2021/02/20

生きながらえるための、本と紙の束


帰国中の本屋は、早く閉まりはするものの、いつでもどこでも
私を温かく迎えてくれる、大事な場所だった。

いつも通り、日本でたくさんの本を買った。
Kindleこそ、私のような人間のためにあるようなもののはずなのに、
どうしても本という形態から離れられない。
本たちが、先の見えない次の帰国までの
食料や日用雑貨のバラエティを制限する原因になっている。
トランクの重さを測る吊り下げ式の重量計が、いつも命綱となる。

アンマンの家に戻ってきて、本をトランクから出して、
あぁ、また買ってきてしまった、とほんの少し、後悔する。
いつかアンマンを引き払う日がきたら、この本たちをどうすればいいのだろう。






物語が私を救う、と書くと大仰なのかもしれない。
けれど、どうにも事実がとかく辛くなりがちな場所にいると、
目に見える範囲の世界で、処理しきれないものごとの中から、
何か美しいものごとや感情だけを、切り取って保存したがるらしい。
そして、凄惨なものごとや感情の中にある、
優しさや煌めきの片鱗を見つけ、大切に抱いておける
装置を、欲しがるらしい。

事実は、ただそこらへんにある石ころのように、
ポロポロと転がっていて、それだけでしかない。
ただ、石ころでつまづきながら、石ころそのものを憎まぬように、
石ころにまつわる話について、思いを巡らせなくてはならない。



それから、本とともに持って帰ってきた、
美術館のパンフレットを並べる。


何に自分が興味を持つのか、久々に美術館をはしごしながら、考えた。
それから、いわゆる芸術というものに、私は何を求めているのだろう、と。

新たな視点を気づかせるもの、が面白いと思えるようになった。

もともと、ひどくアカデミックな考え方の畑で美術を学んでいたものとしては
ものをつくること、そのものへの探究心が制作の動機になり得たし、
とかく彫刻を専攻していたから、物理的に制作に時間がかかることで
その時間に耐えうる恒久的なテーマ設定が必要だった。

ものをつくることで培われる技術は呪縛にもなりうる。
すっかりその呪縛に囚われている私には、多くの作品が
自由でのびのびとして、見えた。

結局いろいろな分野の作品を見たけれど、
今のところうまく、整理できていない。
ただ、瞬発性と恒久性の間で揺らぐものの、に惹かれるものがあった。

イメージが欲しい。
ぱっと一瞬で核心が伝わるようなイメージの共有ができたら、と思う。
初めて会った人の印象が切り取られて残るように
初見で残るような、すっと心に入るこめるようなイメージを。

でも、同時に、どうも事実の集積から立ち上がるものに、
ひどく慣れ親しんでいることにも、気づく。
写真美術館の展示で、同じテーマ、ほぼ同様の構図で、
ひたすら撮り溜められた写真が並ぶ様が、
ひどく心に馴染むのを感じた。

趣向は習慣と共鳴するものなのだろう。

何事にも鈍くて時間のかかる私は、どうにも
牛のように反芻し続けなくてはならない。

戦利品のように、アンマンのアパートに戻ってすぐ
本とパンフレットを並べて
美味しいものでもちびちびと食べるように、手に取っては戻す。

次の帰国まで、なんとかこの本と紙の束で、
やり過ごさなくてはならない。

こんな時には、自分の鈍さが結構、幸いだったりする。
残念ながら、どうも、瞬発性からは縁遠いらしい。
鈍重さをもって、生きながらえるより他、なさそうだ。



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