2021/05/29

砂塵と鳩の舞う土地 - 電気が来るとき スイカの味

先週の金曜日、ヨルダン北部は大規模の停電だった。
送電過程で問題が起きたようだった。
ヨルダンのインフラは、周辺国に比べてかなり
安定感がある。
これほど長時間電気が止まるのは珍しかった。

屋上の家は、こんな時いろいろと、困る。
水タンクは屋上に並んでいるのに、
さらにタンクから電気で水を汲み上げているので、
水も使えなくなる。

本を読もうと思ったけれど、夜になっても電気が来なかったら
気になっている話の展開を、電気が来るまで待たなくてはならない、と
いつ復帰するか分からぬ電気に、さまざま無駄に杞憂したりする。


キャンプの電気は、時期によって送電時間が異なるけれど、
平均して一日8時間前後になっている。
オンライン教育が始まってからは、テレビの授業配信や
ネットのオンライン授業配信へ無料でアクセスできるのが日中なので、
午前中から午後にかけて、そして夜の数時間に電気が来ている。

電気が各家庭に配給されても、学校はずっと電気がこなかった。
だから、電気の来る時間を気にしても、意味がなかった。





この日、朝から家を訪ねて回っていた。
だから、電気が来る時間にたまたま、居合わせることになる。

プレハブは天井からの熱を遮るものがない。
すっかり夏の気候になった五月の家の中は、
まだ風が涼しい朝ならばそれなりに過ごせるけれど、
じりじりと温度が上がり始める頃には、暑さが気になってくる。

9:58、電気がくる時間になる少し前から
古びた扇風機を土間に配置する。
子どもたちが扇風機の風の来る正面に、並ぶ。
客にも風の当たる場所を勧めてくる。
正直、冷え性の私は扇風機が苦手なので、丁重に断る。
家主は訝しげな表情で、私を見てくる。

10:00 、1歳から11歳まで、6人の子どもたちが
顔を風に当てて、嬉しそうにふわふわと笑う。

旧式の巨大な四角い送風機もあった。
冷たい風も一応出せる、床に置くタイプで
かなり大きな音が出る。
客に気を遣ってか、それも動かしてくれるのだけれど、
会話もままならない。
もてなしが、心苦しい瞬間でもある。

いろいろと用事をしている間も、
扇風機は家の中心に鎮座し続ける。
家の誇りが扇風機に集約されているような構図となる。


この日、伺った他の家々のうちいくつかの家でも
客間に扇風機をわざわざ移動させてくれる。
直風を受けながら、バタバタと書類や髪が風になびく。

伺う家の中には、コロナ禍でキャンプ内での仕事を失ったため、
親戚を頼ってキャンプの外へ一家で避難していた家庭もあった。
イード前にキャンプへ戻ってくる、と話を耳にして、伺う。

キャンプの外へは普段でも自由に行き来はできないが、
コロナ禍では、完全にキャンプ外へ出る公式な手続きが止まってしまった。
けれど、当然のように生活は行き詰まるから、
公式な門を使った出入りではなく獣道を通って
外の農場へ働きに出ている人たちの姿が、頻繁に見られるようになった。
黙認している寛大さのありがたみを、
キャンプの住人ではないけれども、ひしひしと感じる。

すべてを杓子定規で考え、実行していたのでは
この難局を乗り切ることはできない。
生活のなんたるか、を知る人々の判断だ。




ラマダン中、最後の訪問は済ませなくてはならない用事がたくさんあって、
私一人だけが、ラマダン疲れを全身でアピールしつつ
イードの準備に勤しむ人々を尻目に、あっちこっち移動する。




道端で会った男の子たちだけは、いつも通り
断食してはいるけれど、外で遊んでいて
面白そうな人がいるぞ、と外国人に寄ってきた。
うまい具合に捕まえて、子どもたちにやってほしいこと、を
道端でしてもらったりして、彼らの暇な時間に彩を与えてみる。
飲まず食わずの暑い日中でも、元気がはじけるような男の子たち。

歳が大きくなるにつれ、疲れの滲み方も大きくなる。
男の子たちも、中学生ぐらいになってくると、
疲れ具合が大人と変わらなくなってくる。


最後の訪問は、スタッフの家だった。
いつも通りだけれど、とても静謐な空気を持つ家だ。
おそらくいつも、午後仕事終わりに伺うからだろう。
まだ小さな子どもたちは、昼寝をしていたりする。

そこだけ生活感のない、立派な客間へ通され、
また扇風機に当たりながら、話をする。
ヒジャーブを外した女性スタッフもまた、髪をなびかせる。
用事だけ済ませると、お茶も飲めないので早々に家をお暇する。

そろそろ、喉もカラカラ、身体が干からびていくのを感じていたところに、
バッティーフ、バッティーフ、という声が響く。
スイカ売りが近くにいるのだ。

プレハブだらけの細い路地を這うように、ロバ車は動いていく。
荷台にたっぷりスイカを乗せて、ロバもスイカ売りの青年も
だるそうだった。
同行したスタッフが、吸い寄せられるようにスイカに近づいていく。
何の躊躇いもなく、スイカを買おう、と声を弾ませる。




売り手の青年もまた、買うと決めた客に対して
躊躇いなくスイカに包丁を入れる。
私はこの習慣が得意ではないのだけれど、
甘いことを分かってもらうために、スイカの真ん中あたりに刃を入れて
四角く取り出してくれるのだ。
普段であれば、その場で味見をできるのだけれど、
ラマダン中は食べることもできないから、ぐっと生唾を飲む。

見るだけでスイカの水分が身体を潤う気がしてくる。
そして私もまた、何も考えずにスイカを買う。
キャンプではできるだけものを買わないようにしているのだけれど、
そんなこともすっかり忘れていた。

車の座席の下に転がったスイカを見ながら、
このスイカを持って事務所へ行き、このスイカを持って家まで戻るのか、と
思った時にはもう、遅かった。
あとは、スイカが甘いことを願うのみだ。

私のように、スイカに刃を入れるのを嫌う人間は、
味を確かめられないまま、スイカを買うことになる。
もしくは、スイカに刃を入れたとしても
切ってもらったスイカを、買わないわけには行かなかったりする。



以前、うちのスタッフが結婚について語っていたとき、
結婚っていうのは、スイカと同じよ、と宣った。

人の紹介で結婚相手を決めることが多いし、
日本のような、結婚前の親しい付き合いは許されていないことが多いから、
結婚前、どれだけ甘い言葉を口にし、気を遣ってくれる相手でも
それがすなわち、いい旦那になるとは限らない、という話だ。

じゃあ、あなたはとてもいいスイカを買ったのね、と
心から言える相手から、この話を聞いてよかったと思ったのは、
そうではないケースも多々、あるからだ。

この日買ったスイカは、見た目こそ黄色い肌も残っていて
不恰好だったけれど、とても甘くて瑞々しかった。

今年初めてのスイカを、実のまますべては食べられない一人暮らしの常として
すぐジュースにしてしまう。
そして、大半は容器に入れて冷凍する。
作ったばかりのスイカジュースを飲み干し、
スイカの水分と身体の水分との親和性について、しばらく考える。

コロナ禍では、夫婦喧嘩がひどくなって、家の中が険悪になり、
困り果てている子どもたちもいる。
その日伺った家の中にも、子どもから密かに
家の中の問題について愚痴を聞いた家庭があった。

スイカは必ずしも甘くなくても、
そのうち実がなったりする。
旦那は甘くなくても、子どもたちはとても優しい子になったりする。

時にはぐしゃぐしゃのジュースにして、
時には冷凍にしてしばらく放っておいて、
時には砂糖を入れたりして、
何とか今の苦境を乗り越えてほしい。

などとぼんやり思いながらジュースを飲んでいたら
あっという間にコップの中身はなくなり、
冷蔵庫のジュースに手をつけることになる。

ラマダンにスイカジュースは、とてもよく、似合う。


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