの男は私たちを見ていた。

居るはずの階に登ると、そこは、病院の待合室の様相を呈している。

スチール製の繋がったベンチが、フロアの隅に並べられている。
窓に面した一角は食堂のようなスペースで、白い長机がいくつも並べられていた。
男たちが数人居て、人を探してキョロキョロしているこちらの様子を
それとなくもしっかりと、見ていた。

本人はもう一つ上のフロアに居た。
金属製の松葉杖を動かしながらこちらにやってくる。
久しぶりに会う彼の顔は、少しヒゲが短くなって
どこか一回り、こじんまりしたように、見えた。

以前行った施設訪問の時の、彼に関する記憶は
彼の顔と、出身地、そして彼のたった一人の家族が、
ザータリに住んでいるという話しか、なかったから、
英語を話す人だという情報は、抜けていた。

英語を話すんでしたっけ、とアラビア語で云うと、
以前はもっと話せたんだけど、もう今はダメだね、と
英語で答えてきた。

ほとんどの会話に、彼は英語で答えていた。
こちらはアラビア語、向こうは英語。


この施設のようなホテルにやってくる前には、
ホテルと提携している病院で、13回目の手術を受けている。
それでも、彼の左足は棒みたいに、膝も足首も、動かない。


娘さんは今、奥さんのお母さんの家族と、登録されている。

ヨルダンに来た時、娘さんと彼は、別々の病院で手術を受けていた。
その病院のあった場所で登録しなくてはならなかったのは、
彼自身も手術を受けていて、娘さんの面倒を見られる人が
義母さんしか、いなかったから,
父娘の登録は、ばらばらになってしまった。

家族手帳があれば、家族だということを証明できるが、
もう家族手帳は手元になかった。

爆撃を受けた時、家族はみんな、家の中に居た。
何もかもがその瞬間になくなっていたはずで、
たとえ何かが残っていたとしても、それを取って家を出る余裕が、
あったとはとても、想像できない。

本人は足を負傷し、右手の指を3本、失った。

奥さんと息子さんが爆撃で亡くなり、
二人の娘さんを連れてヨルダンに入国するが、
国境脇の町の病院で、入国1日後、娘さんを一人、喪っている。

娘のお墓がどこにあるのかどうかも、分からないと、言う。
そもそも、きちんとしたお墓が作られているのかどうかも、
本当のところは、定かでない、と私は、頭の片隅で思う。

娘さんを自分の家族とする登録に書き換えたくて、
何度もUNHCRに連絡したけれど、できる気配が、ない。
家族手帳が手元にないから、家族だった証明がなく、
娘がキャンプに居ることもおそらく、ことを複雑にしている原因だ。
登録の書き換えのために、自ら最寄りの機関にアクセスするにも
足に自由がきかない。

何とか一人だけ残った娘さんを手元に置くために、
近々、登録などの手続きを専門に請け負うNGOに
再度、依頼をする予定だという。



私たちの周りでは、スチールベンチが埋まっていって、
座っている人々と話をする、また別の男たちも、増えていく。
周囲の声は、次第に大きくなる。

足を怪我している人、頭に包帯のようなものをつけている人、
見た目には分からないけれど、歩き方が不自然な人、
ぼんやりと、どこを見ているのか分からないまま、直進する人。
誰もかれもが、治療を待っている。

エレベーター周辺のひらけた空間に、
気がつけば10人以上の人々が、集まってきていた。

これだけ似たような境遇の人たちが居れば、寂しくはないだろう
そんなことを頭の中で勝手に、思い巡らせていたら、
声がうるさいのはダメなんだ、場所を変えよう、と彼は立ち上がる。

何を話しているのか、会話を聞かれるのが嫌なのか、とも、邪推する。


近くのマクハ(水タバコ専門のカフェ)に、入る。
金曜日の午前中、お祈り前の人の動かない時間帯でも、
2、3人の客が、居た。

水タバコを頼まないと、どうもお店の雰囲気からして、気まずかった。
タバコは吸わないはずの彼も、水タバコは、注文した。
トルキッシュコーヒーと、水タバコ。
典型的な、マクハスタイルだ。






時々、泣けてくるんだ。
会っていた1時間半ほどの間に、
そう何度も、口にしていた。

そんなことを口にするときでさえ、大方微笑んでいるのに、
水タバコを吸っている時の顔には、
別人のように、平らで、何の表情もなかった。

水タバコを、しきりに、半ばおかしなぐらいの懸命さで、吸っていた。
普段吸わないのであれば、そんなに吸ったらよくないだろう、と
見ているこちらは、次第に心配になる。

でも、泣いたら少し、心は軽くなるんだと、微笑みながら、云う。
その作業は、彼にとっておそらく、大事なことだろう。



部屋にいる時には、ニュースか、ドキュメンタリーの番組を見ている。
もしくは、本を読んでいる。
どんな本を読んでいるのか、訊いてみると、
ダーウィンとか、という答えが返ってくる。
これはなかなか、アウトロウだと、察する。

ホテルを抜け出したので、館内では訊けなかったことを尋ねてみる。

ホテルの暮らしは、彼にとっては快適では、ない。
そもそも、誰かと一緒にいることが苦痛だ、とはっきり云った。
だから、この施設に入る前にしていた共同生活も、苦痛だった。

一人でないと、心おきなく泣くこともできないのであれば、
確かに、誰かと居ることは、辛いだろう。


同じ部屋の住人は二人とも、イラク人だという。
話し相手とか、いないんですか?と訊くと、
ファイターと話したくない、と云う。
いや、みんながみんなそうではないでしょ?と、私も焦って、反論する。

負傷して障害を持ったままシリアに戻ると、
どこかしらに属していた戦闘員と見なされ、
捕まってしまうと、云う。
そんな話は初めて耳にするものだったし、
こちらで真偽のほどを確かめようが、ない。

いずれにしろ、彼に戻る意思はないようだった。
そして、誰かと仲良くなれるような気分でも、ないようだった。

誰かと話す代わりに、彼は日記のようなものを、書いている。
どこまでも、内省的な暮らしを、自ら選んでいた。



何か、気分を変えようとしなくちゃダメじゃない、と思わず云う。
まったく余計なお世話だろうと、思いながら。
こちらも冗談みたいにしか云えなかったから、笑いながら口にすると、
くしゃっと顔を緩ませる。
今日みたいに、人が来たら、気分は晴れるし、変わるんだ。


今回の訪問を依頼してきた人を通じて、私だけではなく
幾人かの日本人が、過去に彼の元を訪れている。
それぞれの訪問者とともに撮った写真は、
おそらくすべて、きちんと携帯の中に保存されている。

親指と人差し指しか残っていない右手で、
携帯の写真を拡大し、一人一人の日本人の顔を、
見せてくれる。

第三国定住を申請しているけれど、
日本に行きたい、
日本の人たちはみんな、いい人たちだから。
そう、何度も口にしていた。

彼のところにやってくる人たちは、シリア人に関心のある人たちだけ。
日本人のみんながみんな、いい人たちばかりではないし、
そもそも今の日本の難民をめぐる、あらゆる状況が、
第三国定住先の欧米に比べて、いいとはとても、思えない。

と、そんなことを、目の前の人に云ったところで、
理解をしてもらうことは、できないだろう。
それは、日本の人の大多数が、難民というくくりの人たちを
どんな人たちなのか理解できることと同じぐらい、
困難を極めることのように、思えた。



マクハを出る頃には、金曜礼拝は始まっていて、
煽動するような、早口で気にかかる口調の説法が、
スピーカーから流れていた。

ホテルのすぐ先の、幹線道路の対岸では、
菜の花が咲き乱れ、黄色く染まっていた。
ピクニックに往く時期だね、と、バカみたいに云ってみる。




ホテルのエレベーターで別れる時、
エレベーターの中に入った彼が、胸に手を当てる。
日本人のお辞儀のような、意味を持つ、仕草だ。

失ってしまった3本の指の他にも、
失ってしまったたくさんのものが、ここに、しまわれているのだ、と
残った2本の指が矢印のように、胸の上を指し示しているように見えて、
ずっと、頭から離れない。

2019/01/31

ある晴れた冬の日の、学校への往き道


いつも通り、キャンプへ通じる門の前で、バスを降りる。
サブハーという町行きのバスだから、キャンプで降りる人の数は少ない。
赤白ハッタをかぶったおじいさんと、
ホブズという平たいパンの大量に入ったビニール袋を、両手にぶら下げた青年と、
艶やかなビロードのジュズダーシュ(ワンピース)を着た
おばさん二人と、外国人の私が降りる。

シリア人用の門を通る特別な許可証は持っていないので、
外部者用の門まで、歩く。

キャンプの入り口は二つあって、その入り口に延びる道も、二本ある。
シリア人用の門は幹線道路のすぐ脇にあって、そこから車に乗り換えられる。
でも、部外者用の門は、遠い。

部外者用の道の脇に、シリアナンバーの車を2台、見つける。
シリアナンバーの文字はいつも、劇画を思い起こさせる。
きちんとした書体の一つなのだろうけれど、
ナンバーにするにはいくらか、情緒的なもののように、映る。


2013、4年頃まではよく見た、シリアナンバーの車も、
内戦の長期化で、ヨルダン国内ではほとんど見なくなっていた。
車でヨルダンに来た人々も、ヨルダンで登録し直すか、
売り払ってお金を作らなくてはならなかったのだろう。





2台のうち一台は、ダラアナンバーで、セルビス(乗合タクシー)だった。
7人乗りの、角ばったハッチバック。
誰も乗っていないセルビスは、でも、乗客を待っているようだった。

もう一台はセダンで、セルビスが示す往き先には、
アンマン–シャーム–ベイルート、とピンク地に白抜きの文字。
話にはよく聞いていた、ヨルダン、シリア、レバノンの首都をつなぐ
セルビスの実物を見るのは、初めてだった。

車から少し離れたところで、ニカーブをかぶったお母さんと
就学前と思しき子どもが3人、じっと
ぱんぱんに荷物の詰まったビニール袋や段ボールを乗せる男たちを
微動だにせず、見つめていた。

つい、私も初めて見るセルビスの往き先を凝視してしまって、
しばらく、お母さんと子どもたちと一緒に、セルビスを眺めていた。
この車に乗ったら、シリアに往けるんだ、と思うと、
何だかとても、感慨深いような、胸を漉くような、
不可思議な気持ちにとらわれる。

お母さんに、挨拶をして、帰るんですか?と訊く。
そう、シリアに戻るの、と小さな声で、答える。
スーリア(シリア)、という言葉を、宝石のような、澄んだ音でつぶやく。
どこの町に戻るのか訊いてみると、シャームよ、と云う。
よかったですね、と云ってみて、その後言葉が続かない。
では、と往き道に足を向ける。



キャンプの門までの道は、何もなくて、長い。
いつもその道を歩くとき、キャンプへ入る心の準備を、する。

ひたすら門まで何もない、空ばかりが広い景色は、
真っ青に晴れていても、重くのしかかるような雲に覆われていても、
変わらずいつも、とてつもなく心細い。
誰もそんなところを、一人で歩いたりしないから。

内ポケットに入った許可証をまさぐりながら、今日もきっと大丈夫だ、と
心に云いきかせる作業を、儀式のように毎回、することになる。


でも、よく晴れて、あっけらかんと何もない景色を呆然と眺めながら
今日は、あのお母さんにかけたかった言葉を、考えていた。
シリアでの暮らしが、幸福で平和でありますように、ぐらい
云えばよかった、と、思う。
サイーダ(幸福な)だったり、サラーム(平和な)だったり、
ヘルウェ(素敵な)であったり、
そんな形容詞が、どれもこれも、どこかが違っている。

本当にそうなってほしいと、もちろん願うけれど、
現実になるかどうかが分からない言葉や、その意味が曖昧な言葉、
その言葉の示すものが私の想像するものとは違うかもしれない言葉を、
安易に使えないような気がして、
結局、云わなくてよかったのかもしれない、などと逡巡している間に、
門まで着いてしまった。





門番の警察職員は、朝食を食べているところだった。
許可証を見せ、何事もなく、門を通過する。
ふざけたような高い声音で、会話を再開する職員たちの会話を後に、
タクシーを探す。


今日はタクシーの運転手が入れ替わる日で、
車両はすべて、許可証発行の事務所の周りに集まっていた。
仕方がないので、しばらく歩くことにする。

空き地で石を投げる子たち、
道路を三輪車で走ろうとする弟を、無理やり道路から降ろそうとする女の子、
キャンプ内の巡回バスのバス停で一人、
テコンドーの服を着て、靴を脱ぎ、型の練習、柔軟をするヒジャーブの女の子、
明らかにサイズの合わない、大きな自転車を立ち漕ぎして、
ハロー、と声をかけてくる男の子2人、
ホースを振り回し、地面を叩きながら歩く3歳ぐらいの男の子、
プラスティックの椅子を空き地に出して、道を眺めるおじさんと子ども、
気の弱そうな犬にビニール紐をつけてひっぱる、4、5歳の男の子3人。

首がしまっちゃうから、ひっぱっちゃダメです。
犬も生き物なんだから、優しくしてあげて。
そう云うと、分かったのか分かってないのか、3人とも神妙な顔をしていた。


天気がいいと、道を往く大人の数も、多くなる。
学校が休みだから、外で遊ぶ子どもたちも多い。

遊びの種類も随分と限られているだろうに、
ビー玉やら石やら、犬やら紐やら、棒きれやらボールやら、
手近なもので工夫して、遊ぶ。

人がいる情景ならば、そのどれもが興味深くて、
さりげない風を装って、何をしているのかつい、観察してしまう。





そして、薄茶色に汚れた大量のプレハブの上には、青い空。

ゆるく起伏のあるキャンプには、
キャンプの3分の1ぐらいは見渡せる地点が何箇所か、ある。

学校は南東にあるので、常に太陽に向かって、歩くから、
どうしようもなく、砂にまみれたプレハブも
ところどころ、反射して、光る。

目に映る白い絨毯のようなプレハブの波の裏では、きっと、
喧嘩をしている子どもたちがいるだろう。
どこの家の軒先でも、子どもたちは遊んでいるし、
女性たちは洗濯物を干している。

1週間に80人ぐらいの赤ちゃんが生まれているから、
今この瞬間にも、キャンプ内の病院では赤ちゃんが生まれているかもしれない。


暗い相談をしなくてはならない男たち、
家の掃除を手伝う子どもたち、
ゴミ拾いの仕事に勤しむ大人たち、
開店前の準備をする青年たち、
朝食用のバグドゥーネス(イタリアンパセリ)を刻む妻たち、
ファラーフェルを買いに往く子どもたち、
シリアに戻る荷造りをしている家族たち、
野菜の乗った荷をひくロバを叩く男たち、
携帯ゲームに夢中になる青年たち、
遠い誰かにメッセージを打つ人たち。

知っている限りの、今、視界には入らない人々の営みを、想像する。

その行為に、何の意味もない。
ただ、自分の想像力の限界を知らされるだけだ。

もっともっと歩いたら、この想像の先に、何かしらの哲学的な思考が
伴ってくれるのかもしれないなどと、思った。



ふと顔を上げると、もう、すぐ先に学校が見えていて、
ビー玉を両手にたっぷり持った生徒が、私の顔を見て、走り寄ってくる。

こんにちは、げんき?、と、
青や緑のきらきらしたビー玉を見せながら挨拶してくる。
ビー玉いっぱいだねぇ、と私が云うと、
たくさんあることを認めてもらったことで満足したのか、
にっこり笑って、じゃあね、と言い捨て、走り去っていった。

そこに、どのような哲学的思考が生み出せるのか、やはり、
頭の悪い私には、分からない。

でも、目一杯、感じさせるものは、ある。

今のところは、それらを受け止めるだけで精一杯だ、と
うっすら汗をかいた額にはりつく髪を払って、
学校の脇の、何もない空き地と、空を、見遣る。


2019/01/16

彼らの暮らしと、話の断片 1月2週目


12月の末から、ヨルダンでは、マアルバインという時季がやってくる。
3月の後半からは、ハムシーンという時季がやってくる。

アルバインは40、ハムシーンは50
40日間続く、一番寒い時季、そして、50日間続く、砂塵の時季。

急激な気候の変化は、いつもアラブ人の気質を思い起こさせる。
急に天候が変わる。
絵に描いたような、穏やかな冬晴れの朝は一瞬で、
突風とともに雲が走るように流れてきたと思ったら、
溜まり溜まった水分を吐き出すように、
雨ではなく、突然雹が降ってきたり、する。

天候が悪いことが予報で出ると、人は家から出たがらない
だから、道はいつもより随分と空いていて、
家に入れば、いつもより、暖房が効いている。

カーテンの開いている部屋に通されると、外が気になる。
強い風に、ビニール袋やら、トタンやらが飛んでゆくのを
そして、黄色く染まった空をふと、眺めてしまったりして、
会話を聞き逃す。


たまたまこの日、随分とどこの家の人も、よく、話をしてくれた。
だから、滞在時間が長くて、3軒しか、回れなかった。

そして、どの家でも、家族がみんな、ストーブの周りに集まる。
だから、部屋にいる家族との距離が近くて、
話している内容は、とてつもなく辛かったりするのだけれど、
なんだか妙に、親密な空気が流れていた。

だから、いつもは断るコーヒーを、行った先で頂いたりして、
トルキッシュコーヒーの苦い粒が、口の中に、残る。






1件目:マルカ ジャヌビーエ

アンマンの郊外は、薄茶色の空き地が目立つ。
隣の県との境には、大きなジャンクションがあって、
その周辺はあまり、建物がない。

訪問先は、ポツポツと建物が点在する、そのさらに端っこにあった。
似たような建物が4棟、並んでいる。

今日が最後だという期末テストを受けに、子どもは学校に行っていた。
北に向いた居間の窓は、カーテンが閉まっていて
薄暗い部屋の中で、お母さんとお父さんが、それぞれ
ソファーの端に座っていた。
この国では珍しい、一人息子だった。

学校からもらった情報では、その家はシリア人家庭のはずだったのだけれど、
話していたら、シリア人ではなく、純粋なヨルダン人だった。
どうして学校は間違えていたのだろう、疑問に思う。

聞けば、この建物はクエートの団体が買い取って、
シリア人のために、水道、光熱費のほかは無料で、部屋を貸していると、いう。
ここのお父さんはその建物群の管理者として、働いているとのことだった。

おそらく、学校は建物の名を聞いて、シリア人と勘違いしたのだろう。

お母さんは小柄な人で、訊かれないと答えないお父さんに比べて、
積極的に会話をしてくれた。
一人息子が、大切で大切で仕方がないのだろう。
7年生になる息子は、学校のことをなんでも話すし、
宿題もお母さんが随分と熱心に、見ているようだった。

私立に6年生まで通っていた、というここの息子を
公立の学校に編入させた理由に、
点数のかさ増しを指摘していた。
息子の点数がいいのは、先生たちが親へのおべっかで、点数を10点足していたからよ、
とお母さんは云う。
勉強ばかりさせるのに、結局学力が身についていないなんて、よくないわ。
公立の学校の方が、実力をはっきり分からせてもらえる。
将来大学入試試験もあるのだから、
息子の学力は正当に測られるべきよね。

珍しい話だった。

まだ今の学校には半年しか通っていないから、
学校での息子の様子は気になる。
お父さんは足しげく学校に行き、
息子の様子を先生に訊く。
でも、ありがたいことに、息子は誰からも
礼儀正しく、優しく、思いやりがある子だ、と云ってもらえる。

近所はほとんどシリア人ばかりだけれど、
シリア人だろうが、パレスティナ人だろうが、イラク人だろうが
分けてグループにする考え方は、おかしいでしょ。
どんな人にも平等に、礼儀正しく接することは、
人として最低限、大事なことですから。

お母さんは、滑らかなアラビア語で、
熱心にそう、話していた。

近くにはモンテッソーリ教育を実施するセンターがある。
4歳からビーズ細工などを教えながら、集中力を培う。
そこで働くのは、シリア難民のお母さんたちで、
スカイプなどで講義を受け、資格を取ってからセンターで働く。

素晴らしい先生たちだし、素晴らしい教育なんですよ。
そこを卒業して小学校に入る子どもたちはみんな、
成績もいいし、行儀もいいんです。

私は、よく、アラブ人の外面の良さを揶揄する。
アラブは皆兄弟だから、と云いながら、その実
偏見に満ちた言動をする彼らの言葉を、そのうち信じなくなる。
そして、信じられない自分に、嫌気がさしたり、する。

でも、ここのお母さんは心底、いい人はいい、いい教育はいい、と
感じて、口にしていた。

あなたみたいなお母さんにお会いできて、本当にうれしいです、と
つい、帰りがけに、云ってしまう。
いつも一緒にフィールドへ出るスタッフが、
にこやかな、でもほんの少し怪訝な表情で、私の顔を見る。


2件目:ジャバル・アハダル

小さな男の子が二人、ちょろちょろと走り寄ってきて、
小さな目でこちらをしっかり見て、小さな手できちんと握手をして、
アパートメントを案内してくれる。

細い階段の路地を抜けて、アパートメントの階段を
上ではなく、下に、降りてゆく。
アパートメントは丘の端に建っていて、階段は吹きっさらし、
空は黄色がかった白い霧で、覆われていた。
隣の敷地のオリーブの木が、風に煽られてその葉を剥ぎ取られる。

扉を入るとすぐに、広い部屋があるのだけれど、
ものは何もなくて伽藍堂で
奥の奥の、部屋に案内される。
部屋に入ると、でも、4畳ぐらいの狭い部屋の端で、
お父さんが毛布にくるまって横になっていた。

ここにしかストーブがないから、と
お母さんは、その部屋を勧める。
でも、スタッフは断ろうとする。
結局他の部屋へ勝手に行くわけにもいかず、
お父さんに向かい合う形で、座る。

お父さんがどんな病気なのかは、分からなかった。
訪問中ずっと、薄く笑みを浮かべながら、ほとんど何も、喋らなかった。
心に病気がある、と云う単語だけは、聞き取れた。
どうしてそうなってしまったのか、訊くことはできなかった。

子どもたちは全部で5人、みんな男の子で、とても仲が良かった。
長男と次男は、同じ今時の髪型をして、同じスウェットを着ていた。


お母さんは、学校の先生のように、
子どもたちの良いところを一人ずつ、教えてくれる。
お母さんは、大きな丸い目と、きれいに半円を描いた眉、
ふくよかで、安定感がある。

長男は6年生まで学校に行ってから、働いていた。
みんな男の子ばかりで、女の子が一人もいないから、
お母さんのお手伝いは、昔から長男が、する。
お父さんが病院に泊まらなくてはいけなくて、
お母さんが家を留守にしていたら、
鶏を使った料理を、自分で兄弟のために作っていた。
いつも台所でお母さんの料理の様子を見ていたらから、
自然と覚えていた。

お父さんが働けないからその代わりに、2年間仕事をして
一家を支えていた。
最近やっと面接を受けて、彼の分の70JDだけは、
NGOから支援がもらえることになりそうだ。

2番目の子は、壊れてしまったものを、
新しい何かに、作り変えることができる。
彼の箱、には、使えなくなった電球のソケットや
携帯のパーツや、何やら分からないコードや、ホースが入っていた。
ウォーターサーバーを、段ボールを土台にホースと蛇口をつけて
作ったこともある。
大きなガロンのボトルではなく、ペットボトルを取り付ける。
携帯電話も直すことができる。
絵も、上手だ。


3番目の子は、歌が上手だ。
長男が歌詞を考え、3番目の子がメロディーをつける。
何か歌って、とさんざんお願いしたら、
サッカーのシリア戦で、シリアを応援する歌を、歌ってくれた。
恥ずかしがり屋なのかと思ったけれど、
UNの開催したイベントですでに、人前で歌ったこともある、とのことだった。

4番目の子は、どうも遊ぶのだけが、得意なようだった。
まだ2年生のその子は、とにかく無邪気に、
一番下の子と一緒に、ビー玉遊びをしていた。
ビー玉をガスストーブに当てて大きな音を出して、
やっちゃった、という顔をする。
一番下の子と二人、ころころと子犬のように、じゃれ合いながら
私の手帳に書かれた文字を、興味深そうに、時々、覗いていた。

学校の先生のことを、でもこのお母さんはあまり
評価していなかった。
学校に子どもの様子を見に行ってみたら、
職員室でお茶を飲んで、タバコを吸って、
教室に行かない。
昔働いていたUNRWAの学校でも、大方似たような状況だったので、
よくある話、と慣れてしまっていたけれど、
お母さんは真剣に、子どもたちの教育のことを気にかけていた。

お母さんもまた、NGOの主催する教育プログラムに参加していた。
パレスティナ、イラク、シリア、スーダン、イエメン、ヨルダンの6カ国の
お母さんたちが集まって、子どものためのアクティビティを実施すると云う
プログラムで講師をしたこともある。

自分自身は学校を途中でやめているから、
子どもたちにはどうにかして、最後まで学校に行って欲しい。

長男は医者に、次男はエンジニアに、
3番目はジャーナリストになりたい、と云う。
長男は、話す時に神経系の障害があって、言葉が出てくるのに時間がかかる。
だからこそ、自分は将来医者になりたい、と。
3番目がどうしてジャーナリストになりたいのかは、訊きそびれてしまった。

長男が作った映像を見せてくれる。
母の日に、お母さんに向けた詩が、画面に出る。
長男の朗読が、音楽をバックに、流れる。

一番下の子を膝に乗せたまま、長男は携帯電話を手渡してくる。

お母さんは、子どもたちの教育支援を期待していた。
確かに、その家は学校からかなり、遠かった。
去年の9月から交通費支給が打ち切りになったので
1時間かけて、徒歩で通学しなくてはならない。

現金支給はできないので、どこかにそのような支援をしている団体があったら
連絡すると、約束する。
正直、なかなか支援が目に見えて目減りしている今
限定的にそのような支援をしている団体がいるとは思えず、
心苦しかった。

話の途中で、次男がコーヒーを作って出してくれた。
断っても断っても、作ってくれる。
お盆に乗ったコーヒーを受け取ると、
砂糖があるから、と中腰でお盆を持ったまま、
こちらが砂糖を入れて、混ぜたスプーンを戻すまで、じっと待っていてくれる。

第3国定住を申請している。
UNHCRのオフィスへ面接に行き、
血液検査もしているけれど、2年間、連絡はない。
この国では働けない。働けなければ生きていけない。
他の国に行けば、難民として保護を受けるか、
働けるチャンスがあるかもしれない。



息子たちが、本当に仲睦まじかった。
家族みんなが、支え合うことの何たるか、を
見事に体現している。

子どもたちだけ写真を撮らせてもらえないか、訊いてみる。
すると、3番目の子だけ、嫌がった。
以前難民の家族として、テレビ番組に出たことがある、と云う。
歌を歌った映像が流れたけれど、恥ずかしかった。


嫌だったら、本当にいいんです、そう云うと、
でも、あなたの思い出用だったらいいよ、と云って
3番目の子も兄弟の輪に、入ってくる。

家を出る前に、最近キャンプで覚えた、
手遊びを交えたお別れの挨拶を、やってみる。
下の3人が何度も何度も、一緒にやってくれた。
お互いの調子が合わなくて、手がずれる度に、
心底おかしそうに、笑っていた。

風が強いからいい、と何度断っても云うことを聞かず、
4番目の子がアパートメントの入り口まで、
見送りに来てくれた。


3件目:ハイ・ナッザール


この地域の中心地にほど近い、目抜き通りの建物が
訪問先だった。
場所が分からなくて、道をうろうろしていたら、
窓から身を乗り出して、歳の行った女性と小さな子が、手を振る。

この家も、入ったすぐの部屋には何にもなかった。
奥の小さな部屋に、ガスボンベを直接つなぐ形の
ストーブがあった。
火力が強くて、結構危険なストーブ。

子どもが5人居て、一番小さな子はまだ1歳過ぎぐらいで、
お母さんに抱っこされている。
家族構成がよく分からない。
Asylum Seekerには2年生と1年生の二人の子どもと、
窓から手を振っていた女性のみが登録されている。

この二人の子どものお父さん、女性の息子は、
7年間行方知れず、だった。
2013年、逃げてくる時、
目の前にいる1年生の子を身ごもってたった、10日あまりだった。
この子たちのお母さんは、でも、
別の人と再婚して、もうこの家に居ない。
お母さんもお父さんも居ないから、お父さんの母親、
この子たちのおばあさんが、家長として登録されていた。

他の3人の子どもたちは、おばあさんの娘、
子どもを抱っこしている女性の子どもたちで、
イルビッドから遊びに来ていた。
国籍はヨルダンだけれど、シリアで生まれ育った夫は、
パレスティナ人だから、
最近公立校からUNRWAの学校に転入している。

UNRWAの方が教育レベルが高い、というのが、その理由だった。
学校でコーラスの授業を、アメリカ人の女性がしてくれる、
その音楽会が来週あるのだ、と
一番上の6年生の女の子はうれしそうに、話す。
その子の行っている学校には、昔私の友人が、
ボランティアの音楽教員として働いていた。

音楽の授業があるなんて、いいですね、と呟くと、
私はもう、爆弾の音とかで、
耳が右の耳がおかしくなっちゃっているんだけどね、とおばあさんは、云う。


おばあさんの世帯に入っている孫二人のうち、上の男の子は、
見た目ですぐ分かるほどの、やんちゃっ子だった。
何度もベランダにドアをバタバタと、
閉めたり開けたりしながら出たり入ったりして、
部屋の中に入れてある小さな自転車を乗り回したり、していた。
話の途中でマットの上に横になり、
ごろごろしながらこちらの話を、聞いているのか聞いていないのか、
分からない。

コーラン教室に行っているけれど、遊びはなくて
コーランを読むか、お祈りのやり方を学ぶだけだから、
つまらなくて、この子、全然好きじゃないのよね。

おばあさんに名前を呼ばれると、男の子はバツが悪そうに
起き上がって、こちらの質問に答えたりしていた。
外行ってもいい?と、とりあえず訊いてみたりして、
その度に、だめ、と、おばあさんに、一蹴される。


下の女の子は、すこぶるおとなしかった。
思慮深そうな表情で、こちらのことを時々、じっと見ていた。

学校の様子や近所のことなどを一通り訊いた後、
おもむろに、近所に住んで、別の所帯を持つ息子の話になる。
今日、数年に渡って待ち続けていた、
第3国定住の結果を、聞きに行っている、という。

おばあさんの子どものうち、
二人はまだ、出身の街、ダラアに、
一人はトルコに、一人はアメリカに、二人はヨルダンに、居る。
いろんな国に子どもたちは居るけど、
ヨルダンが一番、物価も高いし、家賃も高いし、苦しいわよ。

どこにいたって大変だけど、
とにかく心配なのは、この孫たちだ、と
おばあさんは投げ出した太い足をさすりながら、云う。

おばあさんの顔はどこもかしこもシワだらけで、
地味な柄のポリエステルのワンピースと、灰色のカーディガン、
こげ茶のヒジャーブはまさに、ダラアのおばあさんスタイルだった。

きっと、おばあさんがダラアに居たら、
こうやって足を投げ出して、庭に続く階段にでも座って、
夕方の景色を楽しんでいただろう。

夫はもう一人の妻とまだ、シリアに居る。
私だっていつまで生きていられるか分からないし、
他の人たちだって、自分たちの人生でいっぱいいっぱいだ。
そんなに面倒をかけるような存在にはなりたくない。
でも、この子たちはまだ、こんなに小さいし、
私の他に、面倒を見る人もいない。


ごろごろしていた男の子は、どうも喧嘩っ早い、と
おばあさんはぼやいていた。

喧嘩をするには、理由があるでしょ、と男の子に訊いてみると、
だって、お父さんのことを悪く云うんだもん、と、答える。
少しでもお父さんのことを口にするやつは、みんな叩くんだ、と
男の子は、頑なな目で、云う。

この子の目は、キャンプで手を焼いていた男の子にそっくりだった。
その子もお父さんは居なくて、男親がいないと締まりがない、と
家族はどうしたらいいか分からなくて、困り果てていた。

今日は4時半から歯医者なのよね、とおばあさんは男の子に話しかける。
見れば、上の前歯二本と、下の前歯が一本、ない。
歯医者に行くなんて、勇気があるわねぇ、と
私は歯医者が大嫌いなので、本当に、感心して云う。
歯医者の先生が、一通り遊んでから治療してくれるから、
この子、歯医者の先生が好きなのよ、と
おばあさんが足をさすったまま、しわしわの顔でふっと、笑う。

いとまを乞うと、おばあさんは重そうな身体を、両腕で支えながら
立ち上がる。

ドアまで揃ってきてくれた家族たちは、
きちんとみんな握手をしてくれる。
一番小さな子だけは、スナック菓子でベトベトになった小さな手に、
こちらの小指を寄せてみたら、
じっとこちら顔を見つめ、そのあと大声で、泣き出した。





とぅー たっちど、だよね、と云われて、そうかもしれない、と思う。
それは、感傷的すぎて理性に欠ける、ということを意味していて、
その状態を必ずしも好ましいと思わない私は、
望まざる印象を与えかねないことについて、
もっと真剣に、懸念すべきだった。

これは、家で流していた音楽の話。
聴くだけで、家の空気がしっとりして、服が湿気で重くなってしまうような、
決定的に身体に侵食してくる何かが、あった。
私だけではなく、その場に居た客のうち、一人でもそう云うのだから、おそらく
おしなべて、そういう印象を与える曲なのだと思う。

アラブ人は、基本的にとぅー たっちどな人たちだ。
そして、純粋な事実として、彼らの暮らしの多くは、あまりにも大変だ。
それなのに、さらに、彼らの言葉は、あまりにもまっすぐだ。

よほどこちらが、ドライな風をまとって、もしくは
身体の周りをドライな突風で防御して、取り込まれないようにしないと、
いつの間にか、心の中の何かが致命的に、バランスを崩す。

聞く側の心の弱さが問題なだけなのだけど。

とぅー たっちど、などという表現を使うのもまた、そもそも
この話をするときにはどうしても感傷的にならざるを得ないことへの、
ごまかしのようなもので、結局あまり、このごまかしはうまく、機能しない。



思ったよりも、深く身体のどこかに、口にしていた言葉や
射抜くような視線の痛みが、残っていたりする。

今回の家庭訪問が終わった後、レンタカーが見つからず、
突風の吹き荒れる道を歩きながら、
とぅー たっちどだよね、と、独り言を、つぶやいていた。


2019/01/11

描くことは、祈ること



ヨルダンでは、新年おめでとうを
年に4回は、口にすることになる。
西暦の他に、イードやらイスラム新年やらが、あるからだ。



今年は、国外で迎える10回目の正月だった。
でも、仕事と仕事の合間の、
普段とあまり変わりのない、休日の一つでしかない。


ただ、この日が休日であることが、ありがたかった。
どうしても、この日にしておきたいことがあった。






年末に、生徒の一人が、シリアに戻る、と知る。

教室で一番前の、真ん中の席にいつも座っていて、
何か発表をする場面になると、手をあげる。
そして、当てられると、でも少しためらいながら、
歌を歌ったり、詩を読んだり、する。

どこかで、何かがわだかまっていて、
それを、小さな身体のどこかにいつも、抱えているように、
どうしても私の目には、見えた。
そうなるのには、私の知っている、そして、私の知らない、
たくさんの理由が、たぶん、ある。



31日に、テストが終わった後、こちらにやってくる。
小さな声で、ちょっと話したいことがあるのだけど、と、云う。
気が強い子だから、周りに居る友達に、
あっちいって、などと、云いながら、
誰もいなくなるのを、待っていた。


あのね、シリアに戻ることになったの。

少なからず動揺したのは、ただ単純に
今までよく知っている子の中で、戻ることを知らせに来てくれたのは、
彼女が初めてだったからだった。

あなたがうれしいのであれば、私もうれしい。

誰かが帰るときに、うちの先生が必ずかける、言葉だ。

本当に私がそう思っているのか、
云いながら、正直わからなかった。
どこかに、不安と諦めを含む、でも
精一杯の、言葉だ。

それでも口にした言葉を反芻しているうちに本当に、
そう思えてくるのだから、
言葉というものには、独りでに生きながらえる、
魂でも、あるのだろう。



よく、写真を撮らせてくれる、視線が強い子。

たくさん勝手に写真を撮ったのに、
こちらから写真をあげることは、一度もなかった。

紙焼きできる場所も、休日の正月では、ない。
だから、久しぶりに、その子の顔を、描いてみることにした。



絵は下手だ。
描けと云われれば描くけれど、
まったく、自分の何かしらをよくよく、思い知らされることになる。

線が決められなくて、形が決められなくて、
ぼやぼやする。
結局はためらいながら、何かを確信を持って、
決定することのできない自分自身を、
嫌というほど、実感させられる作業でしか、ない。

頭のどこかで、そんなどうにもできないことを
客観的に、認識する。

でも、一方で、
その子の一番その子らしい顔の写真を
パソコンの画面に載せながら、
小さな口元の、線になったえくぼや、
きゅっとしまった顎や
持ち上げられた線の独特な眉毛や
短いけれどかわいらしい睫毛や
浅い茶と灰の混じった、瞳を
把握する。

それら一つ一つが、
その子の今まで成長してきた証として
彼女の顔を、構成する。
できる限り、誠実に描き映さなくてはと、思う。

それから、その子のことのいろいろを思い出す。
彼女のキャンプでの毎日がどんな日々だったのか、
シリアでの日々はどうだったのか、
その目で何を見てきたのか、

そして、これから何を見るのか、
どんな日々が待っているのか、
どんな学校に行くのか、どんな本を読むのか、
どんな女性に成長するのか、
想像しようとした。

結局うまく何かを、確信を持って描くことも、想像することも
できなかった。

でも、描きながらただただ、
この子が、負けん気とためらいと頑固さと、
たくさんののびのびとした、この子らしさを携えて
大きくなってほしい、と
心底、思った。




古代文明で、美術史に残る造形が生み出された根底に
何があったのか。
中学の美術史の授業で、先生が云っていたことを、思い出す。

美術は祈りだ。

印象深い言葉だったから、覚えてはいたけれど
今まで、それなりに何かを作ってきて、
そう実感できる瞬間は、ほとんどなかった。

描くという行為が、ある状況によっては、
祈るという行為でもある、ということを、体感する。



残念ながら、こちらの子たちはあまり、ものを大事にしない。
それから、絵をあげることも、結局のところ、
私の勝手な思いでしかないから、
あの絵をどうしようと、あの子の自由だ。

けれども、できることならばあの絵は、
シリアに行ってくれたらと、思う