川面を埋め尽くす桜の花びらが、無数の雨粒の波紋に乗って
小刻みに震える。
哲学の道は、踏みしだかれた花びらで覆われていた。
茶色く変色した花びらと、川面に揺れる白い花びら、どちらも
暗い街灯の光が、ぼんやりと照らしていた。
京都の桜が一番美しく見えたのは、あの時だった。
強い雨の夜が、一番花を美しく見せるのだという
高校生の時の映像と認識と記憶はいまだに、鮮明だ。
細かな無数の傷に変色した花びらと、
暗い川の中を流れる花に惹かれた記憶は
梶井基次郎とともに、随分と長い歳月を経てもなお、
盛りを過ぎ、衰え、消えていく、生と死の象徴のはずだった。
頭のおかしい人だ、
そう思われるのは、みっともなくていやだ。
頭のおかしい人、の定義がどれだけ、
島国の異常に苛烈な同調圧力のせいだとしても、
日本に住む、とはその圧力に甘んじて押されることだと思っている。
だから、川岸に並ぶ桜は、深夜か早朝に、見にいく。
混んでいるのも、あまり好きではないけれど、
なにより、立ち止まれないし、ふらふら歩けないし、
一人でいる、というのは居心地が悪いからだ。
犬でも連れていればいいのだろうけれど、
桜を見る散歩のためだけに、犬を飼うことはできない。
満開のほんの少し手前の桜は、
静かなしとやかさを孕み、ほんのりと赤みががった白を
枝いっぱいに携えて並んでいる。
曇った空に、その花の色は不思議と際立つ。
川にはまだ、花びらがいくつか、流れているだけだった。
今年の花見の友は、ケーゲルの田園にする。
自死する1ヶ月前に、日本で演奏されたコンサートの音源。
冷ややかで研ぎ澄まされ、そしてどうにもならない悲壮感の漂う音で
背筋をそっとなでられるような震えとともに、
美しく、奏でられている。
耳から身体全体に流れ込ませる。
予防のためだ。
すぐ調子にのって、たぶん、どこか浮ついてしまうから。
白、という色の種類は計り知れない。
もし純白がこの世にあるのならば、だけれど、その白に
どんなに美しい色でも、どんなに少量でも、ひとたび混じったら、
たちまち、純白ではなくなる。
だから、この世にはたくさんの不純な白が、
無数に存在していることになる。
鮮烈な赤でも、底の見えない黒でもなく、
真っ白い、ということが狂気の片鱗を思い起こさせる。
きっと、その白が純粋であればあるほど、
そして、面積が広ければ広いほど、
感覚のどこかが、おかしくなるのだろう。
曇った日の桜は、空よりも白い、けれども
光をたっぷり浴びて光り輝くこともなく、
それがどこかしら、不安を和らげてくれる。
真っ白では存在し得ない、あらゆる生の不純さをも
いくらか想起させるその無数の白は、曖昧でわずかに温かい。
白という色を思う時、ハン・ガンの小説を思い出す。
「すべての、白いものたちの」
生死をめぐる、近しい、もしくは遠い国の人々の記憶が、
白、という色の持つ象徴、抽象度の高い余韻と混じり合い、
痛みを伴いながら、昇華されていく過程を描いている。
手に取り、序章を読むだけで、心の中を
雪の日の夜のように、しんとした静けさで満たす。
そんな稀有な作品だから、何度も読んだけれど、
魅力を語れるほどには、いまだに消化できていない。
”私の母国語で白い色を表す言葉に、
「ハヤン(まっしろな)」と「ヒン(しろい)」がある。
綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、
「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。
私の書きたかったのは、「ヒン」についての本だった。”
ヒン、という音を、小さく声に出して呟く。
本の書き出しを彷彿とさせる、静かな心持ちになる。
この「ヒン」という言葉と、ケーゲルの田園に支えられて、桜を見る。
政治的立場で常に悩まされながらも活動を続けた末、
夢に描いた”本当の社会主義”が実現しないことを悟る
うつ病のケーゲルが抱いていたであろう、
深い深い絶望が乗り移ってしまった音色は、奇しくも
光り輝く自然を往く幸福感を、描いた曲だった。
その見事なほどの矛盾は、
正気にさせるのに、十分だった。
生死に直結した狂気の際を奏でる音を、往く。
最終楽章の最後の和音が宙に消えたとあとには、
「ヒン」が残る。
生死を表すその言葉が、桜の色の不純さと溶け合う。
0 件のコメント:
コメントを投稿