2022/07/03

ストレスをめぐる、繊細さと正義と慈しみ



「日本人とやりとりをする方が、場合によっては
現地の人と会話をするよりストレスなのかもしれません」


仕事の制度で受けさせられる、駐在用のストレスチェックカウンセリングで、
私の横に座る産業医に対して、そう、答える。
要領を得ない、治すべきものが明確に見えてこないクライアントである私から、
なんとかストレスの素を引き出そうとしていた。

仕方がないので、適当に返答を埋めて事前に送ったアンケートの結果を見つつ、
あらためて、何がストレスなのか、もう一応大人になったので、
ちゃんと答えようとして、天を仰ぐ。






時々頭の中に、鉤括弧付きの、
「繊細な日本のわたし」というフレーズが浮かんでくる。

アラブ人相手の時は、限られた語彙の中で、
こちらの意図を理解してもらうために、相手の思考回路をできる限り把握して、
その回路に合わせて一番分かりやすそうな、そして
適切な言葉を選んでいた。

例えば、何か問題が起きた時、責めているわけではない、
ただ、理解したいから話したい、と
さっぱりはっきり話し始めると、相手が比較的すんなりと
思っていることを口にしてくれることが多かった。

そして、絵に描いたような、腹を割った会話、をする。


でも、日本人が相手だと、そんなあからさまに、
やもすると、ガサツで、上から目線と思われてしまうような前置きなど、
口にすることはできない。

わたしの理解するかぎり、日本で経験する繊細さは
重層的で、多様性に富み、
結果的にとても、厄介だ。


わたしもまた、多くのアラブ人よりかはいくらか繊細で、
日本で会話をしていると、相手の思っていることが手にとるように分かる、
というシーンも少なからず、ある。
言葉の使い方や物腰、表情、色々な情報が一気に入ってきて
相手の性格や今までのやり取りから、
静かにキレているな、とか、不満なんだな、とか、結構喜んでいるな、とか
ぶわっと心の中に入ってきたりする。

言葉のニュアンスが完璧に分かる、ということも一つの理由だけれど、
たぶん、ヨルダンでずっと、相手の思考回路を
できるだけ正確に把握しようとして、
目の前の人のあらゆる情報を必死に集めてきた癖が
抜けずに残っているからだろう。

この、押し寄せる相手の心の内は、時に、
こちらが恥ずかしくなるほど愛らしいものもあれば、
必ずしも知りたいものではない場合もある。
後者だった場合、フリーズしがちで、ストレスとなる。

でもそんな、ひどく些細なことをわざわざ、
産業医に話す必要もない。



高校の頃一時期、カウンセリングへ無理に、連れて行かれたことがあった。

全体にベージュかオフホワイトの壁に、
差し障りのない、つまらない絵画。
訳知りな感じの、品のいい女性の先生が、
ずっとうっすら、口元に笑みをくっつけて、
目の色ひとつ変えずに、ただひたすら、
わたしから話を引き出そうとする。

絶対一言も、話してやるものか、と
頑なに口を一文字にして何も話さないわたしに
先生は目の色こそ変えなかったものの
少しだけ眉を動かし、困ったような表情をする。




どんな人たちと話す時、ストレスを感じますか?

産業医はメガネ越しに、じっとわたしの目を見つめてくる。
すっと視線を逸らしつつ、でも、特にない、と答えたら
お医者さんは困ってしまうんだろうな、と思う。
もう大人なのだから、きちんと答えなくてはならない。

そこで、先日からわたしを悩ませている案件について、
話をしてみることにする。

日本人で日本語を話すのに、
まったくどんな思考回路なのか理解できない、という人の存在も
避けられない事例として少なからず、ある。
同じ言語を操っているのに、相手の感情や思考が見えない。
これはまた、ひどくストレスとなる。
打つ手なし、攻略も見つからない。


そんな相手の一人がよりによって、正義の多面性について、という
お題でわたしに話をさせようとする。
提案のメールを読んで文字通り、髪の毛が逆立ったので、
なんとメールを打ち返してやろうか、毎晩結構遅い時間まで
色々作戦を練ったりしていた。
たぶん、わたしは暇なんだと思う。


とかくマッチョになりがちな、正義という言葉の概念も存在も、
なくなればいい、ぐらいに思っている。

徹頭徹尾、客観的な法的文脈での正義ならば、
自ら話せる言葉は一つもないけれど、知るために拝聴したい。
正しいか正しくないか、の判断基準としての正義の話をしているのであれば、
結局個々人の主観に則った思想や感情のぶつかり合いにしかならない。
大体そういう人たちの語る正義的何か、は
原理的様相を帯びていて、もはや恐怖しか感じない。

などという話をメールで返信しようとして、
整理する過程でふと、気が付く。
なくなればいい、ぐらいに思っていること自体もまた、
非常に短絡的で排除感に満ちた、原理的なものの考え方である、ということ。

これはひどいな。
暑さとともに、思考が停止する。


という話が全貌だけれど、実際のところは、
ただ、こちらの話がなかなか伝わらない人がいるから
結構そのことで色々考えていて、自分ができていないことも多いから、
リフレクションしている、ぐらいに留めておく。


夜遅くまで、ということは、そのせいで眠れなくなっていますか?

そう訊かれて、その質問の中に見え隠れする、あまりにも職務に誠実な
産業医の職業的義務感に、心底うんざりする。


ストレス軽減と、自分の身体の話を聞くのに効果がある、という
タッピングや呼吸法などを一通りやって、
カウンセリングは終了した。


正義の案件については、とにかく、話した方がいいだろう。
メールで打ち返すと、どこかで、論破してやろうという
ゴリゴリしたわたしが登場してみっともなくなるし、
その後結局、自己嫌悪に陥るから。
なんだったら、話す前にタッピングでもして、
心を落ち着かせたら、きっと話し合いも円滑に進むだろう。



カウンセリングで効果がないのは、さっぱり素直ではないからだ。
無駄に経費を使ってカウンセリングなどする必要はない。
帰りの電車の中、茹だるような暑さと、なんとも言えず消化不良なモヤモヤを
イヤホンから流れる音楽で洗い流そうとする。


高校生の時の、カウンセリングからの帰り道。

一緒についてきた母親は、わたしが何も話さないことに
先生と同様、途方に暮れていた。
何度通わせても、いくらの進展もない。
電車の中で、全身が沈黙の苦痛と、何も話せない申し訳なさに溺れる。
すっかり潰れてしまった心が、もっとくしゃくしゃになるのを
ただじっと感じながら、
夜の田舎を走る電車から見える真っ暗な景色を、見つめていた。



素直じゃなくて頑ななわたしだけが、変わっていない。
ずいぶん昔の、心臓を握り潰されるような痛みの痕がうっすら蘇り、
それから、ある母子が
わたしにそれぞれ話したことを、思い出す。


やっと最近、あの子も人間愛を携えるようになった、と
初めて会ったわたしに、おっしゃる。
久々に、漏れ出るような慈しみに満ちた表情を湛える顔を見た。
あぁ、この方にとってその子どもの姿はとても、嬉しいことなのだろう、と
聞いているわたしもまた、そこはかとなく温かな気持ちになる。

子どもの方もまた、母親が愛情を持って助けてくれていることへの
おそらく、かなり切実な感謝を、きちんと言葉にしていた。


久々のカウンセリングの帰りに車窓から見える景色は、
白っぽい湿気だらけの空と、
入道雲のようにもこもこと緑の茂る多摩川の河川敷で、
どこかあっけらかんとしている。


歳をとる過程で、さまざまな人の姿や言葉に触れ、
きちんとそのままの大きさで受け止め、大切にできた話や会話は
いつまでも大事な財産になっている。
たぶん、自分で自分を救うための言葉や記憶をいくつかは、
持ち合わせられるようになってきたと思う。




きっと何度受けても、カウンセリングは好きになれないだろう。

もし、カウンセラーに自然に、心預けられるようになったら、
きっとその時には、本当に、カウンセリングを受けるべき何ものも、
わたしの中からおそらく、なくなっている。




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