2024/04/01

なけなしの正気を奪う、美容院という場所



 
どうしてだか、とりとめもない思考が止まらない場所がある。
1つは歯医者、そしてもう1つは美容院。


 
髪を変えたい、そう思った瞬間から、もうその思いで
頭がいっぱいになってしまう。
よく晴れて暖かな3月の終わり、
新年度なんて、日本にしかない区切りである4月を前に、
髪も一新するのはなんだかとても、大事なことのように思えて
その願望に取り憑かれる。
 
 
けれども、美容院そのものは、とことん苦手で居心地が悪い。
美しい女性たちが、もっと美しくなろうと美容院にやってくる。
目の前に置かれた雑誌の中のモデルと、寸分変わらぬ出立ちの女性たちが
わたしからしてみたら、十分美しく見える
髪の毛をさらに、切ったり染めたり巻いたりする。
美容院へ行くといつもわたしは、ただ、そんな美しい女性たちを
鏡越しに、もしくは、鏡と鏡の間から見つめる。
 
 
日本の美容院は、その空間が特別なように思える。
美容院に行く時からすでに、美しくしていなくてはならない。
素ではいけない場所だ。
入る時の格好で値踏みをされ、判断されている気がする。
 
 
 
店の立地によるけれど、住んでいたヨルダンとベトナムでは、
美容院という場所は往々にして、
素で行って、きれいになるところ、だった。
 
例えば結婚式に呼ばれている、とか、大事なデートがある、
だから、近所で行きつけの美容院があったりすると、
お店の人との世間話から、親族の婚姻事情から
最新の恋愛情報まで、把握することができる。
常日頃の髪の毛の手入れをしないわけでもないけれど、
美容院へ行って髪を結ってもらう機会が多く、
その時についでに、髪の長さをそろえたり、少し染めたりしていた。
 
そして、美容院へ用事もなく立ち寄る人々も多かった。
日本では理解しづらいけれど、
美容院や床屋は人が集う場所になっていた。
 
兄弟が髪を切ってもらっている間、自分は切らないけれど
ついて行って様子を見ている、とか、
夕方からの親族の結婚式に出席するために、一家の女たちが総出で
朝美容院へやってくる、とか、
とりあえず暇だから、美容院へ来て、
近所の人が髪を切る様子を見ながら世間話をしつつ、少し手伝う、とか。
そんな人たちが23人やってくれば、井戸端会議場になる。
 
そんなところに、おめかしをして登場すれば、
今日は何があるのか、と好奇心を隠すつもりもない人々から
質問攻めにされる。
そして、質問されることをいくらか、期待しながら
本人もまた、特別な格好をしていくのだ、、、、。
 
 
 
 
ベトナムでよく行っていた韓国人の美容院、
火焔樹の並木がよく見える、大きなガラス張りの窓と
K-popコンテストが延々と流れるテレビ、
いつ行っても紅茶を作ったりカラー剤の調合を手伝っている
おばさんの丸い肩、
もともと目鼻顔立ちの整った顔が、また見違えるほどきれいになって、
「化ける」とはこのことだ、とひどく感慨深く見入ったアラブの女性たち。
 
そんないくつもの、脈絡のない映像の断片を思い出していると、
順番が回ってきて、ピカピカに磨かれた鏡の前に連れて行かれる。
 
 
 
 
美容院で一番緊張するのは、一体何をしてもらいたくて
美容院に来たのかを説明する時だ。
前回と同じで、と言えれば楽だったけれど、この日は、
そうではなかった。
 
 
ハイライトで明るくする、というわたしの要望は
さっぱり聞き入れてもらえなかった。
おそらく、究極的には予約が詰まっていて時間がなかったのだろう。

 
さまざまな、大なり小なりの、「今日はできない理由」を聞かされる。
すっかり意気消沈して、あからさまに
わたしの返事に覇気がなくなる。
 
 
 
それならば、願う施術をしてくれる美容院に行けばいい、
その選択肢がないわけではなかったのに、結局そうしなかった。
自分の要望が聞き入れられなくても、
この日どうしても、髪を「ちゃんと」したかった。
今の機会を失ったら、「この日」には、できない。
 
さまざまによぎる思いを一旦おいて、とにかく
いくらか「ちゃんと」してもらうことにした。
だって、周囲には、きれいな女の人たちがあまりにも
「ちゃんと」した状態から、さらに、きれいになろうとしているからだ。
 
 
 
髪を切っていく見事な手捌きを見つめる。
はらはらと落ちる髪にススキの穂を思い出したり、
前回来た時に見た、鏡越しに見える街路樹の葉の色を思い出そうとしたり、
目の前の雑誌に書かれた言葉たちにツッコミを入れたり、
雑誌から抜け出てきたような、美しい服を着た女性のバックグラウンドについて
いくつかの選択肢を設定してみたり、する。
 
 
 
 
 
要望はわたしにとって、どんな意味を持っていたのか、
「ちゃんと」する、とは一体何なのか、
自分に欠けているものは、一体何なのか、
今日がいい、のではなく、ただ単純に優柔不断なのではないか。

そして、要望が通らなかった時点で、
髪型を変えて気分も変えられるかもしれない、という
外的刺激による心的変容、を期待する道は閉ざされたのではなかったか。
 
さまざまな思いがぐるぐるとめぐり、気持ちが悪くなってくる。
腹いせに、心の中で、鏡越しの美容師さんを責めてみたりする。
 
いろんな客がいるだろうけれど、
わたしはそれなりの覚悟と期待をもってここへやってきた。
今日髪が明るくできないということが、わたしにとって
どのような意味を持っているのか、あなたは想像してみたことがあるだろうか。
 
 
そこまで考えたところで、いい加減自分自身にうんざりする。
こんなことを心の中で呟く人間は、
一生思い通りの髪型になど、できないだろう、
わたしはわたしに呪いをかけてみたりする。



 
そして、ただ座っているだけなのにすっかり疲れ切ったところで、
やっと、すべての工程が終わる。
 
髪は3ヶ月前の状態へ、見事なほど正確に戻っていた。
それは本来、とても素晴らしいことだし、実際に、
1時間半前に比べてずいぶんと、「ちゃんと」した髪になった。


要望通りの髪にしてもらったら、
ちゃんと」しなかったかもしれない。
そう思うと、日本でよしとされている、標準的な髪型になったことが
とてもよいことのように思えてきた。

たとえ自分の意思には反しても、
社会的にはこちらの方がいいのだから、それに従え、と
(いるのかいないのかわからないけれど)
今日の運の神さま、のようなものが、髪の行く末を決めていたのかもしれない。
そっちがいいと神さまが言うなら、そうなのだろう。

 

 
春めいた、あたたかな風に髪が揺れる。
お前は浮かれている場合ではない、だから、
これはちょうどいい、ちゃんとした髪なのです、
そう、風に擦れる髪の隙間から、神さまが耳元でささやいてくる。

そうやって、美容院はわたしのなけなしの正気を、奪っていく。






 

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