2010/12/24

よく音を聴く




毎朝、最近はグレン・グールドのバッハやハイドンを聴いている

小さな頃、よく休みの朝に
父親と一緒に喫茶店へ往った
その時にきっと
バッハのプレリュードやイングリッシュスーツは
店の中でずっと流れていたような気がする
よく分からないけれど
とにかくずっと、弾いている
切れ目なく流れる音を
それこそするすると聴き流していた

毎朝聴けばそれなりに
音が身体に入ってきて
終止音へ向かう音の連なりのおもしろさや美しさのようなものが
分かってきたような気がする

新しい洋楽を手に入れることはできないから
自然とクラシックのCDばかりを手に入れてきた
耳がようやく
本当に楽しむことに、慣れてきた

グレン・グールドの演奏の何が
例えば独創的だったりするのかは
未だに聴き比べるところまでいかないせいで
分からないけれど
均等のとれた情熱があって
不思議な気持ちになる

また、ブラームスの交響曲の2番も
DVDでよく聴いている
1楽章目のメロディーが好きで
その部分を
バーンスタインが簡単なアナリーゼをした
映像もついてる

バーンスタインがピアノに向かって
そのメロディーと和音を簡単にさらっている
そのあまりにさらりと
でも味わいながら弾いている姿に
ピアノという楽器の魔法のようなものを
見た気がした

今年の音楽は
どうもクラシック一辺倒のようだったが
新しい耳を手に入れたようで
一つの大切な財産になった

写真は、今年よく通った
ホーチミンのオペラハウス
二日通ったシューマンのピアノコンチェルトの舞台で
2階のすみっこの
2つしかない席から


2010/12/19

児童書の楽しみ

岩波の出している児童書に
実は小さな頃は、手を出したことがなかった
そんなお行儀のいい感じの子どもではなかったし
どれもこれも
たぶん教訓めいていて
つまらないだろうと
勝手に思っていた

あるバザーで
そろそろ終わりに近づいた頃
1冊の値段で
もう1冊もらえることになった
たまたま手に取ったのが
「コウノトリと六人の子どもたち」だった
他に、そそる本がさっぱりなかったから
どちらかというと仕方なし
何としても持っていってほしい店員さんに
根負けしたようなものだった

表紙のカバーも取れてしまっていて
よれよれだった

読み始めの感触は
正直、あまりよくなかった
やはりどこかにお仕着せがましい言葉や
わざとらしい台詞が気になってしまった

ただ、こんな機会でもなければきっと
出会わなかった本だろう
モーリス・センダックの描く挿絵の
どこか懐かしい白黒の子どもたちに励まされるようにして
読み進めていった


幸せを運ぶコウノトリのつがいを村に呼ぼうと
巣に使う車輪探しをしてゆくうちに
今までは話したこともなかった村の人たちと
仲良くなり
みなで力を合わせて車輪を手に入れる、というお話

6人の子どもたちと先生
そして、錫屋のおじさんやら
93歳のおじいちゃんやら
知りたがりのおばあちゃんやら
足のない意地悪なおじさんやら
個性的なキャラクターの人々と
子どもとの関わりが面白い

マインダード・ディヤングという著者は
アメリカに移住してこの作品で
ニューベリー賞を取っているけれど
本当はオランダの出身で
オランダの漁村に住む人々の様子が
生き生きと描かれている

また、どうもはじめにまどろっこしいと思った書き回しは
この著者の癖のようなもののようで
この書き回しによって
堀の泥に埋まった鉄輪をいろんな方法で探したり
難破船の中にある車輪をどうやって引っ張り上げたかなどが
随分と詳細に書かれていたりした
それがきっと、子どもにも興味深いだろう

きっと子どもが好きだったに違いない
子どものしそうなことが
よく描かれていて
それだけでも心躍った

いつかまた、
こんなふうに本と出会う時を
楽しみにしていたい


2010/12/12

当たり前で難しいこと


この週末は仕事で
いろいろと面倒なことが起きて
久しぶりにものすごく腹を立てた

腹を立てるのには相手がいて
もちろん自分についても落ち度があれば
自分にも腹が立つ

そしてすっかり疲れてしまった
でも、どうしたらいいのか
賢明な判断をしたいとも思った

愚痴を云うのは簡単だけど
そこに、解決の糸口がなければ
ただの悪口や不満だけで終わってしまう

そうならないためには
自分一人で納得を持って決めていかなくてはいけないことがあって
それだけの聡明さがなくて
難しいものだ、とぐるぐる思いが巡った

仕事のことだから
きっとそれは
ものを作る方の仕事にも云えることなのだけど
何かや誰かに対する
誠実さがなくては
仕事を続ける意味や意義を見失う

誠意を見せたり
誠実さに執心して仕事をするのは、実は難しい

他人に対してそれを要求するより前に
自分がそれをできているのか
自問しなくてはならない

果たして、できているのか
見せていけるのか
あらためて考えさせられる機会を、得た


2010/11/21

現れるものもの

家族がホーチミンに来ていた

久しぶりにガイドブックを開き
往ったことのなかった店を訪ね
通ったことのない道を歩き
新たな街の姿を見る

知っているはずの街だったのに
観光客の視点から
今までは気にもかけなかったものや人が
突然自分の前に現れる

忍耐強いドライバー
美しい刺繍の布
動物園へ通じるまっすぐの道
よく熟れたマンゴー
靴磨きの少年

それから、自分の基になるものも現れる
家族それぞれの姿の断片が
一つ一つ自分の中にもあって
いいところも悪いところも
いっしょくたになって
標本でも見るように並べられ
そして、入れ物からこぼれ落ち
ころころと転がっていった

振り返れば、おかしい

空港へと向かうバスを見送ると
バスが走り去っていった後の
見慣れたドンコイ通りに一つ、また
新しい記憶が残される
街と、そこに住み、街に留まる自分の姿

2010/11/13

不可思議な風景



まだ、夕方から驟雨がやってくることも多いのだけど
朝にはすっかり晴れ渡り
青くて雲のない空に風が吹き渡る

室内から空を見ると
お正月の空のようで
こんなに暑いのに
視覚が
きりっと身の引き締まる
冬の、よく凧でも上がりそうな
風の強い日を呼び起こす

最近外の仕事が多い
長袖を着ても
首元は真っ黒だ
よく焼けてしまった手の甲と
空を交互に、見る

2010/11/08

詩となる映像


とっておきのものだったから
いつ見ようかタイミングを伺っているうちに
いつの間にかもらってから
半年以上経っていた

テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」を見る

簡単なストーリーと印象に残る言葉
それからいくつもの映像だけを記憶していた
何年ぶりかに見る映画は
新鮮に映る場面も多かった

ブルーノ・ガンツの笑顔が
もう、どうにもならないほどに切なくて
どの場面で笑っても悲しくて
不法入国をした少年の笑顔よりも
底知れなかった

一つ一つの映像が長い
ゆっくりと流れてゆく映像が
そのまま一つの言葉のようだった
もしくは、詩の1行

意味が広がってゆく
映されているもの以上の何かが
じわりと染みだして身体に広がってゆく


それらを味わうのにちょうどいい
一つの風景に対する、時間の長さ




2010/10/27

ヒカラビルモノ


黒い染みのようなものが
建物の角のブロックの端にくっついている
なんなのだろう
気にかかる輪郭だった

まだ、雨期は終わらない

でも、朝には澄んだ空気が風に乗る

だから往き場を失ってしまったのだと思う

気がついたら、こんな姿になっていた、
というところだろうか

強く翳りを知らない真昼の日差しの中の
静止した風景

2010/10/16

何度でも、いいもの



よく本が読める日が続いている
それは、とてもいいことだ

先週からずっと、いしいしんじの本を読んでいる
こちらで読めるものは少しだけなのだけど
「ぶらんこ乗り」と「麦ふみクーチェ」を読んで
なんでこんな話が書けるのだろうと
心底、思う

それを、心から楽しめるのがうれしい

ものすごい、思い、のようなものがあって
でもその思いからずれない程に
たくさんの話が織り込まれて
いいことも悪いことも
正しいこともさっぱり正しくないものもあって
でも、最後にすべてがすっと
同じ、その思いに終着する
いいも悪いも、ない、そう云っているような気がする

思いが、こちらにはまだまだ足りない
何かを生み出すのに
思いがまだまだ足りない、そう感じる

2010/10/14

雨がきっと多いから


雨がきっと多いからか
道ばたに、グラウンドに、芝生に
かたつむりがいたりする

仕事場の敷地の外で
こんどは、地を這うものを捕まえた人が
見せてくれる

初めてまじまじと見るやどかり

どうも、ナウシカに出てくるあの生き物のようで
足に生えた小さな毛やくるくる回る真っ黒な目を
観察する

いろいろなものが
雨に浮かれて這い出してくるのが
雨期のようだ



2010/09/30

小さな、ごく小さな住民の捕獲


朝、仕事場で小さなざわめきが興る
廊下に落ちていたらしい

吸血鬼はここから来たのだろう
咬まれたら確実に
狂犬病の菌を植えつけられる
夕方から飛び回る空の住民

危険だから捕獲され
こんなに小さい、まだ子どもの
こいつはペットボトルに入れられて
私のカメラに納められ
それから、きっと、ぽいと
コンクリートの上に捨てられた

よく見ると
耳があり、口があり、小さな牙があり、骨ばった手があり、獣の毛に覆われて
当たり前なのだけど
つくりもののように、よくできている

まじまじとペットボトルを回す
衰弱しきって腕を伸ばすこともないこいつは
でも、ひそやかに首を動かしている

ペットボトルが微かに曇っていた


2010/09/26

沼地に住む

この週末でやっと
来週搬入の作品が上がる
搬入と云っても、こちらから伺えないので
郵送し、他の出品者の方に搬入していただく

もう、10回目になるbookwormsに
ご無理を云って、出品させていただくことになった
おそらく、こちらにいる限り
展示の機会を見つけるのは本当に、難しい
だからこそ本当に、有り難い


知り合いの方に制作の近況などを書きながら
本の内容のところで、躓く

こちらでの生活の中で
私が得られたことは何なのか
自転車をこぎながら
タクシーになりながら
セオムに乗りながら
カフェでぼんやりしながら
街を歩きながら
パソコンに向かいながら、考えていた

暮らしの中からしか
表したいことは生まれてこなかった
ただ、それが私の今まで表現してきたものと
かけ離れていて
それは、でも仕方がないことなのだけど
どうして、こうなったのか
自分に問うたりした

例えば彫刻ならば絶対に主題になることはなかったであろうことごと

残していくことに
どれだけの価値があるのか
見極められないでいるけれど
それが今の状態であることには変わりなく
表出させてゆく手段がある限り
形にしてゆくことを
自分に課している

ものがたりは、今の私には作れないようだ
現実が、おはなしのように
複雑で、入り組んでいて、沈みそうで
それを正視できていないから
客観視も、できない

沼のような、話だ

では、沼ならば、意味がないのか?
他人に対して価値と意味がなくとも
自分に対しては、意味があるはずだ

そう、思い返し、本の荷造りをする



2010/09/17

街の雨期のさかり


最近大雨が多くて
家の床下にべランダから雨水が入ってきたり
その雨に床を押し上げられてしまったり
急に降られた雨のせいで
身体中がべしょぬれになったり
雨が激しすぎて家に帰れなかったり
傘が壊れてしまったり
どうも、振り回されている

少しでも天気がいい日には
街の様子を写真に納てゆこうと外出を予定するのだけど
空のご機嫌にお伺いを立てなくてはいけない

朝から雨が降る日は珍しい
そんな日が日曜日にあたってしまったりすると
そこはかとなく悔しい思いで
灰色の空をにらみ続ける

やっと雨がやむ
そこら中がちょっとした川のような道路に
自転車を走らせる

川のような道路の中を
金魚売りが自転車にたくさんの金魚をぶら下げて走ってゆく

袋をぷすりと
破ってしまいたくなる衝動



2010/09/09

いくらかの焦りとともに

0月に例年参加させていただいている絵本展がある
唯一今、作品の締め切りを意識する展示で
本当に、あらゆる意味で、貴重な機会になっている

どうも、そういうときばかり、仕事先も忙しくて
思うように作業も制作も進まず
欲求不満が溜まっている

しょうがないので
疲れきって家へ帰っても仕事ができない日は
せめて心持ちだけでも再生させたいと
音楽を聴く
切り替えができないからだ

つい最近までほぼ5ヶ月
ブラームスのピアノコンチェルトばかり聴いていたが

なぜか今は
くるりのアルバムがいいようで
それこそ、岸田繁の大好きな電車のように
通り過ぎてゆくものものの潔さ
爽快感のようなもが、心地よい
ちょうど、欲しているもののようだ

通過していってしまうのに
しっかりどこかで残っているものがあるのは
歌詞が私には、しっくりくるからなのかもしれない
歌詞についていろいろ云うことは危険なのだけど
少なくともくるりは
音楽全体の印象と歌詞が
私の中で
ちょうどいい具合に合致するようだ

そんなことをぼんやり考えていると
制作はさっぱり続かない
でも、私には今
そういう音を聴く時間がありがたい
文字通り、有り難い

2010/08/29

写真を撮る




例えば、観光でどこかへ出かけるとする
初めて見るものがたくさんありすぎて
見るのに真剣になる
だけど、写真にも収めておきたい
結果的に、どちらも中途半端になる

撮らなかったら撮らなかったで
後悔する

どうせならば
写真を撮るのを目的として
出かけるのが、いい

思い返してみると、ホーチミンへ来て
そんな時間がさっぱりなかった

あまり使わない1眼レフを持って
写真の小旅行

2010/08/17

熱帯の病気


あまり話の種にするようなことではないのだけど


先週1週間、デング熱で完全にすべてのものが休止していた
熱帯の病気の恐ろしさを、知る

とにかく、起き上がるのもままならない1週間で
世の中にはこんな痛い病気があるのかと
眠っていることもできず、まんじりともできず
耐える日々だった

残念ながら、幻覚も見られないほど痛くて
それまでにしてきた自分の悪い行いをことごとく後悔し
それでもよくなりそうにないので
おとなしくレモン汁を飲んだりしていた

break bone feverという別名もついているけれど
デングは英語でdengueという綴り
語源はいろいろな説があるそうだが
1説にはスペイン語のdengueroからきているというのもある
この単語、dandyという意味で
あまりの関節の痛みに
よろけながら歩く姿が洒落ものに似ているので
こんな名前になった、というもの

文字通り、うぅ、うぅ、とうなされながら
では、歩かなければ洒落ものにはなれないな、
とくだらないことを考えていた

完治するのに1ヶ月かかるらしい

熱帯の病気は、熱帯の気候のように、終わりがない

2010/08/08

最後のディ・ボで




いつもの通り、住んでいる人があきれるほど
ダラットの街の中を歩いた

最後に、少しだけ手に入れた時間
市場の近くを歩いていて見つけた

おじさんたちばかりが話に興じている
小さな椅子ばかりの店で
小さなおばあさんがコーヒーを淹れていた

ネルで淹れたコーヒーは
小さなガラスのコップに注がれる
本当においしかった

2010/08/06

探しもの


今、ダラットにいる
夜は虫が鳴く、日本の10月初旬の気候の土地だ
涼しいのではなく、もう寒くて
でもその感覚が、限りなく懐かしい

ここへ来た理由は一つだけだった

須賀敦子の随筆の中に
若き日の須賀敦子のよき話し相手となった
修道女のことが書かれている
その、マリ・ノエルという人が
べトナムが独立するまで
この土地の修道院にいた、という記述があった

だから、なんだ、と、自分でも思う
だけれど、来なかったならば、後悔しただろう

ダラットには2つの教会がある
一つは、街の中心にほど近い
湖から見える教会
ゴシック建築で、塔のてっぺんに風見鶏があるので
みなChicken Churchと呼んでいる
ステンドグラスがきれいで、町の喧噪の中なのに
どこか静けさがある教会だ

もう一つが修道院も併設された
Domaine De Marieだ
街中からは離れた、小高い丘の上にある
手入れのよく往き届いた花畑のある
雰囲気の温かい教会だった

修道女たちが作ったレース編みの服や食べ物を売るための
土産屋もある
べトナム人の観光客がたくさんいた
クリスチャンもそうでない人も
多くのべトナム人がそうであるように
写真を撮り、話をし、よく買い物をしていた


フランス語が話せないので
少しでも何か手がかりがないかと思ったが
聞き出すことができなかった

しばらくミサの賛美歌を聴いていた

何が知りたいのかもはっきりわからないことに気がついて
やっとあきらめがついて、立ち上がる

教会の敷地のすぐ外にも土産物屋が並んでいた
昔実家でよく見たのとそっくりなイチゴのジャムが
大きな鍋に入っていた
イチゴのスープみたいなもの
食べてみたかったけれど
今度はベトナム語が話せなかった
じっと鍋の中のとろけそうなイチゴを見て
それからやっと、今度こそ丘を降りた


2010/07/27

島とクジラと女をめぐる断片

イタリア語のタイトルは
Donna di Porto Pim
題名だけでも、もう十分なぐらいのこの本を
4、5年前に読んで、もう一度読みたいと思った時には
どこかへ往ってしまって
どうしても見つからなかった

アントニオ・タブッキの作品を須賀敦子が翻訳している
言葉が、水面の煌めきのように、どこまでも繊細で
美しい作品だ

序文にあたるタブッキ自身の作品に関する解説が興味深かった
この本を書くにあたって
アソーレスの島々で過ごした日々を
どのように小説の中に織り込んでいったのかが、書かれている
どこかの土地、クジラ、捕鯨のような
いくつかの鍵になるものを
どのようにして一つの本に作り上げてゆくのか、という
過程や規律、のようなものを感じた

クジラの生体、アソーレスを訪れる男女
捕鯨の歴史、捕鯨に携わる人々
ある捕鯨手の人生
それから、クジラの目から見た人間

確かに、断片なのだけど
そのかけらのようなものが
でも、最後に一つの絵になることはなくて
すきまがたくさんあって
すきまに漂う空気が、そのままかけらの上を覆っている


2010/07/19

川を渡るのに、三百年 枕を共にするのに、三千年






飛行機の中で、映画を観る
「アリス イン ワンダーランド」でもみたいような、気分だった
つまり、少し疲れていた

なぜか案内のパンフレットに載っていたアリスをはじめ
映画たちのほとんどはなく
その代わりに、題名だけはよく慣れ親しんでいるものを見つける

イーユン・リーの「千年の祈り」
クレストの新書の表紙はいつも素敵だが
静物が、言葉としてとても適切な静物として、映っているその表紙に
いつも本屋で後ろ髪ひかれていた

静かな映画だった
室内の場面が多いせいか、影が濃い
ちょうど淡い色の壁がほんの少し翳るように
澄んだ影が室内を司る

ちょうどどことなく大学街が舞台で
つくばの景色にも似ていて
主人公の親子の小さくて深い溝も近しい何かだった

百世修来同舟渡、千世修来共枕眠

共に川を渡ろうと思ったら、三百年は祈らなければ
その思いは果たされない
枕を共にしたいと思ったら、三千年は祈らなければ
その思いは果たされない

親子ならば千年

アメリカで暮らす娘に会いにくる父親は
律儀でまじめで、静かだ
言葉が少ないことの重さに
親子は共に、耐えきれていない

ただ、きっと、そんなところから絞り出される
言葉のいくつかはもっと重くて
でも、だからこそ、本当に祈りのようで
口にすることの意味を、思い知らされる

映画を観た後、しばらく
最後の場面から、彼らはどこまで理解できたのだろうと
ぼんやりと、思った
本当に思いが通じるのであれば
本当に理解しきることができるのであれば
千年という年月は長くはないのかもしれない

そして、そのまま寝てしまった





2010/05/29

犬の絵





久しぶりに時間があるとき、絵を描いている
といってもスケッチ程度で
どうしたいとか、こうしたいというのもなく
ただ、描いている

なぜ犬なのかも、よくわからない
身近にもいるけれど
写真から描いたりしている

時々、とても気にかかる表情の犬がいる
ものすごく臆病な
卑怯そうな犬
傲慢な犬
仙人みたいな犬

人を描く気が起きないのに気がつく
たぶん、犬の表情を描く方が、心地いい

2010/05/10

季節の中で


そろそろ、家の前の街路樹である火炎樹も
花を咲かせる季節になってきた

火炎樹を見上げる姿を
渋谷か銀座の映画館の前で立ち止まり
じっと見つめた時から、もう
10年近く経つ

それから、ベトナムと云えば一番に
この映画のポスターを思い返していた
もちろん映画も気に入っていた

随分久しぶりに見る映画には
もう一つの楽しみ方があった
撮影の舞台はホーチミンの中心街で
10年前のホーチミンの様子を見ることができる

ハーヴィー・カイテルがぼんやりと座り続ける街角や
物売りの少年が追い出されるホテルや
シクロが走るロータリーが
変わらず今も残る

映画の中の街を走るバイクはどれも、古いカブだった
ここ10年間の発展が伺える

ただ、話の核になる生花の蓮を見たことがない
香り高い蓮の花を自転車の後ろに乗せて売る様子を
実際の街の中で見ることはない

ハーヴィー・カイテルが再会した娘に蓮の花を渡すシーンが好きだ

蓮の花はないけれど
街の持つ雰囲気を充分に味わえること
それから、細やかな視点を持てば、
街はもっと違って見えることを
知ることができる映画だった

2010/05/08

夕方の声



ふと気がつくと、聴こえてくる
女性のの澄んだ、まるくてきれいな声のような
ソプラノリコーダーの音にも似た
鳴声が聴こえてくる

毎日、夕闇の空に響く

ラ♭ソソ♭ファミミ♭の音

2010/04/24

とにかく青いものもの




フンブン王の休日というものがあって
祝日がとれた

クチトンネルへ往く

日のよく通る森の中で
たくさんの観光客に紛れる
実感の湧かない戦争の重さと
いい具合に観光地された商業のにおいが
奇妙なバランスで、広がっていた

近い、あまりにも近い戦争の過去を
随分と明るい森の中に見る
ちょうど、現地の人々がベトコンの制服を着て
小さな地下トンネルから顔を出し
たくさんの白人の観光客の写真に納まっている
そのたぐいの、明るさもあった

入場料を取られる入り口の脇には
熟れ始めた果物が実る
一面の緑と、それらの根が張る
固くて丈夫な、穴だらけの土

2010/04/17

いくつかの新しい曲など


本から帰ってくる時、買いたいCDがいくつかある中で
財布と相談した結果
結局ほとんど冒険をせずに
いつももともと持っていたアーティストの
新しいアルバムなどを購入する

kings of convenienceのアルバムはもう
アルバム全体の雰囲気が欲しい時に聴くようになってしまった
静かであることにも、ただ静かなだけではなく
いろんな音の要素にバランスのよさが必要であることを知る

いただいたCDもあった
素敵な曲たちの最後の方に
シューベルトの弦楽4重奏ハ長調のadagioが入っていて
いくらか心が落ち着かない日には
いつでも聴けるように仕事場のPCにも入れる
誰の演奏家はわからないのだけど
弦なのに、ほんの少しくぐもった音で
バイオリンの音も、どこか褪せている
平らな気持ちになる

今日はブラームスのレクイエムを手に入れる
カラヤンが指揮するたっぷりな感じの録音だ
でも、合唱の荘厳さと清冽さのようなものが
頭の中の余分なものを押しのけてくれる気がする

ノリのいいものがないのは
結局のところ今はそういう気分ではない、ということのようだ
できるだけまっさらな状態で
曲を身体に入れたい

2010/04/14

同じようなかたちの中で



例えば、どこかコーヒーの飲める場所で
ずっと本を読んだり、仕事をしたり
メモを取ったりするのは
随分と以前から変わらない習慣のようで
だから、どこへ往っても、やっている
できないと、不安になる

最近は、だんだんと通うカフェのようなところも定まってきて
何件かのお店をぐるぐる
回遊魚のように回る
おかしいほど、日本にいる時と同じだ

たまたま早く帰れることが多くて
今日も好きな岩場にでも隠れるように
気に入った席に座る

行動が同じなように
でも、思考もあまり変化がないのかもしれない
にわかに、焦る

開かれない、ということについて
自分でどうにもできないで、いる
軸がないから、開かれない
揺れ動くような歳でもなくなって
なのに、さっぱり安定しないから
代わりに、閉じることで安定を得ようとしている

生活の形が変わらないのも
形式の中に安定を見いだそうとしているからかもしれない

日本にいる時と違うこと、といえば
いつもいつも
川からの風がまともに吹きつける
屋外が固定席になっていることで
その、外からの変化を
受け身の姿勢で、ただ、できるだけ身体いっぱい
感じようとしている

2010/04/05

太宰治など


日本から本を何冊か持ってきた
買った本もあるし、家から持ってきたものもある

なぜか、実家に帰ると必ず
太宰治を読んでしまう
たまたま、寝室の本棚にあるからなのだけど
すべて短編集なのが
寝る前に読むのに、ちょうどいいからというのも理由だろう

勢いで、こちらへ持ってくる
たまたま、こちらの古本屋で
「太宰治」という岩波の本も見つける

ここまで書かれたら仕様がないか、と思えてくるほど
ある意味自虐的で冷たくて、
でも、自分が大好きで、人にやさしく
心が忙しい人だ、と思う

 

2010/03/30

心安い土地になる、ということ



ホーチミンへ戻ってくる
深夜12:00をまわっていた
夜はそれでもまだ、涼しい27℃
空港からのタクシーも、窓を全開にすればそれなりに気持ちがいい

同じ仕事場の人たち3人と同じ飛行機だった
一緒にアパートメントへ帰る

オレンジ色の電燈に彩られた夜の街並を眺めながら
他の3人が勝手気ままに続けている、日本でのはなしを聴く
風は生ぬるく、あたたかい

どうも、早くここへ帰ってきたかったようだ
気候が、ということもある
ただ、それよりももっと、何か身体の感覚として
どこか、心安い

他の人たちが、日本へ帰りたいと
今さっき発ったばかりの土地に恋いこがれている気持ちを
いろんな表現で云い表している
本当は、そういうものなのか、と
いくらか不思議な気持ちで、聴きながら
飛行機の中で見た満月を確かめようと
窓から空を仰ぎ見る

日本でもきっと変わらない、明るい月だった

2010/03/23

昼間の街





平日の昼間は仕事があるので滅多に出られない
仕事が切れたので、初めて休みを取って街へ出る

市場の様子
蓮の生花を初めて見る
青い海老、縛られた蟹
生気に満ちた人々


2010/03/20

呼び起こされるもの 思い廻らせること

熱を帯びた風から
もうそろそろ1年が経つこの土地についた日のことを
思い出す
飛行機から出た瞬間の
身体を押し上げられるような空気の塊のことだ

たくさんのことがあったようで
たくさんのことを感じたようで
でも、土地に根ざしたものがなかったり
成長が実感できなかったり
むしろ停滞しているのではないか
後退しているのではないか
自分に対する不満がつのる

来週、ほんの短い期間だが、帰国する
何を携えて、帰国をするのか
何か、この土地について
この1年について
愛情を持って話すことができるのか
ずっと、でも、随分ぼんやりと、考えている

2010/03/18

逃避行


仕事に切れ目がついて、いくらか時間に余裕ができる
もちろんすることもあるはずなのだけど
ぼんやりとしてしまって
誰も買って出ない屋外での仕事などをしながら
敷地の外の、草の揺れる野原などを眺めていた

どんどんと暑くなってゆくこの季節
雲はいよいよ夏空の形になって
風が熱気を帯びる

久しぶりに草の葉が摺れる音を聴く

こそこそと、さぼりの高校生のように
外仕事の合間、建物のかげに隠れ
本を読む

また、須賀敦子を読み
また、いしいしんじを読み
弥生ついたち はつつばめ、とか
とん、たたん、とん、などと口ずさむ
それからまた、仕事の続きをする

2010/03/10

バイクの後ろ

こちらの交通手段といえば、圧倒的多数の人がバイク、と答えるかと思う
個人的には、こちらへ来てから、タクシーに乗ることがほとんどだった
自転車を持っているので、週末は自転車に乗ったりもする
セオム、と呼ばれるバイクタクシーに乗ることも少なくない

週末、バイクの後ろに乗せてもらって少し遠出をした
何が特別かと云えば
ヘルメットを買ってしまった、ということだろう
二人乗りまでは合法だけれど
ヘルメットがなければ捕まってしまう
たまたま、バイクの持ち主が予備を持っていなかったので
どうにもセンスの悪い、たった、ほんの200円ぐらいの
ヘルメットを、買ってしまった
捕まらないための飾りだ

バイクの後ろは気持ちがいい
運転をするにはあまりにもストレスの多い交通ルールも
後ろに乗っているだけではそれほど感じない
もっとも、あまりにバイクの量の多いところでは
膝が隣のバイクと当たってしまうのではないかと、心配になるけれど
単純に、風が、ここの暑い気候に心地いい

バイクに乗ることは
そろそろ1年になるこの土地で
新鮮に、ベトナムに居ることを感じることができる
一番の方法のようだ


2010/02/16

静かな 本当に静かな日


バイクと車と、工事の音と
人の話し声とお店から漏れる大音量の音楽と
クラクションと子どもの大声と
それから、ものものの気配が消える

静かな日が続く

おそらく何かを考えるのにちょうどいい

いつもは聴こえないものや
いつもは目に入らないものが
立ち上がってくるのを鋭敏に捉えながら
久々の休日を過ごす