2022/11/10

善い人、と、手のひらの小さなカード

 

カードの写真が連なるページをただひたすら
いたずらにページをめくりながら眺めていることが、何度かあった。
描かれているカードの顔や形だけではなく
カード全体にかけられている時間的な、作業的な重みと
その分だけ込められている思いが、
ただの写真でもなお、伝わってくる。

全体的に色合いが暗いのは、もちろんその色彩を好んでいたからだろうけれど、
対象となる絵の、やもすると軽妙な形や線と、
色のギャップが、そのまま
作り手の人柄と心のうちの明暗を描き出しているようで、
それらを嫌でも、伝わってしまう、そんな
切実さが滲み出ている。

ロベール・クートラスの、どこかイコンのようなカードたち。








このアーティストのことは、亡くなった友人が教えてくれた。
絶対私は好きになるから、と、十年ほど前、
「クートラスの思い出」という本を
プレゼントしてくれた。

そのアーティストの半生と作品の写真、
そして、客観的にも不遇に思える人生を近くで見てきた
日本人女性の記憶を綴る文章で構成されている
外国のハードカバーのような質感の紙の、本だ。

本人のことも、日本人女性の記憶についての記述も、
どこを切り取っても、生活と制作の狭間の鬱積とした思い
制作の苦しみと喜び、他者やものものへの
行くあてのない愛情ばかりが押し寄せてきて、
一度読んでから、その後あまり何度も、読もうとは思わなかった。
なんだか、辛かった。

その代わり、ただただ、カードの写真を眺めていた。




ロベール・クートラスは、パリで生まれ、パリで亡くなっている。
石工の職人となろうとして、叶わなかったのか、馴染めなかったのか、
画家として画廊との契約が取れても
幾らかでも商業的な匂いのするものに順応できなくて、
日中は求められる絵を描き、夜にカードを作り続けた。
結局は訪れる契約の機会を破棄しては、貧困の中を生きた。

カードのモチーフとなるものものを見れば感じ取れるけれど、
人々の営みや周囲の愛着を何より、大切にする作家だったのだと思う。
崇高さと下世話さ、悲哀と歓喜、
それらを日常の中から見つけ出す目にも、長けていた。




五感を研ぎ澄ませ、
作品の素材やスケールを体感しながらアートと向き合うことは、
他者や社会から与えられるのではない、
自分自身にとってのウェルビーイング、
すなわち「よく生きる」ことについて考えるきっかけになることでしょう。 」
森美術館の企画展「地球がまわる音を聴く」の紹介文の抜粋から。

実は、クートラスの作品があるとは、知らなかった。
ただ、この紹介文のコンセプトが気になって、
足を運んだ。




クートラスの軽く200点はくだらないカードたちは、
ガラスのケースの中に展示されていた。

普段、「お手を触れないでください」の表示に
そんなことはしないだろう、冷笑しているのだけれど、
この展示ほど、ガラスが忌々しく思えたことはない。
そんな私のような人間のために、その表示はあるのだろう。

手に取って、表面のガッシュや絵の具の跡をなぞりたい、
触ってみたい、という衝動に駆られる。
もしくは、ただ本来のカードという形状の習わしを
自分の手で再現して確かめてみたい、と。
おそらく、毎夜クートラスがしていたように。


写真で見たことのあるカードが並んでいる。
馬鹿みたいに、じっと見続ける。
ガラスケースの光の反射が邪魔だ。
すぐそこに、私が国外でただひたすら愛ていたものの
本物が、ある。

私ができることは、また馬鹿みたいに、
写真を撮ることだけだった。

カードの並ぶたった15メートルぐらいのスペースを
何度も往復し、やっと正気に戻って、
展示スペースを少し離れたところから、眺めた。

そこには、小さな小さなカードたちが
整然と、大量に並んでいる。
遠目からではほとんど識別できないカードたちだけれど、
その小さな一つ一つに込められた物語や思いが
塊となって、こちらへ押し寄せてくる。

ただただ、胸がいっぱいになった。









”もの”の表面が、私はずっと気になっている。
表象という言葉に置き換えたのならば、どちらかというと
重要ではなくなるのかもしれないけれど、
質感とか、色合いの曇りとか、汚れとか、
そういうものを含んだ、痕跡を見るのが好きだ。
ただの”もの”でもそうだし、作品でもそうだ。
物質として2次元でも3次元でも存在するものには
痕跡が欲しい。

そこには、触れた分だけの密度と愛着と情熱がある。


もちろん、ものを作る人たちの中には、
さらっと美しい形を、痕跡など残さずとも作れる人もいる。
そんな、天才的な作品にも圧倒される。
けれども、時間をかけて味わう物語は見出しづらい。


私自身は、できるだけ”もの”に、
執着しないようにしている。
失くした時の痛手に耐えられないからだ。
(無駄に、先々の心配ばかりをしている。
そんなことばかりしていると、本当に手のひらに納めたいものも
乗せる前から手放さなくてはならなくなったりも、する。)

その物体は失くしても、手に入らなくても、物語は記憶できるから、
感触の感覚や記憶や写真だけでも、満足すべきなのかもしれない。

自分自身で、手のひらに慈しむものを作っていけたら、素敵だ。
けれど、いざ何かを作るとなると、
慈しむことのできるような愛らしいものではなく、
もっと抽象度の高い、限りなく崇高な何かをテーマに、と願いがちで
結局作る作業まで行き着かなかったりしていた。
物語を含むものだと、どろっとしたものが出過ぎる気がして、
そういうものは極力、排除したかった。




中学2年生の時、美術の宿題で絵を描いていた。
何がテーマだったのか覚えていないのだけれど、
私はひどく思い入れ強く、真っ白な鳥の頭部だけを
丁寧に羽の一つ一つ、筆で描いていった。

美術の先生に出来上がった絵を見せる。
先生は、その絵に鋭い視線を送ると、
おもむろにエアブラシを手に取って、
紫色の絵の具を入れて、白い鳥の顔に紫色の細かな粒を吹きかけた。

たぶん、私の目は怒りに満ちていたのだと思う。
けれど、先生は何の躊躇もなく絵の具を吹き付けると
こっちの方がいい、と言った。

あまりにも強烈な体験だったからか、時折今でも
白い鳥の頭部が色に染まっていく様子を思い出す。

なぜ白い鳥に色を吹きつけたのか、
今ならどこか、分かる気がする。



詳細はほとんど覚えていないのだけれど、
小学校の卒業文集の、将来の夢について、各々が書き記した文集で
自分が書いた主題だけは、はっきり記憶している。

私は、音楽の先生にもなりたかったけれど、
何よりもとにかく、善い人になりたかった。
だから、成長したら、善い人になりたい、と書いた。
たぶん、シンプルに他者を傷つけない、善良な人間であることが
私の中でとても大切なことだったのだと思う。


小学6年生が考える善い人の定義は、ずっと跡を引き続ける。


究極的には、善良で他者を傷つけない人など、ほとんどいないだろう。
それでも、そう心がけることが大切だと、信じ続けていたし、
まったくできないことに苦しみながらも、
いつか私自身が体現したいと、望み続けていた。

けれども、少しずつ、周囲のさまざまな物事と人の背景が
ひどくはっきりと見えてくる。
私が思っていた、いい人、が例えば、
素晴らしい音楽や絵画や彫刻や文章や世の中の仕組みを
作れるわけではない。

より確度の高い、善い人、は、人のあらゆる業や混沌を分かっていてもなお、
他者を、そして自分を、そのまま受け入れる愛情を持てる人、
ということのようだと、いつからか、気づき始める。
好きな本や音楽とそれを作り出す人々の姿から、知らされる。
人物の周辺で起きる事象とは切り離して、人そのものを見られる、
核心を見極める優しい視座を持てたなら、
より、善い人、に近づけるのだろう、とも。

そう分かりながらも、なお
今まで信じてきたものを容易に捨てられないまま、歳を取るまで、
必死にありたいていな道徳心に、しがみついていたのかもしれない。
そのために、さまざまな思いに、時に目を瞑り、時に諦め、
そんな自分自身の選択が良かったのだ、と、
納得させようとしていた気がする。
だから、他者に対してそこそこ寛容なふりをしていても、
その実、どこかで頑なに内に引きこもる自分がいた。



素晴らしいと思うものを作り出す人たちの多くは
崇高な理想を抱いていても、同時に、
果てしない懐の深さを、持ち合わせている。
その懐は、他者だけではなく
自分自身の痛みや後悔を含み、悲哀と歓喜、を含む
物語できっと、埋め尽くされていて、だから
汚れて、手垢に塗れ、でもその奥に切実な理想や思いを
隠し持っている。




白い鳥が真っ白なまま描かれていても
もしその鳥が、何かしらの理想や崇高さの表れであるならば、
その存在のみがある、という状態は、
ある種矛盾のようなものを孕んでいる。
美術の先生は、その事実を見透かしていたに違いない。


白い鳥にスプレーを吹き付ける作業を、その時は気づかず、
今までの自分の人生の中で何度も、自分の手でし続けている。

けれど、私自身はその作業をする自分を、
きちんと認めて、大切にできなかった。
ただひたすら、その作業から生み出される小さく、大きく
薄汚れて卑小で、偏屈で些細な、でも時には
愛おしい幾つかの、もしくはたくさんの物語だけを
どこにもやり場なく、身体に溜めつづけてきた。


だからこそたぶん、汚れや手垢や、
くすんだ色への愛着や愛おしさに、随分と心惹かれている。




クートラスのカードのようなもの、を作れるものならば
作りたいと思ってきた。
カードというサイズに似合った、
偏屈で些細で、でも、手のひらで愛でられるようなものを。

才能やセンスには目を瞑るしかないけれど、
クートラスがカードに込めた思いの片鱗だけでも、
見出せるような、
身体に溜めた物語を少しずつ出していく作業を
やっと心から、できるようになりたい、と
思えるようになった気がする。

ちゃんと自分の持つ物語を見つめ直し、
周囲の、遠くの人々の物語にも思いを寄せる作業と
作る行為にかかる時間の中で、向き合う。

やはり、いくらかでも善い人になりたいと、
切に願っている。



展示作品の写真のすべては、「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。



0 件のコメント: