2024/05/07

詩を読み、絵を描き、人間性を保つ


タールが破れた時、一瞬凍りつく。
調子にのって、叩きすぎていた。
何か不吉な影を見たような気がした。

タールを力一杯叩いていたのは、
パレスチナのデモに参加している時だった。


部屋の畳の上に置かれた、デモのあとの破れたタールを眺める。
楽器が壊れる、というのは単純に、とても悲しい。

よく晴れた連休の朝、タールを久々に手に取り、
窓際に持って行く。
よく伸ばされた動物の皮の先にうっすらと、
青い空が透けて見えた。





ガザ、ラファからの連絡はいつも、生活の苦しさと
地上侵略への恐怖と、経済的な支援のお願い。
どれも受け止めるだけで、何もできることはない。
上空をゆくヘリコプターのような小型の戦闘機が
銃を乱射して去って行く映像が送られてくる。


絵に描いたような、美しい5月初旬の連休、
久々の友人・知人に会い、昔の同僚の結婚式に出て、
外へ出るたびに、緑の色の豊かさを確認する。

けれども、時間があって携帯を手に取れば、
ずっと海外ニュースを確認し続ける。
せめて、ラファから連絡があった時、何が起きているのか
先に知っておくことが、最低限の礼節だと、思っているからだ。


ニュースでは見えてこない恐怖と悲しみの詳細を
Whatsappのメッセージは補ってくれる。
政治的な思惑、世界中で起こる抗議活動、
どれも誰かにとっては甚大なニュースで、けれども
俯瞰で見ることに慣れてはいけない類の話だ。
そんなニュースとメッセージを交互に読みながら、
無償に腹が立ってくる。

その俯瞰的な視点に、その的外れな見解に、
その背景にある権力と金に、
人間なんてそんなものだ、と達観するふりをして
考えようとしない人たちに、そして
何もできない自分に、無性に腹が立つ。




腹立ちまぎれに、絵を描いていた。



流れては消費していくニュースの中で、
記憶に残っていた女性の顔だ。
瓦礫の脇で座り込み、呆然としている、
おそらく彼女の周りには、瓦礫しかなく、
何か目の前のものを見ているのか、目を伏せているのか、
はっきりとしない視線と、固くつぐんだ口。
えくぼができるほどきつく結んだ口元と、そして瞼は
きっと小刻みに震えているだろう。


真っ赤なヒジャーブの鮮やかさとともに、
その表情が、記憶に残る。
報道で使われる写真に姿を見せる女性たちは
疲れているか、泣き崩れているか、怒っているか、
子どもたちを見守っているものが、ほとんどだ。
感情が分かりやすいアラブ人が被写体で、
さらに報道用写真に求められるインパクトの乱立する中、
赤いヒジャーブの女性は、
サイトの中で、静かに佇んでいた。

ものを作る時には、ずっと音楽を聴くのが習慣だったし、
音楽を聴く時間を心置きなく作るために、ものを作っているようなものだった。

けれども、なにも、聴く気になれない。
ただ、どうしたら、このわずかな頬の震えが伝わるのだろうか、
一体彼女は何を見ていたのだろうか、考えていた。

皮は美しい色合いだけれど、それを活かして、
色を乗せて透明度を保つためには、絵の具を使えない。
鉛筆はざらりとした皮の表面で滑り、反射してしまう。









”戦争は終わるだろう
指導者たちが握手し
老女は戦死した息子を待ち続け、
その娘は愛する夫を待ち、
そして、その子どもたちは英雄なる父を待つだろう

わたしは祖国を売った人を知らない
ただ、代償を負った人々を知っている”


最後の行の原文は、
ولكننى رأيت من دفع الثمن
額を支払った人、という言葉の、
その額が代償を指すならば、値がつけられるわけもなく、
あまりにも、大きい。


マハムード・ダルウィーシュの詩を読みながら
指導者たちが握手し合うことはないだろう、と思う。
それはただの、わたしの予見や代弁なのかもしれない。
そんなに簡単に、建前だけでも融和できるような許しなど
どこにも存在しないように、見える。

オスロ合意後に書かれたこの詩の中に、
エドワード・サイードとともに、オスロ合意にも
ファタハとハマスの動きにも批判的な立場を撮り続けた
ダルウィーシュの静かな視座を読み取る。

”戦争はおわるだろう”この、終わる、という動詞につく
未来を表すسが動詞は、willのような意味合いを持つ。
それがどれほど確かにやってくる未来なのか、
willもسも、その度合いは示してくれない。





何かを作りたいのではなく、
何かを作る時間を経たいのだ、と気づく。

あなたのことを祈っている、そう、わたしは繰り返し
ガザの知人に書いてきた。
だから、祈りを形にしなくてはならない。

外からただ、事象を追い続けるわたしには、
このダルウィーシュの詩の表すものと、
あの女性の佇まいが、親和性を持つ。
きっと、当事者たちには、的外れなのだろうけれど。

長くある土地に住み続けると、そこの文化に
知らぬ間、侵食される。
絵に文字が入った作品を、どちらかというと
白々しい視線で見てきたのに、どうしても、
この絵にはあの詩が必要だ、と思えてくる。

ヒジャーブのさまざまな赤を何度も塗り重ね、
その度に、文字を削り出し続けていた。
おかげで、原文に馴染みなどなかったのに、
すっかり記憶してしまった。




ダルヴィッシュの詩の、
老女にも、娘にも、その子どもにもなりうる、もしくは
そのすべてであるのが、赤いヒジャーブの女性であり、
そして、そこに住む人々でもある。

常に壊されたものものと未来に埋もれる、という
代償を引き受けなくてはならない人々だ。
ひどく静かな詩の中の、怒りを受け取る。

けれども、同時にわたしは、アラブの人々の
子どもまで、孫まで、連綿と続く家族の血の流れの
確固たる営みの力強さもまた、感じ取る。
それは、わたしがよく知っているアラブという世界で、
彼らが何よりも大切にしているものを、
彼らを誰よりも強くするものを、表していもいる。


それがたとえ、理不尽な代償を引き受け続ける未来でも、
そんな未来が待っていることを予感していても、なお、
生きて行くことが、肯定的な生として当たり前に待っている。
そんな人々の姿が、
赤いヒジャーブの女性の視線の先にあってほしい。


稚拙な絵を描く行為も、詩を読む行為も、どちらも、
ひどく人間的な行為であることを、確認する。
それは、この致命的に何かが狂っている世界で、
自分が血の通った人間でありたい、と願う
大切な作業であり、工程になる。



2024/05/01

属する、ということ

 

雨が止まない。
雨粒がベランダの屋根にあたり続ける音を聴く。
気圧のせいで、膝は痛むけれど、
雨音を聴いていると、心は落ち着く。

それは、おそらく習慣的なもので、
雨のほとんど降らない世界にしばらく住んでいたからか、
とてもとても、貴重なもののように感じる。

雨が降っても、強く降っても、日常生活が当たり前のように
淡々とすぎていく国に戻ってくると、
雨を理由に、すべてが滞りがちな国の、
雨の時間が懐かしく思い出される。
休日に雨が降ったら、ずっとずっと、大きな窓から、
雨の降る、灰色の空を眺めていた時間。
鳩たちが身体を膨らませ、じっとする様を、
雲が流れていく様を、雲が切れる様を、
雨の粒の大きさの変化を、観察し続けていた。

随分と贅沢な時間だったことを、今さら、実感する。



イノン・バルナタンのアルバムを聴きながら、
移動をしていた。
日本の人たちは、傘の扱いが上手だな、と
電車で傘の行き場に腐心しつつ、感心する。
何もかもが、うまく順応できていない、と感じる瞬間。


ふいに、クープランの墓、ピアノ曲の第4楽章が
ヘッドホンから流れ込んでくる。
とたんに、雨降りの日が少しだけ煌めいて見える。
ほんの少しだけ、気持ちが晴れる。
そして、何よりも安心する。






ただ自由になりたくて、今日から仕事を減らす。
それが、こんなに心許ないものなのかと、
新しい契約書の入った仕事用のバックを膝の上で掴む。
自分で選んだとはいえ、いい選択だったのか、
いくらの自信は持てないまま、正直途方に暮れている。



Sense of Belongingは大事なのです、
そう仕事の中ではずっと、教育の文脈で語り続けていた。
どこかに自分の属性があることが、心の安定につながり、
その土地やコミュニティに愛着と関心を持つきっかけになる。

心の安定のため、自分が何者で、どこに所属しているのか、を
常に認識つづけていたいのが、人間の本能らしい。


子どもの教育に関して言えば、確かにそうなのだけれど、
わたし自身は海外にいる間ずっと、”ここはわたしがずっとい続ける場所ではない”
そう思い続けながら、長らく生きてきた。

悲観なのではない、ただ単純に、その国の国民ではない、という
明白な事実から生まれた感覚だった。
だから、ものは増えがちだったけれど、同時に執着はあまりなかった。
いつ出なくてはならなくなっても、心の準備ができている、
それが、とても大事なことだった。

そして、執着しないことは、人についてもそうだった。
ほとんどの日本人は仕事でやってきて、赴任期間が終わったら
その国から去っていく。
だから、2年で、3年で居なくなる人々を
何度も何度も見送りながら、それまで
過ごしてきたその人々との時間がなくなることを
仕方のないことだと、諦念とともに、受け入れる。

現地の人々に対してもまた、わたしは違う国籍の人間である、ということを
多くの場面で方便に使ってきたのだろう。
できるだけ馴染むように、目立たないように暮らしてきたけれど、
仔細な、そして甚大な違いについて、相手やわたしが気づいても
それは生まれ育った環境が異なるからだ、という言い訳で
流してきたし、目を瞑ってもらっていた。

それは時にありがたくもある、そして、申し訳なくもある。
どう頑張ったところで、見た目も違えば
文化風習の背景も異なる人間が、完全に
同化することは不可能である、という事実もまた、
ある種、諦念とともに、受け入れてきた。


ここはわたしの居場所ではない、という感覚を持ち続けると、
居場所を作ることが下手くそになる。
転校を繰り返す子のように、リセットされる時にそなえて
身構える姿勢が自然と身に付くからなのかもしれない。


ただ、残念ながらわたし自身は、もともと
育っていく中で土地を移動し続けることはなかったから、
定住することに、この上ない安心感を抱く性質を持つ。
だから、常に胃の軋む音が聞こえるようなストレスと不安も
感じ続けてきた。


心も感覚も対人も環境も反目し続けていた。
そんな矛盾を受け入れる作業に慣れて、けれども
慣れたこと自体へ疑問を抱く、そして、なにより
ひどく疲れていた、だから、日本に戻ってきたのだった。





なにもかもが、どうしようもなく鈍くて遅い。

やっと、最近腹づもりができて、
日本にちゃんと住むためにはどうしたらいいのか、
考えるようになる。

そうしたら、またにわかに、不安でいっぱいになるのだ。
果たして、どこかに住み続けることなど、できるのだろうか、と。

そんな感情に飲み込まれる自分に、唖然とする。
今日はじめて、はっきりとした。
うまくいかなかったら、他の国に行けばいい、
そう心のどこかでずっと、思ってきたのだと。




そして、出会ったたくさんの、シリア人の、イラク人の、スーダン人の
お母さんたちを思い出して、自分に心底嫌気がさす。
子どもたちを抱えて、自分の国に帰らない、帰れない
あの人たちは、あんなに懸命に暮らしていたのに。


それでも、自分の国にいるわたしは、不安で仕方がない。