2024/04/08

大人になって知る、絵本からの学び

 

自分が子どもの時に読んでいた絵本を
見つけた時は、ひどく懐かしい幼い頃の友だちに会ったようで
無条件にうれしい。

子どもの頃を思い出し、自分の子どももきっと、
同じ読書経験をするだろう、そう思って親御さんたちは、
20年、30年前の絵本を買うだろう。
数多ある文芸作品でも、よほどの名著でなければ、
30年後には消えている本が多いだろうから、
絵本のロングセラーは、その母数に比べて、
もしかしたら、比率が高く、作品の寿命も長いのかもしれない。


わたしもまた、懐かしい絵本から、手に取る傾向にある。
子どもの頃とは異なる印象に、その絵本の魅力を
再確認することもある。

大きくなってから読む小説や詩から知ることとなる
好きな作品の作者が、絵本の世界でも、
作者、翻訳家として、作品を残している。

子どもに向けた言葉は、シンプルに数が少ないからか、
その分、大切に丁寧に、選ばれているように見える。
愛情と気遣いと優しさに満ちている。

子どもだから感じる面白さを大事にしている
作品に出会うことができれば、大人と子どもの間の
フェアな視点の大切さに気づく。



どんなふうに日常を見つめるのか、
どんなふうに面白さを見つけるのか、
どんなふうにものごとを感じるのか、
どんなふうに世界を捉えるのか。






絵本というからには、絵も、とても大切な要素になる。

自分の小さな頃を思い返す時、
話の展開よりも、絵本に描かれている細かなものものを
一つ一つ確認していく作業が好きだったような気がする。
だから今でも、思い出す絵本の断片は、
窓に飾られた花の鉢植えだったり、猫の柄だったり、
海の色だったり、建物の亀裂だったりする。

それから、しかけのある絵本や、形に特徴のある絵本も好きだった。
ページをめくっていくと、丸い穴の向こう側が見えて、
トレーシングペーパーでぼやけた霧が晴れていく
ブルーノ・ナワーリの「きりのなかのサーカス」や
縦長で、高く昇る月と地上の両方が画面に入っている
イブ・スパング・オルセンの「つきのぼうや」や、
360度開くと、各々のページが半立体になる、
有名な童話のシリーズが、
絵本の形状とともにはっきりと、記憶に残っている。

何度も何度もめくったり、開いたりした絵本は
すっかりぼろぼろになって、テープの跡だらけになっていた。


個人的には、大人になって知らない絵本を読む時、
日常を丁寧に淡々と描いているものや、
子どもの想像力を刺激するもの、
言葉が面白いものを、好む。





先日、1冊の絵本を手に入れた。






初めて見る、長田弘が訳をしている絵本
「この世界いっぱい」
リズ・ガートン・スキャンロンが文章を
マーラ・フレイジーが絵を描いている。

詩人の翻訳はとりわけ、言葉が丁寧だ。
長田弘らしい、優しいけれど力強く平易な
少ない言葉と、絵本一面の絵。

この世界にある、海も嵐も畑も木も闇夜も
そこに暮らす人の営みも、すべてを享受できるのだ、と
伝えようとしている。

いい絵本だな、と素直に思って、選んだ1冊だった。






家に戻って絵本をじっくり見ていた時、ガザから連絡がくる。

送られてきた写真は、家の遠景だった。
家の前の瓦礫だらけの道と、何棟もの黒焦げたアパートメント。
前日にはついに、家が壊されたと動画が送られてきていた。
崩れたブロックの残骸だらけの階段を、ひたすら登り、
たどり着いた部屋には、人の暮らす部屋だったことの
いくらの残骸も見つからない。






イラストレーターのフレイジーは、カリフォルニア沿岸の景色を描く。
この世界のすべてを享受できると、十分に信じることができる
豊かな農作物と緑と海、暖かな室内、温かな窓の灯り。









今、ガザの友人がこの絵本を見たら、
一体何を思うのだろう。
アメリカのカリフォルニアの子どもたちには享受できるけれど、
彼の周りにいる子どもたちには、ガザにいる限りおそらく、
一生かかっても手に入らない豊かさを、この絵本は素敵な絵で
ページ一面に見せてくる。



ふいに、ひどく傲慢な何かを見せつけられたような気がして
反射的に、動揺が走る。
その動揺は、ついさっきまでこの絵本を見ながら、
心から素敵だ、と思った自分がいたからかもしれない。


「世界はうつくしいと」という本を長田弘は書いていた。
彼は亡くなるまで、この世界は誰にとっても美しい、
そう信じていたのかもしれない。
この詩集は、とてもいい、けれどそれは
希望を失くして生きることの辛さを心底味わった
大人に向けた言葉である時、きっと、一番響く。



世界のすべてを慶ぶことのできる、と
どんな状況に置かれた子どもたちにも、伝えたい。


けれども、それは本当なのだろうか。
わたしを含む大人たちの判断と選択の誤りの集積は、
そんな本来、当たり前にあって欲しいことを
あからさまに、不可能にしようとしている。

子どもに嘘をついている、もしくは
できない約束をしているような気持ちになる。






願いの強い絵本が抱くその信念は、時にひどく、
誰かを傷つけることになるのかもしれない、と思い至る。
だから、小さい頃のわたしはあまり、
願いに溢れた絵本があまり好きではなかった、と。



自分の子どもにはこうあってほしい、そう思って書かれたのだろう、
姿美しく心のきれいな人の話を読んで、心洗われたすぐあと、
身近な友人や兄弟へ、嫉妬や羨望を抱き、
鏡の前で自分の顔を見た時の、
自分への救いようのない失望を、思い出す。


もちろん、その願いに響鳴して、
希望を抱き続けることのできる子どももいるだろう。
だから、作者や作品が悪いわけではない、
合うか合わないか、の問題なのだと思う。


子どもと向き合う時、子どもの声を聞きそびれた大人は
身勝手になりがちなのかもしれない。
大人になって、絵本の好みの幅が広がったけれど、
それは、大人の視線で絵本を読むことを知ったからなのではないか、
そう、思い当たる。


込めたい願いが、子どもの願いではなく、
わたしの、わたしたち大人の願いなのではないか、と
問いながら、絵本を読むことを学ぶ。

それは、大人になったからやっと、できるようになった。






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