2024/04/04

目覚めの夢と、シャンデリアの光

 

例えば、朝意識がはっきりする手前で、
さまざまな夢を見ることがあるだろう。

記憶している夢は、日頃の心配ごとや気にかかっていることが
なぜそうなってしまうのだろう、というような、
不可思議な状況で描かれる。
面白いのは、おそらく起きることはないだろうけれど、微妙に現実的で、
現実世界では関係のない人々が、夢の中では接触をはかり、
それぞれの人々に対してわたしが抱いている不安が
複合されることだ。

結果的に、目覚める時にはひどく生々しく、
悲しかったり辛かったりする。

実にいやなことを主題にするものだ、と
自分で自分の無意識に呆れる。

たぶん、もっと楽しい夢も見ているのだろう。
楽しい夢はそのままで居たいから、目覚めることもない。
いやな夢は、見ている間にひどく心痛み、
そんな痛みで覚醒してしまうから、覚えているのだと、
勝手に分析している。


よほど印象に残るような状況でなければ、
生々しさに呆然とする目覚めをやり過ごしたのち、忘れてしまう。

けれど時々、強烈な感触の断片が頭のどこかで記憶されていて
ある瞬間にふとしたきっかけで、映像が思い起こされたりする。







その日の演奏会は、曲目そのものには非常に興味があったけれど、
ほとんど馴染みのない曲ばかりだった。
ブルックナーの3番はいくつかのアルバムを聴いていたけれど、
正直、ブルックナーの交響曲の中では、あまり聴かないもので、
第2稿にいたっては、聴いたことがなかった。

けれども、初めてのバージョンを聴く、というのは
その曲が初めて演奏された時のことを想起させる。
一体その時代の人は、初めての音楽をどのように聴いたのか、
体感してみたくなることが時折、ある。

そんな極シンプルな興味に、安いチケットが手に入る、という
幸運が重なることもある。



前半の、アルマ・マーラーの歌曲は、その人物像が先走りすぎだったせいか、
想像していたよりも複雑で繊細な音が多く、
選ばれた詩の言葉との幾らかのギャップもあいまって、
その面白さを追っていたら終わってしまった。


ブルックナーが始まると、当初抱いていた新しい曲目としての関心より、
オーケストラの音に耳を奪われていた。
わたしが記憶していた音とはまったく異なっていた。
よく降る雨に打たれて洗い流された後のように、
瑞々しい音は明度をぐっと上げていた。

自分の耳が急に、今日その瞬間だけ、性能が良くなった気がした。
行き道にどんなクラシックでもなく、スティービー・ワンダーを聴いたのが
今日の勝算だったのかもしれない、と頭の片隅で思いながら、
随分久しぶりの生の音を、楽しんでいた。

ただ、やはりわたしの知っているブルックナー3番、
第3稿との違いにいくらかの戸惑いを抱く。
だからといって、比較できるほどの細かな譜面の違いが
分析できるはずもなく、ただ純朴な素人のクラシック愛好者として
とにかく音を楽しもうと、腹を括る。

大好きなブルックナー独特の節回しや
音の重ね方は十分に美しかった。
どこか、パッチワークのようにフレーズが途切れたり繋がったりするのを
構成として認識し直したりすることも諦めて、
ひたすら音の美しさを堪能することにした。






けれども、2楽章の途中で意識が音楽から離れてしまう。
きっかけは、遠くの2階席に座っていた、見も知らぬ女性の姿だった。
1楽章が終わり、咳払いや衣擦れの音が響く中、
何気なくステージから顔をあげた時、目に飛び込んでくる。


その女性の姿とよく似た人を
目覚め前の夢に、時折、見る。

髪の長さ、肌の色、服の趣味、随分遠くに座っているのに、
詳細を鮮明に見ることができる。
いや、正確には鮮明に頭の中で、描き直すことができる。
そして、見知らぬ女性を夢の中の女性と、もっと似せることができる。


けれども、その作業をわたし自身は、まったく望んでいない。

遠くの見知らぬ女性を見た瞬間から、
夢の辛い感触だけが、身体全体を支配して
胸の辺りがひどく痛み出す、そんなことなど
いくらも望んではいないのに、止められない。

夢に出てくる女性には一つの否もない、ただ、
そんなふうに、詳細を描けるほどのわたしの意識が
勝手に、夢の悲しい感触に溺れさせる。


2楽章の旋律は、沼のように変化に乏しく響く、
そして、音などいくらも耳に入らなくなる。
音楽の記憶がその部分だけぽっかり空いて、
ただただ、ひどくはっきりとした夢の感触を
意思に反して丹念に確かめる工程が繰り返された。
なぜそうなってしまうのかと、問いかける作業が
よけいに自分を苦しめる。


気がついた時には、さっきと同じ旋律が流れている、ような気がする。
それがリピートによるものなのか、思い違いなのか、
もはやさっぱり、わからなくなっていた。

音の煌めきに集中しよう、そう小さく頭を振り、
天井からぶらさがる幾何学のシャンデリアを見ながら
音とガラスの輝きを重ねる。
視覚と聴覚を連動させて、
よけいなものを一掃しようと必死になっていた。


瞑想のような2楽章が終わる。
そして、きれのいい、見事な出だしの3楽章に救われ、
再び、音楽の中に身体が戻っていった。







演奏が終了し、拍手の音に満ちる会場の中、
その日に聴いた音を反芻しようとする。
すっかり抜け落ちた、おそらく10分ぐらいの音のことは
思い出さないように、シャンデリアをじっと、見つめる。

聴いたことのない演奏だったから、集中力が落ちてしまったのだ、
そう言い聞かせて、ホールをあとにした。


雨に濡れそぶる桜の花が、街灯の光に照らされて暗く光る。





今日の音は、こんな妖艶さなどなくて、
もっと澄んだきれいな音だった。
強いていうなら、アルマ・マーラーのあの、
時折掴みどころがないような、フランスものを思い出させる
伴奏の弦の和音だ、と記憶を辿る。

よけいなものは、目に入らないようにしなくては。
湿る空気の中、傘を深くさして、
濡れた地面に映るさまざまな色の光だけを見つめる。




0 件のコメント: