2022/05/05

5月すぎる日に、ひどく似合うもの 似合わないもの

 
よく晴れた日本の5月なんて、やもすると
手の施しようがなくなるような、暗澹たる気持ちに
させられたりする。
緑が鮮やかすぎて、風が爽やかすぎて、
目に映るものや人が、素直にそれらを享受しすぎていて、
すっかり取り残された気持ちに、なる。




身体をぐっと、目一杯伸ばして、深呼吸をして空でも仰ぎ、
晴れやかな気持ちになれればいいのだけれど、
どこを見ても青と緑が眩しすぎて、目のやり場に困る。

なぜか、そんなあからさまにきらきら輝く5月には、
村上春樹の短編の断片を思い出す。
まだ初期の、若葉みたいに伸びやかな頃の作品たち。

本屋へ行って、短編などを手に取ってしまい、
なんとなく買って、カフェに入る。

後ろに座っている外国人が、ずっと仕事の話をしていた。
蝶々の発想は素敵だの、あのシナリオには修正が入るかもしれない、だの
たぶん、仕事相手だけれど大切な誰か、に話をしていて、
何度も言い淀んでは、言葉を選んでいた。
ネイティブの言葉を探す戸惑いと、吃音のように主語を繰り返す、
その掠れた音の繰り返しが、どうしても耳につく。
本を読もうとしても、どうしても、集中できない。

だから、道ゆく人々をぼうっと眺めながら、
あなたのこの写真の部分は素敵なんだけど、だの
話している声を聞く。

カートに2匹のチワワを入れて疾走するおばさんとか、
新緑といい勝負な素敵に輝くお腹を出して歩いている女の子とか、
飼い主の闊歩についていけずに引きずられていく小型犬とか、
見事なリーゼントの中年女性とか、
全身微妙に違う豹柄でアレンジした金髪の中年男性とか、
やたらとこちらを見つめてくるベビーカーに乗った1歳半ぐらいの男の子とか。

日本中の外車が集まっているんじゃないか、と思えてくるような
ピカピカの外車たちが通り過ぎて行き、その中には
漏れなくモノトーンな服をオシャレに着こなした人々が
不機嫌そうな表情で淡々と車を運転していた。

大体、常時読みかけの本を3冊ぐらい持っている。
さっきの本と、短編が2冊と、長編が1冊。

もともと持っていた1冊は、ルシア・ベルリンの
「掃除婦のための手引書」
前評判の良さと、翻訳家の選書の良さを信頼して手に取った本で、
評判と選書への信頼以上の、読み応えがある。

ちょうど読んでいた話は、幼少期の孤独な著者の過去について。

隣に住んでいるシリア人の少女ホープと仲良くなった。
(きっと、「アマル」=ホープという名前の子だったのだろう)
叔父さんのほか、家族の誰からも相手にされていない著者が
シリア人家族に、その家族の一員のように受け入れられる。
「その後の人生で、ホープほどの友だちは二度とできなかった。
たった一人の、本当の友だった。
わたしはだんだんとハダド家の子みたいになっていった。
もしもあの経験がなかったら、
たぶんわたしは今頃神経症とアル中と情緒不安定だけでは済まなかっただろう。
完全に壊れた人間になっていただろう。」

ホープと幼い著者が、遊びで盗みを働く。
著者の母親がその事実を知り、引っ叩き、盗人のワルガキと
娘を罵っている横で、ホープの母親は言う。
「でたらめを言うんじゃないよ、うちの子たちを悪く言ったら承知しないから!」
母親には、自分が悪くないと信じてほしいわけではなく、
悪いことをしてもなお、味方でいてほしかった、と気づく
真に切ない挿話だった。


まさに、この話のシリア人家族のように、ヨルダンで会ったアラブ人家族の多くが
子どものことを猫可愛がりしていた。
悪さをした報告を誰かから受けても、うちの子はそんなことなどしない、とか、
実際悪いことをしたり言ったりしたのを見ると、
子どもだからしょうがない、とか、よく言われた。
私の場合は、トマトや石を投げられたりしたという類の訴えだったけれど、
殊、アジア人の言うことなど、まともに取り合ってくれなかった。

トマトや石ではないけれど、子どもたちの悪さへの大人の対応については
似たような現象が日本の移民コミュニティでも見られるようで、
そのコミュニティにいる青年自身が、
親も大人も、善悪や礼儀を教えないのが、どれほど
彼らのコミュニティ自体にとって良くないのか、
切々と訴えていた。

自分たちを取り巻く八方塞がりの環境や社会のせいにするよりも前に、
受け入れてもらうための、自らの省察と改善への努力が必要なのに、と。
パレスティナ西岸のパレスティナ人もまた、状況は違えど
似たようなことを言っていたのを、思い出す。

私自身、その青年と同じように考え、だからこそ
教育分野で仕事をしてきた。
けれども、幼い著者の、「味方」をめぐる切実さにまで
思い及んではいなかった、としばらく、ぼんやりしてしまう。

アラブ人の多くの、あの圧倒的な自己肯定感の高さと
幸せへの感度の高さを、思い出す。



白人の男の子が、明らかにサイズの大きすぎる
自転車用のヘルメットをかぶって、目の前を横切っていく。
すらっと背の高い母親が男の子の後ろを見守りながら歩いていく。
小さすぎる茶色い犬が、秒速で足を動かしながら必死に、飼い主についていく。



味方になる、とは、どのような姿勢で接することなのか、
どんな言葉をかけるものなのか、そもそも、味方とは
何を意味することなのか、ずっと小さく、思い悩んでいる。

私は味方でいたかった。
けれど、おそらく、味方である、ということが態度や言葉ではうまく
伝わりきれなかった人のことを、思い出す。
子どもの発達段階の心理サポートにかかる文脈は、
大人へどうやって適用できるのだろう。

それは、まったく、こんな天気にそぐわない、
ひどく個人的で卑小な後悔の部類の話だ。



ルシア・ベルリンの短編では、子どもらしい、けれども
決定的に悲しいホープとの訣別が待っている。
絶対口をきかない、と約束した人と話をしてしまった著者を
ホープが見つけてしまったその日から、
シリア人家族は完全に、著者を無視した。

少女同士の関係は、そんな悲しい終焉を迎えるのに、それでもなお、
本当の友で、あの経験がなければもっとどうしようもない大人になっていた、と
著者は皮肉ではなく、切実にそう、思っている。

他者が、自分の手には入らない味方を持って生きている。
それでも、そんな味方のあり方が世の中にはある、という事実だけでも、
彼女のその後の人生の助けに、なっていたのかもしれない。

アル中から抜け出すまでに、地獄のような苦しみを味わった
彼女の短編にはなお、軽妙さと強さと、だからこそ、
言いようのない切実さがあって、とても魅力的だ。

味方について、ぼんやり考え、それから村上春樹を手に取る。

あしかが精神的御援助、という名の
あしか祭りのための金銭的サポートを求めて、
主人公の家を訪問していた。

5月には、やはり、村上春樹の初期の短編は
からりとすんなり、入ってくる。
少なくとも、私だけが取り残されている、という
暗い気持ちには、させない。

その代わりこの短編で、味方の意味など、
真剣に取り扱うことは、おそらくなくて、
だから、暗い気持ちにならないけれど、
絞り出すような切実さも、受け取れない。

あしか祭りを読めるということはつまり、
まだ私は、そこまで追い詰められていない、ということだ。

個々人の繊細さの種類と方向性に、まったく
この2つの短編で交差する部分がなくて、
なんだか、笑いが込み上げてくる。

マスクはこんな時、とても便利で、ありがたい。



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