ようやっと、ふわりと、どの花なのかはわからない、
けれども、日の光を集めたような明るい香りが時々、
漂う時季になった。
春といえば、けれども、3月のはじめ、
沈丁花の香りから始まる、と思っている。
あの香りは独特だ。
あのつんとした刺激を含む香りは、
そのものに本質的な冷たさを孕んでいる。
その花が咲くまで、そこにあったとは気づかないような、
地味な葉と背丈、風にもなびかぬ、
たおやかさからはほど遠い律儀な形の花弁、しかも、
枝ぶりと花の数は均一で、
こんもりとした低木の全方向に顔を向けている。
香りも形も咲く時季も、これほどまである種の
抑制を思わせる花はない、と幾度となく
香りが鼻をかすめるたびに、思ってきた。
香りが消える頃には、心弾む暖かな空気が来るだろう、
けれども、それまでの寒く凍える季節の最後には
終わりにふさわしい、象徴的な花を残しておかなくては、
そうして選ばれた花のようだ。
だから、というわけではないけれど、
沈丁花の香りが好きだ。
頭をすっきりさせる清々しい寒さと、
その香りはよく呼応している。
そして確実に、その残り香の先には、春がある。
中東で花の香り、と言ったら
誰もが真っ先に、ジャスミンを思い浮かべる。
少なくとも、アラブ人に香りのある花は、と尋ねたら
おそらく9割以上、ジャスミンだと答えるだろう。
日本では、ダマスカスローズ、という香りの強いバラが人気だから、
地名を含む花の名に、彼の地を想像することも、あるかもしれないけれど、
ヨルダンでは、ダマスカスローズよりもジャスミンの方が、
育てやすさもあってか、目にする頻度は圧倒的に高かった。
難民キャンプの庭にも、見事に咲き誇るジャスミンを
何度となく見たし、それを愛で、自慢する人々の嬉しそうな顔もまた、
たくさん見てきた。
シリアの子どもたちが書く詩の中に出てくる、ジャスミンの香り、は
故郷の芳しさと美しさを象徴するものだった。
ジャスミンの季節になると、小さな白い花を摘み取る子もいる。
外国人が珍しいからか、道端や学校で会った幾人かの子が、
ふと、ポケットからジャスミンの花を取り出して、
わたしにくれたりした。
白くて星の形の小さな無数の花が、春先から咲き出す。
スタージャスミン、とも呼ばれているもので、一番一般的な種類だ。
ヨルダンでヤスミーン(ジャスミン)の香水を試すと
この花の香りになる。
日本では時折アラビアジャスミン、もしくはマツリカ
と呼ばれている種類には、アラビア語だと
ジャスミンとともに、フル(فل)という名もついている。
香水も、ヤスミーンとフルでは、種類も香りも異なる。
わたしにはマツリカと梔子の花の形が、種類によっては似て見える。
梔子の学名はGardenia Jasminoides、
ジャスミンのようなガーデニア、という名になる。
ただ、マツリカには、梔子のような、
あの身体中に充満して頭の芯まで麻痺させるような
ひどく魅惑的で強い甘さはない。
(実家にもカロライナジャスミンがあったと思い出し、検索してみたら、
これもまた、ジャスミンという名はついているけれど、梔子と同様
リンドウ目で、ジャスミンとは種が異なっていた)
なぜジャスミンのことなど思い出したかといえば、単純に、
白いスタージャスミンの鉢植えが、ある日家にやってきたからだった。
小さな鉢植えのスタージャスミンは、けれども
随分と気前よく、香りを振り撒いていた。
わたしにとっては懐かしい香りでもある。
けれども、湿気ばかりの日本の気候に、
このジャスミンの香りは、いくらか重すぎる。
からりといつも晴れていて、湿度も一桁台が続く中東の空気には
強く甘い香りも薄まって漂うけれど、
日本の住宅の中では、目に見えない湿度の粒子の一つ一つに
香りはぴったりとくっついて、停滞しがちだった。
その鉢植えが、地面に植え替えられた頃、外では
沈丁花の季節がやってきた。
一言に花の香り、と言っても、もちろん
花の種類の数だけ、香りもある。
ただ、随分と対照的な香りを同時に嗅ぐことになる。
ジャスミンにも、初夏の夜に野外で聴くウードの演奏のような
静謐さと気品を、持ちうる。
けれども、春先の日本では、その資質と魅力は
十分に発揮できないようだった。
蝶々夫人のアリアと、フォーレのヴォカリーズぐらい
性質も種類も状況も異なる花の香りを、
毎年やってくるものとして、いつかはきちんと、
愛でることができるように、とりあえずは、
きちんと地面に根付くように水をまこう。
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