2024/05/01

属する、ということ

 

雨が止まない。
雨粒がベランダの屋根にあたり続ける音を聴く。
気圧のせいで、膝は痛むけれど、
雨音を聴いていると、心は落ち着く。

それは、おそらく習慣的なもので、
雨のほとんど降らない世界にしばらく住んでいたからか、
とてもとても、貴重なもののように感じる。

雨が降っても、強く降っても、日常生活が当たり前のように
淡々とすぎていく国に戻ってくると、
雨を理由に、すべてが滞りがちな国の、
雨の時間が懐かしく思い出される。
休日に雨が降ったら、ずっとずっと、大きな窓から、
雨の降る、灰色の空を眺めていた時間。
鳩たちが身体を膨らませ、じっとする様を、
雲が流れていく様を、雲が切れる様を、
雨の粒の大きさの変化を、観察し続けていた。

随分と贅沢な時間だったことを、今さら、実感する。



イノン・バルナタンのアルバムを聴きながら、
移動をしていた。
日本の人たちは、傘の扱いが上手だな、と
電車で傘の行き場に腐心しつつ、感心する。
何もかもが、うまく順応できていない、と感じる瞬間。


ふいに、クープランの墓、ピアノ曲の第4楽章が
ヘッドホンから流れ込んでくる。
とたんに、雨降りの日が少しだけ煌めいて見える。
ほんの少しだけ、気持ちが晴れる。
そして、何よりも安心する。






ただ自由になりたくて、今日から仕事を減らす。
それが、こんなに心許ないものなのかと、
新しい契約書の入った仕事用のバックを膝の上で掴む。
自分で選んだとはいえ、いい選択だったのか、
いくらの自信は持てないまま、正直途方に暮れている。



Sense of Belongingは大事なのです、
そう仕事の中ではずっと、教育の文脈で語り続けていた。
どこかに自分の属性があることが、心の安定につながり、
その土地やコミュニティに愛着と関心を持つきっかけになる。

心の安定のため、自分が何者で、どこに所属しているのか、を
常に認識つづけていたいのが、人間の本能らしい。


子どもの教育に関して言えば、確かにそうなのだけれど、
わたし自身は海外にいる間ずっと、”ここはわたしがずっとい続ける場所ではない”
そう思い続けながら、長らく生きてきた。

悲観なのではない、ただ単純に、その国の国民ではない、という
明白な事実から生まれた感覚だった。
だから、ものは増えがちだったけれど、同時に執着はあまりなかった。
いつ出なくてはならなくなっても、心の準備ができている、
それが、とても大事なことだった。

そして、執着しないことは、人についてもそうだった。
ほとんどの日本人は仕事でやってきて、赴任期間が終わったら
その国から去っていく。
だから、2年で、3年で居なくなる人々を
何度も何度も見送りながら、それまで
過ごしてきたその人々との時間がなくなることを
仕方のないことだと、諦念とともに、受け入れる。

現地の人々に対してもまた、わたしは違う国籍の人間である、ということを
多くの場面で方便に使ってきたのだろう。
できるだけ馴染むように、目立たないように暮らしてきたけれど、
仔細な、そして甚大な違いについて、相手やわたしが気づいても
それは生まれ育った環境が異なるからだ、という言い訳で
流してきたし、目を瞑ってもらっていた。

それは時にありがたくもある、そして、申し訳なくもある。
どう頑張ったところで、見た目も違えば
文化風習の背景も異なる人間が、完全に
同化することは不可能である、という事実もまた、
ある種、諦念とともに、受け入れてきた。


ここはわたしの居場所ではない、という感覚を持ち続けると、
居場所を作ることが下手くそになる。
転校を繰り返す子のように、リセットされる時にそなえて
身構える姿勢が自然と身に付くからなのかもしれない。


ただ、残念ながらわたし自身は、もともと
育っていく中で土地を移動し続けることはなかったから、
定住することに、この上ない安心感を抱く性質を持つ。
だから、常に胃の軋む音が聞こえるようなストレスと不安も
感じ続けてきた。


心も感覚も対人も環境も反目し続けていた。
そんな矛盾を受け入れる作業に慣れて、けれども
慣れたこと自体へ疑問を抱く、そして、なにより
ひどく疲れていた、だから、日本に戻ってきたのだった。





なにもかもが、どうしようもなく鈍くて遅い。

やっと、最近腹づもりができて、
日本にちゃんと住むためにはどうしたらいいのか、
考えるようになる。

そうしたら、またにわかに、不安でいっぱいになるのだ。
果たして、どこかに住み続けることなど、できるのだろうか、と。

そんな感情に飲み込まれる自分に、唖然とする。
今日はじめて、はっきりとした。
うまくいかなかったら、他の国に行けばいい、
そう心のどこかでずっと、思ってきたのだと。




そして、出会ったたくさんの、シリア人の、イラク人の、スーダン人の
お母さんたちを思い出して、自分に心底嫌気がさす。
子どもたちを抱えて、自分の国に帰らない、帰れない
あの人たちは、あんなに懸命に暮らしていたのに。


それでも、自分の国にいるわたしは、不安で仕方がない。




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