2022/12/07

他者の言葉を、手書きする

 

語学は滅法苦手だ。
謙遜でも卑下でもなく、本当に苦手で、
その事実を説明する材料はいくらでもある。

たぶん、日本語でもひねった言い回しをしたがっていたからか、
例えば英語に、そのまま置き換えようとして、
まったく一般的ではない単語ばかり覚えていたりした。
もっとも、覚えられるだけの記憶力があった頃の話。

英語もそんな感じだったのに、アラビア語を使わなくてはならなくなって、
ひどく私の脳みそは混乱している。今もなお。



アラビア語を学び始めた時に、
とても興味深い傾向に気づいた。
私の周辺にいる、音楽を演奏する人たち、
特に、音楽を大学まで勉強していた人たちは
アラビア語の習得がとても早かった。
時に、文法は苦手だったりもするのだけれど、
会話に関しては、抜群にセンスが良かった。

耳が、いい。

細かな発音の差異、単語のリズム、言葉の流れを
聞きとる能力が高いのだ、という事実は、
結構な、衝撃だった。

音楽そのものは好きでも、そもそも専門ではないし、
演奏も子どもの手習に毛が生えたような私では、
とても持ち得ない耳を、彼らは
言語の習得に、存分に活用している。

私は耳までもが怠慢だったのか、と思い知った瞬間だった。


日本語も子音の発音が舌足らずになりがちで、
ゆっくりしか話せない私は
他言語になると、流暢とは程遠い話し方しかできない。

だから、よくヨルダンで会う子どもたちは、
私の話し方の真似をしていた。
よく特徴を押さえた、彼らの話っぷりに
それなりに傷つくけれど、実際、おかしいんだろうな、と
肩を落とすより他、なかった。



アラビア語の単語の成り立ちそのものは、
興味深い。
ほとんどの単語には、語根と呼ばれる
男性形動詞過去形があって、
この語根をある程度規則に則って変化させると、
その語根の意味から派生した、名詞、形容詞などに
変化していく。
ある意味、わかりやすいから、
語根の意味を知っていると、初めて見る単語でも、
なんとなく意味がわかったりする。
もっとも、耳の悪い私には、聞いて語根と
結びつけることはほぼ不可能だから、
文字面での面白さでしかない。

さらに、アラビア語は口語と文語では
単語や文法が異なったりするので、
座学での学びが、会話ではあまり活かせないという
別のハードルもある。

そして、アラビア語に関しては、発音の難しさと
口語文語の乖離の他に、もう一つ、
致命的に学習する気力を奪う事実があった。

元来、小説や詩は大好きだ。
だから、今はもう、そんな気力がないけれど、
大好きな英語圏の作家の文章は、
原文を読もうと、努力していたこともある。
その言語で表現されるもの、そのものへの関心があれば、
読もうとする気持ちは、あった。


けれども、どうもアラビア語でアウトプットされる
小説や詩は、ひどく壮大だったり、抽象的だったり、
言葉そのものの強烈さを全面に出す表現が多くて、
その傾向自体が、私にとってはあまり、
魅力的に映らなかった。

おそらく、私が知らないだけで、
身の回りの物事、日常の些細なことを、
愛情を持って紡ぐ文章もきっと、存在しているのだろう。
でも、そんなまだ会ったことのない文章を開拓する気力も
もう、なくなってしまった。





子どもたちのアラビア語の学力が、コロナ禍で低下している、と
教育分野では問題視されて久しいけれど、
それはそうだろう、と、心底思う。
そもそも、言語の文法そのものが複雑だし、
言語が意思疎通のツールであるならば、
日常で話して言いたいことが通じる以上のものを
学ぼうとするには、やはり、私と同様、気力が必要なのだ。

ただ、例えば、自分の心の中にある何かを、
うまく言い表すための言葉を携えていない、という状況を
経験し続けると、自分の持ち得る
感情そのものの種類を結果的に、限定してしまったりする。

最低限、生きていくのには問題ないだろうけれど、
何かを表現したい、と思ったときに、
そのもどかしさが葛藤になることは、大いにありうるだろう。
単語は知らなくても、比喩という表現方法もあるから、
そんな喩えをたくさん、蓄積していってほしいな、と
子どもたちには思っていたりする。

もっとも、それは私自身にも思ったりすることだけれど。





結果、仕事で否応無しに、急ぎで話していることを
翻訳しなくてはならない場面に遭遇したり、
ナショナルスタッフにお願いする時間がないけれど
読まなくてはならない重要な文書などではない限り
文字に起こしたり、翻訳することはなかった。


そんな普段の業務の一環でしていた翻訳を
改めて見直す機会がある。
子どもたちが書いたメッセージを日本語にして、
布に貼り付ける作業だった。
文字を打ち出しすると、貼り付けるのが難しくなるので、
手書きにする。

メモは基本的に手で書く習慣があったけれど、
それでさえも最近、携帯で取りがちだった。
手でものを書く作業そのものが、久しぶりのような気がする。

子どもたちの文はメッセージだったから、
ひどく、訴えるものの多い言葉が使われていた。

一応、英語でも訳されていたのだけれど、
英語の訳だけではニュアンスが分かりづらい文章も多くて、
再度、子どもたちが書いたアラビア語を読み返す。
どこまで文法をきちんと理解できているかは自信がなかったけれど、
とにかく、とても熱い思いだけは真に迫って伝わってくる
言葉ばかりだった。













おそらく、有名な詩や格言も、含まれているだろう。
自分で作り出した文章ではなかったとしても、その言葉を
ここに書き記したい、と思って書いているのだから、
その思いだけでも、汲み取りたい。
ちゃんと覚えているだけでも、意味がある。


アラビア語そのものを読むという、久しぶりの作業の中で、
強い語感を持つ言葉の、広がりを体感する。
大地、もしくは、土地を意味する言葉を見つめ、
これを大地と訳すのか、土地と訳すのか、考える。
愛もしくは、好きを表す言葉は、どちらの方が
文脈に合っているのか、考えあぐねる。

حبは愛、もしくは大好き、という意味を含む言葉で、
動詞として、名詞として、多用されている。
こんなに、好きであることを表したいと思う、その気持ちの
膨らみのようなものに、ただただ、感心する。
そんなに祖国への愛を言葉にしたいと思う、
その切実さに、胸を打たれた。


自分の国をそこまで、好きだと言えるのだろうか。
その気持ちの背景には、失ったあまりにも多くの命と
壊れてしまったあまりにも多くの建物と、
人間関係が、おそらく存在する。

そう思いを巡らせた時、これは愛でしか、
訳されない言葉なのだろう、と觀念する。
技巧的なものを排除し、ただただ
その土地や祖国に対する強烈な思い入れが
本心からの、彼らの伝えたいこと、なのだろうと感じる。


ある意味とても、切ない作業だった。


だからこそ、伝えなくてはならない。
そう、切実に思った。
このメッセージの書かれた布だけでも、
たくさんの人に見ていただけるよう、
旅に出られたらいいのにな、と思う。

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