2019/09/06

”獏”力の、低下


4冊の本が、机の上にずっと乗っている、
一時帰国から帰ってきてからの3ヶ月だった。

米原万里のエッセイ集と、いしいしんじの短編と、
石牟礼道子の食をめぐる随筆と、カフカの短編集

全く属性の違うものたちの共通点といったら、
長編を読む気力がないから、一話読んで、本を閉じられる、
というぐらいしか、ない。


米原万里のエッセイは、もう何度も読んでいたのだけれど、
小気味良い書きぶりと、
ご本人の経験の豊富さとその、面白おかしく、
同時に示唆に富んだ省察を、
いつでも、楽しめる。

手元のエッセイは、様々な彼女のエッセイからの寄せ集め。

たまたま、鳥取へ仕事で行った時、
閑散とした市街の目抜き通りを走る、
一台の共産党車両を見つけた。

なかなか、印象的なその景色だったのを思い出したのは、
米原万里の父親が、鳥取から選出された
最初で最後の、国会議員だった、というのを知ったからだった。
彼女のロシア語歴は、共産党員だった父親が
仕事でプラハに駐在することから、始まる。
ソ連学校へ通っていたから、教育を一時期すべて、
ロシア語で受けている。

どんな短編にも、ソ連、もしくは共産圏への哀愁と愛着が見受けられる。


ただ、このエッセイ集の最後は、戦争のなんたるかを知らしめる
ロシアの雑誌の、翻訳だった。
イランイラク戦争時に取材に入ったジャーナリストが
バグダッドでインタビューした少年の語り。

戦争で父親を亡くした、靴磨きで生計を立てる思春期の少年。
美しい母親と、その母親に想いを寄せる、
一緒に住むことになった叔父への複雑な感情が
よく聞き取られていると思ったら、
最後には、しっかりと、皮肉なオチがある。

それまで楽しく読んでいて、最後の一つもまた、
美味しい上等なお菓子でも食べるように、読むつもりが
苦く渋い、薬を飲むことになってしまったような、
口の中にいつまでも残る、尾を引く後味があった。
あくまでロシアの小話風にまとめようとしたその話は、
だから返って、内容の凄惨さを引き立たせていた。

楽しいだけでは終わらせてくれないのだな、と
編纂が本人のものかは分からないけれど
彼女が伝えたかったことの本質を、見せられたような気がした。




いしいしんじは、すべてが海か山と、そこから生まれる
暗く、明るいおとぎ話のような、話だった。

どの話にも、共通して感じられたのは、
山や海と、もしくは、話の中に出てくる人や事柄と、
つながりたい、同化したい、という感覚だった。

恐ろしく感覚的なものを、描き切るには勢いがいる。
いしいしんじには、短編も長編も、
大きな波に乗るような感覚がある。

いいことも悪いことも、不幸も幸せも、
人を含む生き物のには、それなりにある、ということを
どれもこれも、同じぐらいの大きさで、書く。
そして、それらをすべて飲み込む、大きな懐を
感じられる話たちだった。

波に揺られて、とても温かい気持ちになって、本を閉じた後、
温かな気持ちが残っているからこそ、
でも、ぽつんと、また浜辺に置いていかれたような、
寂しさがあった。

すべてお話である、という当たり前の現実が、
寝そべって読んだソファの上に、蛍光灯の光の下に
ぽつん、と死んだ虫みたいに、残ったりする。




石牟礼道子の本も、ある意味、おとぎ話のようだった。
事細かに描かれた、調理や郷土料理と、
それらにまつわる、土地に根ざした記憶が
豊かに描かれている。
最初の数ページには、彼女が作った食事の様々が
美しく皿に盛られ、写真に収まっている。

水俣の景色や、そこに残る風土や伝統が
仔細に、彼女の視点で切り取られている。
その風土の描写がすでに、一つの物語のようでもあるけれど、
何よりも、鯛の豆腐詰や、干し野菜の煮付けが
すでに、私にとって、おとぎ話のように手に入らない、ものだったりする。

読んで悶絶する、駐在には全く、心にも身体にも毒で、
魅惑的な本だった。



どの本も、私にとってはある種の寓話性が、ある。

それこそが、本に求めるものではある。

けれども、カフカの話で書いたように、
話の中の、ある感覚や感情、感性には、
自分の中のそれらと、呼応する要素を持ち合わせている。
それらの要素の印象が、強ければ強いほど、
話自体は、突拍子もないものでも、
十二分に楽しめうる可能性を
持っていることに、なる。

でも、石牟礼道子を読みながら、
感性に惹かれつつも、どっぷりと浸かれず
そのズレが妙に気にかかった。

食を支える、話の一つ一つは
紛れもなく、地に足ついたものだった。
確固たる重みが、ある。

その安定感が、全くどうも、
欲しているけれど、遠いところにあるもののように、思えた。

どうも、昔のように話の中に身を置くことが
うまくできなくなっている、
苦しい感覚に、気づく。
以前だったら、石牟礼道子の文章も、
もっとすいすいと泳ぐように
話の流れに身を任せられたような、気がする。


基本的に、限りなく獏になりたい、もしくは
夢や幻想でも食べないと、
生きていくのも大変だ、と思っていたのに、
どうも、そうするにも、さっぱりと、立ちゆかないらしい。

夢見る力がなくなった、ということなのかもしれないし、
現実という基軸を、しっかりと自ら支えることの大切さを、
体感中、ということなのかもしれない。


心のどこかで、
あぁ、つまらない人間になったな、と
小さく嘆いている時点で、
まともな大人には、なれそうにない。

そして、石牟礼道子の安定感も、また
当分、手に入れられないという事実を、
腹を括りつつ、受け入れる。




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