その前の週末もずっと、本を読んでいた。
「戦中・戦後の暮らしの記録」
タイトルの通り、戦中戦後の人々の営みを記した
100編以上もの手記が編纂されている、
暮しの手帖社から出版された本。
そろそろ、想像力が限界に近づいてきている、そう思えていた。
頻繁に、戦地からは連絡がきて、
その惨状と状況の悪化が伝えられる。
受け取るたびに、申し訳なさと伝わらない苛立ちで、
心が真っ暗になっていた。
けれども、次第に麻痺してくる。
できることはした、今わたしができることはこれ以上ない、
そう頭の中で繰り返し
英語のメッセージをぼんやりと見つめる日々がやってくる。
ニュースを確認する、そこで国は、
色とりどりの枠に囲まれた塗り絵の一部となり、
関係する国々がどう立ち居振る舞ってきて、これから
どう見を振るのかを予見する記事であふれている。
必死でニュースを追うのが、せめてできることだ、
そう思ってしがみついていた、けれど、
物理的な距離の遠さは、情報の視座も遠くする。
人々の影形が見えなくなってくる。
心痛めることもなくなってしまった。
そのことに、ある時ふと、気がつく。
日本にいるのだから、日本の戦争の詳細からまず、
もう一度見つめるしかない、そう思い立ち、
手に取った本だった。
多くの場合、戦中戦後を経験した人々の手記や語りが
親族や知人の人々の手によって文章となり、投稿される。
それらがまとめられた本だった。
書いた、語ったご本人はもう、存命ではないこともある。
それでも、本州の都道府県、北海道、沖縄、満州、奉天、
場所と時は、特定されていた。
さまざまな年齢と性別と環境と境遇の人々の話だ。
随分小さな時の断片的な記憶もあれば、
まさに経験の記憶が頭から離れず、だから語ってこなかった話もある。
比較的裕福な環境もあれば、強烈な飢餓と貧困の環境にいる人もいる。
空襲の情景、生死を分ける偶然、肉親を探し彷徨う道、
戦中戦後の生業、ひもじさの度合い、食べ物と大切な持ち物の交換、
疎開先での肩身の狭さ、よそ者への冷たさ、戦地へ赴く人の見送り、
待ちわびる兵士となった肉親の帰り、逃げ惑う山の中。
中国の大地の寒さ、先の見えない引き上げへの道のり、
飢えた赤子を手放す母親、心を病む帰還兵、空襲の跡、
子どもを生かすための親の苦労、蔓延する病気の数々、
死に瀕した人々であふれた病院の情景、終わらない心の中の戦争、
亡くなった肉親が生きていたら、という仮定。
戦中戦後を経験した誰しもに、
膨大な記憶、しかも、ひどく心を酷使した記憶に
溢れているはずだ。
その中から、この場面を、このことを伝えたい、そう厳選した話が
100編以上も続く本は、重い。
そして、その話の背後にもっとたくさんあったであろう
見たこと、聞いたこと、嗅いだこと、触れたものを想像する。
ひたすら続く戦争にまつわる体験を読み続けた。
週末の2日の空いている時間をその本に費やし、月曜日の朝、
最後の話を神社の境内で読み終えた。
わたしはコーヒーができるのを待っていて、周りには朝から
白人の観光客が何人も、席の順番を待っていた。
たくさんの人の経験がわたしの中で混じり合い、
詳細の断片が蓄積され、感情の澱が身体全体を漂い、
一つの体験として、残る。
そして、またやってきた週末に手に取ったのは、
どうにも払拭できない暗さが滲む夢の描写から始まる。
読むことへの覚悟を、要求される本だった。
ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
映像と感覚の混じり合うさまが、生死にまつわるものごとと裏腹に
ひどく美しい、印象深い作品だった。
視覚で得られる情報の描写の一つ一つが丁寧で、常に
読み手にある情感を喚起させる。
形容詞では表しきることのできない、
身体の、哀しさを主る場所へ連れて行かれるような感覚に
何度も襲われた。
この新刊にもまた、背をそっとなでられて身体の芯が震えるような
美しい情景が何度も、出てくる。
同時に、物理的な痛みを表す場面も何度もやってきて、
その描写もまた、読み手の身体を貫く体験となる。
だから、精神の、そして身体の痛みと
視覚的な美しさが絶え間なく、交互に、同時に押し寄せてくる
ひどく特異に感覚的な、読書体験をした。
済州島4・3事件を経験した人々の記録と、
その事件を経験した肉親と人生をともにした女性と、
その女性と、夢の中のビジョンを分かち合ったもう一人の女性が
時間と場所のうつろいの中で、生きていくことを
再び手に入れようとする。
登場人物の一人は映像作家であることも、一つ
理由ではあるだろうが、精緻な物質と情景への描写と
史実の正確さと生々しさが一体となった時、
その人が、何を見て、何を感じているのか、
意識の底を這うたくさんの伏線を辿ることとなる。
その手法は、書き物としてのみとして読んでも、見事なものだった。
わたしの身体に直接感じられるような痛みを
いくつもやり過ごしながら、読み進める話は、
奇しくも、戦い、虐殺の文脈で
一つ前に読んだ100編のいくつかと、酷似する。
そして、5日ほど前に読んだ話の断片が、いくつもいくつも
より鮮明な、圧倒的な痛みをともなって
再生されていくさまを、もう一人のわたしが
わたしの身体の斜め上あたりで、見守っているような気がした。
読み終えた深夜、しばらく呆然としていた。
戦中の日本の占領下における植民地化に端を発する
済州島で起きたことの詳細を、読むまで知らなかった。
そんなわたしの中で、
小説の中の身体的で鋭利な痛みと、100以上の戦争の経験の断片と
無知であることの痛さが、深い泥沼をかきまわすように混じり合う。
身体のどこかが、ずっとあれ以来、うっすらと痛い。
正直、読後になにかが癒される感覚はなかった。
痛みを通じてこそ回復に至れる、という信念をハン・ガンは持っていると
訳者の斎藤真理子は解説している。
作者自身は、「究極の愛の小説」とこの作品を表現していたが、
その中で描かれる愛は、小説の世界で経験しうる類では
本来表しきれないような想像を絶する痛みをともなう。
読書好きとしては、幸いなことなのだろう、
痛みを知りたい、とたぶん、無意識のうちに
2冊の本を読む前のわたしは願っていたのだから。
ただ、その感覚だけはをしっかりと認知しているわたしは、
それが何によるものなのか、見極められないでいる。
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