2019/03/02

誰かを理解するための、道のり


ドナルド・キーンの訃報を受けて、
以前読んだ記事のことを思い出していた。

松原耕二さんの連載、「ぼくは見ておこう」。

さっそく余談だが、偶然、前回の帰国で幸運にも、
松原さんご本人にお会いすることができた。
身の程知らずの私は、ご本人を目の前に、
いかに、私がこの連載を心待ちにしていたのか、
いかに、このタイトルのスタンスに酔心していたか、
(このタイトルについて書かれた回:https://www.1101.com/watch/2009-05-01.html
顔を真っ赤にして、まごまごと話し、
周囲の人たちの失笑を買うことになる。

この日たまたま、どんな話の流れか忘れたが、
奥様との馴れ初めを、どなたかが聞いてくださって、
その質問に、「爪が汚れていたから」と、答えていらした。
その頃、NGOでアフリカの途上国に勤務されていた、
のちの奥様となる方の爪が、汚れているのを見て、
懸命に仕事をする姿を思い、惹かれた、と。

ヨルダンでは塗らないマニキュアを、日本だからきれいにしなきゃ、と
慌てて塗っていた私は、心の中で、深くため息をついた。
こんなところでも出てくる、自分への自信のなさに、
心底恥じ入ることになる。




この連載の多くは、対談で会った人々を、描いている
いくつも記憶に残っているものがあるけれど、
その中でもよく覚えていたのが、
ドナルド・キーン氏との対談だった。
https://www.1101.com/watch/2015-05-01.html


源氏物語を通じて日本に興味を持ったキーン氏が、
日本人のことを理解したい、という一心で
第二次世界大戦中、米軍に従事し、日本人捕虜の尋問に当たる。
捕虜と、一通りの尋問を終えた後、
好きな音楽や小説について、話すことを通じて、親しくなる。

そしてある日、彼らの要望に応えて、蓄音機を持ち出し、
よく音の響くシャワールームで、捕虜たちと一緒にベートーベンを聴く。

読む側の私にも、心の震えが伝わってくる場面だ。


思えば、同じ音楽を享受する経験を、私はほとんどアラブ人としたことがない。
音楽のどの要素に価値を見出すのかが、異なることに起因するのかもしれない。

アラブ人の方が話し相手には多いけれど、
私のアラビア語力、もしくは相手の英語力から
仕事と世間話や、相手の抱える問題以外の話題は、難しい。

反対にそのおかげで、よく、相手を観察するようになった。
言葉に限界があるのであれば、見続けて、
どんな人なのかを、理解しようとする。
まだまだ、鍛錬は必要だけれど、
ある程度、分かるようになった。

でも、そんな観察眼を持たずとも、
心がとてつもなく開いていて、
その人の、良さのようなものが透けて、
もしくは滲み出て見えてくるような人々もまた、
アラブ世界には、居る。
そういう人たちとの出会いに、救われている。

最近、個人的に深い話をするシリア人はみな、
心のうちにとても、慮れないほどの、
大変な状況を抱えた人ばかりで、
それなのに、彼らはとても、素敵な言葉を口にし、
何とか置かれた状況の中で、精一杯最善であろうとする。

どうして、そんなに強くあれるのか、
私は、ただただ深く敬意を抱き、言葉を失う。
そして、自分の未熟さを、省みる。



それは、言葉を飲み込むことが多いことも意味する。


そして、飲み込む言葉が多い分、
誰かと、事象ではなく、何か別のテーマを深く話し、
共感したい、という欲求が出てくる。

例えば、読んだ本の話であったり、よかった音楽の話であったり、
誰かに会った話であったり、見た景色の美しさであったり。


頭が悪い自覚のある私は、基本的に思考の発展性に弱さがある。
それを補うのは、信頼の置ける、そして気の置けない人たちとの、会話にあった。

皮肉もなく、批判もなく、批評もなく、
何か心に響いたいいものを、
言葉の限りを尽くして、それを共感できる人と話す。
話す中で、思考がさまざまな場所へ飛び、
でも、その展開が、それこそ、
美しい音楽を聴くときのような、恍惚感を導き出す。


おそらく、キーン氏は、対等の立場でその人を理解するツールとして、
文学や音楽を、母国語ではない言語でも言い表す術を持っていた。
それらが、多様な共感のチャンネルを生み、
より深い、他者への理解につながっていたのだろう。


アラビア語では、すでに限界がある。
本当に、語学のセンスがこれっぽっちもない、自分が残念でならない。

そして、敬意しか抱けず、対等に話すだけの人間力のないことも、
また、残念でならない。

それでも語学よりは、人間力の方がまだ、可能性があるのかもしれない。

相手の話を、肯定的に、フラットに聞くことは、
自己もまた肯定できる人にしかできない、と
何かで読んだ記憶がある。

やはり、道のりが、長すぎる。

それでも、何かを分かち合うところに、相手への理解があるのであれば、
そして、理解したいという欲求があるのであれば、
もっと、いろいろな人と話さなくては、いろいろな人の話を聞かなくては、
と今更、思う。

そうしたら、マニキュアなんかに頼らなくても、
よくなるかもしれない。








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